もろこし銀侠伝・もろこし紅遊録

 と言うワケで、読んでから暫く経ってたんですが、秋梨惟喬『もろこし銀侠伝』創元推理文庫 と『もろこし紅遊録』創元推理文庫 を読了。
 と、真っ当なレビューはここら当たりで読んで下さいw

時代伝奇夢中道 主水血笑録
 「もろこし銀侠伝」(その一) 武侠世界ならではのミステリ
 「もろこし銀侠伝」(その二) 浪子が挑む謎の暗器
 「もろこし紅游録」(その一) 銀牌、歴史を撃つ
 「もろこし紅游録」(その二) 結末と再びの始まりと

 ザッというと「黄帝から続く銀牌をもつ侠客が各時代に庶民の味方となって活躍していたのだった!」と言う建前の中国を舞台にした時代推理小説デス。
 時代はバラバラで登場人物も違いますが、各話に共通しているのは、比較的平和な時代に、民間で殺人事件が起こり、銀牌を持った人間やその関係者が、隠されたシステムを解き明かして、事件の解決にいたる手助けをする…と言う話ですね。
 舞台とする時代が戦国時代北宋南宋民国と様々でバラエティーに富んでいる上に、登場人物はみな魅力的な良作でした。一個一個の事件のトリックには正直どうかと思うモノも中にはありましたが、それを補ってあまりある人物描写と考証で楽しめました。
 ただ、割と殺伐としたハードボイルドな話が多いのに、ひらがなの”もろこし”というタイトルと、ほのぼのとした表紙はちょっと合ってないかな…という気も。あと、言われているほど武侠テイストは感じられず、どっちかというと陳舜臣初期中国モノの様に推理モノ中国モノの融合した小説…という側面が強いのかな…とは思いました。
 武侠と言えば軽功ですが…軽功は一応出てきますが、むしろ、水滸伝的な神行法とか縮地法的な描き方でしたね。水滸伝の登場人物も『もろこし銀侠伝』には出てきますしw勿論、派手な必殺技が出てきて、技名を絶叫するわけでもないですし、腫れた惚れたの愛憎劇があるわけではないので、コレが武侠か?と言われるとやっぱりNO!と言わざるを得ませんね。武侠小説を求めてこの小説を読むのはちょっと危険です。武侠小説のテイストも確かに混入されていますが、むしろ水滸伝志怪小説のような古典の方に雰囲気は近いと思います。武侠小説よりも洗練された江湖よりの世界を舞台にした中国推理ものと言った方がすんなりします。
 しかし、オフ会で作者の方と同席する栄誉を賜ったのですが、残念ながらまだ読了して無かったのが悔やまれます。色々書きましたがオススメの小説です!

いざ鎌倉(秋編)

 というわけで、先週末に思いついて鎌倉に行ってきたので写真撮ってきました。今回は去年の夏も行ったコースですが、金沢街道沿いに覚園寺鎌倉宮(大塔宮)→瑞泉寺を歩きました。去年はコレに百八やぐら首やぐらも巡りましたから短縮したんですが、それでも歩きましたね…。
 本来的には紅葉の名所と知られるこのあたりで、紅葉狩り~と言う趣向だったのですが、時期が遅かったこともあり今ひとつ…。まあ、京都東福寺みたいなのを勝手に想像してた自分が悪いんですが…。
 と、まずは覚園寺です。このお寺、鎌倉に残るお寺の中でもダントツで古いお寺なので自分は大好きなんですが、残念ながら境内の大半は撮影禁止となってます。とても残念ですが仕方ない。

覚園寺宝塔


水に浮く紅葉


覚園寺の紅葉


望遠一杯で薬師堂…コレじゃ何のことだか…

 覚園寺は元々は二代執権北条義時の建てた持仏堂薬師堂と言われています。例の実朝暗殺の時に薬師十二神将戌神将が夢に現れて助けてくれたというので、恩に感じた義時が創建したと言われています。と言うコトで覚園寺境内は北条義時大倉邸の跡地である可能性が高い場所ですね。源頼朝大倉御所の近くにあったという話ですが、まあ、結構離れてます。
 義時没後、源氏将軍が三代で途絶えて藤原将軍を迎えるに当たって、御所も宇都宮辻子御所に移転されたので、執権邸小町邸(現在の宝戒寺周辺)に移りましたが、その後も特に北条得宗家の尊崇を集め、九代執権北条貞時の時に外敵退散を祈念して覚園寺として整備されたようです。

路傍の花


瑞泉寺の紅葉

 と、覚園寺はその後の鎌倉幕府滅亡の頃に火事で焼失します。その際に再建したのが足利尊氏で、現在も薬師堂にその名が書かれています。江戸時代に改築に近い大修理を受けているとは言いますが、他の寺院に比べれば由緒は古いと言えるでしょう。

参考→ Wikipedia覚園寺

大塔宮の紅葉


路傍の花2

 特に鎌倉宮土牢はちょっと怪しいですからねぇ…。由来からしてテーマパークみたいな感じなんですよねぇ…。今回初めて見たんですが、やっぱり違うんじゃないかなぁ…という感想を新たにしましたww

鳩の舞う八幡宮


八幡宮の大銀杏

 鎌倉行ってもあんまり八幡宮って行かないんですが、何となく大銀杏のその後が気になって立ち寄ってみました。境内では屋台が出ていて、ぎんなんが売られていたのが印象に残りました。

秋空に映えるドヤ顔

 いや、また行きたいですね!

比叡山根本中堂

 さて、今回も以下の本に従いながら比叡山に上ります。

 前回は比叡山境内としては、ケーブルカーに乗ってロープウェイに乗って雲母坂を下ってきただけで、実は前回は伽藍が全く出てきてません。

漸く伽藍が見えてきます

漸く伽藍が見えてきます

 ご存じの通り、比叡山元亀2(1571)年、織田信長に焼き尽くされてます。歴史は古いわけですが、建物はそう古いわけではありません。当然、これから紹介する建物も基本的には江戸以降の再建となります。
 で、信長比叡山焼き討ちの際に不邪淫戒…というか比叡山境内に女性が生活していたことが、信長比叡山攻めの口実を与えたと言います。現在的な感覚で言えば、一身を仏に捧げたはずの出家者たる僧侶が女性と…しかも大寺院境内で生活していると言うコトは抵抗があると思います。
 が、もともと比叡山に限らず、当時の大寺院には女性が多く生活していましたし、そもそも座主と言われるような身分の高い僧侶は妻帯していて、中には代々名門と言われる寺社座主に収まる家系も出てきます。つまり、出家者のハズの僧侶が、有力寺社の座主という地位を世襲したわけです。しかもコレが異端の宗派ではなく、中世では随一の勢力を誇った延暦寺園城寺三井寺)での話です。しかも、コレが当時非難されるコトはなく、むしろ僧侶の娘が貴族に嫁入りまでしていますから、座主のような地位の高い僧侶貴族と同等のクラスにいると考えられていた…と推測されます。
 自分としては、特定の寺院座主を特定の家系が世襲したわけではない…というあたりに引っかかりは感じるのですが、同格の寺院座主を同じ家系の僧侶ばかりが占めている…という状態だったようですね。
先に挙げた本では保元の乱後白河天皇のブレーンであった信西藤原通憲)に始まる家系は、その際たる例であるとされています。

阿弥陀堂と奥に法華総持院東塔

阿弥陀堂と奥に法華総持院東塔

 とはいえ、信長のように、この矛盾を突いて大義名分にして、仏教を弾圧しようとする人は昔からいたようです。師である法然が弾圧される様を見て、親鸞僧侶妻帯を大々的に認め、コレを明文化するわけです。親鸞の偉業は人間としてのを認めた点ではなく、事実上行われていた僧侶妻帯を堂々と追認した点にあるというわけですね。
 今日では浄土真宗に限らず、お坊さんは妻帯されている方は当然おられますし、大部分のお寺では住職は世襲されているわけですから、昔からこんなモンだったと思えば想像もしやすいかと思います。

東塔地区の石垣

東塔地区の石垣

 話は変わりますが、中世比叡山技術者が集うテクノクラートの街としても栄え、朝廷武士も大がかりな建築は寺社に属する技術者に依頼するほかになかったようです。事実、戦国時代に描かれた各種の洛中洛外図では、寺社は敷地が広く、屋根は瓦葺きであったり銅葺きであるのに対して、内裏将軍御所などは敷地が狭く、屋根は檜皮葺き…と言う状態なのもそういった事情からです。
 以上の事情から、戦国大名築城する際も寺社の技術者が関わったと考えられています。比叡山には堅牢な石垣があちこちに見受けられますが、どうやら中世山城として石垣を持つような建築は、この比叡山をもってその元祖とすべきだと言われています。
 実際何度も外敵に焼き討ちされても居ますが、何度も撃退しても居ます。要塞都市と言われる鎌倉は、実は要害としての役には立っていなかった…というのは最近の研究書では統一した見解なので(鎌倉幕府滅亡時も結局新田義貞の挙兵から一ヶ月も経たずに落とされてます)、実は比叡山の方が余程か要塞都市だったと言えます。

人が少なくて感じが良い戒壇院

人が少なくて感じが良い戒壇院

 あと、延暦寺が中世一貫として宗教的権威を保ち続けたのは、この戒壇院を持っていたからですね。僧侶となるには必ず菩薩戒僧侶として守るべき戒律)を受けなければなりませんが、授戒を行う戒壇院日本国内では一時、天下の三戒壇比叡山大乗戒壇のみだったからです。受戒をしていなければ私度僧として罰せられるわけですから、戒律壇を所有している寺院にはそう逆らうわけにはいきませんよね。
 まあ、この辺も貴族武家出身の学侶身分だけの話で、一般民衆出身の堂衆身分の人たちが菩薩戒など受けていたのか?と言うとそんなコトはなさそうですから、戒壇院があることが民衆に対して意味は持たなかったかも知れないですね。ただ、皇室貴族に対しては大いに意味があったことでしょう。

不滅の法灯がこの中に…

不滅の法灯がこの中に…

 で、その巨大な比叡山の中心は、伝教太師最澄が建立した一乗止観院の後身である根本中堂こんぽんちゅうどう)です。
 信長に限らず延暦寺と敵対した勢力(朝廷や武家だけでなく、むしろ他の寺社勢力)に何度も焼かれています。今の建物は信長叡山焼き討ちの後、江戸時代徳川家光の発願で再建された建物です。流石に気合いの入った再建でこの建物自体が国宝指定を受けています。根本中堂内部は撮影が禁止なので、外側からです。

根本中堂の中は撮影禁止なのです!

根本中堂の中は撮影禁止なのです!

 中側もかなり荘厳で、流石は国宝という威圧感がありました。勿論、伝教大師最澄によってもたらされたという、不滅の法灯も中に安置されていました。当番決めたり交換時間決めたらそこから油断が生じるのよ!油断大敵ぃ!…という、ありがたい解説も頂きました。

良い感じに苔生してます

良い感じに苔生してます

  境内はかなり広い上に、自分の好物である苔がそこら中に生えててナカナカの雰囲気でございました。ただ、広大すぎて東塔地区しか回れませんでした…。全部回ろうとすると体力的にも2~3日必要かと…。

向こうに見えるのが瀬田の唐橋…という話です

向こうに見えるのが瀬田の唐橋堅田の琵琶湖大橋…という話です

 昼過ぎには快晴だったので、東坂本側から琵琶湖がよく見えました。これだけ近ければ琵琶湖の漕運を制御することはむしろ当然とも言えますね…。琵琶湖漕運に加えて京都までの輸送手段である馬喰比叡山の影響下にありましたから、商業という特性上、近江商人比叡山の制御下にあったのではないかと…というか元々比叡山荘園から近江商人が出てきたんなら無関係ではないのか…むしろ一体と考えて良いんですかね?

青空に映えるドヤ顔

青空に映えるドヤ顔

 と、東塔地区を後にして、坂本ケーブルに乗って東坂本に降りるのです。まだ続くんですなw

比叡山煙る

 と、連休で帰省したのでついでに比叡山上ってきました。と言うのもここ数年、この本を読んで以来、自分の中で比叡山が熱かったからです。

 どういう本かというと、中世武士とか貴族じゃなくて、寺社勢力!中でも南都北嶺と言うよりむしろ比叡山が中心にいたんだよ!と言う内容の本ですね。何しろ比叡山門前町近江坂本じゃなくて京都洛外だ!と主張するわけです。ええ~そんなコト言ったって京都からどれくらいの距離だっけ?と急に気になったわけです。

雨上がりで比叡山が煙ってました

雨上がりで比叡山が煙ってました

 まあ、言う程掛からないですよね。今回はこの本によると、比叡山の正面玄関は西阪本雲母坂がメインストリートである!という話なので、京阪出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅に…更にそこから叡山ケーブルロープウェイと乗り継ぎました。まあ、ロープウェイだと時間掛かりませんが、凄い勾配です。普通に登山客が多かったので、やはりお山です。
 前日まで雨が降っていたので、ものすごい勢いで煙ってました。普通に山岳信仰沸いてきますね…。

煙る雲母坂!オオオオ!

煙る雲母坂!オオオオ!

 中世叡山僧は強訴の為に、この雲母坂きららざか)を度々下ったと言います。日吉社神輿を担いでこの坂を下ったというので、もっと太い路だと思ったのですが普通に山道です。
 ちなみに雲母坂の名の由来は、この坂には雲母質の石が多いことから…と言う説がありますが、成る程、矢尻でも作れそうな石が多かった様に思います。

雨上がりだったので足下がちょっと悪かったデス

雨上がりだったので足下がちょっと悪かったデス

 中世では本地垂迹説に従って、比叡山の麓にある西阪本にある日吉社ひえしゃ・ひよししゃ)は比叡山と一体化していたのですが、何事か朝廷と揉めたり貴族と揉めると、叡山僧神輿を持ち出して、自分たちの要求を通そうとしました。貴族だけではなく、皇室武士も動かぬはずの神輿が動くという怪異を恐れ、大体の要求は神輿を動かすことで通しています。
 ちなみに御神輿の元祖は、この日吉社神輿と言われています。政治的な運動が正にお祭りとして熱狂を発散する場であったのだ!と考えると感慨深いですね。

流石に石塔とかもあるのです

流石に石塔とかもあるのです

 勿論、比叡山の位置は京都の北東、つまり鬼門にあり、交通の観点からも京都の東の玄関口…要衝であった為、鎮護国家の重責を担っていました。要するに呪術的首都を守る存在であったわけです。宗教的な権威はコレによって否応にも上がったことでしょう。

思ったよりも長い道のり

思ったよりも長い道のり

 宗教的・呪術的権威に加え、中世では、比叡山琵琶湖漕運や、当時の穀倉地帯である北陸方面の輸送手段である馬喰馬による陸上輸送)を独占されていたため、比叡山なくして京都は日常生活を送ることさえ不可能だったとまで言われています。実際、南北朝時代戦国時代に於いても、比叡山と敵対した勢力が京都を長期に渡って影響下に置くことは難しかったようです。

やっと建物が見えてきました

やっと建物が見えてきました

 先に挙げた本では、比叡山中世において権勢を誇ったのは、洛外にある祇園社を勢力下に置いて、洛外の商工業の殆どを比叡山のコントロールしたことに原因があると見ています。
 当然、比叡山僧比叡山ばかりではなく、洛外に於いて活躍することが多かったようです。特に室町以前商工業者に租税がかけられていませんでしたから、当時の日本では随一の人口を誇る京都の富が、比叡山に集中したと言うことになります。

人里が近づいたよ!

人里が近づいたよ!

 比叡山中世に於いて影響力を発したのは、宗教的呪術的な権威もさることながら、むしろ経済力が圧倒的だったからこそ発揮し得たモノの様ですね。
 比叡山の主である天台座主も、普段は雪深い比叡山山中ではなく、洛外でぬくぬく生活しており比叡山で問題が発生した際に駆けつける…というような状態だったようです。

道のりは長い…。

道のりは長い…。

 マダマダ先は長いんで以後益々続きます。

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