江と戦国と大河
と言うワケで小島毅『江と戦国と大河 日本を「外」から問い直す』光文社新書 を読みました。……ホント、小島センセ中国史の本より日本史の本の方が多いですねぇ…。
宣和堂の節操のない日記
と言うワケで小島毅『江と戦国と大河 日本を「外」から問い直す』光文社新書 を読みました。……ホント、小島センセ中国史の本より日本史の本の方が多いですねぇ…。
というわけで、先週末に思いついて鎌倉に行ってきたので写真撮ってきました。今回は去年の夏も行ったコースですが、金沢街道沿いに覚園寺→鎌倉宮(大塔宮)→瑞泉寺を歩きました。去年はコレに百八やぐら=首やぐらも巡りましたから短縮したんですが、それでも歩きましたね…。
本来的には紅葉の名所と知られるこのあたりで、紅葉狩り~と言う趣向だったのですが、時期が遅かったこともあり今ひとつ…。まあ、京都の東福寺みたいなのを勝手に想像してた自分が悪いんですが…。
と、まずは覚園寺です。このお寺、鎌倉に残るお寺の中でもダントツで古いお寺なので自分は大好きなんですが、残念ながら境内の大半は撮影禁止となってます。とても残念ですが仕方ない。
覚園寺は元々は二代執権・北条義時の建てた持仏堂=薬師堂と言われています。例の実朝暗殺の時に薬師十二神将の戌神将が夢に現れて助けてくれたというので、恩に感じた義時が創建したと言われています。と言うコトで覚園寺境内は北条義時の大倉邸の跡地である可能性が高い場所ですね。源頼朝の大倉御所の近くにあったという話ですが、まあ、結構離れてます。
義時没後、源氏将軍が三代で途絶えて藤原将軍を迎えるに当たって、御所も宇都宮辻子御所に移転されたので、執権邸も小町邸(現在の宝戒寺周辺)に移りましたが、その後も特に北条得宗家の尊崇を集め、九代執権・北条貞時の時に外敵退散を祈念して覚園寺として整備されたようです。
と、覚園寺はその後の鎌倉幕府滅亡の頃に火事で焼失します。その際に再建したのが足利尊氏で、現在も薬師堂にその名が書かれています。江戸時代に改築に近い大修理を受けているとは言いますが、他の寺院に比べれば由緒は古いと言えるでしょう。
参考→ Wikipedia覚園寺
特に鎌倉宮の土牢はちょっと怪しいですからねぇ…。由来からしてテーマパークみたいな感じなんですよねぇ…。今回初めて見たんですが、やっぱり違うんじゃないかなぁ…という感想を新たにしましたww
鎌倉行ってもあんまり八幡宮って行かないんですが、何となく大銀杏のその後が気になって立ち寄ってみました。境内では屋台が出ていて、ぎんなんが売られていたのが印象に残りました。
いや、また行きたいですね!
さて、前回、東塔地区からヘロヘロになりながら帰ったところまで書きました。今回はケーブルカーで東坂本に降りてからです。今回もこの本を参考にしました。
と、本題に行く前に東坂本に降り立った際に、元三大師のお廟?の近くを通りかかりました。延暦寺横川地区には本格的なお堂があるみたいですが、誰をお祀りしているのかというと天台宗中興の祖を祀っているわけです。
皆さんご存じのように、比叡山延暦寺の開山は伝教大師・最澄です。入唐僧・最澄の尽力によって、比叡山に延暦寺が創建され、最澄の死語間もなく延暦寺に戒壇が設けられるに至ったわけですが、それだけでは中世に延暦寺が勢力を持たなかったと言われています。
こと寺院経営については、むしろ最澄よりも元三大師・良源の功績が特に強いと言われています。今でこそ元三大師って誰よ?って感じデスが、中世における魔除け厄除けと言えば角大師・良源なワケで庶民に圧倒的な人気を持っていました。立派なお坊様であったはずなのに、やせこけた鬼のように図象化された元三大師のお札を見ていると…なんだか心沸きますね。
中世に大師(ダイシ)信仰と呼ばれるムーブメントがあったわけですが、この信仰は聖徳太子や伝教大師ではなく元三大師を祀ったモノであったと言われています。もっとも三人に対する信仰が混交された状態での大師信仰だったようですが…。あと、元三大師はおみくじを考案した…と言うコトになっていますね。
この人物については、付け焼き刃の知識で自分もよく分かってないのでこちらを参照して下さい→良源 – Wikipedia
と、漸く本題です。今回は日吉大社です。
日吉大社…読み方は現在ではひよしたいしゃと読みますが、中世ではひえたいしゃと読んだみたいですね。もともと比叡山も『古事記』では日枝山(ひえのやま)と呼ばれているので、この地域一帯をひえと呼んだんでしょうね。
で、比叡山延暦寺が山の上にある寺院で、その麓にある神社が日吉大社ですから、無関係なわけが無く、むしろ中世に於いては一体というか比叡山の出先機関のような様相を呈したようです。
比叡山が朝廷に要求を通すことを強訴と言いますが(内容は大体、他の神社仏閣との利権争いであることが多い)、その際に必ず先頭を切るのが日吉大社の御神輿です。中世に於いては天皇始め公家も武士も神仏を恐れました。崇めるべき神と言うよりは畏怖すべき神なのです。
お祭りでもないのに日吉大社から御神輿が移動して入京する…というのは不動であるべき神座が移動する状態ですから、一言で言うと怪異です。異常事態です。朝廷は御神輿が京都に入ること、内裏に近づくコトを殊の外恐れ嫌ったために、比叡山の強訴を渋々聞くこと一度ではありませんでした。ちなみに下の写真は東本宮にあった御神輿です。
実は、中世に於いて神仏を恐れないのは、その信仰の中心にいたはずの神社仏閣に属する堂衆や神人と呼ばれる平民出身の人々です。かれらは時には朝廷から財貨を得るために、自ら御神輿を血で穢して棄却したそうです(絢爛豪華な御神輿の再建のために朝廷が結局は財政的な負担をせざるを得ない)。現世利益のために敢えて御神輿を穢すのですから、どこからどう見ても神をも恐れぬ行為ですね。俗人が同じコトをすると、もの凄い批判を受けるわけですが、神社仏閣に属する人が自ら行う分にはお咎めはありません。コレが中世という時代ですね。
中世の世界で一番迷信から遠かったのは、実はこれらの人だったという皮肉ですね。ちなみに御神輿は日吉大社がその発祥の地…と言います。東坂本にある日吉大社から比叡山を経由して西阪本に通じる雲母坂を下るのが、当時の御神輿強訴コースのメインストリートだったと言いますから、あの足場の悪い雲母坂をこの大きくて豪華な御神輿を背負って降りたのか!と思うと感慨深いですね。目を見張ります。
と、ちょっと順序が逆になりましたが、自分が行った当日、西本宮のあたりは何かを燃やしているのか神社が煙っていてなかなか荘厳な雰囲気でした。
さて、日吉大社が中世に於いて絶大な信仰心を持っていたというお話をもう一つ。藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社現代新書 によると、講談などで織田信長にサルという愛称で呼ばれたと…されている豊臣秀吉ですが、実は信用のおける資料ではハゲネズミとは呼ばれているモノのサルとは呼ばれていなかった…と言います。むしろ、豊臣秀吉が天下を取ってから、信長公旗下にあった時には、サルと呼ばれて罵倒されたと吹聴した…まあ、事実を捏造した…っていうことでしょうかね。
何故ハゲネズミではなくサルなのか?と言うと、日吉大社の神使がサルだから…と言う説明がされています。稲荷神社の神使が狐みたいなものだと思って下さい。
秀吉は自分で天皇の御落胤説を流したように、自らの政権の正当性を補強するために、日吉大社の神威を借りたと言うコトみたいです。と言うコトで、この豪勢な門のサルこそが秀吉が権威を借りたがったサルなワケですよ。
まあ、神域にいると成る程納得の神々しさではありました。眼福。
天皇も恐れた神威ですから、当然天皇側もその神威を支配下に置きたがり、後白河天皇は新日吉神宮(いまひえじんぐう)を創建して御用神社とします…。
後白河天皇の天下三不如意に対する対策なんでしょうが、その後も相変わらず比叡山の強訴は起きていて、日吉大社の御神輿は内裏を脅かすのでその効果のほどは疑問ですね…。
比叡山に比べると全然人は少なかったんですが、ナカナカ良い感じの境内でした。東本宮では結婚式が行われてましたから、結構人はいましたが…。
あと、何故か神獣が社殿の縁側?に鎮座されていて、ソレが妙に目に着きました。ココの境内の社殿はみんなこんな感じだったんですが、何でですかね?
境内も整理されてて気分が良かったです。
日吉大社の境内のすぐ横に比叡山に抜ける無動寺谷の道は、正直逢魔が時には通りたくない感じの道でした。雰囲気満点ですね。
いや、実に充実しましてデス!また勉強して上りたい!w
さて、今回も以下の本に従いながら比叡山に上ります。
前回は比叡山境内としては、ケーブルカーに乗ってロープウェイに乗って雲母坂を下ってきただけで、実は前回は伽藍が全く出てきてません。
ご存じの通り、比叡山は元亀2(1571)年、織田信長に焼き尽くされてます。歴史は古いわけですが、建物はそう古いわけではありません。当然、これから紹介する建物も基本的には江戸以降の再建となります。
で、信長の比叡山焼き討ちの際に不邪淫戒…というか比叡山境内に女性が生活していたことが、信長に比叡山攻めの口実を与えたと言います。現在的な感覚で言えば、一身を仏に捧げたはずの出家者たる僧侶が女性と…しかも大寺院の境内で生活していると言うコトは抵抗があると思います。
が、もともと比叡山に限らず、当時の大寺院には女性が多く生活していましたし、そもそも座主と言われるような身分の高い僧侶は妻帯していて、中には代々名門と言われる寺社の座主に収まる家系も出てきます。つまり、出家者のハズの僧侶が、有力寺社の座主という地位を世襲したわけです。しかもコレが異端の宗派ではなく、中世では随一の勢力を誇った延暦寺や園城寺(三井寺)での話です。しかも、コレが当時非難されるコトはなく、むしろ僧侶の娘が貴族に嫁入りまでしていますから、座主のような地位の高い僧侶は貴族と同等のクラスにいると考えられていた…と推測されます。
自分としては、特定の寺院の座主を特定の家系が世襲したわけではない…というあたりに引っかかりは感じるのですが、同格の寺院の座主を同じ家系の僧侶ばかりが占めている…という状態だったようですね。
先に挙げた本では保元の乱で後白河天皇のブレーンであった信西(藤原通憲)に始まる家系は、その際たる例であるとされています。
とはいえ、信長のように、この矛盾を突いて大義名分にして、仏教を弾圧しようとする人は昔からいたようです。師である法然が弾圧される様を見て、親鸞は僧侶の妻帯を大々的に認め、コレを明文化するわけです。親鸞の偉業は人間としての業を認めた点ではなく、事実上行われていた僧侶の妻帯を堂々と追認した点にあるというわけですね。
今日では浄土真宗に限らず、お坊さんは妻帯されている方は当然おられますし、大部分のお寺では住職は世襲されているわけですから、昔からこんなモンだったと思えば想像もしやすいかと思います。
話は変わりますが、中世、比叡山は技術者が集うテクノクラートの街としても栄え、朝廷も武士も大がかりな建築は寺社に属する技術者に依頼するほかになかったようです。事実、戦国時代に描かれた各種の洛中洛外図では、寺社は敷地が広く、屋根は瓦葺きであったり銅葺きであるのに対して、内裏や将軍御所などは敷地が狭く、屋根は檜皮葺き…と言う状態なのもそういった事情からです。
以上の事情から、戦国大名が築城する際も寺社の技術者が関わったと考えられています。比叡山には堅牢な石垣があちこちに見受けられますが、どうやら中世の山城として石垣を持つような建築は、この比叡山をもってその元祖とすべきだと言われています。
実際何度も外敵に焼き討ちされても居ますが、何度も撃退しても居ます。要塞都市と言われる鎌倉は、実は要害としての役には立っていなかった…というのは最近の研究書では統一した見解なので(鎌倉幕府滅亡時も結局新田義貞の挙兵から一ヶ月も経たずに落とされてます)、実は比叡山の方が余程か要塞都市だったと言えます。
あと、延暦寺が中世一貫として宗教的権威を保ち続けたのは、この戒壇院を持っていたからですね。僧侶となるには必ず菩薩戒(僧侶として守るべき戒律)を受けなければなりませんが、授戒を行う戒壇院は日本国内では一時、天下の三戒壇と比叡山の大乗戒壇のみだったからです。受戒をしていなければ私度僧として罰せられるわけですから、戒律壇を所有している寺院にはそう逆らうわけにはいきませんよね。
まあ、この辺も貴族や武家出身の学侶身分だけの話で、一般民衆出身の堂衆身分の人たちが菩薩戒など受けていたのか?と言うとそんなコトはなさそうですから、戒壇院があることが民衆に対して意味は持たなかったかも知れないですね。ただ、皇室や貴族に対しては大いに意味があったことでしょう。
で、その巨大な比叡山の中心は、伝教太師・最澄が建立した一乗止観院の後身である根本中堂(こんぽんちゅうどう)です。
信長に限らず延暦寺と敵対した勢力(朝廷や武家だけでなく、むしろ他の寺社勢力)に何度も焼かれています。今の建物は信長の叡山焼き討ちの後、江戸時代に徳川家光の発願で再建された建物です。流石に気合いの入った再建でこの建物自体が国宝指定を受けています。根本中堂内部は撮影が禁止なので、外側からです。
中側もかなり荘厳で、流石は国宝という威圧感がありました。勿論、伝教大師・最澄によってもたらされたという、不滅の法灯も中に安置されていました。当番決めたり交換時間決めたらそこから油断が生じるのよ!油断大敵ぃ!…という、ありがたい解説も頂きました。
境内はかなり広い上に、自分の好物である苔がそこら中に生えててナカナカの雰囲気でございました。ただ、広大すぎて東塔地区しか回れませんでした…。全部回ろうとすると体力的にも2~3日必要かと…。
昼過ぎには快晴だったので、東坂本側から琵琶湖がよく見えました。これだけ近ければ琵琶湖の漕運を制御することはむしろ当然とも言えますね…。琵琶湖漕運に加えて京都までの輸送手段である馬喰も比叡山の影響下にありましたから、商業という特性上、近江商人も比叡山の制御下にあったのではないかと…というか元々比叡山の荘園から近江商人が出てきたんなら無関係ではないのか…むしろ一体と考えて良いんですかね?
と、東塔地区を後にして、坂本ケーブルに乗って東坂本に降りるのです。まだ続くんですなw
と、連休で帰省したのでついでに比叡山上ってきました。と言うのもここ数年、この本を読んで以来、自分の中で比叡山が熱かったからです。
どういう本かというと、中世は武士とか貴族じゃなくて、寺社勢力!中でも南都北嶺と言うよりむしろ比叡山が中心にいたんだよ!と言う内容の本ですね。何しろ比叡山の門前町は近江坂本じゃなくて京都洛外だ!と主張するわけです。ええ~そんなコト言ったって京都からどれくらいの距離だっけ?と急に気になったわけです。
まあ、言う程掛からないですよね。今回はこの本によると、比叡山の正面玄関は西阪本!雲母坂がメインストリートである!という話なので、京阪出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅に…更にそこから叡山ケーブル→ロープウェイと乗り継ぎました。まあ、ロープウェイだと時間掛かりませんが、凄い勾配です。普通に登山客が多かったので、やはりお山です。
前日まで雨が降っていたので、ものすごい勢いで煙ってました。普通に山岳信仰沸いてきますね…。
中世、叡山僧は強訴の為に、この雲母坂(きららざか)を度々下ったと言います。日吉社の神輿を担いでこの坂を下ったというので、もっと太い路だと思ったのですが普通に山道です。
ちなみに雲母坂の名の由来は、この坂には雲母質の石が多いことから…と言う説がありますが、成る程、矢尻でも作れそうな石が多かった様に思います。
中世では本地垂迹説に従って、比叡山の麓にある西阪本にある日吉社(ひえしゃ・ひよししゃ)は比叡山と一体化していたのですが、何事か朝廷と揉めたり貴族と揉めると、叡山僧は神輿を持ち出して、自分たちの要求を通そうとしました。貴族だけではなく、皇室も武士も動かぬはずの神輿が動くという怪異を恐れ、大体の要求は神輿を動かすことで通しています。
ちなみに御神輿の元祖は、この日吉社の神輿と言われています。政治的な運動が正にお祭りとして熱狂を発散する場であったのだ!と考えると感慨深いですね。
勿論、比叡山の位置は京都の北東、つまり艮=鬼門にあり、交通の観点からも京都の東の玄関口…要衝であった為、鎮護国家の重責を担っていました。要するに呪術的に首都を守る存在であったわけです。宗教的な権威はコレによって否応にも上がったことでしょう。
宗教的・呪術的権威に加え、中世では、比叡山は琵琶湖の漕運や、当時の穀倉地帯である北陸方面の輸送手段である馬喰(馬による陸上輸送)を独占されていたため、比叡山なくして京都は日常生活を送ることさえ不可能だったとまで言われています。実際、南北朝時代や戦国時代に於いても、比叡山と敵対した勢力が京都を長期に渡って影響下に置くことは難しかったようです。
先に挙げた本では、比叡山が中世において権勢を誇ったのは、洛外にある祇園社を勢力下に置いて、洛外の商工業の殆どを比叡山のコントロールしたことに原因があると見ています。
当然、比叡山僧も比叡山ばかりではなく、洛外に於いて活躍することが多かったようです。特に室町以前は商工業者に租税がかけられていませんでしたから、当時の日本では随一の人口を誇る京都の富が、比叡山に集中したと言うことになります。
比叡山が中世に於いて影響力を発したのは、宗教的・呪術的な権威もさることながら、むしろ経済力が圧倒的だったからこそ発揮し得たモノの様ですね。
比叡山の主である天台座主も、普段は雪深い比叡山山中ではなく、洛外でぬくぬく生活しており比叡山で問題が発生した際に駆けつける…というような状態だったようです。
マダマダ先は長いんで以後益々続きます。