マンジュ王号の漢字音訳

 思いついて《清史満語辞典》上海古籍出版 を購入したところ、マンジュ親王号の漢字音訳があったので、メモ。

【和碩多隆俄親王(Hošo i doronggo cin wangi)】又は合碩多羅俄親王⇒和碩礼親王。
【和碩額爾克親王(Hošo i erke cin wang)】又は合碩額爾克親王、簡称は額爾克王⇒和碩豫親王。
【和碩法奉阿親王(Hošo i fafungga cin wang)】又は合碩発奮親王、和碩法奉親王⇒和碩肅親王。
【和碩墨爾根親王(Hošo i mergen cin wang)】又は和碩黙児根親王⇒和碩睿親王。
【和碩木特卜勒親王(Hošo i mutebure cin wang)ii】又は合碩木特卜勒親王⇒和碩成親王。
【和碩蘇勒親王(Hošo i sure cin wang)】又は合碩淑勒親王⇒和碩穎親王。
【和碩烏真親王(Hošo i ujen cin wang)】又は合碩烏真親王、和碩兀真親王⇒和碩鄭親王。
 サラッと成親王と克勤郡王では封号違うってコトもココで分かりますね…。

 ついでに多羅郡王も…。
【多羅巴図魯郡王(Doro i baturu giyûn wang)】又は多羅把土魯郡王⇒多羅武英郡王。

 も一つベイレも。
【多羅巴彦貝勒(Doroi bayan beile)】又は多羅伯陽貝勒、多羅巴顔貝勒⇒多羅饒餘貝勒。
【多羅厄勒供貝勒(Doroi elehun beile)】又は多羅厄勒紅貝勒⇒多羅安平貝勒。

 ただ、この辺は出典が書かれてないので、よくわからんのですよね。多分、漢文檔案とかにあるんでしょうけど。あと、本文では簡体字になってるのを、自分が無理矢理新字体に直してるので、もしかしたら字が違うかも知れませんし。

 ついでに言えば、《太宗実録》の崇徳元年の封爵では、親王郡王ベイレが封爵されてまして…。

(夏四月)丁酉。分叙諸兄弟子姪軍功。册封大貝勒代善、爲和碩禮親王貝勒濟爾哈朗、爲和碩鄭親王墨爾根載青貝勒多爾袞、爲和碩睿親王額爾克楚虎爾貝勒多鐸、爲和碩豫親王貝勒豪格、爲和碩肅親王岳託、爲和碩成親王阿濟格、爲多羅武英郡王杜度、爲多羅安平貝勒。阿巴泰、爲多羅饒餘貝勒。iii

 これで見ると、この頃の序列は…ダイシャン、ジルガラン、ドルゴン、ドド、ホーゲ、ヨト、アジゲ、ドゥドゥ、アバタイとなりますね。気になるのはサハリヤンが居ないことですかね…。このとき穎親王に封じられたはずですが、この頃死の床についていたはずなので、叙勲式には参加していなかったから書かれていないのかも知れません。
 で、ココで見ると、ドゥドゥとアバタイは同列扱いで、ベイレでは有るんですが、他の親王、郡王と同じように封号を貰ったみたいなんですよね。この後はベイレに封号を与えることもなかったようなので、崇徳元年の封爵の特色と言って良いでしょう。崇徳年間に没しているのに、ドゥドゥは安平貝勒と呼ばれるのに何となく違和感あったんですが、アバタイが出世して郡王になったから目だつだけなんですね。なんか目から鱗でした。

追記:《満文老檔》の該当部分に王号がザラッと…。

orin ilan de,gosin onco hūwaliyasun enduringge han i hesei ahūta,deote,juse be gung ilgafi,ce bume amba beile be hošoi doronggo ahūn cin wangjirgalang beile be hošoi ujen cin wangmergen daicing beile be hošoi mergen cin wangerke cūhur beile be hošoi erke cin wanghooge beile be hošoi fafungga cin wangyoto beile be hošoi mutebure cin wangajige taiji be doroi baturu giyūn wang obuha。

 実録では呼び捨てのヨトがヨト・ベイレ、アジゲがアジゲ・タイジになってます。こっちではドゥドゥとアバタイは抜けてますね…。

  1. 実際には hošoi doronggo ahūn cin wang=和碩礼兄親王 と称されることも… [戻る]
  2. その後降格されて、Doro i kicehe giyûn wang=多羅克勤郡王 [戻る]
  3. 《太宗実録》巻二十八 [戻る]

ホンタイジの接待狩猟

 と言うワケで、GoogleBooksで陳捷先センセの《皇太極寫真》を読んでたら、 面白い記事があったのでメモ。

昔太祖時,我等聞明日出獵,即豫為調鷹蹴毬。若不令往,泣請隨行。今之子弟,惟務出外遊行,閒居戲樂。在昔時無論長幼,爭相奮厲,皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少,人各牧馬披鞍 ,析薪自爨,如此艱苦,尚各為主効力,國勢之隆,非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵,或言妻子有疾,或以家事為辭者多矣,不思勇往奮發,……惟偷安習玩,國勢能無衰乎?i

 出典書いてなかったんですが、ネットで検索したら、どうやら、《太宗文皇帝聖訓》からの引用みたいですね。

崇徳元年丙子、七月丁卯。上諭。曰諸固山貝子爾等敬聽。朕言「昔太祖時、我等聞明日出獵、即豫為調鷹蹴毬。若不令往、泣請隨行。今之子弟、惟務出外遊行、閒居戲樂。在昔時無論長幼、爭相奮勵、皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少、人各牧馬披鞍、析薪自爨、如此艱辛、尚各為主效力、國勢之隆、非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵、或言妻子有疾、或以家事為辭者多矣、不思勇往奮發、而惟耽戀室家、偷安習玩、國勢能無衰乎?」ii

 句読点は《皇太極寫真》を参考にしてます。何が書いてあるかというと…

適当な訳⇒崇徳元(1636)年、7月丁卯。陛下は諸グサ ベイセ等にこう訓示された。「昔、太祖皇帝の御代、我等は明日猟に出ると聞けば、道具や鷹の準備をしたものだ。もし、猟に同行する命令がなければ、泣いて随行を願い出たものだった。今時のお前等は、ただ外に出て遊んだり、家の中でどんちゃん騒ぎするだけだ。昔は年齢に関係なく、お互いにいがみ合っていても、一旦猟に出ると皆一同に喜んだものだ。こういう時は供回りの者も少なく、各々が飼い慣らした馬に鞍を置いて、自分たちで薪を割って自炊したものだ。このように苦楽を共にして主人につくしたので、国勢は高まったのだ。今のお前等ときたら、猟に出ると言われたら、やれ妻子が病気でとか、やれ家事が忙しくてと何かと理由を付けては辞退する者が多い。進んで猟に出ようとも思わず、ただ家の中で思いに耽ってだらだらしているだけで、国勢が衰えないと言うコトがあるだろうか?」

 最近の若いモンは…と言う感じに書かれてますけど、カリスマ君主であったヌルハチと陰険あら探し大好きマンのホンタイジでは、一緒に猟に出るにしても部下のテンションは違ったって事では…w以前iiiも触れましたけど、多分、ホンタイジは一緒に接待ゴルフで回りたくないタイプの人だったように自分は思います。史書を見るに、猟自体は皆さん好きだったようですし。

  1. 陳捷先《皇太極寫真》遠流出版 [戻る]
  2. 《太宗文皇帝聖訓》卷一 [戻る]
  3. 『八旗制度の研究』メモ1 ─ドゥドゥの愚痴─ [戻る]

『八旗制度の研究』メモ2 ─順治年間の宗室の出征─

 と言うワケで引き続き谷井センセの『八旗制度の研究』のメモです。この本は『天理大学学報』で発表された「八旗制度再考」という八本に及ぶ論文が元になっています。入関前を対象とした本論は元の論文の通りなのですが、入関後のことを対象にした附論iが付いていることが、自分にとってはこの本の最大のセールスポイントです。

Read more

  1. 附論1 入関後における八旗制度の変化 [戻る]
1 2 3 4 5 6 10