楊家将徒然

 というわけで、何となくTwitterで絡んでいる時に楊家将のドラマの話になりってですね…。日本語で楊家将を知ろうとすると、北方楊家将しか無いよねぇ…等という話になりまして。まあ、悪くはないけどどうもバイアス掛かりすぎで…って感じでして。まあ、それでも楊家将を知る手がかりってそうないよねぇ~と言う話をしていて検索掛けたら自分が過去に書いて吹っ飛ばした記事にリンク貼ってあったりですね…。いや~バックアップ取ってない文章だったので些か困りました。サルベージもできそうにないですねw
 そんなわけで、自分も楊家将は好きなので、折角だから思い出しがてらまとめてみようかなぁ…と思った次第。

 まず、楊家将サガが三国志ほどメジャーでないのは、まぁ…色々理由はあると思いますが、やはり決定的なテキストがないって当たりですかね…。
 現在楊家将演義と称されているテキストには大きく分けて二種類あります。これに講談やら京劇やらドラマやらの独自展開があって、内容についても様々なバリエーションがある上、第二世代第四世代以降の兄弟の人数や構成についてもマチマチです。また、大本の二種類のテキストでは結末が大きく違うのでこれもまた厄介です。
 それに、京劇では楊家将と言えば穆桂英!と言うくらいキャッチーなアイコン的キャラがいますが、テキストではそんなにウェイトが高いわけではありません。おそらくキャラが成熟しきった頃に成熟しきったテキストが出て来なかったモノでしょうけど、これでは折角京劇を見て興味を持った層がテキストを読んでもガッカリすること請け合いですね。
 それに、基本的には「報われない忠臣一家の話」なので、各世代ごとに基本的にバットエンドです。配役が変わるだけで結構既視感の強い展開であることは否めないですね。まあ、バットエンドが連続するワケなので、読んでいてハリウッド的なスカッと感に欠けます。まあ、これが売りなんで仕方が無いことではあるんですけど。
 あと、中国の古典小説は大河モノの場合はよく転生譚から始めるモノが多い中で、これは珍しく人間の物語として始まるわけですが、途中で《東遊記》と被る仙人の妖術合戦が入ってきます。三国志でも妖術合戦はありますが、どちらかというと水滸伝並みに前面に出て来る感じなので、ストイックな感じは薄れますね…。
 あと、明確な敵を設定出来なかったことも弱点だとは思います。第一世代第二世代契丹(遼)という圧倒的な敵が存在しますが、澶淵の盟締結後はこれを設定することが難しくなり、西夏に設定したり当時存在しなかった西番・新羅にしたりするわけです。
 水滸伝なら梁山伯全滅に向けたカタルシス、三国志なら蜀漢の滅亡、三国時代の終焉や諸葛亮の死といったカタルシスを結末に設定出来ますが、楊家将はそれを設定することが難しいわけです。個人的には穆桂英の事績を若い頃の佘塞花のエピソードにしちゃって、対契丹、対後周北宋のエピソード増やして、四郎失踪を北漢滅亡に繰り上げて、最終点を楊業の死と六郎による楊家府再興にするか、若しくは、寡婦西征澶淵の盟の後くらいに設定すればスッキリするのになぁ…と思ったりするんですがねぇ。

 ただ、楊家将の影響というのはバカに出来ないモノがあります。
 古いところでは《水滸伝》に登場する青面獣楊志楊家将の祖である楊業の後裔という設定です。後半に登場する十節度使闌路虎・楊温楊志とは別系統のようですが、楊家将の末裔という設定です。もっとも、彼自体は水滸伝よりも先に世に出た講談のヒーローだった様ですねi
 更に、《説岳》に登場する楊再興楊業の後裔という設定です。もっとも、楊再興は実在の人物で《宋史》にも伝はありますがii、特に楊業とは関係ない血筋のようです。
 あと、更に言えば金庸の小説《射鵰英雄伝》に登場する楊鉄心楊再興の曾孫…つまり、楊家将の末裔で得意技は楊家槍と言う設定になっています。なので、彼の偽名が穆易なのも、楊四郎木易と名乗ってからの伝統ですiiiw
 と言うコトで、血縁的には完顔康…つまり楊康楊家将の末裔なワケです。この辺は、忠臣として名高い楊家将の末裔が完顔を名乗り夷狄に与している!という仕掛けなんですね。正しく作用している設定とは言い難いと思いますが…。もっと自分の血筋と、育ててくれた完顔洪烈への恩との間で悩むようなドラマツルギーがあればよかったんでしょうけどねぇ。
 というわけで、楊康楊家将の末裔なら当然、《神鵰侠侶》の楊過楊家将の末裔です。ジュシェンの狗として死んだ親から、対モンゴル戦の英雄が生まれるという話になってるわけですね。

 と、あらすじ書く際の枕を書こうとしたら存外長くなったので、あらすじはまたの機会と言うコトで…。

  1. 《清平山堂和本》〈楊温闌路虎伝〉 [戻る]
  2. 《宋史》巻三百六十八 列伝第一百二十七 楊再興 [戻る]
  3. 木と穆は音通。穆桂英もテキストの方では木桂英と表記されてます [戻る]

辮髪の変遷

 と、久しぶりに辮髪ネタです。以前、金銭鼠尾と言う記事で、辮髪の変遷について触れました。うーん、正直あそこで書かれたような具合に変遷してきたかというと、疑問は残ります。というか、事実とは違うのではないかという気がしています。
 と、以下に参考資料をズラズラ上げてみましょう。

 まず、前期とされる時期の絵画資料デス。

 ダイ・チングルン…というかマンジュ・グルン建国当初の基本資料である所の所謂《満洲実録》です。

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分i


 いきなり生首で恐縮ですが、絵入りの史料にもかかわらず意外と辮髪を真正面から書いた絵が少ないです。基本的に帽子を被るのが満洲旗人の嗜みですから、事実がどうあれ絵画に描かれるのは帽子なり兜を被った状態のモノが殆どですねぇ…。まあ、自分も手元に史料を持っているわけではないので他の確認が出来ていないので何とも言えませんが…。
 絵はヌルハチに敵対したジュシェン(女真)の実力者・ニカンワイランの首級をヌルハチが検分しているところです。敵対していたとはいえジュシェンですから、当然辮髪ではありますが、所謂ラーメンマン辮髪かというとそうは見えませんね…。
 精々があの記事で主張するところの中期あたりの辮髪と言うことになるでしょうか?

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分ii


 同じ絵から他のサンプルを見繕ったモノの…あまりよく分かりません。でも、所謂ラーメンマン辮髪ではないように思えます。頭のてっぺんではなく、後頭部の毛を残す感じデスよね。

《満洲実録》〈生擒哈達部首領図〉iii


 もう一つ、違う絵から見つけてみましたが、やはりよく分かりません。この人もアイシンギョロの人ではなく、ハダの人ではありますが、ジュシェンには違いないので良しとしましょう。
 ただ、《満洲実録》は起源は古いモノの、乾隆年間に再編されたモノなので、絵自体も当時の風俗ではなく乾隆年間風俗を反映している可能性はあるわけですが…。

〈胤禛読書像〉iv


 で、意外と辮髪の画像史料というのがパッと出て来ない…ので、いきなり雍正帝の肖像まで跳びます。雍正帝即位前の肖像なので、正確には皇四子和硯雍親王胤禛の肖像という所ですかねぇ…なので、正解には雍正年間ではなく、康煕年間の風俗として捉えるべきでしょう。勤勉なイメージに反して皇帝の肖像自体はコスプレシリーズもの含めて多く残している印象があります。
 で、ココで強調されているので尚更気がつくわけですが、あんまり剃りが綺麗じゃないようですね。前の《満洲実録》の挿絵もそう言えば剃り跡を強調しています。皇族自ら辮髪鉢巻きしている珍しい画像でもありますが、映画みたいに太々しい辮髪でも無いようです。成る程貧弱な模様ですね。まあ、雍正帝は勉強好きでしたし、後継者争いで勤勉アピールする必要もあったかも知れないので、ちょっとやつれている具合に辮髪伸びてるところの肖像画を描かせたという可能性はあるわけですが…。
 で、辮髪鉢巻きが出来るくらいなので、やはり頭のてっぺんを残すような辮髪ではないようですね。どうにもあの説は眉唾です。

〈塞宴四事図〉(部分)v


 で、次は中期とされる時期である乾隆年間のサンプルです。乾隆帝満洲特有の風俗を復興させようという意図が見える絵画の中に出て来る辮髪なので、もしかしたら差し引いて考えるべきなのかも知れませんが、やはり頭のてっぺんではなく、後頭部の拳大の箇所を残した辮髪です。ナカナカ興味深いですね。さらに興味深いのは、残す部分以外は綺麗に剃り上げてますね。サンプルが少ないので何とも言えませんが、むしろおしゃれです。

〈乾隆帝八旬万寿図巻・城市商貿〉之一(部分)vi


 で、これも乾隆年間の絵画ですが、これは乾隆帝の八十歳記念のパレードの様子を描いた絵画ですが、市井の人々も書かれています。漸く市井の人々が後頭部から生やした毛を辮髪にしているのが確認が取れました。

 うーん…やっぱり絵画資料からはラーメンマン辮髪はあんまり見られないかも…。というか、頭のてっぺん残すという辮髪は写真資料で見たこと無いカモですねぇ…。とはいえ、清末のように多くの部分を伸ばすスタイルは存外時代を下らないと散見されないのではないか?という仮説にはたどり着けたかとは思います。でも、このサンプルだけでは何とも言えませんね…。と言うワケで、探求という名の旅は続くのでした…(以下資料を追い続ける旅に出るのです…)

  1. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  2. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  3. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.45 [戻る]
  4. 《清史図典》第五冊 雍正朝 P.7 [戻る]
  5. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上P.22 [戻る]
  6. 《清史図典》第七冊 乾隆期 下P.326 [戻る]
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