《嘯亭雑録》と礼親王・昭槤

 そんなこんなで、清代王府の位置を知る過程で《嘯亭雑録》を買ってみました。サラッと読むと、やはり歴史の話題を中心とした随筆ですね。神田信夫『清朝史論考』山川出版 の中にそのものズバリ、「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」という論文が載っているのですが、コレを読むとどうやら《嘯亭雑録》はかなり歴史的価値の高い随筆みたいですね。個人的にはいきなり〈太宗讀金史〉の項で辮髪と言うか満洲の衣冠に触れていた点で評価高まりましたし、その次が〈設間誅袁崇煥〉だったりするので、序盤からおお!って思いますわね。

 で、その著者である昭槤ですが…この人、九代目・礼親王なんですよね。礼親王ダイシャンの後裔です。漢語版Wikipediaの記事によると、乾隆41(1776)年の生まれで、道光13(1833)年に病没しているようです。礼親王の王位には、嘉慶10(1805)年から嘉慶20(1815)年までの十年間ついていたみたいですね。在位中は散逸大臣に任じられているようですが、これは宗室に対する名誉職みたいなモノで、特に何か重責を担っていたわけではないみたいですね。いずれにしても、政治的な功績よりも文化的な功績が大きい家柄だったみたいなので、特に問題でも無いでしょう。
 しかし、普通、親王は没するまで王位にあるものなので、これは問題起こして王位を剥奪されてるわけです。「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」によると、御史果良額が弾劾し調査の結果、礼親王昭槤が大臣・景録を陵辱したり、戸部尚書景安を自家の奴と面斥しただけに留まらず、不法の刑具を用いて家来を虐待し、その上、家人に軍機中堂と呼ばせていた等の罪状で王位を剥奪されて身柄を拘束されたようです。景録景安は同じ字を使ってることから何となく同族なんじゃ無いかと思うモノの、よく分かりませんね。この事件そのものが昭槤の濡れ衣じゃないかという説もありながら、《嘯亭雑録》でも自分の過失とする文章がいくらか残ってるみたいですから、昭槤自体がサディスティックで激しやすい性格だったことは間違いなさそうです。李贊華さんにしろ、文化的な王族が残虐な行為で弾劾されるって結構あるんですかね…。
 その後、礼親王位は昭槤の従兄弟である麟趾の系統に嗣がれて辛亥革命を迎えています。昭槤の子孫は目立った官位には就いていませんが、文化的な家柄は続いたみたいですね…。