辮髪の変遷

 と、久しぶりに辮髪ネタです。以前、金銭鼠尾と言う記事で、辮髪の変遷について触れました。うーん、正直あそこで書かれたような具合に変遷してきたかというと、疑問は残ります。というか、事実とは違うのではないかという気がしています。
 と、以下に参考資料をズラズラ上げてみましょう。

 まず、前期とされる時期の絵画資料デス。

 ダイ・チングルン…というかマンジュ・グルン建国当初の基本資料である所の所謂《満洲実録》です。

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分i


 いきなり生首で恐縮ですが、絵入りの史料にもかかわらず意外と辮髪を真正面から書いた絵が少ないです。基本的に帽子を被るのが満洲旗人の嗜みですから、事実がどうあれ絵画に描かれるのは帽子なり兜を被った状態のモノが殆どですねぇ…。まあ、自分も手元に史料を持っているわけではないので他の確認が出来ていないので何とも言えませんが…。
 絵はヌルハチに敵対したジュシェン(女真)の実力者・ニカンワイランの首級をヌルハチが検分しているところです。敵対していたとはいえジュシェンですから、当然辮髪ではありますが、所謂ラーメンマン辮髪かというとそうは見えませんね…。
 精々があの記事で主張するところの中期あたりの辮髪と言うことになるでしょうか?

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分ii


 同じ絵から他のサンプルを見繕ったモノの…あまりよく分かりません。でも、所謂ラーメンマン辮髪ではないように思えます。頭のてっぺんではなく、後頭部の毛を残す感じデスよね。

《満洲実録》〈生擒哈達部首領図〉iii


 もう一つ、違う絵から見つけてみましたが、やはりよく分かりません。この人もアイシンギョロの人ではなく、ハダの人ではありますが、ジュシェンには違いないので良しとしましょう。
 ただ、《満洲実録》は起源は古いモノの、乾隆年間に再編されたモノなので、絵自体も当時の風俗ではなく乾隆年間風俗を反映している可能性はあるわけですが…。

〈胤禛読書像〉iv


 で、意外と辮髪の画像史料というのがパッと出て来ない…ので、いきなり雍正帝の肖像まで跳びます。雍正帝即位前の肖像なので、正確には皇四子和硯雍親王胤禛の肖像という所ですかねぇ…なので、正解には雍正年間ではなく、康煕年間の風俗として捉えるべきでしょう。勤勉なイメージに反して皇帝の肖像自体はコスプレシリーズもの含めて多く残している印象があります。
 で、ココで強調されているので尚更気がつくわけですが、あんまり剃りが綺麗じゃないようですね。前の《満洲実録》の挿絵もそう言えば剃り跡を強調しています。皇族自ら辮髪鉢巻きしている珍しい画像でもありますが、映画みたいに太々しい辮髪でも無いようです。成る程貧弱な模様ですね。まあ、雍正帝は勉強好きでしたし、後継者争いで勤勉アピールする必要もあったかも知れないので、ちょっとやつれている具合に辮髪伸びてるところの肖像画を描かせたという可能性はあるわけですが…。
 で、辮髪鉢巻きが出来るくらいなので、やはり頭のてっぺんを残すような辮髪ではないようですね。どうにもあの説は眉唾です。

〈塞宴四事図〉(部分)v


 で、次は中期とされる時期である乾隆年間のサンプルです。乾隆帝満洲特有の風俗を復興させようという意図が見える絵画の中に出て来る辮髪なので、もしかしたら差し引いて考えるべきなのかも知れませんが、やはり頭のてっぺんではなく、後頭部の拳大の箇所を残した辮髪です。ナカナカ興味深いですね。さらに興味深いのは、残す部分以外は綺麗に剃り上げてますね。サンプルが少ないので何とも言えませんが、むしろおしゃれです。

〈乾隆帝八旬万寿図巻・城市商貿〉之一(部分)vi


 で、これも乾隆年間の絵画ですが、これは乾隆帝の八十歳記念のパレードの様子を描いた絵画ですが、市井の人々も書かれています。漸く市井の人々が後頭部から生やした毛を辮髪にしているのが確認が取れました。

 うーん…やっぱり絵画資料からはラーメンマン辮髪はあんまり見られないかも…。というか、頭のてっぺん残すという辮髪は写真資料で見たこと無いカモですねぇ…。とはいえ、清末のように多くの部分を伸ばすスタイルは存外時代を下らないと散見されないのではないか?という仮説にはたどり着けたかとは思います。でも、このサンプルだけでは何とも言えませんね…。と言うワケで、探求という名の旅は続くのでした…(以下資料を追い続ける旅に出るのです…)

  1. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  2. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  3. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.45 [戻る]
  4. 《清史図典》第五冊 雍正朝 P.7 [戻る]
  5. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上P.22 [戻る]
  6. 《清史図典》第七冊 乾隆期 下P.326 [戻る]

前門の関帝廟

 今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。
 で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。

 神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシリを遠征したとき、関公が霊威をあらわし、砂塵煙霧のうちに、常に軍隊を誘導したと伝える(劉侗『帝京景物略』)。i

 かつての北京には至る所に関帝廟があったようですね。その中でも前門関帝廟は場所もあいまってランドマーク的な意味合いもあって大層人気があった模様です。で、上の記事で上げられてる《帝京景物略》が手元にあったのでパラパラ捲ってみたところ、確かに該当の記事がありますね。

關帝廟
關廟白古今、偏華夷。其祠於京畿也、鼓鐘接聞、又歳有増焉、又月有増焉。而獨著正陽門廟者、以門於宸居近、左宗廟、右社稷之間、朝廷歳一命祀。(中略)
先是成祖北征本雅失理、經闊灤海、至斡難河、撃敗阿魯台。軍前毎見沙濛霧靄中、有神、前我軍駆、其巾袍刀仗、貌色髯影、果然關公也、獨所跨馬白。凱還、燕市先傅、車駕北發日、一居民所畜白馬、晨出立庭中、不動不食、晡則喘汗、定乃食、回蹕則止。事聞、乃勅崇祀。ii

 と、まあこんな感じデス。砂漠でいきなり砂嵐に遭遇したら、髯のオッサンが現れて先導してくれたわけですね。髯だからアイツ関羽だったんじゃね?と軍中で噂になって、帰ってきたら前門に妙ちきりんな白馬がいるからとりあえず祀ってやるさ!って感じですかね?
 胡散臭さ満点なので、多分関帝廟の箔付けのために永楽帝に仮託された与太話なんでしょうけど、少なくとも明代には前門には関帝廟があったという証拠にはなるでしょう。

 で、その前門関帝廟は今現在存在しません。いつの間に消えて無くなったんでしょうか?

 明代はとにかく軍人中心に関羽信仰が強かったと言われます。何せ、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に、朝鮮半島に進駐した明軍は駐屯地に関帝廟をワザワザ建設されたと言いますiii。遠征の駐屯地にすら関帝廟を欲するくらいですから、国都の中心たる前門関帝廟があったとしても驚くには足りないのかも知れません 。
 次の清代ではマンジュ皇族からして大の関羽好きです。入関前にはホンタイジ漢人官僚に批判されるくらい《三国演義》にのめり込んだり、のめりこむあまり《三国演義》のマンジュ語訳が国家事業としておこなわれたり、その後もダイチン・グルン歴代皇帝は毎夕坤寧宮シャーマン関羽を祀ったといいますから、国を挙げて関羽が好きだったみたいですね。 試しに手持ちの絵画を捜してみたら、康煕帝が南巡した際の様子を描いた《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》の部分に前門甕城内に描かれた関帝廟らしき建物が確認出来ました。

《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》(部分)iv


 清代では天壇で祭事を行う際、歴代皇帝前門・関帝廟を参拝して線香を供えたと言いますから、余程崇拝されたんでしょうね。

 で、その後の顛末をWikipediaで確認して見ると、前門こと正陽門は1900年の義和団事件で戦乱に巻き込まれて外郭である大柵欄が焼け、それに続く八ヶ国連合軍進駐の際に見張りに立っていたインド兵の不審火が原因で火事が発生して前門が焼け落ちたみたいですv。当然、この際に件の関帝廟も焼け落ちたと考えても良いでしょう。

 で、焼け落ちたのなら今の正陽門は何なの?と言うコトになりますね。現在の正陽門中華民国3(1914)年に再建されたモノです。その際に関帝廟も再建された様ですね。
 ただ、1909年刊行の『北清大観』という写真集にも関帝廟菩薩廟らしき建物が写っているviので、再建されたモノなのか?元々甕城内は被害が軽微だったのかは自分には判断出来ません…。
 中華民国4(1915)年に京奉鐵路敷設のために前門甕城が除去された際も、関帝廟は壊されなかったようです。その後、軍閥抗争の際にも、日中戦争時にも、国共内戦の時も、再建された関帝廟は壊れずにいたようですね。
 下の写真は1957年頃撮影された正陽門ですが、バッチリ関帝廟菩薩廟も写ってます。
 

1957年頃の前門vii


 では、戦火を潜り抜けてきた関帝廟はいつ消えて無くなってしまったのか?というのを、先のWikipediaの記事で確認して見ると…案の定、文革の時に壊されてしまい、そのまま今日まで再建されていないようですね…viii

正陽門(2008年11月宣和堂撮影)


 今、民国初期風の街並みをモデルに綺麗に整備された正陽門の前に関帝廟を再建すれば、それなりに観光客を集めることにはなるんでしょうが、なんだかやるせないですねぇ…。勿論、考証的にはココに関帝廟がないとおかしいんですが…。まあ、以前なら文革でぶっ壊れたなんて言う記事は捜しても見つからなかったはずですから、時代も変わったと信じましょう。

  1. 内田道夫『北京風俗図譜 2』P.18 [戻る]
  2. 劉伺・于奕正《帝京景物略》北京古籍出版社 P.97 巻之三 城南内外 [戻る]
  3. この辺は本ではなく三国志学会 第ニ回大会で金文京センセの発表で聞いた話。詳しくはこのページを参照→2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 三国志ニュース [戻る]
  4. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上 P.91 [戻る]
  5. 正阳门箭楼在1900年义和团拳民焚烧前门外大栅栏时被飞溅火星引燃烧毁,城楼在当年冬天被生火取暖的印度士兵不慎烧毁,目前的正阳门是民国三年(1914年)改建的。 Wikipedia 正阳门 [戻る]
  6. ディジタル・シルクロード 東洋文庫アーカイブ 北清大観 : vol.1 P.141 [戻る]
  7. 『北京』岩波写真文庫 P.19 [戻る]
  8. 文革期间,正阳门关帝庙与观音庙一同拆除。Wikipedia 正阳门 [戻る]

黄馬掛

 と言うワケで辮髪画像が整理つかなくなってきたので、その過程で見つけた…というか今まで気がつかなかっただけなんですが、黄馬掛の画像を見つけたので、お茶濁すべくアップ。
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金銭鼠尾

 Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。
 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。
 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型のことを日本では古くから辮髪と呼んでいたわけですが、当地ではそんな呼び方をしてはいないみたいなんですよね…。ちなみに、辮髪という用例自体は検索すれば古文でいくらでも引っかかるので和製漢語というわけではないです。ただ、清朝で通行したあの髪型をそう称すことは日本だけみたいですが。ではなんと呼ぶかというと、大体は大辮子とか単に辮子と言う言い方するみたいなです。これはPigtailと同じく女の子のお下げ髪のことも指すわけで、検索するとお下げ髪の女子の方がヒットしてノイズありまくりでナカナカ思ったような結果が得られませんでした(何かエロい記事とかも多いので特に)。で、金銭鼠尾というキーワードを入れてみると、ザクザク辮髪記事辮髪画像が得られるわけです。やった~!

 で、検索結果出てきたのがこの文章です…→清代辫子的演变:从鼠尾、猪尾到牛尾

 どうも、この新聞記事?がそこら中にコピペされて検索に引っかかりまくってるようですね。iこの記事によると、清朝初期、入関した頃は金銭鼠尾といわれる、所謂ラーメンマン辮髪にしていたようですね。髯をどこまで伸ばして良いのか?といった規定まであったと、この記事では書いてますね。このあたりは自分も初耳です。
 と言うワケで以下は訳ではなく大意、意訳デス…念のため。

辮髪今昔

1-後金時期:ダイチン・グルンは降伏した漢族に帰順の意思表示としてその辮髪を強要した。結果的にダイチン・グルン領内の漢人男性の大部分は頭髪を剃り上げることになった。その際には頭のうしろの毛を小指ほど残して結んで垂らしていた。髯も上唇にはやすだけであった。これを金銭鼠尾式といった。ii

2-入関時期:明の旧領を接収したダイチン・グルンは領土内の全ての漢人に辮髪を強要する。辮髪を嫌って反乱を起こす漢人は多く犠牲となった。この時期から徐々に髪を残す部位は頭の後から頭頂に移動したが、これも金銭鼠尾式と称しても良いだろう。iii

3-清代中期:髪を生やす部位は変わらなかったが、髪を留めておく面積が増えてた。かつては金銭一枚分の面積だけだったのが、この頃には金銭四~五枚分=こぶし一個分の面積を残すようになっていた。髯は上唇だけでなく、あごまで伸ばしても良くなった。iv

4-清代後期:嘉慶以後、次第に頭頂を中心とした髪の周縁を部分を剃るだけになっており、髪は頭の後で三つ編みにして垂らしていた。この髪型は辮子とか、髪辮と呼ばれた。v

5-清代末期:清末から清の滅亡まで、開明的な知識人や学生は民主化や革命運動の中で、辮髪を切り落とすことを重要なコトだと捉えていた。清全土で身分の上下を問わず辮髪を切り落とす現象はどこでも見られた。

 で、あと辮髪変遷の傾向として上げられているのが以下の三点です。

1-頭髪を残す範囲が段々大きくなる傾向がある。初期の金銭鼠尾式から中期の髪をこぶし大残すモノでは面積が大きくなっているし、後期は殆どの髪を残すまでになっている。このことを比喩的に表現すると、はじめは鼠の尻尾で、次第に豚の尻尾になり、最後には牛の尻尾になったと言える。また、頭髪は時代を経ると面積本数ともに増える傾向にあり、辮髪は編み目が大きく荒くなる傾向がある。

2-清代通しての辮髪の変遷を整理すると、為政者の意志を反映したモノではなく、また、リーダーシップを取った者も不在で、ごく自然発生した変遷であったこと。漢満の別もなく、軍民の別もなく、官吏・商人・農民・市民・皇帝の別もなく、皆一様に変化している。

3-辮髪の変化の速度は一様ではないこと。順治元(1644)年の清の入関から、嘉慶4(1799)年までの間は155年あり、清朝267年の歴史の大半を占める。髪を留めておく面積は増加の傾向にあるものの、その速度は実にゆっくりとしたものであった。嘉慶年間に入っても、最も多い人間でも髪は全体の三分の一程度であった。しかし、嘉慶以後髪を留めておく速度は加速し、百年もしないうちに頭髪の大部分を残し、全体の三分の二まで残すようにまでなった。髪型の変遷のスピードは清朝の統治能力の強弱と丁度反比例しており、統治能力が高い時は変遷は緩やかだが、統治能力が落ちると変遷は加速している。

 最終的にこの文章では、テレビドラマの辮髪は皆、清代後期辮髪を参考にしていて、考証的には間違っていると指摘してますね。ドルゴンなら後頭部型の金銭鼠尾式のハズですし、乾隆帝なら中期のこぶし大辮髪のハズですからねぇ。
 とはいえ、ちょっと図版等を見るとこの記事鵜呑みには出来ないなぁ…とも思うわけで…その辺はまた機会があれば。

  1. 百度の金銭鼠尾の項はこれを思いっきりコピペしてたからか?現在閲覧出来なかったり…Googleのキャッシュにはあったので内容は確認済み。 [戻る]
  2. 図で言うところの前期の絵の後頭部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  3. 図で言うところの前期の絵の頭頂部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  4. 図で言うところの中期の絵? [戻る]
  5. 図で言うところの後期の絵? [戻る]

陰門陣

 と、言うわけで『義和団事件風雲録』を読んでいて見つけた陰門陣ですが、Googleさんで検索すると、割と2chあたりの記事に引っかかりますね…。流石に邦訳あるんだろうなと思ったらやっぱりあるんですな。たまたま実吉達郎『中国妖怪人物辞典』講談社 が手元にあったのでちょっと長めですが抜粋してみます。

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