旗王と八旗その3+メモ

 先日上げたヌルハチ期の領旗ですが…

ヌルハチ即位以前
黄旗⇒ヌルハチ直轄、グサイ・エジェン:エイヅ、アンバ・ジャルグチ:フュンドン
白旗⇒ベイレ:チュエン、グサイ・エジェン:ダルハン・ヒヤ
紅旗⇒ベイレ:ダイシャン、グサイ・エジェン:ホホリ
青旗(藍旗)⇒ベイレ:シュルガチ、グサイ・エジェン:ションコロ・バツル

 これに出て来るグサイ・エジェンとアンバ・ジャルグチってそうかなとは思ったけど、やっぱり五大臣スンジャ・アンバン(sunja amban)よね…。

五大臣
エイドゥ(Eidu 額亦都 別名:エイドゥ・バートル Eidu Baturu 額亦都巴圖魯):ニオフル(鈕祜祿)氏 鑲黄旗
アン・フィヤング(Anfiyanggū 安費揚古 賜号:ショコロ・バトゥル Songkoro Baturu 碩翁科洛巴圖魯i):ギオルチャ(覺爾察)氏 鑲藍旗
フュンドン(Fiongdon 費英東 別名:フュンドン・ジャルグチ Fiongdon Jargūci 費英東扎爾固齊):グワルギャ(瓜爾佳)氏 鑲黄旗⇒オボイの叔父
ホホリ:(Hohori 何和禮 別名:ホホリ・エフ Hohori Efu 何和禮額):トンギャ(佟佳)氏 正紅旗
フルガン(Hūrhan 扈爾漢 賜号:ダルハン・ヒヤ Darhan Hiya 達爾漢轄):ギョロ氏 鑲白旗

 当たり前と言えば当たり前ですが、グサイ・エジェンなりアンバ・ジャルグチ時代に属した旗にその後も属したみたいですね。

 この中のエイドゥフュンドンはゲレン=イ=エジェン(geren i ejen 八旗左右両翼の主)と言われたようですね。二人とも黄旗に属したみたいなので、一段上に上げられたみたいですね。これが十王亭八旗旗王の象徴なのに左翼王右翼王が別個に設けられて合計十王亭になったという根拠ですね。

 あと、ネットでフラフラしてたら天聰5(1631)年の六部設立時の旗王の担当とその部下が見つかったので、メモ。

工部 旗王:アバタイ(鑲黄旗?)⇒承政:ムンガトゥ(正白旗)・カンカライ(鑲藍旗)⇒啓心郎:ミオショホン(不明)
戸部 旗王:デゲレイ(正藍旗)⇒承政:イングルダイ(鑲白旗)・サビガン(正藍旗)⇒啓心郎=ブダン(鑲白旗)
刑部 旗王:ジルガラン(鑲藍旗)⇒承政:チェルゲイ(鑲白旗)・ソーハイ(鑲黄旗)⇒啓心郎=エルケトゥ(鑲黄旗)
吏部 旗王:ドルゴン(鑲白旗)⇒承政=トゥルゲイ(鑲白旗)⇒啓心郎=ソニン(正黄旗)
兵部 旗王:ヨト(鑲紅旗)⇒承政:ナムタイ(正黄旗)⇒イェクシュ(正紅旗)⇒啓心郎:ムチェンゲ(不明)
礼部 旗王:サハリヤン(正紅旗)⇒承政:ギスン(鑲黄旗)・バドゥリ(正白旗)⇒啓心郎:キチュンゲ(正白旗)ii

 各部の配置と旗にも色々思惑がありそうで調べるとおもろそうですが、次回の宿題ってとこですね…。

  1. ショコロは海東青を指すので、海東青バートル!意訳すると神鵰侠!! [戻る]
  2. 立命館文学 第619号 磯部淳史「清初における六部の設置とその意義 ―太宗の「集権化」政策の一例として― 」 [戻る]

旗王と八旗その2+色々メモ

 『清朝とは何か』藤原書店 を読み返してたら、先日まとめたのとは違う説が紹介されていたのでまたまたメモ。

ヌルハチ期の領旗
正黄旗⇒ヌルハチ直轄(アジゲ、ドルゴン、ドド)
鑲黄旗⇒ヌルハチ直轄(アジゲ、ドルゴン、ドド)
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン、フセ(hūse 祜塞)
鑲紅旗⇒ダイシャン、ヨト
正白旗⇒ホンタイジ
鑲白旗⇒ドゥドゥ
正藍旗⇒マングルタイ、デゲレイ
鑲藍旗⇒アミン、ジルガランi

 アジゲドルゴンドドの三兄弟はヌルハチ晩年に両黄旗に配された。ホンタイジ即位までに鑲白旗ホンタイジの勢力下に入り、ドゥドゥ鑲紅旗に移動したという。

ホンタイジ期の領旗
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホンタイジ直轄
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン、フセ
鑲紅旗⇒ヨト、ドゥドゥ
正白旗⇒アジゲ、ドルゴン、ドド
鑲白旗⇒アジゲ、ドルゴン、ドド
正藍旗⇒ホーゲ
鑲藍旗⇒ジルガランii

 ホンタイジは即位と共に勢力下にあった両白旗両黄旗に改称(陣容はそのまま)。同時に両黄旗両白旗に改称(これまた、陣容はそのまま)。両黄旗アジゲドルゴンドドはそのまま両白旗旗王に。デゲレイ死後に罪に問うてその後継者に正藍旗を継承させず、解体没収して再編した後に長子・ホーゲ新正藍旗旗王に据えたとしている。確かに正藍旗の旗王が空位のまま、皇帝直轄であるはずの鑲黄旗ホーゲを据えるというのはスッキリいかないのでこっちの方がスッと落ちる説明……とはいえ、ホーゲがどのタイミングで旗王になったのかでどの旗を管轄したかは違ってくる気はする。ともあれ、この際、鑲黄旗正黄旗正藍旗三旗が皇帝直属の上三旗とされた。
 このあたりは、『ヌルハチの都』で紹介されている〈盛京城闋図〉を見てみると面白いiii康煕7(1668)年に書かれたとは言え、入関直前のムクデンの様子が再現されている。と、瀋陽の住人にヒヤリングした結果割り出した八旗方位ivに当て嵌められた王府の位置vを見てみると、豫親王府(ドド王府)は正黄旗叡親王府(ドルゴン王府)と巴図魯郡王(アジゲ王府)は鑲黄旗の場所にある。両黄旗が陣容そのままで両白旗に名称だけ変更したとするなら、成る程納得な場所と言える。
 ちなみに、他の王府の場所をみると以下の通り。正紅旗禮親王府(ダイシャン王府)、穎親王府(サハリヤン王府)、鑲紅旗成親王府(ヨト王府)、敬謹親王府(ニカン王府)、正藍旗⇒王府無し、鑲藍旗鄭親王府(ジルガラン王府)、鑲白旗肅親王府(ホーゲ王府)、饒餘郡王府(アバタイ王府)、正白旗⇒王府無し…となる。八旗方位に基づいた復元では、やはりホーゲ鑲黄旗の旗王と考えた方が良さそうなのだが…。あと、この本で名前だけ挙がっている荘親王…と言うよりこの時期なら承澤親王と言うべきショセの王府が抜けているのが少し気になる。ニカンチュエンの第3子でドゥドゥの弟なので、ドゥドゥの地位を継承したモノと思われる。

ドルゴン期の領旗
正黄旗⇒皇帝直轄(ドルゴン実効支配)
鑲黄旗⇒皇帝直轄(ドルゴン実効支配)
正紅旗⇒?vi
鑲紅旗⇒?vii
正白旗⇒ドルゴン
鑲白旗⇒ドドviii
正藍旗⇒ホーゲ→?ix(ドルゴン実効支配)
鑲藍旗⇒ジルガラン

 この時期は図示されていないモノの書いてあることxを勝手にまとめると上のような感じか?また、ホンタイジの二次即位の際にはドルゴン鑲白旗の所属だった模様xiだが、死ぬ間際には正白旗所属になっておりxiiドドと所属を交代していた模様。その他、ドルゴンホンタイジ死後には両黄旗を掌握し、ホーゲを追い落とした後さらに正藍旗を勢力下に置いて、上三旗を完全に掌握した。しかし、ドルゴン死後は両黄旗正白旗順治帝の直轄になり、以後上三旗皇帝直轄として固定。下五旗は一族諸王家が分割する体制が確立した。

 ついでに八旗マンジュ語表記もメモ。

八旗⇒ジャクン・グサ(jakūn gūsa)

左翼
鑲黄旗⇒クブヘ・スワヤン・グサ(kubuhe suwayan gūsa)上三旗 八旗首位
正白旗⇒グル・シャンギャン・グサ(gulu sanyan gūsa)上三旗(元・下五旗)
鑲白旗⇒クブヘ・シャンギャン・グサ(kubuhe sanyan gūsa)下五旗
正藍旗⇒グル・ラムン・グサ(gulu lamun gūsa)下五旗(元・上三旗)

右翼
正黄旗⇒グル・スワヤン・グサ(gulu suwayan gūsa)上三旗
正紅旗⇒グル・フルギャン・グサ(gulu fulgiyan gūsa)下五旗
鑲紅旗⇒クブヘ・シャンギャン・グサ(kubuhe fulgiyan gūsa)下五旗
鑲藍旗⇒クブヘ・ラムン・グサ(kubuhe lamun gūsa)下五旗

 こうやって見ると、崇徳年間大明遠征の時、左翼指揮官が鑲白旗ドルゴンで、右翼指揮官が鑲紅旗ヨトって言うのはこう言うことなのかと。

 あと、三順王ホンタイジ二次即位時、崇徳元(1636)年、王に封じられている模様。

天助兵⇒恭順王・孔有徳、懐順王・耿仲明
天祐兵⇒智順王・尚可喜

 順治元(1644)年、入関時に呉三桂平西王に封じられ、順治3(1646)年、孔有徳平南将軍を任じられる。

 順治6(1649)年に王号を改めて賜う。

定南王・孔有徳、、靖南王・耿仲明、平南王・尚可喜

 その後、順治6(1649)年、耿仲明は罪に問われて自殺、靖南王家は息子の耿継茂が継承。順治9(1652)年、南明・桂王政権制圧時に孔有徳が戦死。後継者がいなかった定南王家は断絶。と言うワケで、清初の三藩がこの時から固定され、三藩の乱まで継続することになる。

平西王・呉三桂、靖南王・耿継茂、平南王・尚可喜

 あと、内三院の内訳は、内国史院内弘文院内秘書院

  1. 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.81 [戻る]
  2. 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.81 [戻る]
  3. 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.141 [戻る]
  4. 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.162 [戻る]
  5. 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.164 [戻る]
  6. 宣和堂の推論⇒ダイシャン第七子=和碩巽親王・マンダハイ? [戻る]
  7. 宣和堂の推論⇒サハリヤン第二子=多羅順承郡王・ルクドゥフン? [戻る]
  8. 漢語Wikipediaによるとドドはホーゲ失脚後?に正藍期に移った模様。その後の旗王は不明 [戻る]
  9. 漢語Wikipediaによるとドド 宣和堂の推論⇒ドドの第二子=和碩豫親王・ドニ? [戻る]
  10. 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.89 [戻る]
  11. 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.85 [戻る]
  12. 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.89 [戻る]

入関前の旗王と八旗

 旗王と八旗の変遷のメモ

ヌルハチ即位以前
黄旗⇒ヌルハチ直轄、グサイ・エジェン:エイヅ、アンバ・ジャルグチ:フュンドン
白旗⇒ベイレ:チュエン、グサイ・エジェン:ダルハン・ヒヤ
紅旗⇒ベイレ:ダイシャン、グサイ・エジェン:ホホリ
青旗(藍旗)⇒ベイレ:シュルガチ、グサイ・エジェン:ションコロ・バツルi

 ヌルハチの共同統治者たる同腹弟・シュルガチは青旗、後継者=アルガ・トゥメン チュエン白旗を管轄している。

ヌルハチ即位以後
正黄旗⇒ヌルハチ直轄
鑲黄旗⇒ヌルハチ直轄
正紅旗⇒ダイシャン
鑲紅旗⇒ダイシャン
正白旗⇒ホンタイジ
鑲白旗⇒ドゥドゥ
正藍旗⇒マングルタイ
鑲藍旗⇒アミンii

 四旗が八旗に増設。チュエンシュルガチの死によってベイレも代替わりしている。白旗チュエンの長子・ドゥドゥ鑲白旗と、ホンタイジ正白旗に、青旗シュルガチの第二子・アミン鑲藍旗マングルタイ正藍旗に引き継がれている。四大ベイレ(ホショ・ベイレ)=アンバベイレ・ダイシャンアミンマングルタイドゥイチ・ベイレ・ホンタイジがそれぞれグサイ・ベイレ(gūsai_beile)を兼任しているが、正鑲紅旗を管轄するダイシャンが相対的に権力を持ち得る環境にあったことが分かる。

ホンタイジ天聰年間
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホーゲ、アバタイ
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン
鑲紅旗⇒ヨト、ドゥドゥ
正白旗⇒ドド
鑲白旗⇒アジゲ、ドルゴン
正藍旗⇒マングルタイ、デゲレイ
鑲藍旗⇒ジルガランiii

 アミン失脚後、マングルタイ失脚前と言うコトになる模様。ホンタイジが即位に伴って正白旗から正黄旗に移動、鑲黄旗ホンタイジの長子・ホーゲドゥドゥ鑲白旗からダイシャンの縄張りの鑲紅旗に移動、ダイシャンの長子ヨトが独立して鑲紅旗に、ヌルハチ最晩年に正鑲黄旗に配されたと思われる、アジゲドルゴンドド兄弟が正鑲白旗に移動、鑲藍旗アミン失脚後、ホンタイジ即位前からホンタイジ派と目されていた、アミンの弟であるジルガランが継承している…と言う具合。
 《太宗実録》と《瀋陽日記》からの復元なので二人上げた場合はどちらがグサイ・ベイレだったのかは不明。両紅旗ホンタイジの即位に関して功績のあるヨトサハリヤンダイシャンの勢力の中でも発言力を増したと捕らえるべきか…。ただ、鑲白旗アジゲ天聰2(1628)年にドドの婚姻を勝手に手配してグサイ・ベイレの任を解かれているので、以後はドルゴン鑲白旗グサイ・ベイレとなっている。また、正藍旗天聰6(1632)年のマングルタイ死後にデゲレイ正藍旗グサイ・ベイレを継承している。そのデゲレイ天聰9(1635)年に死去、その後、マングルタイデゲレイは罪に問われて宗籍を追奪、子孫も庶人に落とされて正藍旗ホンタイジに摂取されている。これが皇帝直属の上三旗の発端(順治年間にドルゴンが自らの正白旗と正藍旗と入れ替える)。
 
ホンタイジ崇徳年間
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホショ・ファフンガ・チンワン(Hošoi fafungga cin wang 和硯肅親王)・ホーゲ
正紅旗⇒ホショ・ドロンゴ・チンワン(Hošoi doronggo cin wang 和碩禮親王)・ダイシャン(サハリヤン)
鑲紅旗⇒ホショ・キセヘ・チンワン?(Hošoi kicehe cin wang?和碩成親王)・ヨト
正白旗⇒ホショ・エルケ・チンワン(Hošoi erke cin wang 和碩豫親王)・ドド
鑲白旗⇒ホショ・メルゲン・チンワン(Hošoi mergen cin wang 和碩睿親王)・ドルゴン
正藍旗⇒ホンタイジ直轄
鑲藍旗⇒ホショ・ウジェン・チンワン(Hošoi ujen cin wang 和碩鄭親王)・ジルガランiv

 と言うワケで、天聰末年ホショ・ベイレの中でも、グサイ・ベイレを兼ね備えた者がホショ・チンワンに封じられた模様。天聰末年にはホショ・ベイレであったサハリヤン崇徳元(1636)年時点では親王には封じられていない。しかし、その後間もなく崇徳元(1636)年に死去した際に追封してホショ・スレ・チンワン(Hošoi sure cin wang 和碩穎親王)となっているので、ダイシャンの後釜と目されていたと考えられる。ヨトはこの後、罪に問われてベイセに降格し、死後ドロ・キセヘ・ギュンワン(Doroi kicehe giyûn wang 多羅克勤郡王)に追封されているので、マンジュ語の王号がこれで合っているのかは分からない。
 ヨト大明遠征中崇徳4(1639)年に死去している以外は順治まで異動は無かったと思われるが、その後の鑲紅旗グサイ・ベイレが誰に継承されたのかは調べていないので、今後の宿題にしようかと…。

  1. 承志『ダイチン・グルンとその時代 ─帝国形成と八旗社会─』名古屋大学出版P.47~48 [戻る]
  2. 承志『ダイチン・グルンとその時代 ─帝国形成と八旗社会─』名古屋大学出版P.48 [戻る]
  3. 神田信夫『清朝史論考』山川出版社「清初の貝勒について」P.42 [戻る]
  4. 神田信夫『清朝史論考』山川出版社「清初の貝勒について」P.46 [戻る]

マンジュの年号と王号

と言うワケで、清初の人物を調べていてマンジュ語の表記がある事に気がついたモノのメモ。

年号⇒
天命(1616-1626):abkai fulingga
天聰(1627-1635):sure han
崇徳(1636-1643):wecihūn eedemungge
順治(1644-1661):ijishūn dasan
康煕(1662-1722):elhe taifin
雍正(1723-1735):hūwaliyasun tod
乾隆(1736-1795):abkai wehiyehe
嘉慶(1796-1820):saicungga fengšen
道光(1821-1861):doro eldengge
咸豊(1851-1861):gubci elgiyengge
同治(1862-1874):yooningga dasan
光緒(1875-1908):badarangga doro
宣統(1909-1911):gehungge yosoi
 これだけあると、祺祥とか保慶マンジュ語にも興味が出てきますね。後で気がつきましたけど、普通にWikipediaにこの辺は出てますね…。

 あと、国初の親王郡王号マンジュ表記をば。

親王・郡王号⇒
和碩禮親王・代善:Hošoi doronggo cin wang Daišanii
和碩英親王・阿濟格:Hošoi baturu cin wang Ajige
和碩睿親王・多爾袞:Hošoi mergen cin wang Dorgoniii
和碩豫親王・多鐸:Hošoi erke cin wang Dodoiv
和碩肅親王・豪格:Hošoi fafungga cin wang Hoogev
和碩承澤親王・ 碩塞:Hošoi kesingge cin wang Šosevi
和碩鄭親王・濟爾哈朗:Hošoi ujen cin wang Jirgalangvii
和碩敬謹親王・尼堪⇒Hošoi ginggun cin wang Nikan
和碩穎親王・薩哈璘⇒Hošoi sure cin wang Sahaliyen
和碩端重親王・博洛⇒Hošoi jingji cin wang Bolo
多羅通達郡王・雅爾哈齊⇒Doroi hafuka giyûn wang Yarhaci
多羅饒餘郡王・阿巴泰⇒Doroi bayan giyûn wang Abtai
多羅克勤郡王・岳託⇒Doroi kicehe giyûn wang Yotoviii
多羅謙郡王・瓦克達⇒Doroi gocishûn giyûn wang Wakda
多羅順承郡王・勒克徳渾⇒Doroi dahashûn giyûn wang Lekdehunixx

 ちなみに、八大鐵帽子王家乾隆43(1778)年に決まったというから多分、この記事のタイミングで世襲罔替が決まった模様。

乾隆(中略)四十三年春正月(中略)辛未,追復睿親王封爵及豫親王多鐸、禮親王代善、鄭親王濟爾哈朗、肅親王豪格、克勤郡王岳託原爵,並配享太廟。xi

  1. 河内良弘・淸瀨義三郎則府『満洲語文語入門』京都大学出版社P.58 [戻る]
  2. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  3. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  4. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  5. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  6. 八大鉄帽子王家⇒和碩荘親王⇒Hošoi ambalinggu cin wang [戻る]
  7. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  8. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  9. 八大鉄帽子王家 [戻る]
  10. ベルリン州立図書館デジタルアーカイブ欽定宗室清文王公功績表伝 [戻る]
  11. 《清史稿》本紀巻十四 本紀十四 高宗 弘曆五 [戻る]

孝荘文皇后と愉快な仲間達-ダイチン諸王編1

 と言うワケで、「辮髪を惜しんで大事が成せるか!」「辮髪も守れずに国を守るだと?」「だが、これからは死んでも辮髪は失わない」などの名台詞と共に、一気に辮髪ドラマの金字塔になった態のドラマ『宮廷の泪 山河の恋』のお話です。取りあえず、あらすじだけでも見て欲しい…。
 と、今回はドラマの主役の一人、ドルゴンとその兄弟たちです。

 

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