北齊の乱倫
と言うワケで、昨日ちょっと書いた《廿二史箚記》 1の北齊の乱脈~と言う個所を拾い読み。
史書に載ってる皇帝であるところの誰が、誰それの妻に手を出したとかなんとか、結構ゲンナリする記事が続いて長い…ので、途中から端折って紹介。
北齊宮闈之醜
(前略)
如神武在時,鄭妃已通於文襄,及歿後,蠕蠕公主亦為文襄所烝。
而文襄后又為文宣所污。
文宣后又為武成所污。
甚至武成后胡氏當武成時已與閹人褻狎,又與和士開握槊,遂通士開。武成崩後,后數詣佛寺,與沙門曇獻通,僧徒至戲曇獻為太上。後主聞太后不謹而未之信,見太后有二尼侍,召之,則男子也,於是尼及曇獻俱正法。齊亡後,胡后入周,恣行奸穢。
孝昭帝在位時,尚無穢行,其后王氏,齊亡後,亦入周宮中,隋文帝作相,始放還山東。
後主緯於宗族中,尚無帷薄之醜,史謂其稍優於武成。(中略)
觀後周諸帝后,當隋革命後,俱無失節者。孝閔帝后元氏出居里第。武帝后阿史那氏至開皇中殂。又后李氏出家為尼,改名常悲。宣帝楊后,隋文帝女也,帝欲奪其志,不許。又有四后:朱氏、陳氏、元氏、尉遲氏,皆出家為尼,朱名法淨,陳名華光,尉遲氏名華首,皆完節待死,絕無醜聲,良由宇文泰開國時,早能尊用周禮,家庭之內,不越檢閑,故雖亡國而無遺玷,然則整飭人物之主,可不納身於軌物哉!
《廿二史箚記》巻十五
それでも長い…。前半を読むと、神武帝・高歓は北魏後宮から気に入った后妃を片っ端から手籠めにしてったみたいですね。まあ、これだけなら英雄色を好むのねぇ~で済むんですが、文襄帝・高澄は高歓の生前から高歓の寵姫と密通していて、その死後には別の寵姫に手を出したと…。更に高澄の死後は文宣帝・高洋が兄の妃に手を出し、文宣帝が死ぬと武成帝・高湛がその妃に手を出しまくるという…まあ、レビレート婚だと解釈すればなんてこと無いんですが、文宣帝は高澄の妃に手を出したときに「兄昔姦我婦,我今須報。(昔、兄者はオレの女を犯しやがったから、今、オレが報復してるんだよ!)」等と言ったと史書に記載されているので、なんというか、そう言う枠組みにははまりきらないドロドロした感じがありますね…。
で、意外にも人間的にはもっともダメ人間的なイメージのある後主・高緯は性的には案外この乱倫の外にあったみたいですね。意外です。
更に、北周は北齊のこういった乱行とは無縁で、北周の后妃は概ね出家して尼になってたりするようですね…。まあ、節を守った云々…というのは後世から見た評価でしょうからこの辺はスルーするとしても、この次の条を読むと、北齊皇室とその臣下の間の空気の違いを感じますね…。
北齊百官無妾
元孝友傳:疏言將相多尚公主,王侯率娶后族,故無妾媵,習以為常,舉朝略是無妾,天下殆皆一妻。(後略)
《廿二史箚記》巻十五
で、北齊皇室の乱倫に対し、北齊の百官は公主を敬い、皇后の一族を競って娶ったので、側室を置く風習がなく、殆ど一夫一婦制だったようですね。
こう見ると、やっぱり北齊皇室の度を超した好色は、北齊朝野にはどうやら違和感があったらしく、むしろ北周皇室のストイックな風紀の方がしっくりいったんじゃないかなぁ…と言う結論に趙翼は誘導したいんですかねぇ…。
でも、圧倒的優位にあった北齊が瓦解した原因の一つではあるんでしょうねぇ…。まあ、逆にここまで空気読めない好色であっても、軍事面を掌握して戦果を上げていれば北齊は盤石だったんですよねぇ…。