花の鎌倉:光明寺

 と言うワケで、先週末には鎌倉に花見に行ってきました。またかと言われながらデスが、何度行っても良い街デスよw

 今回は光明寺九品寺補陀洛寺宝戒寺覚園寺鶴岡八幡宮という感じのコースでした。
 今回、参考にしたのは松尾剛次『鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景』歴史文化ライブラリー という本ですデス。

光明寺本堂

 光明寺鎌倉時代には小坪といわれた鎌倉中(乱暴に言うと、東京で言うところの23区に相当)の東南の境界線上にあるお寺です。今までは北鎌倉…つまり山内あたりを中心に回っていたので、結構新鮮です。

光明寺本堂裏の庫裏

 光明寺江戸時代以降にこの地に移って来たと推測されます。それ以前はこの土地には極楽寺系のお寺があったみたいですね。結構敷地が広いお寺なのに今まで足を運んでいなかったのは、割と新しい寺だから…と言うコトもあるわけです。

かすかに見える和賀江島

 鎌倉時代には、貿易港として活用された築島である和賀江島が近いことから、光明寺の境内には元々極楽寺系の寺院があり、和賀江島の維持管理と関所米の徴収を一括していたようです。鎌倉へ入る開運の荷は一旦は和賀江島を経由するので結構な財力を振るったようですね。

北条経時宝塔

 光明寺の開基は四代執権北条経時とされ、境内にも北条経時を祀った宝塔があります(上の宝塔の画像に”平朝臣経時”と掘られています)。しかし、寺紋菊紋桐紋ですし、あまり境内では北条一族を感じさせませんね…。一応、開基北条経時説の他に大佛朝直説があるんですが、大佛朝直大佛流北条氏なわけで、移転の際に三鱗が抜けちゃった感じデスねぇ…。

遺跡!

 現在の光明寺はむしろ江戸時代の空気は感じました。上の写真は光明寺境内にある九州延岡藩内藤家墓所なのですが、パッと見はボロブドゥールかなんかの遺跡のようです。墓所なので中に入ることは出来ませんが、敷地全体を見渡すことが出来ます。わかりにくい場所ですが(北条経時の宝塔を見た帰りに発見したくらいデス)、実に幻想的です。

やはり桜で〆ます

 今までこの辺は来たことがなかったのですが、逗子に近いせいか?海を感じられる土地柄ですね。釜揚げのしらすの臭いのする街でした。
 と、何となく続きます。

黄馬掛

 と言うワケで辮髪画像が整理つかなくなってきたので、その過程で見つけた…というか今まで気がつかなかっただけなんですが、黄馬掛の画像を見つけたので、お茶濁すべくアップ。
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金銭鼠尾

 Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。
 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。
 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型のことを日本では古くから辮髪と呼んでいたわけですが、当地ではそんな呼び方をしてはいないみたいなんですよね…。ちなみに、辮髪という用例自体は検索すれば古文でいくらでも引っかかるので和製漢語というわけではないです。ただ、清朝で通行したあの髪型をそう称すことは日本だけみたいですが。ではなんと呼ぶかというと、大体は大辮子とか単に辮子と言う言い方するみたいなです。これはPigtailと同じく女の子のお下げ髪のことも指すわけで、検索するとお下げ髪の女子の方がヒットしてノイズありまくりでナカナカ思ったような結果が得られませんでした(何かエロい記事とかも多いので特に)。で、金銭鼠尾というキーワードを入れてみると、ザクザク辮髪記事辮髪画像が得られるわけです。やった~!

 で、検索結果出てきたのがこの文章です…→清代辫子的演变:从鼠尾、猪尾到牛尾

 どうも、この新聞記事?がそこら中にコピペされて検索に引っかかりまくってるようですね。iこの記事によると、清朝初期、入関した頃は金銭鼠尾といわれる、所謂ラーメンマン辮髪にしていたようですね。髯をどこまで伸ばして良いのか?といった規定まであったと、この記事では書いてますね。このあたりは自分も初耳です。
 と言うワケで以下は訳ではなく大意、意訳デス…念のため。

辮髪今昔

1-後金時期:ダイチン・グルンは降伏した漢族に帰順の意思表示としてその辮髪を強要した。結果的にダイチン・グルン領内の漢人男性の大部分は頭髪を剃り上げることになった。その際には頭のうしろの毛を小指ほど残して結んで垂らしていた。髯も上唇にはやすだけであった。これを金銭鼠尾式といった。ii

2-入関時期:明の旧領を接収したダイチン・グルンは領土内の全ての漢人に辮髪を強要する。辮髪を嫌って反乱を起こす漢人は多く犠牲となった。この時期から徐々に髪を残す部位は頭の後から頭頂に移動したが、これも金銭鼠尾式と称しても良いだろう。iii

3-清代中期:髪を生やす部位は変わらなかったが、髪を留めておく面積が増えてた。かつては金銭一枚分の面積だけだったのが、この頃には金銭四~五枚分=こぶし一個分の面積を残すようになっていた。髯は上唇だけでなく、あごまで伸ばしても良くなった。iv

4-清代後期:嘉慶以後、次第に頭頂を中心とした髪の周縁を部分を剃るだけになっており、髪は頭の後で三つ編みにして垂らしていた。この髪型は辮子とか、髪辮と呼ばれた。v

5-清代末期:清末から清の滅亡まで、開明的な知識人や学生は民主化や革命運動の中で、辮髪を切り落とすことを重要なコトだと捉えていた。清全土で身分の上下を問わず辮髪を切り落とす現象はどこでも見られた。

 で、あと辮髪変遷の傾向として上げられているのが以下の三点です。

1-頭髪を残す範囲が段々大きくなる傾向がある。初期の金銭鼠尾式から中期の髪をこぶし大残すモノでは面積が大きくなっているし、後期は殆どの髪を残すまでになっている。このことを比喩的に表現すると、はじめは鼠の尻尾で、次第に豚の尻尾になり、最後には牛の尻尾になったと言える。また、頭髪は時代を経ると面積本数ともに増える傾向にあり、辮髪は編み目が大きく荒くなる傾向がある。

2-清代通しての辮髪の変遷を整理すると、為政者の意志を反映したモノではなく、また、リーダーシップを取った者も不在で、ごく自然発生した変遷であったこと。漢満の別もなく、軍民の別もなく、官吏・商人・農民・市民・皇帝の別もなく、皆一様に変化している。

3-辮髪の変化の速度は一様ではないこと。順治元(1644)年の清の入関から、嘉慶4(1799)年までの間は155年あり、清朝267年の歴史の大半を占める。髪を留めておく面積は増加の傾向にあるものの、その速度は実にゆっくりとしたものであった。嘉慶年間に入っても、最も多い人間でも髪は全体の三分の一程度であった。しかし、嘉慶以後髪を留めておく速度は加速し、百年もしないうちに頭髪の大部分を残し、全体の三分の二まで残すようにまでなった。髪型の変遷のスピードは清朝の統治能力の強弱と丁度反比例しており、統治能力が高い時は変遷は緩やかだが、統治能力が落ちると変遷は加速している。

 最終的にこの文章では、テレビドラマの辮髪は皆、清代後期辮髪を参考にしていて、考証的には間違っていると指摘してますね。ドルゴンなら後頭部型の金銭鼠尾式のハズですし、乾隆帝なら中期のこぶし大辮髪のハズですからねぇ。
 とはいえ、ちょっと図版等を見るとこの記事鵜呑みには出来ないなぁ…とも思うわけで…その辺はまた機会があれば。

  1. 百度の金銭鼠尾の項はこれを思いっきりコピペしてたからか?現在閲覧出来なかったり…Googleのキャッシュにはあったので内容は確認済み。 [戻る]
  2. 図で言うところの前期の絵の後頭部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  3. 図で言うところの前期の絵の頭頂部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  4. 図で言うところの中期の絵? [戻る]
  5. 図で言うところの後期の絵? [戻る]

白虹貫日

 と言うワケで、頼まれて白虹貫日の資料を調べてました。そこそこ有名な単語だとは思いますが、一応引用。

昔者荊軻慕燕丹之義,白虹貫日 ,太子畏之;衞先生為秦畫長平之事,太白蝕昴,而昭王疑之。i

 本文上げただけでは何なので、一応見つけた解説文。

 『史記』列伝第23中の鄒陽の条には、彼が人に嫉まれて獄に下った時に、獄中から上書したという文を載せている.その中に、
  “昔者、荊軻慕燕丹之義、白虹貫日、太子畏之.衛先生為秦畫長平之事、太白蝕昴、而昭王疑之”
という文があり、このうち前半の天変は「六国年表」の始皇20年(B.C.227)の欄に、
“燕太子使荊軻刺王、覚之。王翦将撃燕”とあるのに対応する.事の次第は、荊軻が燕太子の密命を受けて始皇暗殺を計ったがこれに失敗し、逆に燕は反撃を受けたのである.『史記集解』注によれば、燕太子はたまたま白虹が日を貫くのを見たが、それが充分に貫徹していないのを知って、暗殺の不成功を覚ったとあるから、この「白虹貫日」がおきたのは始皇20年(B.C.227)のころであろう。しかし、これは気象現象であるから、古天文学をもって検証することになじまない。一方、上掲文の後半の天変“太白蝕昴”は『史記集解』によれば、白起が秦のために趙を伐とうとして、長平において趙軍を破り、次いで衛先生を遺して昭王に説いて兵糧を増すよう画策した。この時に太白が昴を掩食したので、昭王は策の成否を疑い、事は運ばなかったという。「秦本紀」および「六国年表」によれば、昭襄王47年(B.C.260)の条に、”秦使武安君白起撃、大破趙於長平、四十餘万尽殺之”とあるから、「太白蝕昴」のおきたのは、(もし本当なら)B.C.260の前後の年と思われる。ii

 端的に言うと、白い虹が太陽を貫く現象のことを白虹貫日といいます。古来より凶兆と言われ戦乱の兆しと言われます…が…。荊軻の暗殺失敗からあまり時を経ずにの天下統一はなるわけで、むしろ戦乱が終わる兆しじゃないの?と思ってたら、白虹が日を貫ききってないから、燕太子荊軻の失敗を悟ったと言う説を取っているみたいですね。成る程成る程。
 でも、古来白虹貫日凶兆とされ…というワリにこれよりも古い事例は史書には見えないみたいですね。それこそハッタリとも思うんですが、虹であるなら光学現象ですから、太陽を背にして見えるはずで、それが太陽を貫くのは凶兆!という発想は受け入れられたようで、これ以後は正史白虹貫日は記録されることになります。確かに凶事の前に観測されることもあったようですが、未曾有の大乱の前に観測されたという記事もないので、あまり信憑性は無いみたいですね。自分も一々見てませんが、中央研究院で検索すると、時代に偏り無くザクザク引っかかりますね。
 で、結局この白虹というのは何なんでしょうか?

 暈は日や月の周囲にできるうすい光輪と、これに付随する光象であって、内暈外暈とがあり、うすい白色で、わずかに色彩がある。また日を貫いて地平線と、ほぼ平行に見える白色の光狐が現れることがあるが、これが幻日環(parhelic ciecle)であって、中国では”白虹貫日”と、いって、凶兆として、恐れられ、古くから観察記録されている。iii

 よく分かりませんが、この本に関して言うと万事この調子…なのでむしろわかりやすい方かと…。なんで幻日環を検索した方が早そうですね…。よく分からないンですが、厳密に言うと白虹は虹で無いと言うことだけは分かりましたw

  1. 《史記》卷八十三 魯仲連鄒陽列傳 第二十三 [戻る]
  2. 斉藤国治・小沢賢二『中国古代の天文記録の検証』雄山閣P.80~81 [戻る]
  3. 田中専之助『中国気象学史研究下巻』 中国気象学史研究 P.211 [戻る]
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