と言うワケで、頼まれて白虹貫日の資料を調べてました。そこそこ有名な単語だとは思いますが、一応引用。
昔者荊軻慕燕丹之義,白虹貫日 ,太子畏之;衞先生為秦畫長平之事,太白蝕昴,而昭王疑之。
本文上げただけでは何なので、一応見つけた解説文。
『史記』列伝第23中の鄒陽の条には、彼が人に嫉まれて獄に下った時に、獄中から上書したという文を載せている.その中に、
“昔者、荊軻慕燕丹之義、白虹貫日、太子畏之.衛先生為秦畫長平之事、太白蝕昴、而昭王疑之”
という文があり、このうち前半の天変は「六国年表」の始皇20年(B.C.227)の欄に、
“燕太子使荊軻刺王、覚之。王翦将撃燕”とあるのに対応する.事の次第は、荊軻が燕太子の密命を受けて始皇暗殺を計ったがこれに失敗し、逆に燕は反撃を受けたのである.『史記集解』注によれば、燕太子はたまたま白虹が日を貫くのを見たが、それが充分に貫徹していないのを知って、暗殺の不成功を覚ったとあるから、この「白虹貫日」がおきたのは始皇20年(B.C.227)のころであろう。しかし、これは気象現象であるから、古天文学をもって検証することになじまない。一方、上掲文の後半の天変“太白蝕昴”は『史記集解』によれば、白起が秦のために趙を伐とうとして、長平において趙軍を破り、次いで衛先生を遺して昭王に説いて兵糧を増すよう画策した。この時に太白が昴を掩食したので、昭王は策の成否を疑い、事は運ばなかったという。「秦本紀」および「六国年表」によれば、昭襄王47年(B.C.260)の条に、”秦使武安君白起撃、大破趙於長平、四十餘万尽殺之”とあるから、「太白蝕昴」のおきたのは、(もし本当なら)B.C.260の前後の年と思われる。
端的に言うと、白い虹が太陽を貫く現象のことを白虹貫日といいます。古来より凶兆と言われ戦乱の兆しと言われます…が…。荊軻の暗殺失敗からあまり時を経ずに秦の天下統一はなるわけで、むしろ戦乱が終わる兆しじゃないの?と思ってたら、白虹が日を貫ききってないから、燕太子・丹は荊軻の失敗を悟ったと言う説を取っているみたいですね。成る程成る程。
でも、古来白虹貫日は凶兆とされ…というワリにこれよりも古い事例は史書には見えないみたいですね。それこそハッタリとも思うんですが、虹であるなら光学現象ですから、太陽を背にして見えるはずで、それが太陽を貫くのは凶兆!という発想は受け入れられたようで、これ以後は正史に白虹貫日は記録されることになります。確かに凶事の前に観測されることもあったようですが、未曾有の大乱の前に観測されたという記事もないので、あまり信憑性は無いみたいですね。自分も一々見てませんが、中央研究院で検索すると、時代に偏り無くザクザク引っかかりますね。
で、結局この白虹というのは何なんでしょうか?
暈は日や月の周囲にできるうすい光輪と、これに付随する光象であって、内暈外暈とがあり、うすい白色で、わずかに色彩がある。また日を貫いて地平線と、ほぼ平行に見える白色の光狐が現れることがあるが、これが幻日環(parhelic ciecle)であって、中国では”白虹貫日”と、いって、凶兆として、恐れられ、古くから観察記録されている。
よく分かりませんが、この本に関して言うと万事この調子…なのでむしろわかりやすい方かと…。なんで幻日環を検索した方が早そうですね…。よく分からないンですが、厳密に言うと白虹は虹で無いと言うことだけは分かりましたw