愛新覺羅宗譜

 ネットでツラツラ検索していて、《愛新覚羅宗譜》についての記事を見つけたので、リンクを上げときます。

愛新覺羅宗譜─台灣Wiki

 内容に関してどの巻にどの系譜が載っているのか、ザッと載っていたので抜き出してみます。

學苑出版社1998年影印本31冊分卷內容如下:
甲冊1-4: 德宗景,穆宗毅,文宗顯,宣宗成,仁宗睿,高宗純,世宗憲,聖祖仁,世祖章,太宗文皇帝位下之子孫。
乙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第1子貝勒褚英,第2子親王代善,第3子鎮國公阿拜之子孫。
丙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第4子鎮國將軍湯古代,第5子鎮國莽古爾泰,第6子輔國公塔拜,第7子親王阿巴泰,第9子鎮國公巴布泰,第10子鎮國德格類,第11子鎮國巴布海,第12子鎮國阿濟格,第13子輔國公賴慕布,第14子親王多爾袞,第15子親王多鐸,第16子費揚果之子孫。
丁冊1-4: 顯祖宣皇帝位下第2子貝勒穆爾哈齊,第3子親王舒爾哈齊,第5子貝勒巴雅喇之子孫。
丁冊5: 玉牒之末:太宗文皇帝位下第1子武肅親王豪格之第5子溫良郡王勐峨之第3子延信此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第1子廣略貝勒褚英之第1子安平貝勒杜度之第6子追封懷愍貝子杜努文之第1子蘇努此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第1子克勤郡王岳托支下奉恩將軍興瑞之第1子全亮比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第2子碩托此比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2禮烈親王代善之第3子穎毅親王薩哈之第1子阿達里此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第6子輔國厚公塔拜之第2子額克親之第6子額爾濟圖此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第7子饒余敏親王阿巴泰之第4子安郡王岳樂之第19子務爾占此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第5子莽古爾泰此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第10子德格類此支降為紅帶子。
戌冊1: 景祖翼皇帝位下:第1子武功郡王禮敦巴圖魯,第2子多羅慧哲郡王額爾袞,第3子多羅宣獻郡王齋堪,第5子多羅恪恭貝勒塔察篇古之子孫。
戌冊2: 興祖直皇帝位下:第1子德世庫 第1子 第1子素赫臣,第2子譚圖,第3子尼揚古之子孫。
戌冊3: 興祖直皇帝位下:第2子劉聞 第1子陸虎臣,第2子瑪英格,第3子門圖之子孫。
己冊1-5: 興祖直皇帝位下:第3子索長阿 第1子履泰,第2子務泰,第3子綽奇阿注庫,第4子龍敦,第5子飛永敦之子孫。
庚冊1-2: 興祖直皇帝位下:第5子包郎阿 第1子隋痕,第2子巴孫巴圖魯,第3子對秦第4子郎騰之子孫。
庚冊3: 興祖直皇帝位下:第6子寶實 第1子康嘉,第2子阿哈納,第3子阿篤齊第4子多羅郭齊之子孫。
索引1-2: 愛新覺羅·常林主編。
付錄: 星源吉慶

 この中でも特に宗室與覺羅の項目は注目に値するので、改行を加えて抜き出してみましょう。宗室の中でも罪を犯して民間人に落とされた支族を紅帯子ギョロ(准宗室)の中で罪を犯して民間に落とされた氏族を紫帯子と称したようですね。その中でも紅帯子十八支族を紹介しているのでメモ。

據《玉牒》統計,在宗室各支系中,先後有18個支系被降束紅帶子:
①顯祖塔克世三子舒爾哈齊長子阿爾通阿長子舒爾赫一支⇒シュルガチ(Šurgaci)の長子・アルトゥンガ(Alutungga)の長子・舒爾赫の支族。
②顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏之孫塞克圖次子拉哈禮一支⇒シュルガチの次子・アミン(Amin)の孫・塞克圖の次子・拉哈禮の支族。
③顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏次子愛度一支⇒シュルガチの次子・アミンの二子・アイドゥリ?(Aiduri?)の支族。
④顯祖塔克世三子舒爾哈齊六子濟爾哈朗之孫楊桑長子務能義一支⇒シュルガチの六子・ジルガラン(Jirgalang)の孫・楊桑の長子・務能義の支族
⑤顯祖塔克世三子舒爾哈齊九子腦岱一支⇒シュルガチの九子・腦岱の支族
⑥顯祖塔克世五子巴雅喇四子鞏阿岱一支⇒バヤラ(Bayara)の四子・ゴンガダイ(Gongadai)の支族
⑦顯祖塔克世五子巴雅喇五子錫翰一支⇒バヤラの五子・シガン(Sigan)の支族
⑧顯祖塔克世五子巴雅喇八子德瑪護一支⇒バヤラの八子・德瑪護の支族
⑨太祖努爾哈赤長子褚英曾孫蘇努一支⇒チュエン(Cuyeng)の曾孫・スーヌ(Sunu)の支族
⑩太祖努爾哈赤次子代善九世孫興瑞之子全亮一支⇒ダイシャン(Daišan)九世の孫・興瑞の子・全亮の支族
⑪太祖努爾哈赤次子代善次子碩托一支;ダイシャンの二子・ショト(Šoto)の支族
⑫太祖努爾哈赤次子代善三子薩哈廉長子阿達禮一支⇒ダイシャンの三子・サハリヤン(Sahaliyen)の長子・アダリ(Adali)の支族
⑬太祖努爾哈赤五子莽古爾泰一支⇒マングルタイ(Manggûltai)の支族
⑭太祖努爾哈赤六子塔拜之孫額爾濟圖一支⇒ダバイ(Dabai)の孫・額爾濟圖の支族
⑮太祖努爾哈赤七子阿巴泰四子岳樂十九子務爾佔一支⇒アバタイ(Abtai)の四子・ヨロ(Yolo)の十九子・務爾佔の支族
⑯太祖努爾哈赤十子德格類一支⇒デゲレイ(Degelei)の支族
⑰太祖努爾哈赤十六子費揚古一支⇒フィヤング(fiyanggû)の支族
⑱太宗皇太極長子豪格五子猛我三子延信一支⇒ホーゲ(Hooge)の五子・猛我の三子・ヤンシン(Yansin)

 この中で分かるのが逆に、天聰末年のマングルタイデゲレイ崇徳末~順治初年のショトアダリアイドゥリ順治半ばのゴンガダイシガン雍正初年のスーヌヤンシンくらいですから、半数しか分からないってコトですね。《欽定宗室王公功績表伝》の以罪黜宗室貝勒に伝がある、バヤラの二子・バイントゥも兄弟であるゴンガダイシガンとともに、順治帝ドルゴンのシンパとして罰せられたハズなんですが、嘉慶4年に子孫は宗室に戻されているみたいですね。
 てか、アルトゥンガすら《清史稿》では存在抹殺されているのに、その子供とか…とか、アイドゥリらしき人出てきたよ!とか、色々興味深いんですが取りあえず現物は来週見に行くので楽しみです。

喀喇城と避暑山荘

 さて、今回はドルゴン終焉の地、喀喇城について。順治7(1650)7月には病床に伏せて死期まで悟ったドルゴンが何故かこの年の11月に狩猟に出かけます。出かけた先の喀喇城で逝去します。

(順治七年)十一月,復獵於 邊外。十二月,薨於喀喇城,年三十九。i
十二月戊子,攝政和碩睿親王多爾袞薨於喀喇城ii

 ところでこの喀喇城って何処なんでしょう。邊外と書かれているからには長城より外だと考えていいんでしょうけど。と、ココで遡って同年7月の記事を見てみましょう。

(順治七年七月)乙卯,攝政王多爾袞議建邊城避暑,加派直隸、山西、浙江、山東、江南、河南、湖廣、江西、陝西九省錢糧二百五十萬兩有奇。iii

 ドルゴンが病床にあった7月に、避暑のために邊外に拠点を建設するために直隸山西浙江山東江南河南湖広江西陝西に課税したとありますね。病身をおしての狩猟も避暑地の選定のためだと考えて良さそうです。で、何のための避暑地かというと、モンゴル政策を重視したドルゴンですからおそらくモンゴル王公の懐柔のためでしょう。終焉の地である喀喇城がその候補地であった可能性は高いと考えられます。

(順治八年二月)辛卯,罷邊外築城之役,加派錢糧准抵八年正賦,官吏捐輸酌給議敘併免之。iv
(順治八年二月)辛卯。諭戶部。邊外築城避暑、甚屬無用。且加派錢糧、民尤苦累。此工程著即停止。其因築城加派錢糧、朕本欲將已徵者發還百姓。v

 で、この避暑拠点建設に対して順治帝…というかポストドルゴン政権とでも言うべき、ジルガラン孝荘文皇后順治帝の連合政権は否定的だったようで、ドルゴンの死後2ヶ月ですぐさま避暑拠点の建設の中止を命令しています。

(順治八年五月)丁亥。上駐蹕喀喇城vi

 それでも、同年5月には順治帝喀喇城に行幸しています。しかし、順治帝喀喇城に赴いたのは後にも先にもこれっきりですね。実際まだまだ南明政権が頑張ってますし、漢土がマダマダ疲弊してる時期に避暑拠点を作るのは現実的ではなかったのかも知れないですね。ドルゴンが避暑拠点の建設を急いだのも死期を悟ったからでしょうし、ドルゴンが居なくなった以上避暑拠点の建設を急ぐ必要は無くなったとみるべきでしょう。
 で、これで避暑拠点が頓挫してしまったのかというとそうではありません。

(康熙十六年九月)丙申。(中略)鎮國公烏忒巴喇、弓矢駕還至喀喇和屯南駐蹕。vii
(康熙十六年九月)丙申,次喀拉河屯viii

 で、時代変わって康煕16(1677)年になると康煕帝が狩猟に喀喇和屯を訪れています。この喀喇和屯って何処なんでしょう?って所ですが、ナンのコトはない、喀喇城のことですね。そもそもがモンゴル語のQara Hoton=黒き城を中途半端に漢語に訳すかそのままモンゴル語の音訳で通すかの違いです。喀拉河屯も同音なので気にすることはないです。なので、これから後はハラ・ホトンで通します。

(康煕四十年十二月。)癸亥。上行圍。射殪一虎。是日、駐蹕喀喇和屯ix

 で、いつ頃かは不明ですがこの頃にはハラ・ホトンに避暑拠点が出来ていたようです。課税されたとか建設されたとか実録にも本紀にも記事は無いのですが康煕16(1677)~康煕40(1701)年の間に建設されていたようです。この辺ザッと調べただけでは分かりませんでした。

康熙四十二年,建避暑山莊於熱河,歲巡幸焉。x

 で、かの有名な避暑拠点である承徳避暑山荘康煕42(1703)年に建設が始まります。ハラ・ホトンがテストケースとして避暑山荘の参考になった事は間違い無いでしょう。なぜ、ハラ・ホトンの拡張という方向に構想が進まなかったのかは謎ですが。

雍正初,遣京兵八百赴熱河之哈喇河屯三處創墾,設總管各官。xi
西南:沽河自獨石口廳入,與湯河、紅土峪、馮家峪、黃崖口、水峪、白道峪、大水峪諸河並入密雲。其西雁溪河入懷柔。有喀喇河屯、王家營、常山峪、 兩間房、巴克什營五行宮。邊牆東首漢兒嶺,西訖幵連口。 喀喇河屯、大店子、三道梁、馬圈子、紅旗、呼什哈、喇嘛洞七鎮。xii乾隆三年(中略)四百駐喀喇河屯xiii

 で、その後ハラ・ホトンはお払い箱になったのかというとそうでも無いようで、雍正年間には駐留兵の規定も決められたようですし、乾隆年間にも駐留兵がいたことは記録があります。拠点的な意味は避暑山荘に譲ったのでしょうが、避暑山荘近辺の中核都市としてその後も存在した様ですね。

熱河所屬總管(中略)千總、委署千總分駐兩間房、巴克什營、長山峪、王家營、喀喇河屯、釣魚臺、黃土坎、中關、十八里臺、汰波洛河屯、張三營、吉爾哈郎園。xiv

 で、なんでハラ・ホトン承徳避暑山荘の近くにあったと断定するかというと、まぁ、ハラ・ホトン承徳と同じく熱河省の管轄だからです。熱河省には他にも波洛河屯ポロ・ホトンという行宮もあったようですね。流石康煕年間お金のかけ方が違う感じデス。

 つまるところ、ドルゴン終焉の地は承徳避暑山荘にほど近い場所で、一度は順治帝に否定はされたものの、避暑拠点を建設してモンゴル諸侯の懐柔のために活用する…というドルゴンの悲願は康煕年間に実を結ぶわけです。モンゴル政策重視はなにもドルゴンの専売特許ではありませんが、避暑山荘建設のアイデア自体はドルゴンが始めて建義したアイデアであったと言うコトです。

 そう言えば、入関前は山海関を重視したダイチンが入関後は古北口を重視するようになるのはまぁ、地理的状況とマンジュの故地よりも対モンゴル政策を重視したことってコトになるんでしょうね。

  1. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞 [戻る]
  2. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  3. 清史稿卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  4. 清史稿卷五 本紀五 世祖本紀二 順治八年 [戻る]
  5. 順治実録巻五十三 順治八年二月 [戻る]
  6. 順治実録巻五十七 順治八年五月 [戻る]
  7. 康煕実録卷之六十九 [戻る]
  8. 清史稿卷六 本紀六 聖祖本紀一 康煕十六年 [戻る]
  9. 康煕実録卷之一百六 [戻る]
  10. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  11. 清史稿卷一百二十 志九十五 食貨一 田制 [戻る]
  12. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  13. 清史稿卷一百三十 志一百五 兵一 [戻る]
  14. 清史稿卷一百十八 志九十三 職官五內務府 [戻る]

天聰~崇徳のまとめ

 論文とか専門書とか読んでいてなる程こうなのか~と個人的に理解したことのメモを上げておこうかと。個人的な興味はドルゴン~順治帝なので先はまだまだ長い…。

天聰年間
 ホンタイジは即位前からの所属旗である両白旗を、即位後に両黄旗に改称。同時にヌルハチ時代の両黄旗は両白旗に改称されている。これもホンタイジの君主権が脆弱だった証左とされる。

※三大ベイレとホンタイジの権力闘争⇒ホンタイジの治世はまず、三大ベイレとの権力闘争から始まる
 サルフの英雄である嫡二子アンバ・ベイレ=ダイシャン、シュルガチの第二子であるアミン、嫡三子マングルタイ

 しかし、三大ベイレの身内には即位前からのホンタイジのシンパが存在する⇒ホンタイジ即位にそれぞれ功績があった模様
 ダイシャンの嫡長子・ヨト、嫡三子・サハリヤン、アミンの同腹弟・ジルガラン、マングルタイの同腹弟・デゲレイ

①アミン幽閉⇒
 天聰元(1627)年の第一次朝鮮侵攻時に独立の動きを見せたホショベイレ・アミンを、天聰4(1630)年の北京攻略時に占領した永平など4城を放棄して、降伏した永平・遷安の領民を虐殺してムクデン(瀋陽)に撤退してきたのを捕らえて、十六の罪状を数え上げてアミンを幽閉してそのまま獄死させた。

②マングルタイ失脚⇒
 更に天聰5(1631)年には、大遼河戦の陣中でホンタイジとマングルタイが口論になり、怒ったマングルタイが佩刀に手をかけて弟のデゲレイに殴らるや、更に逆上して遂には抜刀して剣を振り回す事件が起こる。この事件で不敬罪に問われたマングルタイはホショ・ベイレの地位を剥奪されて、ドロ・ベイレに降格。
 翌年にはマングルタイはチャハル部と大明への遠征に参加しているが、その年の内に病没している。
 ホンタイジ即位前から、マングルタイはホンタイジと仲が悪かった様だが、葬儀の際にホンタイジは号泣して死を悼んだと言う。

③ダイシャン失脚⇒
 つぎに天聰8(1634)年、チャハル部のリンダン・ハーンが病没、翌天聰9(1635)年、その遺衆をドルゴンらが摂取すると、その財産の分与に端を発して事件が起こる。
 まず、ホンタイジがリンダン・ハーンの未亡人であるベヒ太后をホーゲに賜与すると、ホーゲに娘を嫁がせていたマングジ・ゲゲ(マングルタイ、デゲレイの同腹の皇女)が公然と不満を表明した。
 これを聞きつけたダイシャンは、普段マングジとは疎遠であったにもかかわらずマングジを自宅に呼んで宴会を開いた。
 ダイシャンはリンダン・ハーンの未亡人を下賜する際にもホンタイジの意向に添わず、財産目当てで他の妃を要求することが何度かあったため、これを機会にホンタイジからの叱責を受け、ホショ・ベイレの地位とアンバ・ベイレの称号を剥奪された。
 マングジとその同腹弟のデゲレイも罰せられた。

④正藍旗の解体⇒
 天聰9(1635)年のダイシャン失脚を以て三大ベイレに対する権力闘争は決着を見るが、次にホンタイジ即位に尽力した旗王達への牽制が始まる。
 ダイシャンへの処罰が下された10日後、唐突にデゲレイが病没する。ホンタイジはその葬儀で慟哭したものの、マングルタイの遺族が王位の継承を訴えるとそれを許さなかった。
 ホンタイジが狩猟で留守の間に、マングルタイ、デゲレイと同腹の皇女であるマングジ・ゲゲの家僕・レンセンギがマングルタイ、マングジ、デゲレイ兄弟がクーデターを計画していたとホンタイジに告発。
 更にマングジの夫であるソノムも刑部を司るジルガランに妻のクーデター計画に参加したと自首してきた。
 捜査の結果、レンセンギ、正藍旗のアイバリはマングルタイ、デゲレイ、マングジが謀反の盟約を交わした会合に同席していたことが判明し、マングルタイの邸宅からは金国皇帝之印と刻した木印が16個発見された。
 マングジ初め関係者及びその親族は族滅(マングルタイ五子のエビルンは処刑⇒エビルンはマングルタイが不敬に問われた大遼河での抜刀事件について、その場に居合わせたら自分も抜刀してホンタイジに斬りかかったなどと発言して、兄の光袞に密告されたがホンタイジはこれを公表していなかったらしいがこの時公表された模様)、マングルタイ、デゲレイは爵位を追奪されて遺産は没収(これは八旗で等分された模様。ちなみにマングルタイの未亡人が二人いたが、一人はホーゲ、一人はヨトが娶り、デゲレイの未亡人はアジゲが娶っている)、遺族は謀反の罪によって宗籍から除名された(マンダリ(邁達里)、光袞、サハリヤン(薩哈璘)、アクダ(阿克達)、舒孫、噶納海らマングルタイの六子、デゲレイの子・鄧什庫らは庶民に落とされた)。
 乾隆年間に制定された《欽定宗室王公功績表伝》あたりを見ると、生前若しくは死後爵位を剥奪されているアミン、アジゲ、ドルゴン(《欽定宗室王公功績表伝》編纂時はまだ名誉回復していない)は生前の最高位の爵位で記述されているのに、この兄弟に関しては以罪黜宗室貝勒、罪によって宗籍を剥奪された人達にカテゴライズされているので、徹底して謀反人とされている模様。
 更にマングルタイ、デゲレイ兄弟が支配した正藍旗は解体されて両黄旗に吸収され、崇徳2(1637)年、肅親王・ホーゲが旗王となりホンタイジ旗下の鑲黄旗が母体となって新生正藍旗が編成される。
 これによってホンタイジは両黄旗に加えて正藍旗の三旗を掌握し、数の上で他の旗王を圧倒し皇帝権が確立されたとされている。

天命ホンタイジ派の末路⇒
 上のマングルタイ兄弟謀反未遂事件の際に、マングジ長女の娘婿であるダイシャン嫡長子ヨトはマングジを擁護しているが、皇族内ではむしろ少数派であった模様。
 サハリヤン、アバタイ、アジゲ、ドドらも一様にマングジに対しては怒りをあらわにしている(この事件のあったとき、ドルゴンは嫁取りのためにホルチン部に出向いていたため不在)。
 一方、マングジの次女の娘婿であるホーゲは、父皇の死を願う者の一族として妻を殺害している。コレを聞いたヨトも妻を殺そうとして許しを請うたが、ホンタイジに止められている。
 ホンタイジ即位に尽力したヨトはこれ以降、ホンタイジに対して少なくとも協力的ではなくなる。
 翌崇徳元(1636)年には和碩成親王の爵位を受けたばかりのヨトはホーゲとジルガランを誣告したとしてその年の内にベイレに降格、翌崇徳2(1637)年にはホンタイジに対して不遜な態度を取ったとしてベイセに降格されている。
 原因はマングルタイ兄弟謀反疑惑事件と考えられる(義兄弟でもあったホーゲはマングジを擁護した様子はないし、ジルガランは告発を受けてマングジを裁く立場にいた)。

 ヨトの同母弟のサハリヤンは崇徳元(1636)年に病没、ヨトも崇徳4(1639)年には大明遠征中に陣没している。
 サハリヤンやヨトの遺児達は王位の継承が許され、その後も正紅旗、鑲紅旗の有力な旗王家として存続している。
 一方、デゲレイやその遺児は徹底的に排除されている。デゲレイの遺児達は宗籍を剥奪され、清朝通じて名誉が回復される事は無かった。
 デゲレイは幼少の頃ホンタイジと共に養育されたらしく、それ故に同腹兄・マングルタイとは仲の悪かったホンタイジとも仲が良かったようであるが、有無を言わせず徹底的に取りつぶされている。
 ちなみにジルガランは特にホンタイジに対して忠実であったらしく、ホンタイジ治世下では信頼度が絶大だった故に順治年間に入るとドルゴンと共に摂政王となっている。

崇徳改元⇒
 リンダン・ハーンの遺衆から大元ウルスの玉爾の献上を承け、ダイチン・グルンの皇帝=ハンとして二次即位を行い、名実ともに”皇帝”となった。一次即位の際のような合議制の代表者ではなく、独裁制の皇帝となったのである。
 ホンタイジは各旗王たちを掣肘する意味からか度々叱責しては降格を行い、1~2年後には爵位を戻している。
 しかし、崇徳7(1642)年以降はホンタイジが病気がちになった関係から締め付けが厳しくなっている。
 他の旗王が些細なことで罪に問われる中、ドルゴンは目立った失態も見せず、ホンタイジ存命中はホンタイジに忠実であったため大きな降格は経験していない。
 猜疑心の強いホンタイジを相手にしているので、ドルゴンは余程細心にホンタイジに接していたか、本当に忠義者だったかどちらかのハズ。

ホンタイジの崩御⇒後継者争いが勃発
 崇徳8(1643)年8月、脳卒中でホンタイジが崩御する。既に和碩肅親王であったホンタイジの長子・ホーゲがすんなりと即位しそうなモノだが、どうやら人望に欠いていた模様。
 ホーゲは正藍旗は掌握し、両紅旗を牛耳る長老ダイシャンの支持を取り付けていたモノの、ホンタイジお膝元である両黄旗は完全には掌握し切れていない(両黄旗の一部にはトゥルゲイi 、タジャンii、バブハイiiiらホーゲ推戴派もいた模様)。
 対抗馬たるドルゴンは両白旗は掌握しているが、数の上で劣勢。
 ドルゴンはホンタイジ嫡系に拘るホルチン閥筆頭の皇太后・ブンブタイと両黄旗有力者のソニンやオボイ、タンタイiv、トゥライv、ゴンガダイvi、シガンviiらを抱き込み、自分が後継者を断念する代わりにホーゲにも断念させた。
 かくして、ジルガラン、ドルゴンが摂政王として補佐する形で嫡長子・フリンが即位が決定する。
 その二日後、ダイシャンの第二子・ショセと第三子・サハリヤンの遺児・アダリがドルゴンに即位をうながすと、却ってドルゴンは彼らを捕らえて処刑している(このあたりはダイシャン系の分裂と言うよりは、ドルゴンの母系であるウラ=ナラ氏の閨閥と考えた方が良い模様)。

両白旗の換旗⇒
 崇徳8(1643)年10月、多羅豫郡王・ドドが大学士・范文程の妻を略奪しようとしていたことが発覚。
 和碩肅親王・ホーゲがそれを知りながら隠蔽したことを罪に問われる。
 この際、ドドは降格されるコトは無かったモノの、正白旗30ニル全て掌握していたのを半分の15ニルを没収される。
 ドルゴンとアジゲは共に鑲白旗の15ニルずつを掌握していたが、没収されたドドの15ニルは鑲白旗の旗王であるドルゴンに委ねられた(罪に問われて没収された旗王の財産は近親者が管理するのがこの頃のマンジュの風習)。
 この際に、ニルを半数に減らされたドドは正白旗から鑲白旗に移されてアジゲと鑲白旗を両分。ドドから15ニルを預かったドルゴンは元から管理する鑲白旗15ニルを併せて正白旗に移動した。
 当時、鑲白旗よりも正白旗が序列が上位であったためジルガランとの対比上、少しでも優位に立つためと言われるがこの辺定かではない(そもそもジルガランの鑲藍旗は八旗の序列中最下位なので)。
 しかし、少なくとも、これ以前は摂政王の序列はジルガラン、ドルゴンだったモノが、これ以後、ドルゴン、ジルガランの順番に一変した。

取りあえずここまで。

  1. Turgei 圖爾格 [戻る]
  2. Tajan 塔瞻 [戻る]
  3. Babuhai 巴布海 [戻る]
  4. Tantai 譚泰 [戻る]
  5. Tulai 圖賴 [戻る]
  6. Gongadai 鞏阿岱 [戻る]
  7. Sigan 錫翰 [戻る]

特別展「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」1

 と言うワケで、色々問題があったモノの、6/24から開催されている特別展「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」を見に行ってきました。
 JR上野駅で買った当日券はチケットぴあで発券したようなチケットで、絵がないですが良いですか?と念を押されたんですが、平成館の会場入り口でもぎられるときに、台北 “國立”故宮博物院展のチケットに交換されちゃいました。まぁ、チケットぴあみたいなチケットにもちゃんと“國立”ってクレジットも入ってましたが、一律に交換することにしたみたいです。こんなの初めてなので驚きました。やっぱり騒動の後ですね…。実際、同行者の中には國立が入ってないチケットを持っている方もおられましたから、そういう配慮からなんでしょうが、無駄にお金かかってる印象です。

 さて、東博敷地内に入るとまずは行列です。今回唯一の目玉と言って良いNo.229 翠玉白菜の列ですね…凄く列んでましたね。正直、北京故宮博物院200選の時の清明上河図巻ほど、何時間列んでも見たい!というモチベーションが持てなかったので、自分は行列を横目に見て、待ち時間180分というのを冷やかすくらいでした。確かに、翡翠白菜台北故宮を代表する文物であることは間違いないのですが、台北故宮を何度か見ている人間からすると、正直物足りなさは否めないのですが、それはまた置いておきましょう。
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