NHKドラマ 蒼穹の昴 第11回 初めての取材

 さて、今回は春児の取材から始まります。…原作では取材後にハゲでデブで四十絡みのトマス・バートン岡圭之介を連れて教会を訪れたりして、郎世寧ことジョゼッペ・カスティリオーネベネチアングラスの関係について語ったりしたのですが、丸ごとカットですねそうですか…。堂子に安置してある龍玉がダミーという設定自体がすでに無いようなので、仕方が無いかも知れませんね…。
 で、珍妃の出番です。今回は珍妃が宮中で写真を撮ると言うので一悶着、いつもイライラしてる皇后にイチャモンつけられます。

中央電視台《故宮》第五集 〈家国之間〉より

中央電視台《故宮》第五集 〈家国之間〉より

 珍妃が写真好きであったとか、紫禁城にカメラを最初に持ち込んだのは珍妃であるとか、光緒帝とコスプレして太監に撮らせたとか言う話はあったみたいです。ただ、真っ当な本で読んだことがなかったり…。謎ですねぇ…。

 で、今回は珍妃が生活していた景仁宮の写真でお茶濁します。
 写真は全て2008年11月23日に宣和堂が北京故宮に参観した際に撮影したモノです。

景仁宮の入り口 障壁が大理石

景仁宮の入り口 障壁が大理石

景仁宮の扁額 質素で飾りがあんまり無いです

景仁宮の扁額 質素で飾りがあんまり無いです

割と風情のない外観です

割と風情のない外観です

2008年11月23日時点では中で陶磁器を陳列してました

2008年11月23日時点では中で陶磁器を陳列してました

多分満洲国経由で摂取された溥儀旧蔵品

多分満洲国経由で摂取された溥儀旧蔵品

景仁宮でしか見なかった大きな木

景仁宮でしか見なかった大きな木

景仁宮の井戸 ある意味こっちが本当の珍妃井w

景仁宮の井戸 ある意味こっちが本当の珍妃井w

 東六宮の一つである景仁宮は、康煕帝の生地である…と同時に珍妃戊戌変法の前に居住していた宮殿です。慈嬉太后が起居した西六宮と比べて地味な印象なのですが、本来は咸豊帝正皇后慈安太后東六宮で暮らしていたことからも分かるように、宮殿のヒエラルキーとしては東の方が上です。
 ただ、慈嬉太后の還暦祝いのリフォームが壮麗であったために、西六宮の方が豪華に見えますよね…。景仁宮珍妃の悲劇性も相まって、非情に質素で閑散とした印象があります。珍妃井よりも気にしてみてる人はいなかったように思います。
 留学時代は非公開地域だったので、参観したときにはテンション上がりましたw

 で、今回はおまけで美顔ローラー

永寿宮の展示室にて 手前右が美顔ローラー

永寿宮の展示室にて 手前右が美顔ローラー

 前回見つからなかった美顔ローラーの写真です。自分が行ったときには永寿宮の陳列室で展示されてました。記憶は確かでしたw

NHKドラマ 蒼穹の昴 第三回 修業

 と言うワケで、『蒼穹の昴』の第三回です。……新幹線の中で小説版の文庫本を十年ぶりに読んだんですが、いや、別物ですね…。ドラマももうちょっと破天荒な梁文秀で良いと思うんですが…。なんだか春児の浄身も畢五が出て来ないから唐突な感じになっちゃったわけですねぇ…。と、一応感想をば…。

 今週では梁文秀科挙の結果状元に選ばれるわけですが…。なるほど…言われてみれば、殿試って保和殿前で行ったんですね。小説でも確かそんな表現だったと思うんですが、座卓を持ち込んで答案を書くという発想がなかったので些か驚きました。
 え~気になったのは保和殿扁額満漢合壁になってなかったことですかね。現在の北京故宮に行くと確かに保和殿始め外朝三大殿及び端門午門太和門に付随する門や建築物)は漢字のみの扁額がかかっています。

1995年06月07日宣和堂撮影

1995年06月07日宣和堂撮影

 コレは袁世凱中華民国大総統から中華帝国洪憲帝にクラスチェンジしようとして失敗した際に掛け替えたワケですから、時代考証的にはアウトです。折角横店で撮っているのに、満漢合壁扁額が作られていないのはおそらく、元ネタになるべき扁額が残っていなかったので、満洲文字がいい加減になるくらいならいっそ作るのやめちゃえ!と言うコトなんですかねぇ…。
 あと、ミセス・チャン梁文秀の淡いロマンスで、辮髪の髪結いが重要なファクターとして登場しているのはドラマオリジナルですがなかなか良いシーンでした。ただ、出来ることなら梁文秀辮子は見るからに荒れてるくらいの方が良かったと思います。ただ、この頃の満洲女性が男性の辮子を結ったか否かはちょっと自分も分からないんですけどねぇ…。
 と、ミセス・張固倫寿安公主であることが明かされ、慈嬉太后と仲良くおしゃべりするシーンがあったんですが、小説風に慈嬉太后はおきゃんな口調に訳されていないあたりにドラマとして魅力に些かの不安が…。春児に心を開いたり、李鴻章が来てもこの調子だとちょっと残念なんですが…。

《清史図典 第十一冊 光緒 宣統朝 上》P.83

《清史図典 第十一冊 光緒 宣統朝 上》P.83

 で、英字新聞の記事に出てきた栄禄との不倫は割に昔からよく言われたデマですね。栄禄は16歳という年少時から官界デビュー果たして、以後出世街道をひた走って国権を担う役職を累任します。彼が満洲旗人だとしても異例の出世と言えます。が、そもそも栄禄慈嬉太后の甥にして、光緒帝の従兄弟に当たる人物ですから、その縁故により出世したわけです。実にシンプル。なので不倫関係とかは流石にないと思われます。

 そうそう、予告見るに来週は珍妃乾隆帝が出演する模様です。ちょっとワクワク。

燕京八景 瓊島春陰

 今日も去年、2008年11月に北京に行った際の写真のお蔵出し。昨日は意外と長い文章になったので今回はサラッと。

これ撮る時に派手に転んで同行者たちをドン引きさせました

これ撮る時に派手に転んで同行者たちをドン引きさせました

 今回は燕京八景瓊島春陰章宗の頃からいわれ出した1名所のキャッチフレーズに、乾隆帝が乗っかって文句を代えたり場所を変えたりしたわけです。

横にも何か掘ってます

横にも何か掘ってます

 ちなみに明昌年間乾隆年間燕京八景は以下の通り。
■明昌年間■
1:太液秋風 2:瓊島春陰 3:道陵夕照 4:薊門飛雨 5:西山積雪 6:玉泉垂虹 7:盧溝暁月 8:居庸畳翠
■乾隆年間■
1:太液秋風 2:瓊島春陰 3:金台夕照 4:薊門煙樹 5:西山晴雪 6:玉泉趵突 7:盧溝暁月 8:居庸畳翠2

 文句の異同があるのは三カ所、場所の異同があるのは一カ所ですね。ちなみに道陵章宗の陵墓です。整備された絶景だったようですが、明代万暦帝女真族の末裔たる満洲族に対する報復として道陵を破壊させたので、乾隆帝の選からは外れています。いたたまれない話ですが、ドルゴン北京入城する際に道陵破壊の報復として、万暦帝定陵の地上部分を破壊されたようです。因果応報ですね…

聳え立つ感じで素敵です

聳え立つ感じで素敵です

 で、現在立ち入りを禁止されている箇所を除いて、燕京八景の石碑巡りでもしたいナァ…と考えていたら、ググるともうやっておられる方がおられました…。

 この際の北京旅行ではできるだけこの石碑を巡ろうと思いつつ、結局地下鉄10号線 金台夕照駅に近い金台夕照にすら行けず、瓊島春陰のみになってしまったわけです。せめて太液秋風くらいは遠景から眺めたいと思ったのですが、団体行動を乱すわけにも行かずこれも断念…。

 ちなみに瓊島春陰の石碑は北海公園内の以下の場所にあります。


より大きな地図で 北京観光 を表示
  1. 《明昌遺事》…ただ、燕京八景のソースとしてよく提示されるモノの、作者すら不明。
  2. 百度百科 燕京八景
  3. 散歩ing老北京 ~北京街歩き写真集

普渡寺=睿親王府

 と言うワケで、2008年11月に北京に行った際に観光した場所の第二段。このときの旅のテーマである普度寺睿親王府です。

結構見かけない様式の建築

結構見かけない様式の建築


 で、この普度寺、元々明代には皇城東苑とか小南城とか言われておりました。皇太子が居住する重華宮という宮殿だったようですね。有名なところでは土木の変後、北京に送還された正統帝がこの宮苑の敷地内にあった崇質宮景泰帝に幽閉されたとか言われてます。まあ、天順帝になってまた皇城に戻るわけですけど。

あんまりかっこよくないドルゴン像

あんまりかっこよくないドルゴン像

 で、清初には睿親王ドルゴン重華宮を府邸を定めました。大体、世襲鉄帽子王家でも北京内城府邸を置くことはあっても、ドルゴンのように皇城内に府邸を置くことはその後もありませんでした。北京に入場した際に一時的に武英殿で玉座についたというのも肯けますね。ドルゴンが執政した当時は夜になっても車馬が絶えることが無かったと言います。

民家一つ分高い基壇の上に建ってます

民家一つ分高い基壇の上に建ってます

 で、どの文献を見ても「睿親王府は土台が高く、宮城が見渡せた」という類のことが書いてあるんですが、今ひとつピンと来なかった訳です。ちなみに、この高台皇城と秘密の通路でつながっている…という類の伝説もあるみたいですね。その通路を通ってドルゴン紫禁城睿親王府を行き来したとか言うコトになってるみたいです。

車と比較すると基壇が相当高い

車と比較すると基壇が相当高い

 ご存じの通り、ドルゴンは齢三十九という若さで狩猟中に死去した後、順治帝により大逆の罪に問われて睿親王家王位は剥奪されて、皇籍からも抹消されました。

山門の中が睿親王府と普度寺関連の展示室です

山門の中が睿親王府と普度寺関連の展示室です

 この時、府第も没収されたのですが、一時は皇帝と同様に義宗という廟号までドルゴンは追号されていますから、その後王府は再利用されることは無く、次第に荒れてゆきました。
 で、順治帝の短い治世が過ぎて康煕帝の御代になると、元々冤罪であったドルゴンの名誉回復が行われ、次いで睿親王府跡もモンゴルから招来したマカカラ仏大黒天を祀る嗎噶喇廟に改装されました。

マカカラ仏の残骸らしきモノの展示

マカカラ仏の残骸らしきモノの展示

 更に乾隆年間に修築されて嗎噶喇廟普渡寺もしくは普度寺と改称されます。ちなみに《乾隆京城全図1では啞滿逹■嘎廟2となっています。

使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ

使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ

 おそらく、普度寺に改称される前の地図なんでしょうけど、嗎噶喇廟と音通…と言いたいけど言えないような字面ですね…。それにしても、ディジタル・シルクロードが公開している《乾隆京城全図》のGoogle Earth版古都北京デジタルマップの使いやすさは異常です。

ちなみにドルゴンは鑲白旗の旗王です

ちなみにドルゴンは鑲白旗の旗王です

 《日下旧聞考3によると、乾隆年間普度寺にはマカカラ像とともにドルゴンの遺品(武具など)が安置されていたようです。その後、国家の庇護の元、清末まで普度寺は広大な境内を所有しつつ、《天咫遇聞4によると、マカカラ像らしき仏像とドルゴンの遺品とともにかれの護衛兵というかバートルの像も残っていたという記述があります。

おされシティー

おされシティー

 しかし、さしもの普度寺辛亥革命後は廃れていきます。中共成立後にはついに南池子小学校の校舎として使用されたようです。文革の被害とも無縁ではなかったはずです。少なくとも1980年代には辿り着くのも難しい様なごちゃごちゃとした胡同の中にあったようで、中の建築はお世辞にも良い保存状態ではなかったようです5

北京税務博物館(月曜休館)

北京税務博物館(月曜休館)

 その後、1990年代の改革開放とともに徐々に整備され、2007年05月16日に北京税務博物館として一般公開されるに至ったわけです6。自分が行った時には周りも景観区としてかなり整備されいて、迷うかと思ってビクビクしながら探したら意外にも一発で発見できました。…もっとも、定休日で北京税務博物館として解放されている本殿には入れませんでしたが…。

看板ドーン!

看板ドーン!

 正直、叡親王ドルゴンに思い入れが無い人にお勧めできるほどすばらしい観光地ではないのですが、ドルゴンと聞いてピンとくる方は是非訪問してはいかがでしょうか?タダですし…。

本殿の基壇自体も高い

本殿の基壇自体も高い

  1. ディジタル・シルクロード – 文化遺産のデジタルアーカイブ
  2. ディジタル・シルクロード > 古都北京デジタルマップ > 地名検索
  3. 于敏中等編日下旧聞考》北京古籍出版 巻四十 皇城
  4. 震鈞《天咫遇聞》北京古籍出版 巻一 皇城
  5. 阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 P.97 「〈大黒〉を祀る石の基壇」
  6. 北京税务博物馆向社会免费开放

夜の北海公園

 と言うワケで、困ったときのお蔵出し。去年の11/24に北京に行った際の写真でお茶濁してみます~。

城門に幻想的なスポットライト

城門に幻想的なスポットライト

 観光スポットが星の数ほどある北京。最近は経済発展に伴いナイトスポットもじゃんじゃか開発されてますからワザワザお化けが出そうな場所に行く人もいないと思いますが、なかなか良い感じのスポットです。ただ、街灯まばらで結構ビクビクしながら現地に到着しました。いや、賑やかな場所から外れている割に、容赦なく真っ暗で驚きました。

城門内もライトアップ

城門内もライトアップ

 ただ、城門がライトアップされていて幻想的なこの雰囲気には何も代え難いですねぇ…。まるで暗闇の中にポツンポツンと明かりが灯ってる様はまるでドラマの中のようです。文化遺産の中でご飯が食べられると思うと、なんかワクワクしますね…。日本ならあんまりこういうところ無いでしょうけど。

方膳飯荘の食卓

方膳飯荘の食卓

 まあ、夜の北海公園内に入ろうと思うと、要予約の方膳飯荘に食事に行く!という条件があるわけです。で、その方膳飯荘ですが…売り物の満漢全席?は正直、普通の中華料理のコース料理でしたし、不味くはないモノの目から鱗が落ちるほど美味しいモノでもない訳ですが、夜の北海公園を歩けると言うだけでもなかなか乙な経験でした。自分一人だけならまず、予約とかめんどくさいコトしなかったでしょうしねぇ~。

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