艾度禮 その2

 と言うワケで以前書いた艾度禮という記事にコメントを頂きまして…。
 どうやら、この時に取り上げた鎮國公・アイドゥリが磯部淳史「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」『立命館東洋史學』第30號で言及されてる様ですね。こないだ大学図書館に行ってEvernoteにクリップしておいたので、確認してみました。
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《瀋陽状啓》八月二十六日

 さて、清初を扱った論文を読んでいると、《瀋陽状啓》という書名にぶち当たることがあります。これ何かというと、瀋陽ムクデン・ホトンに人質として抑留させられていた李氏朝鮮世子…つまり王太子である昭顕世子朝鮮王仁祖に提出していた報告書ですね。存在は知っていたモノどういった性質の書物かよく分からず、興味はあったのですがほったらかしにしてたんですが、サクッと検索したところ国立国会図書館デジタルアーカイブに戦前の本が登録されてるのをうっかり発見しました。

国立国会図書館デジタルコレクション 瀋陽状啓

 戦前の帝大であった京城帝国大学の法文学部の出版ですね。どうやら朝鮮王朝奎章閣に保管されていた書簡を校訂して出版したようです。影印が巻頭に載っていますが、これを解読するのはさぞ骨が折れたと思います。しかも、純粋な漢文ではなく朝鮮王朝で使用された漢文なので、朝鮮語発想で書かれた文章は非常に読みにくいです。これは日本で書かれた漢文日本語発想で書かれているので却って読みにくいのと同じことでしょうね。語尾に謎の文字列が登場しますが、あまり気にしない方向で読み飛ばしました。
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喀喇城と避暑山荘

 さて、今回はドルゴン終焉の地、喀喇城について。順治7(1650)7月には病床に伏せて死期まで悟ったドルゴンが何故かこの年の11月に狩猟に出かけます。出かけた先の喀喇城で逝去します。

(順治七年)十一月,復獵於 邊外。十二月,薨於喀喇城,年三十九。i
十二月戊子,攝政和碩睿親王多爾袞薨於喀喇城ii

 ところでこの喀喇城って何処なんでしょう。邊外と書かれているからには長城より外だと考えていいんでしょうけど。と、ココで遡って同年7月の記事を見てみましょう。

(順治七年七月)乙卯,攝政王多爾袞議建邊城避暑,加派直隸、山西、浙江、山東、江南、河南、湖廣、江西、陝西九省錢糧二百五十萬兩有奇。iii

 ドルゴンが病床にあった7月に、避暑のために邊外に拠点を建設するために直隸山西浙江山東江南河南湖広江西陝西に課税したとありますね。病身をおしての狩猟も避暑地の選定のためだと考えて良さそうです。で、何のための避暑地かというと、モンゴル政策を重視したドルゴンですからおそらくモンゴル王公の懐柔のためでしょう。終焉の地である喀喇城がその候補地であった可能性は高いと考えられます。

(順治八年二月)辛卯,罷邊外築城之役,加派錢糧准抵八年正賦,官吏捐輸酌給議敘併免之。iv
(順治八年二月)辛卯。諭戶部。邊外築城避暑、甚屬無用。且加派錢糧、民尤苦累。此工程著即停止。其因築城加派錢糧、朕本欲將已徵者發還百姓。v

 で、この避暑拠点建設に対して順治帝…というかポストドルゴン政権とでも言うべき、ジルガラン孝荘文皇后順治帝の連合政権は否定的だったようで、ドルゴンの死後2ヶ月ですぐさま避暑拠点の建設の中止を命令しています。

(順治八年五月)丁亥。上駐蹕喀喇城vi

 それでも、同年5月には順治帝喀喇城に行幸しています。しかし、順治帝喀喇城に赴いたのは後にも先にもこれっきりですね。実際まだまだ南明政権が頑張ってますし、漢土がマダマダ疲弊してる時期に避暑拠点を作るのは現実的ではなかったのかも知れないですね。ドルゴンが避暑拠点の建設を急いだのも死期を悟ったからでしょうし、ドルゴンが居なくなった以上避暑拠点の建設を急ぐ必要は無くなったとみるべきでしょう。
 で、これで避暑拠点が頓挫してしまったのかというとそうではありません。

(康熙十六年九月)丙申。(中略)鎮國公烏忒巴喇、弓矢駕還至喀喇和屯南駐蹕。vii
(康熙十六年九月)丙申,次喀拉河屯viii

 で、時代変わって康煕16(1677)年になると康煕帝が狩猟に喀喇和屯を訪れています。この喀喇和屯って何処なんでしょう?って所ですが、ナンのコトはない、喀喇城のことですね。そもそもがモンゴル語のQara Hoton=黒き城を中途半端に漢語に訳すかそのままモンゴル語の音訳で通すかの違いです。喀拉河屯も同音なので気にすることはないです。なので、これから後はハラ・ホトンで通します。

(康煕四十年十二月。)癸亥。上行圍。射殪一虎。是日、駐蹕喀喇和屯ix

 で、いつ頃かは不明ですがこの頃にはハラ・ホトンに避暑拠点が出来ていたようです。課税されたとか建設されたとか実録にも本紀にも記事は無いのですが康煕16(1677)~康煕40(1701)年の間に建設されていたようです。この辺ザッと調べただけでは分かりませんでした。

康熙四十二年,建避暑山莊於熱河,歲巡幸焉。x

 で、かの有名な避暑拠点である承徳避暑山荘康煕42(1703)年に建設が始まります。ハラ・ホトンがテストケースとして避暑山荘の参考になった事は間違い無いでしょう。なぜ、ハラ・ホトンの拡張という方向に構想が進まなかったのかは謎ですが。

雍正初,遣京兵八百赴熱河之哈喇河屯三處創墾,設總管各官。xi
西南:沽河自獨石口廳入,與湯河、紅土峪、馮家峪、黃崖口、水峪、白道峪、大水峪諸河並入密雲。其西雁溪河入懷柔。有喀喇河屯、王家營、常山峪、 兩間房、巴克什營五行宮。邊牆東首漢兒嶺,西訖幵連口。 喀喇河屯、大店子、三道梁、馬圈子、紅旗、呼什哈、喇嘛洞七鎮。xii乾隆三年(中略)四百駐喀喇河屯xiii

 で、その後ハラ・ホトンはお払い箱になったのかというとそうでも無いようで、雍正年間には駐留兵の規定も決められたようですし、乾隆年間にも駐留兵がいたことは記録があります。拠点的な意味は避暑山荘に譲ったのでしょうが、避暑山荘近辺の中核都市としてその後も存在した様ですね。

熱河所屬總管(中略)千總、委署千總分駐兩間房、巴克什營、長山峪、王家營、喀喇河屯、釣魚臺、黃土坎、中關、十八里臺、汰波洛河屯、張三營、吉爾哈郎園。xiv

 で、なんでハラ・ホトン承徳避暑山荘の近くにあったと断定するかというと、まぁ、ハラ・ホトン承徳と同じく熱河省の管轄だからです。熱河省には他にも波洛河屯ポロ・ホトンという行宮もあったようですね。流石康煕年間お金のかけ方が違う感じデス。

 つまるところ、ドルゴン終焉の地は承徳避暑山荘にほど近い場所で、一度は順治帝に否定はされたものの、避暑拠点を建設してモンゴル諸侯の懐柔のために活用する…というドルゴンの悲願は康煕年間に実を結ぶわけです。モンゴル政策重視はなにもドルゴンの専売特許ではありませんが、避暑山荘建設のアイデア自体はドルゴンが始めて建義したアイデアであったと言うコトです。

 そう言えば、入関前は山海関を重視したダイチンが入関後は古北口を重視するようになるのはまぁ、地理的状況とマンジュの故地よりも対モンゴル政策を重視したことってコトになるんでしょうね。

  1. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞 [戻る]
  2. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  3. 清史稿卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  4. 清史稿卷五 本紀五 世祖本紀二 順治八年 [戻る]
  5. 順治実録巻五十三 順治八年二月 [戻る]
  6. 順治実録巻五十七 順治八年五月 [戻る]
  7. 康煕実録卷之六十九 [戻る]
  8. 清史稿卷六 本紀六 聖祖本紀一 康煕十六年 [戻る]
  9. 康煕実録卷之一百六 [戻る]
  10. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  11. 清史稿卷一百二十 志九十五 食貨一 田制 [戻る]
  12. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  13. 清史稿卷一百三十 志一百五 兵一 [戻る]
  14. 清史稿卷一百十八 志九十三 職官五內務府 [戻る]

艾度禮

 崇徳末年の王公序列記事で詳細が分からなかった艾度禮…多分アイドゥリの経歴をツラツラと確認していますが、中々よく分かりませぬ…。取りあえず、《清史稿》と《清実録順治朝実録》、《八旗通志》初集をザラッと見た感じを時系列に並べて見ました。

(天聰)九年(中略)五月、遂於毎牛彔下選擺牙喇二人、以多鐸爲師、命艾度禮阿格等輔之、隨率兵入明廣寧地方。i

 天聰9(1635)年当時はアイドゥリ・アガと称されていたようですね。タイジよりも下程度の皇族の若年者へ尊称って感じでしょうか。要するに無冠の部屋住みだったようです。

(崇徳四年)五月戊午,以貝子篇古有罪,削爵。(中略)庚辰,以鎮國公艾度禮為都統。ii

 で、どうやら崇徳4(1639)年5月には鎮國公になっていたようで、かつこのタイミングで都統グサ・エジェンに任命された模様。ただ不思議なのは、グサ・エジェンの漢訳を音訳である固山額真から都統と改称するのは順治年間に入ってからのことなんですよね。あと、《清史稿》のこの記述から解釈すると、鑲藍旗グサ・エジェン・フィヤングの後任であるように見えますが、《八旗通志》の八旗大臣年表などを見ると、順治年間になるとグサエジェンは割と空位のママ放置されることもあったようなので、この辺は断定できません。
 この頃の八旗満洲については、阿南惟敬センセの「清初固山額真年表考」を見るに付け、この頃のグサ・エジェンは判明しているように思えます。しかし、上の記事から原因は不明ですがフィヤングは爵位を削られるくらいの罪を犯したようです。こういった場合は爵位だけでなく官職も剥奪される事が多いので、記述がないだけでこのタイミングでフィヤング鑲藍旗グサ・エジェンの任を解かれたと解釈する方がすんなりいきます。「清初固山額真年表考」の様に崇徳から順治にかけてフィヤングが一貫して鑲藍旗グサ・エジェンであった…とするのには、自分は問題があるとは思います。崇徳4(1639)年以降、鑲藍旗グサ・エジェンフィヤングからアイドゥリに変更されたとみるのが無理がない解釈でしょう。

(崇徳)七年九月、與貝子羅託、尼堪、固山額真公艾度禮、宗室拜尹圖、固山額真恩克圖、俄莫克圖等、率師往代公博和託等駐防錦州。iii

 さて、前の記事だけでは用語の点から誤植や勘違いの可能性は棄てきれませんでしたが、ココではグサエジェン・公・アイドゥリと明記されていますから、旗色はハッキリしないモノのアイドゥリは少なくとも崇徳7(1642)年当時グサエジェンであったことは間違いありません。

(崇禎八年)六月癸酉,多羅饒餘貝勒阿巴泰師還(中略)己卯(中略)艾度禮代戍錦州。iv

 で、崇徳8(1643)年のこの記事では、アイドゥリアバタイの交代要員として登場しています。
 さらに同年8月にホンタイジが急逝すると、王公に列して十三位の皇族として記録されています。

(順治元年)二月辛巳,艾度禮戍錦州。v
(順治元年二月)辛巳。命固山額真鎮國公艾度禮同梅勒章京伊爾德等更番駐防錦州。vi

 更に翌順治元(1644)年2月にまた軍事行動に従事していますが、ここでも《順治実録》ではグサ・エジェン・鎮國公・アイドゥリとされています。同メイレン・ジャンギンとされている伊爾德は《八旗通志》の八旗大臣年表によると、順治元年当時は正黄旗メイレン・ジャンギンだったようです。ただ、《順治実録》によると正黄旗グサ・エジェンタンタイでこれも大実力者ですから、アイドゥリ伊爾德と同じ旗だという意味では無いようですね。

(順治元年三月)甲辰。防守錦州、鎮國公艾度禮等所解逃人稟稱、大兵既下前屯等城。寧遠一帶。人心震恐。聞風而遁隨下令修整軍器。vii

 同年3月も相変わらず軍事行動に従事しています。

(順治元年六月)癸未,艾度禮有罪,伏誅。viii
(順治元年六月)癸未。鎮國公固山額真艾度禮於誓期前日、私言二王迫脅盟誓。我但面從心實不服主上幼衝。我意不悅。今雖竭力從事、其誰知之二王擅政之處亦不合我意。每年發誓予心實難相從天地神明。其鑒察之。遂書其詞於誓期之晨焚之。有穆成格、卓佛和欲發其事令醫者占何時可首。因具道始末醫者以告艾度禮子海達禮。艾度禮遂自首於攝政和碩鄭親王濟爾哈朗。事下法司鞫問得實。艾度禮及妻、並其子海達禮及醫者並棄市。家產及所屬人口、俱交與和碩鄭親王。ix

 しかし、同年6月になると事態は一変します。《清史稿》ではアイドゥリが誅に伏したと簡単に書いてますけど、《順治実録》を見るとかなり生々しい事書いてますね。ホンタイジ崩御後、フリン即位の際に皇族王公が誓詞をかわした時からアイドゥリは幼主を立てることに不満を持っており、更にジルガランドルゴンの二巨頭態勢にも納得がいかなかったようです。思い悩んだ末に妙な呪い師に引っかかってジルガランドルゴンにこのことを告げようかどうしようかと相談してあれこれ悩んでいる内に、呪い師からアイドゥリの子供であるハイダリにそのことが漏れたためにアイドゥリ自らジルガランに自首したと言う感じですかね。自首したモノのアイドゥリとその妻及び子のハイダリは揃って棄市となってますから、あるいは皇族内の権力闘争の結果なのかも知れませんが、アイドゥリ以上にその妻のバックボーンが分からない以上、何とも言えません。ただ、アイドゥリが棄市にあった後、ジルガランがその財産を管理したようです。身内に不始末があったときには、一番近しい親族が財産を相続するのがこの頃のマンジュの風習で、特に同じ旗に属する者なら尚のこと罪の問われた人の財産管理を旗王が任されることが多いので、アイドゥリ鑲藍旗グサ・エジェンだと自分が考える根拠になってます。
 ただ、この6月と言うタイミングを考えて見ると、いささか特殊な時期です。4月からは入関作戦が始動していてドルゴン以下入関組は戦地に赴いていますが、マンジュの故地を空にしたわけではなく、留守番役がムクデンに盤踞しています。6月時点ではおそらくアイドゥリも留守番でムクデンに居たのだと考えた方が自然です。10月には清朝は遷都して、皇族も大挙して北京に移動しますが、それまではジルガランムクデンの政治を一手に引き受けていたようです。
 とすると、この事件はジルガランの主導…というか、彼の独断で処理されたと考えて良いでしょう。少なくとも幼帝・フリンを後見する孝荘文皇后の同意を得てはいたでしょうけど。また、入関作戦以前に発生した、ホーゲのクーデター未遂容疑事件ではホーゲは有力な支持者を失ったモノの、官職と宗籍を剥奪されただけで幽閉やまして棄市などされずに済んでいます。一方のアイドゥリは現体制に不満を持っていたとは言え、読んだだけでは何のこっちゃよく分からない罪状で棄市までされているというのは違和感があります。状況から考えると、ジルガランにとっては都合の悪い身内だったために口実を設けて排除された…って感じに見えるんですが、穿ちすぎですかねぇ…。この時期によくある権力闘争の一環に思えます……が、いかんせんこれだけではこれ以上のことは何も分からないので、ドルゴン留守中のムクデンにもイヤーな雰囲気が漂っていた!と言うコトくらいしか言えませんね。
 で、《八旗通志》初集の八旗大臣年表順治年間からしか記述がありませんが、順治元年鑲藍旗グサ・エジェン巴篤理という人物が11月から任命されたという記述がありますが、それまで誰がこの任にあったのかは記述がありません。《清史稿》にも巴篤理と言う人物の記事もあるので、アイドゥリと混同したと言うコトはおそらくは無いと思います(表記の違いであればおそらく、鎮國公巴篤理と表記されるはずなので)。ただし、翌順治2年にはベイセ・トゥンチグサ・エジェンに任命されて長期に渡ってその地位に居るので(順治5年にジルガランを告発するのはトゥンチなので、どちらかというとドルゴンより人物だったと思われる)、この辺もなんだかドルゴンジルガランの確執が関係あるようにも見えます。

 と言うワケで、謎のアイドゥリを調べて見たモノの、やはり謎のママでしたということですね…こりゃ。

  1. 《八旗通志》初集 巻一百三十五 宗室王公列傳七 豫郡王多鐸 [戻る]
  2. 《清史稿》卷三 本紀三 太宗 皇太極 二 崇德四年 [戻る]
  3. 《八旗通志》初集 巻一百三十八 宗室王公列傳十 貝勒博洛 [戻る]
  4. 《清史稿》卷三 本紀三 太宗 皇太極 二 崇德八年 [戻る]
  5. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖 福臨 一 順治元年 [戻る]
  6. 《清實錄順治朝實錄》卷三 [戻る]
  7. 《清實錄順治朝實錄》卷三 [戻る]
  8. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖 福臨 一 順治元年 [戻る]
  9. 《清實錄順治朝實錄》卷三 [戻る]

崇徳末年の王公序列

 ネットで《清實錄順治朝實錄》…まぁ、要するに《順治実録》のテキストを見つけたので、ツラツラ読んでいたのですが、いきなりこんなの見つけたのでメモ。フリンの擁立が決まりその継位を天地に報告する誓詞を王公が証人となった…みたいな記事に親王郡王ベイレベイセがズラーッと羅列されています。おそらくこれが崇徳末年ダイチン王公の序列です。たかが序列と思うなかれ、意外とこういう時の席次が当時の力関係を如実に示していたりするのでメモがてら列挙してみます。

崇德八年癸未、八月(中略)乙亥(中略)嗣皇帝位共立誓書昭告天地王等誓詞曰、代善、濟爾哈朗、多爾袞、豪格、阿濟格、多鐸、阿達禮、阿巴泰、羅洛宏、尼堪、博洛、碩托、艾度禮、滿達海、吞齊、費揚古、博和托、吞齊喀、和托 等i

 折角なので、順番は変えずに想定される所属旗と崇徳8年8月時点の爵位を当て嵌めてリストアップしてみましょう。

1 正紅旗:和碩禮親王・ダイシャンii、2 鑲藍旗:和碩鄭親王・ジルガランiii、3 鑲白旗:和碩睿親王・ドルゴンiv、4 正藍旗:和碩肅親王・ホーゲv、5 鑲白旗:多羅武英郡王アジゲvi、6 正白旗:多羅豫郡王ドドvii、7 正紅旗:多羅郡王アダリviii、8 正藍旗:多羅饒餘郡王アバタイix、9 鑲紅旗:ドロベイレ・ロロホンx、10 鑲紅旗:グサベイセ・ニカンxi、11 正藍旗:グサベイセ・ボロxii、12 正紅旗:グサベイセ・ショトxiii、13 鑲藍旗:鎮國公アイドゥリxiv、14 正紅旗:輔國公マンダハイxv、15 鑲藍旗:輔國公トゥンチxvi、16 鑲藍旗:輔國公フィヤングxvii、17 正藍旗:輔國公ボフトxviii、18 鑲藍旗:輔國公トゥンチカ?xix、19 鑲白旗:輔國公ホト?xx

 ザッと19名ですかね。ホンタイジの皇帝権を脅かしたと言われる、三大ベイのうちのアミン系マングルタイ系…とデゲレイ系が姿を消し、ホンタイジの即位を支えたダイシャン系支流のヨト系サハリヤン系が次世代に入っています。次世代の封爵から考えると、ヨトサハリヤン以外のダイシャン系ショトマンダハイのみでワクダフセの名前が見えません。又、ホンタイジ系ではショセの名前もこの時はありませんね。あと、意外にジルガラン系以外のシュルガチ系鑲藍旗旗王が多いですね。
 この数日後にドルゴン擁立を謀ったとして処刑されるアダリショトの序列が意外に高いのには驚きました。第7位と第12位です。しかし、ダイシャン正紅旗の中ではこの二人は確かに浮いた存在の様に見えます。切羽詰まった事情があったのかも知れませんね。
 あと、この当時はやはり、ジルガランの方がドルゴンより上の序列で、ホーゲドルゴンより下の序列なんですね。今まで何となく感じていた事がこのリスト見ると何だかスッキリします。
 また、ホンタイジ治世中には散々掣肘を加えられた後でもダイシャンがやはり王公筆頭で、アンバ・ベイレの頃の威厳を保っていることが分かります。実際にホンタイジ崩御後の後継者を決める会議もダイシャンが開催していますし、ドドがやけくそながら後継者として立候補するように説得に行ったりもしています。

 ただ、18人までは特定できたこのリストも、一人…13人目の鎮國公アイドリ?だけ詳細が分からないので、続けて確認します。……と、その後の調べから、どうやらアミンの第二子で鑲藍旗グサ・エジェンだったようですね。⇒参照:艾度禮艾度禮 その2

  1. 《順治実録》巻一 [戻る]
  2. Hošoi doronggo cin wang Daišan ヌルハチ嫡二子。 [戻る]
  3. Hošoi ujen cin wang Jirgalang シュルガチ第六子。 [戻る]
  4. Hošoi mergen cin wang Dorgon ヌルハチ第十四子。 [戻る]
  5. Hošoi fafungga cin wang Hooge ホンタイジ長子。 [戻る]
  6. Doroi baturu giyûn wang Ajige 後に和碩英親王。ヌルハチ第十二子。 [戻る]
  7. Doroi erke giyûn wang Dodo 後に和碩豫親王に復位。ヌルハチ第十五子。 [戻る]
  8. Doroi giyûn wang Adali ダイシャン第三子サハリヤンの長子。崇徳8年8月刑死。 [戻る]
  9. Doroi bayan giyûn wang Abtai ヌルハチ第七子。 [戻る]
  10. Doroi beile Lorohon 後に衍禧郡王。ダイシャン長子ヨトの第二子。 [戻る]
  11. Gûsai beise Nikan 後に和碩敬謹親王。ヌルハチ嫡長子・チュエンの第二子 [戻る]
  12. Gûsai beise Bolo 後に端重親王。アバタイ第三子。 [戻る]
  13. Gûsai beise Šoto ダイシャン第二子。崇徳8年8月刑死。 [戻る]
  14. Gurun be dalire gung Aiduri アミン第二子。鑲藍旗グサ・エジェン。順治元年6月刑死。 [戻る]
  15. Gurun de aisilara gung Mandahai 後に和碩巽親王。ダイシャン第七子。 [戻る]
  16. Gurun de aisilara gung Tunchi 後にグサベイセ。シュルガチ第四子・トゥリンの第二子 [戻る]
  17. Gurun de aisilara gung Fiyanggû シュルガチ第八子。元・鑲藍旗グサエジェン。崇徳8年12月卒。 [戻る]
  18. Gurun de aisilara gung Bohoto 後にグサベイセ。アバタイ第二子。 [戻る]
  19. Gurun de aisilara gung Tunchika? 後にグサベイセ。シュルガチ第四子・トゥリンの第一子 [戻る]
  20. Gurun de aisilara gung Hoto? アジゲ第一子。順治3年病没。 [戻る]
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