天聰~崇徳のまとめ

 論文とか専門書とか読んでいてなる程こうなのか~と個人的に理解したことのメモを上げておこうかと。個人的な興味はドルゴン~順治帝なので先はまだまだ長い…。

天聰年間
 ホンタイジは即位前からの所属旗である両白旗を、即位後に両黄旗に改称。同時にヌルハチ時代の両黄旗は両白旗に改称されている。これもホンタイジの君主権が脆弱だった証左とされる。

※三大ベイレとホンタイジの権力闘争⇒ホンタイジの治世はまず、三大ベイレとの権力闘争から始まる
 サルフの英雄である嫡二子アンバ・ベイレ=ダイシャン、シュルガチの第二子であるアミン、嫡三子マングルタイ

 しかし、三大ベイレの身内には即位前からのホンタイジのシンパが存在する⇒ホンタイジ即位にそれぞれ功績があった模様
 ダイシャンの嫡長子・ヨト、嫡三子・サハリヤン、アミンの同腹弟・ジルガラン、マングルタイの同腹弟・デゲレイ

①アミン幽閉⇒
 天聰元(1627)年の第一次朝鮮侵攻時に独立の動きを見せたホショベイレ・アミンを、天聰4(1630)年の北京攻略時に占領した永平など4城を放棄して、降伏した永平・遷安の領民を虐殺してムクデン(瀋陽)に撤退してきたのを捕らえて、十六の罪状を数え上げてアミンを幽閉してそのまま獄死させた。

②マングルタイ失脚⇒
 更に天聰5(1631)年には、大遼河戦の陣中でホンタイジとマングルタイが口論になり、怒ったマングルタイが佩刀に手をかけて弟のデゲレイに殴らるや、更に逆上して遂には抜刀して剣を振り回す事件が起こる。この事件で不敬罪に問われたマングルタイはホショ・ベイレの地位を剥奪されて、ドロ・ベイレに降格。
 翌年にはマングルタイはチャハル部と大明への遠征に参加しているが、その年の内に病没している。
 ホンタイジ即位前から、マングルタイはホンタイジと仲が悪かった様だが、葬儀の際にホンタイジは号泣して死を悼んだと言う。

③ダイシャン失脚⇒
 つぎに天聰8(1634)年、チャハル部のリンダン・ハーンが病没、翌天聰9(1635)年、その遺衆をドルゴンらが摂取すると、その財産の分与に端を発して事件が起こる。
 まず、ホンタイジがリンダン・ハーンの未亡人であるベヒ太后をホーゲに賜与すると、ホーゲに娘を嫁がせていたマングジ・ゲゲ(マングルタイ、デゲレイの同腹の皇女)が公然と不満を表明した。
 これを聞きつけたダイシャンは、普段マングジとは疎遠であったにもかかわらずマングジを自宅に呼んで宴会を開いた。
 ダイシャンはリンダン・ハーンの未亡人を下賜する際にもホンタイジの意向に添わず、財産目当てで他の妃を要求することが何度かあったため、これを機会にホンタイジからの叱責を受け、ホショ・ベイレの地位とアンバ・ベイレの称号を剥奪された。
 マングジとその同腹弟のデゲレイも罰せられた。

④正藍旗の解体⇒
 天聰9(1635)年のダイシャン失脚を以て三大ベイレに対する権力闘争は決着を見るが、次にホンタイジ即位に尽力した旗王達への牽制が始まる。
 ダイシャンへの処罰が下された10日後、唐突にデゲレイが病没する。ホンタイジはその葬儀で慟哭したものの、マングルタイの遺族が王位の継承を訴えるとそれを許さなかった。
 ホンタイジが狩猟で留守の間に、マングルタイ、デゲレイと同腹の皇女であるマングジ・ゲゲの家僕・レンセンギがマングルタイ、マングジ、デゲレイ兄弟がクーデターを計画していたとホンタイジに告発。
 更にマングジの夫であるソノムも刑部を司るジルガランに妻のクーデター計画に参加したと自首してきた。
 捜査の結果、レンセンギ、正藍旗のアイバリはマングルタイ、デゲレイ、マングジが謀反の盟約を交わした会合に同席していたことが判明し、マングルタイの邸宅からは金国皇帝之印と刻した木印が16個発見された。
 マングジ初め関係者及びその親族は族滅(マングルタイ五子のエビルンは処刑⇒エビルンはマングルタイが不敬に問われた大遼河での抜刀事件について、その場に居合わせたら自分も抜刀してホンタイジに斬りかかったなどと発言して、兄の光袞に密告されたがホンタイジはこれを公表していなかったらしいがこの時公表された模様)、マングルタイ、デゲレイは爵位を追奪されて遺産は没収(これは八旗で等分された模様。ちなみにマングルタイの未亡人が二人いたが、一人はホーゲ、一人はヨトが娶り、デゲレイの未亡人はアジゲが娶っている)、遺族は謀反の罪によって宗籍から除名された(マンダリ(邁達里)、光袞、サハリヤン(薩哈璘)、アクダ(阿克達)、舒孫、噶納海らマングルタイの六子、デゲレイの子・鄧什庫らは庶民に落とされた)。
 乾隆年間に制定された《欽定宗室王公功績表伝》あたりを見ると、生前若しくは死後爵位を剥奪されているアミン、アジゲ、ドルゴン(《欽定宗室王公功績表伝》編纂時はまだ名誉回復していない)は生前の最高位の爵位で記述されているのに、この兄弟に関しては以罪黜宗室貝勒、罪によって宗籍を剥奪された人達にカテゴライズされているので、徹底して謀反人とされている模様。
 更にマングルタイ、デゲレイ兄弟が支配した正藍旗は解体されて両黄旗に吸収され、崇徳2(1637)年、肅親王・ホーゲが旗王となりホンタイジ旗下の鑲黄旗が母体となって新生正藍旗が編成される。
 これによってホンタイジは両黄旗に加えて正藍旗の三旗を掌握し、数の上で他の旗王を圧倒し皇帝権が確立されたとされている。

天命ホンタイジ派の末路⇒
 上のマングルタイ兄弟謀反未遂事件の際に、マングジ長女の娘婿であるダイシャン嫡長子ヨトはマングジを擁護しているが、皇族内ではむしろ少数派であった模様。
 サハリヤン、アバタイ、アジゲ、ドドらも一様にマングジに対しては怒りをあらわにしている(この事件のあったとき、ドルゴンは嫁取りのためにホルチン部に出向いていたため不在)。
 一方、マングジの次女の娘婿であるホーゲは、父皇の死を願う者の一族として妻を殺害している。コレを聞いたヨトも妻を殺そうとして許しを請うたが、ホンタイジに止められている。
 ホンタイジ即位に尽力したヨトはこれ以降、ホンタイジに対して少なくとも協力的ではなくなる。
 翌崇徳元(1636)年には和碩成親王の爵位を受けたばかりのヨトはホーゲとジルガランを誣告したとしてその年の内にベイレに降格、翌崇徳2(1637)年にはホンタイジに対して不遜な態度を取ったとしてベイセに降格されている。
 原因はマングルタイ兄弟謀反疑惑事件と考えられる(義兄弟でもあったホーゲはマングジを擁護した様子はないし、ジルガランは告発を受けてマングジを裁く立場にいた)。

 ヨトの同母弟のサハリヤンは崇徳元(1636)年に病没、ヨトも崇徳4(1639)年には大明遠征中に陣没している。
 サハリヤンやヨトの遺児達は王位の継承が許され、その後も正紅旗、鑲紅旗の有力な旗王家として存続している。
 一方、デゲレイやその遺児は徹底的に排除されている。デゲレイの遺児達は宗籍を剥奪され、清朝通じて名誉が回復される事は無かった。
 デゲレイは幼少の頃ホンタイジと共に養育されたらしく、それ故に同腹兄・マングルタイとは仲の悪かったホンタイジとも仲が良かったようであるが、有無を言わせず徹底的に取りつぶされている。
 ちなみにジルガランは特にホンタイジに対して忠実であったらしく、ホンタイジ治世下では信頼度が絶大だった故に順治年間に入るとドルゴンと共に摂政王となっている。

崇徳改元⇒
 リンダン・ハーンの遺衆から大元ウルスの玉爾の献上を承け、ダイチン・グルンの皇帝=ハンとして二次即位を行い、名実ともに”皇帝”となった。一次即位の際のような合議制の代表者ではなく、独裁制の皇帝となったのである。
 ホンタイジは各旗王たちを掣肘する意味からか度々叱責しては降格を行い、1~2年後には爵位を戻している。
 しかし、崇徳7(1642)年以降はホンタイジが病気がちになった関係から締め付けが厳しくなっている。
 他の旗王が些細なことで罪に問われる中、ドルゴンは目立った失態も見せず、ホンタイジ存命中はホンタイジに忠実であったため大きな降格は経験していない。
 猜疑心の強いホンタイジを相手にしているので、ドルゴンは余程細心にホンタイジに接していたか、本当に忠義者だったかどちらかのハズ。

ホンタイジの崩御⇒後継者争いが勃発
 崇徳8(1643)年8月、脳卒中でホンタイジが崩御する。既に和碩肅親王であったホンタイジの長子・ホーゲがすんなりと即位しそうなモノだが、どうやら人望に欠いていた模様。
 ホーゲは正藍旗は掌握し、両紅旗を牛耳る長老ダイシャンの支持を取り付けていたモノの、ホンタイジお膝元である両黄旗は完全には掌握し切れていない(両黄旗の一部にはトゥルゲイi 、タジャンii、バブハイiiiらホーゲ推戴派もいた模様)。
 対抗馬たるドルゴンは両白旗は掌握しているが、数の上で劣勢。
 ドルゴンはホンタイジ嫡系に拘るホルチン閥筆頭の皇太后・ブンブタイと両黄旗有力者のソニンやオボイ、タンタイiv、トゥライv、ゴンガダイvi、シガンviiらを抱き込み、自分が後継者を断念する代わりにホーゲにも断念させた。
 かくして、ジルガラン、ドルゴンが摂政王として補佐する形で嫡長子・フリンが即位が決定する。
 その二日後、ダイシャンの第二子・ショセと第三子・サハリヤンの遺児・アダリがドルゴンに即位をうながすと、却ってドルゴンは彼らを捕らえて処刑している(このあたりはダイシャン系の分裂と言うよりは、ドルゴンの母系であるウラ=ナラ氏の閨閥と考えた方が良い模様)。

両白旗の換旗⇒
 崇徳8(1643)年10月、多羅豫郡王・ドドが大学士・范文程の妻を略奪しようとしていたことが発覚。
 和碩肅親王・ホーゲがそれを知りながら隠蔽したことを罪に問われる。
 この際、ドドは降格されるコトは無かったモノの、正白旗30ニル全て掌握していたのを半分の15ニルを没収される。
 ドルゴンとアジゲは共に鑲白旗の15ニルずつを掌握していたが、没収されたドドの15ニルは鑲白旗の旗王であるドルゴンに委ねられた(罪に問われて没収された旗王の財産は近親者が管理するのがこの頃のマンジュの風習)。
 この際に、ニルを半数に減らされたドドは正白旗から鑲白旗に移されてアジゲと鑲白旗を両分。ドドから15ニルを預かったドルゴンは元から管理する鑲白旗15ニルを併せて正白旗に移動した。
 当時、鑲白旗よりも正白旗が序列が上位であったためジルガランとの対比上、少しでも優位に立つためと言われるがこの辺定かではない(そもそもジルガランの鑲藍旗は八旗の序列中最下位なので)。
 しかし、少なくとも、これ以前は摂政王の序列はジルガラン、ドルゴンだったモノが、これ以後、ドルゴン、ジルガランの順番に一変した。

取りあえずここまで。

  1. Turgei 圖爾格 [戻る]
  2. Tajan 塔瞻 [戻る]
  3. Babuhai 巴布海 [戻る]
  4. Tantai 譚泰 [戻る]
  5. Tulai 圖賴 [戻る]
  6. Gongadai 鞏阿岱 [戻る]
  7. Sigan 錫翰 [戻る]

天命~康煕の旗王と序列メモ

※マンジュ・グルン建国
建州左衞都指揮使・ヌルハチと建州右衞都指揮使・シュルガチとの二頭体制
四旗制⇒1:黄旗(ヌルハチ)、2:白旗(チュエン)、3:紅旗(ダイシャン)、4:青旗(シュルガチ)
×シュルガチ、チュエン失脚⇒黄旗(ヌルハチ)、紅旗(ダイシャン)、白旗(ホンタイジ)、藍旗(アミン)

※天命年間
両黄旗(ヌルハチ)、両紅旗(ダイシャン)、鑲藍旗(アミン)、正藍旗(マングルタイ)、正白旗(ホンタイジ)、鑲白旗(ドゥドゥ)⇒四大ベイレ(アンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイ、ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジ)
1:鑲黄旗(アジゲ、ドルゴン)、2正黄旗(ドド)、3:正紅旗(?i)、4:鑲紅旗(ヨト)、5:鑲藍旗(アミン、ジルガラン)、6:正藍旗(マングルタイ、デゲレイ)、7:鑲白旗(?ii)、8:正白旗(ホンタイジ)⇒八ホショ・ベイレ
旗王の序列(天命9年)⇒1:アンバ・ベイレ=ダイシャン、2:モンゴル諸侯、3:アミン・ベイレ、4:マングルタイ・ベイレ、5;ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジ、6:アジゲ・アゲ、7:ドド・アゲ、8:アバタイ・アゲ、ドゥドゥ・アゲ、9:ヨト・アゲ、ショセ・アゲ

※天聰年間
三大ベイレ(アンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイ)
1:正黄旗(ホンタイジ)、2:鑲黄旗(ホーゲ、アバタイ)、3:正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、4:鑲紅旗(ヨト)、5:鑲藍旗(アミン、ジルガラン)、6:正藍旗(マングルタイ、デゲレイ)、7:鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、8:正白旗(ドド)⇒両黄旗と両白旗の入れ替え
旗王の序列(天聰5年)⇒1:ベイレ・アバタイ(鑲黄旗)、2:ベイレ・デゲレイ(正藍旗)、3:ベイレ・ジルガラン(鑲藍旗)、4:ベイレ・メルゲン・ダイチン=ドルゴン(鑲白旗)、5:ベイレ・エルケ・チュフル=ドド(正白旗)、6:ベイレ・ショト(鑲紅旗)、7:ベイレ・サハリヤン(正紅旗)、8:ベイレ・ホーゲ(正黄旗)

×アミン、マングルタイ、デゲレイの失脚
正黄旗(ホンタイジ)、鑲黄旗(ホーゲ、アバタイ)、正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、正白旗(ドド)、鑲紅旗(ヨト)、鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、鑲藍旗(ジルガラン)、正藍旗()⇒両黄旗:北、両白旗:東、両紅旗:西、両藍旗:南に相当、右翼:正黄旗、正紅旗、鑲紅旗、鑲藍旗、左翼:鑲黄旗、正白旗、鑲白旗、正藍旗

※崇徳年間
×正藍旗解体=新正藍旗再編
1:鑲黄旗(ホンタイジ)、2:正黄旗(ホンタイジ)、3:正白旗(ドド)、4:正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、5:鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、6:鑲紅旗(ヨト)、7:正藍旗(ホーゲ、アバタイ)、8:鑲藍旗(ジルガラン)⇒両黄旗:北、両白旗:東、両紅旗:西、両藍旗:南に相当、左翼:鑲黄旗、正白旗、鑲白旗、正藍旗、右翼:正黄旗、正紅旗、鑲紅旗、鑲藍旗、この頃は上二旗、内六旗(モンゴルなど外藩部の外八旗と比較して”内”)
ホショ・チンワン⇒ホショ・ドロンゴ・チンワン(和碩禮親王)=ダイシャン、ホショ・メルゲン・チンワン(和碩睿親王)=ドルゴン、ホショ・エルケ・チンワン(和碩豫親王)=ドド、ホショ・ウジェン・チンワン(和碩荘親王)=ジルガラン、和碩成親王=ヨト
ドロ・ギュンワン⇒ドロ・バトゥル・ギュンワン(多羅武英郡王)=アジゲ、ドロ・バヤン・ギュンワン(多羅饒餘郡王)=アバタイ

×サハリヤン、ヨト死去
1:鑲黄旗(ホンタイジ)、2:正黄旗(ホンタイジ)、3:正白旗(豫郡王・ドド)、正紅旗(禮親王・ダイシャン)、鑲白旗(睿親王・ドルゴン、武英郡王・アジゲ)、鑲紅旗(衍禧郡王・ロロホン(Lolohon 羅洛宏iii)、鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、正藍旗(肅親王・ホーゲ、饒餘郡王・アバタイ)

※順治年間
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(睿親王・ドルゴン)、4:正紅旗(禮親王・ダイシャン)、5:鑲白旗(豫親王・ドド、英親王・アジゲ)、6:鑲紅旗(衍禧郡王・ロロホン)、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、正藍旗(饒餘郡王・アバタイ、肅親王・ホーゲ)⇒崇徳8年のドドの処罰ivにより、鑲白旗と正白旗を換旗。
順治5年、反ドルゴン派粛正
×ホーゲ、ダイシャン、ドド逝去⇒ホーゲ旗下の正藍旗とドド旗下の鑲白旗の換旗が行われる

1:鑲黄旗(フリンv)、2:正黄旗(フリンvi)、3:正白旗(睿親王・ドルゴン)、4:正紅旗(巽親王・マンダハイ(Mandahai 満達海vii)、順承恭恵郡王・レクデフン(Lekdehuni 勒克徳渾viii)、5:鑲白旗(睿親王・ドルゴン)、6:鑲紅旗(敬謹郡王・ニカン(Nikan 尼堪ix)、謙襄郡王・ワクダ(Wakuda 瓦克達x))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、8:正藍旗(信親王・ドニ(Doni 多尼xi)、英親王・アジゲ、端重郡王・ボロ(Bolo 博洛))⇒マンダハイ、ニカン、ボロはドルゴンに重用され、理政三王と称された

×ドルゴン逝去直後
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(睿親王・ドルボ(Dorbo 多爾博xii))、4:正紅旗(巽親王・マンダハイ(Mandahai 満達海xiii)、順承恭恵郡王・レクデフン(Lekdehuni 勒克徳渾xiv)、5:鑲白旗(睿親王・ドルボ)、6:鑲紅旗(敬謹郡王・ニカン(Nikan 尼堪xv)、謙襄郡王・ワクダ(Wakuda 瓦克達xvi)、承澤親王・ショセ(Šose 碩塞xvii))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、8:正藍旗(信親王・ドニ(Doni 多尼xviii)、端重郡王・ボロ(Bolo 博洛))

×マンダハイ、ボロ、レクデフン、ワクダ、ショセ、ニカン、ジルガランが相次いで逝去
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(フリン)、4:正紅旗(巽親王・チャンガタイxix)、5:鑲白旗(顕親王・フシェオ(富綬 Fušeoxx))、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド(Bokodo 博果鐸xxi))、ベイレ・ドゥルフ(durhu 杜爾砧xxii)))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン、簡郡王・ジドゥ(jidu 濟度xxiii)、敏郡王・レドゥ(ledu 勒度xxiv)、ベイレ・シャンシャン(sangsan 尚善xxv))、8;正藍旗(安郡王・ヨロ(yolo 岳楽xxvi)、信郡王・ドニ)

×フリン崩御時
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(フリン)、4:正紅旗(康親王・ギイェシュxxvii、順承郡王・レルギイェンxxviii、ベイレ・チャンガタイxxix)、5:鑲白旗(顕親王・フシェオ(富綬 Fušeoxxx)、温郡王・モンゴ)、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド(Bokodo 博果鐸xxxi)、ベイレ・ランプxxxii)、ベイレ・ドゥルフ(durhu 杜爾砧xxxiii)))、7:鑲藍旗(テセxxxiv)、8;正藍旗(安郡王・ヨロ(yolo 岳楽xxxv)、ベイレ・チクシンxxxvi、信郡王・チャニxxxvii

※康煕年間
鑲白旗と正藍旗は皇帝庶子が封じられるモノの、他の旗に関しては皇帝といえども基本的に不干渉。
追記:(皇太子冊立時)
1:鑲黄旗(上三旗 皇帝直属 輔国公・常舒(議政王))、2:正黄旗(上三旗 皇帝直属)、3:正白旗(上三旗 皇帝直属)、4:正紅旗(康親王・ギイェシュ(議政王)、順承郡王・レルギイェン(議政王))、5:鑲白旗(顕親王・丹臻、裕親王・福全(議政王)、純親王・隆禧、温郡王・仏永恵)、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド、平郡王家・ロゴド、恵郡王・ボンゴノ、鎮國公・スヌ(議政王))、7:鑲藍旗(簡親王・ラブ、ベイレ・シャンシャン(議政王)、ベイセ・ウンチ(議政王)、輔國将軍・バルカン(議政王))、8:正藍旗(安親王・ヨロ(議政王)、信郡王・オジャ、ベイレ・チャニ(議政王)、ベイレ・ドンゲ(議政王)、恭親王・常寧(議政王))

参考資料:杜家驥《八旗与清朝政治論稿》人民出版社
    :内田直文「清朝入関後における内廷と侍従集団」九州大学東洋史論集 37号
    :鈴木 真 「清朝康煕年間の皇位継承者問題と旗王・権門の動向」史學雜誌 120(1)

  1. 実質的な旗手はダイシャン [戻る]
  2. 実質的な旗手はアバタイ? [戻る]
  3. ヨト長子 [戻る]
  4. ホーゲに接近して范文程の妻を強奪しようとした? [戻る]
  5. ドルゴン実効支配? [戻る]
  6. ドルゴン実効支配? [戻る]
  7. ダイシャン第七子 [戻る]
  8. サハリヤン第二子 [戻る]
  9. チュエン第三子 [戻る]
  10. ダイシャン第四子 [戻る]
  11. ドド第二子 [戻る]
  12. ドド第五子、ドルゴンの養子 [戻る]
  13. ダイシャン第七子 [戻る]
  14. サハリヤン第二子 [戻る]
  15. チュエン第三子 [戻る]
  16. ダイシャン第四子 [戻る]
  17. ホンタイジ第五子 [戻る]
  18. ドド第二子 [戻る]
  19. 常阿岱 マンダハイの長子 [戻る]
  20. ホーゲ第四子 [戻る]
  21. ショセ・長子 [戻る]
  22. ドゥドゥの長子 [戻る]
  23. ジルガラン第二子 [戻る]
  24. ジルガラン第三子 [戻る]
  25. ジルガランの弟のフィヤングの子 [戻る]
  26. アバタイ第四子 [戻る]
  27. ダイシャン八子・フセ後裔 [戻る]
  28. サハリヤン系 [戻る]
  29. マンダハイ後裔 [戻る]
  30. ホーゲ第四子 [戻る]
  31. ショセ・長子 [戻る]
  32. 順治18年6月、敬謹親王を継位 [戻る]
  33. ドゥドゥの長子 [戻る]
  34. 順治18年2月荘親王襲位 [戻る]
  35. アバタイ第四子 [戻る]
  36. 端重親王家、順治帝崩御の二日後に没。無嗣断絶 [戻る]
  37. 順治18年正月より空位、同年6月襲位 [戻る]

欽定宗室王公功績表伝

 ネットをウロウロしてたら漢文版の《欽定宗室王公功績表伝》が見つかったので、ベルリン州立図書館デジタルアーカイブ…についたローマ字に直したマンジュ語漢語版から拾った漢字との対応表でも作っておくかと…。

《欽定宗室王公功績表傳》⇒Hesei toktobuha uksun i wang gung sai gungge faššan i iletun ulabuni
◇巻一 表一 親王 郡王⇒Iletun i uju. Cin wang. giyûn wang

◇巻二 表二 貝勒 貝子 鎮國公 輔國公 以罪黜宗室貝勒⇒Iletun i jai. beile beise gurun be dalire gung gurun de aisilara gung Weilei turgunde uksun i dangse ci tucibuhe beile

◇巻三 傳一 親王⇒Ulabun i uju. Cin wang
和碩禮親王・代善:Hošoi doronggo cin wang Daišan i ulabun
和碩英親王・阿濟格:Hošoi baturu cin wang Ajige i ulabun

◇巻四 傳二 親王⇒Ulabun i jai. Cin wang
和碩睿親王・多爾袞:Hošoi mergen cin wang Dorgon i ulabun

◇巻五 傳三 親王⇒Ulabun i ilaci. Cin wang
和碩豫親王・多鐸:Hošoi erke cin wang Dodo
和碩肅親王・豪格:Hošoi fafungga cin wang Hooge
和碩承澤親王・碩塞:Hošoi kesingge cin wang Šose

◇巻六 傳四 親王⇒Ulabun i duici. Cin wang
和碩鄭親王・濟爾哈朗:Hošoi ujen cin wang Jirgalang

◇巻七 傳五 親王⇒Ulabun i sunjaci. Cin wang
和碩敬謹親王・尼堪⇒Hošoi ginggun cin wang Nikan
和碩穎親王・薩哈璘⇒Hošoi sure cin wang Sahaliyen
和碩端重親王・博洛⇒Hošoi jingji cin wang Bolo

◇巻八 傳六 郡王⇒Ulabun i ningguci. Giyûn wang
多羅通達郡王・雅爾哈齊⇒Doroi hafuka giyûn wang Yarhaci
多羅饒餘郡王・阿巴泰⇒Doroi bayan giyûn wang Abtai
多羅克勤郡王・岳託⇒Doroi kicehe giyûn wang Yoto
多羅謙郡王・瓦克達⇒Doroi gocishûn giyûn wang Wakda
多羅順承郡王・勒克徳渾⇒Doroi dahashûn giyûn wang Lekdehuni

◇巻九 傳七 貝勒⇒Ulabun i nadaci. Beile
和碩貝勒・阿敏⇒Hošoi beile Amin
多羅誠毅貝勒・穆爾哈齊⇒Doroi cing baturu beile Murgaci
多羅篤義貝勒・巴雅喇⇒Doroi joriktu beile Bayara
多羅廣略貝勒・褚英⇒Doroi argatu tumen beile Cuyeng
多羅貝勒・芬古⇒Doroi beile fiyanggû
多羅安平貝勒・杜度⇒Doroi elehun beile Dudu
多羅貝勒・察尼⇒Doroi beile Cani
多羅貝勒・哈爾楚渾⇒Doroi beile Kalcuhûn
多羅貝勒・巴思哈⇒Doroi beile Basha

◇巻十 傳八 貝子⇒Ulabun i jakûci. Beise
固山貝子・務達海⇒Gûsai beise Mudahai
固山貝子・博和託⇒Gûsai beise Bohoto
固山貝子・固爾瑪渾⇒Gûsai beise Gûlmahûn
固山貝子・洛託⇒Gûsai beise Loto
固山貝子・傳喇塔⇒Gûsai beise Fulata
固山貝子・穆爾祜⇒Gûsai beise Murhu
固山貝子・特爾祜⇒Gûsai beise Terhu
固山貝子・薩弼⇒Gûsai beise Sabi
固山貝子・蘇布圖⇒Gûsai beise Subutu
固山貝子・温齊⇒Gûsai beise Unci

◇巻十一 傳九 鎮國公 輔國公⇒Ulabun i uyuci. Gurun be dalire gung. gurun de aisilara gung
鎮國公・阿拜⇒Gurun be dalire gung Abai
鎮國公・巴布泰⇒Gurun be dalire gung Babutai
鎮國公・漢岱⇒Gurun be dalire gung Handai
鎮國公・恭阿⇒Gurun be dalire gung Gungga
鎮國公品級・屯齊⇒Gurun be dalire gung ni jergi Tunci
輔國公・塔拜⇒Gurun de aisilara gung Dabai
輔國公・頼慕布⇒Gurun de aisilara gung Laimbu
輔國公・瑪瞻⇒Gurun de aisilara gung Majan
輔國公・穆布爾善⇒Gurun de aisilara gung Bamburšan
輔國公・巴爾堪⇒Jakûn ubude dosimbuhakû gurun de aisilara gung Barkan
輔國公品級・扎喀納⇒Gurun de aisilara gung ni jergi Jakana

◇巻十二 傳十 以罪黜宗室貝勒⇒Ulabun i juwanci. Weilei turgunde uksun i dangse ci tucibuhe beile
和硯貝勒・莽古爾泰⇒Hošoi beile Manggûltai
多羅貝勒・徳格類⇒Doroi beile Degelei
多羅貝勒・拜音圖Doroi beile Baintu
多羅貝勒・碩託⇒Doroi beile Šoto
多羅貝勒・延信⇒Doroi beile Yansin

 それにしても、ベルリン州立図書館、他にもマンジュ語文献サラッと公開してくれてるんですが、何やってくれてるんですかね…。
おまけに、Uksun i wang gung sai gungge faššan be iletulere ulabun = 宗室淸文王功續表傳 5卷iiとかいうのも別にあって、これは編者が二十四阿哥允秘になってたりするんですが何ですかこりゃ…。1765年作成となってるから、乾隆30年ってコトになるけどそういや二十四阿哥は乾隆38年まで存命だったからありえるんですねぇ…。

  1. Digitalisierte Sammlungen der Staatsbibliothek zu Berlin 欽定宗室清文王公功績表傳》12巻 [戻る]
  2. 宗室淸文王功續表傳 [戻る]
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