南都をフラフラ歩いてみた
と言うコトで、帰省がてら奈良に行ってきました。奈良国立博物館で展示されていた神護寺蔵 伝・源頼朝像目当てです。お盆期間中ですし、展示終了時期も迫っていたので大層混んでいるだろうと身構えていったのですが…てんで人が居ませんでしたね。それはもうビックリするくらいwかなりの時間を独り占めで伝・源頼朝像を見ることに充てることが出来ました。
宣和堂の節操のない日記
と言うコトで、帰省がてら奈良に行ってきました。奈良国立博物館で展示されていた神護寺蔵 伝・源頼朝像目当てです。お盆期間中ですし、展示終了時期も迫っていたので大層混んでいるだろうと身構えていったのですが…てんで人が居ませんでしたね。それはもうビックリするくらいwかなりの時間を独り占めで伝・源頼朝像を見ることに充てることが出来ました。
と言う次第で、昨日の続きです。本来は鎌倉で大きな行事をやっていたようなので、そこに行くべきだったんですが…まあ、京急追浜駅に辿り着いてしまった上に、残り時間にもそう余裕はなかったので、のんびり金沢文庫から称名寺に抜けるコースを選択しました。
と言うワケで、金沢文庫です。ちなみに、歴史的な読み方としては、金沢(かねさわ)流北条家が本拠である金沢郷(かねさわごう)に築いた書庫のことなので、歴史的には”かねさわぶんこ”と読みます。ただ、地名としては”かなざわぶんこ”と読むわけでややこしいんですが、北条贔屓としては、やはり”かねさわ”と読みたいですねw
で、ここでは歴代得宗、歴代執権や歴代連書の花押の入った系図などをボンヤリ見ながら、鎌倉幕府の滅亡に思いを馳せたりしましたw潔すぎるにしてもほどがあるwwwやっぱり、鎌倉幕府は承久の乱、蒙古襲来、幕府滅亡が大きな見せ場ですからねwww
で、称名寺の浄土式庭園です。金沢文庫自体が称名寺の庫裏の様なモノだったので、金沢文庫は称名寺のすぐ裏手にあるわけです。まあ、知名度から言うと、全然金沢文庫の方が高いわけですがw
こないだ来た時は橋が修復中だったのでかなり印象違いますね。池は浅くて濁っていましたが、鯉や亀が大量にいて何故か和みました。
見つけるまでもなく必ず視界に入る感じデス。組み体操までしてるくらいですしw
鎌倉の頼朝邸と考えられる大倉幕府跡にあった頼朝の持仏堂を頼朝死後に法華堂としたり、北条義時の持仏堂が大倉薬師堂となって覚園寺の元となったりしています。この時代の寺院の一つの形態として、有力者の邸宅内に持仏堂(仏教的な建築物)が、主の死後仏教的な堂宇として使われ、時には邸宅自体が寺院として整理されると言う類例が多いので、称名寺も元は金沢流北条氏の邸宅内の持仏堂か、若しくは邸宅そのものであった可能性は高いと思います。中でも、この釈迦堂は藁葺きの正方形状の建物で、規模こそ違うモノの覚園寺の薬師堂を彷彿とさせます。実に鎌倉っぽい気がします。気のせいだとは思いますがw
気になって手元にあった松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く 源頼朝から上杉謙信まで』中公新書 パラパラ捲ったら、P.78の元亨3(1323)年に書かれた称名寺大結界絵図が載ってたんですが、この絵の中にはこんな建物見当たらないですねぇww
まあ、それより何より三鱗です。流石に開基が北条実時だけあって、境内にはふんだんに三鱗があしらわれています。見つける度に奇声を上げながらカメラに納め捲くりました。以下はその一部ですw
実に映える…。
仏様にも三鱗です。
屋根から降る三鱗の雨あられです。
鎌倉に出られなかったのは残念ですが、実に三鱗フルな休日を送れまして、実に満足でしたwやはり最後は赤門の表にあしらわれてる金地の三鱗ですw
と言うワケで、いつも通りに上京ついでふらりと鎌倉方面に行ってきました。今回は神武寺→鷹取山摩崖仏→金沢文庫→称名寺というコースです。
で、今回の目的は一応、神武寺と摩崖仏を見て回ると言うコト以外はノープランの適当なモノです。鎌倉で行事があったみたいですが、人が多いので回避したくらいなモノなのです…。
ネットで検索すると、神武寺までは京急神武寺駅からも、JR東逗子駅からもそれぞれ三十分程度と書かれていますが、実際はJR東逗子駅の方がこの写真の場所までは近いです……。が、問題はこの目印を過ぎたところから始まるわけで…。
いきなり、モンハンみたいな感じの道になります……。気持ち、目印から山門までで三十分はありそうです…。結構足場の悪い獣道風の道無き道をズンズン進みます。人もまばらで本当に観光スポットなのか迷いながら進みます。女性は絶対にズボン履きでトレッキングシューズなり装着で望んだ方が良さそうです。参道じゃなくて、きつめのハイキングコースだと思った方が良いと思います。
境内はそんなに広くはありません。が、やはり獣道をズンズン進んできた甲斐あってか静謐な場所ではあります。まあ、自分ら行った時はボーイスカウトのお子様達が奇声上げながらかけっこしていたので、静謐とはほど遠い感じでしたが…。
絵で見るとナカナカナイスですね。小さいお堂も割と映えます。ただ、結構来るまでに気合い入れなきゃいけないので、参拝客よりもハイキングしてる人の方が多いように感じましたが…。で、見るモノもそうないので、ここから更にハイキングコースを伝って鷹取山摩崖仏に行きます。
が、ここからも更に三十分くらいのモンハンロードが続きます。平たい道で三十分を考えると、割と足下がおぼつかない道を行かなければならないので、体力勝負です。それなりに楽しいのですが、写真撮ってると転落しそうな気もしたのであまり写真も撮らず…(考えればむしろ撮っておくべきだったんですが…)。鎖つたって登るような箇所もあるので、そこそこ急な場所もありました。……が、先ほどのボーイスカウトも楽勝でついてきてたので、小学生でも踏破出来るコトは出来るんですがねw
ついつい途中で忘れがちでしたが、この鷹取山には摩崖仏を見に来たのでありました。昭和に入ってから作られたみたいなんで、テーマパーク程度のありがたみしかないかも知れませんが、ナカナカ大きい仏さんです。
途中、ロッククライミングに興じる人々が大勢おられましたが、ここはそう言う所みたいですね。垂直に切り立った岩に原生林じみた植物群は、どうにも鎌倉中とは違った地質、植生を感じさせました。ここだとやぐらは作れそうにないです。
今度はむしろ、森メインで来ても言いカモ!と思う程度には圧倒的でしたw
と言うワケで先々週に行った鎌倉の写真デスだ。
先週は光明寺分だけアップしましたが、まあ、その後ちょこちょこ行ってますので、その分です。
以前にも行った覚園寺ですが、震災の影響で一時間に一度のガイド付き解放も時間短縮!と聞いていましたが、ガッツリ一時間掛かりましたね…。相変わらず、美味しいところは撮影禁止なので覚園寺に行く道で咲いていた紅梅を撮影。
宝戒寺では不足した三鱗を補充。特に徳崇権現は北条得宗家をお祀りした神社なので、鎌倉詣でをするならマスト。と言いつつも、境内あまり広くないので徳崇権現参拝くらいしかして無いww
あらゆるアイテムに三鱗がつくあたり、流石北条鎮魂の神社です…と言ってもそんなに大きくはないんですが…。
同行した方には、ネズミーランドのみっきー探しみたいだと言われましたが、割といろんな所に三鱗があしらわれています。テンション上がりますね。
宝戒寺も北条得宗家鎮魂の為に建立されただけあって、瓦頭に三鱗がキチンと…。季節柄桜の合間から三鱗です。
他にも色々撮ったモノの、グッとくるモノもなかったので割愛。八幡宮の桜で何となく〆てみますw
と言うワケで、先週末には鎌倉に花見に行ってきました。またかと言われながらデスが、何度行っても良い街デスよw
今回は光明寺→九品寺→補陀洛寺→宝戒寺→覚園寺→鶴岡八幡宮という感じのコースでした。
今回、参考にしたのは松尾剛次『鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景』歴史文化ライブラリー という本ですデス。
光明寺は鎌倉時代には小坪といわれた鎌倉中(乱暴に言うと、東京で言うところの23区に相当)の東南の境界線上にあるお寺です。今までは北鎌倉…つまり山内あたりを中心に回っていたので、結構新鮮です。
光明寺は江戸時代以降にこの地に移って来たと推測されます。それ以前はこの土地には極楽寺系のお寺があったみたいですね。結構敷地が広いお寺なのに今まで足を運んでいなかったのは、割と新しい寺だから…と言うコトもあるわけです。
鎌倉時代には、貿易港として活用された築島である和賀江島が近いことから、光明寺の境内には元々極楽寺系の寺院があり、和賀江島の維持管理と関所米の徴収を一括していたようです。鎌倉へ入る開運の荷は一旦は和賀江島を経由するので結構な財力を振るったようですね。
光明寺の開基は四代執権・北条経時とされ、境内にも北条経時を祀った宝塔があります(上の宝塔の画像に”平朝臣経時”と掘られています)。しかし、寺紋は菊紋と桐紋ですし、あまり境内では北条一族を感じさせませんね…。一応、開基は北条経時説の他に大佛朝直説があるんですが、大佛朝直も大佛流北条氏なわけで、移転の際に三鱗が抜けちゃった感じデスねぇ…。
現在の光明寺はむしろ江戸時代の空気は感じました。上の写真は光明寺境内にある九州延岡藩内藤家墓所なのですが、パッと見はボロブドゥールかなんかの遺跡のようです。墓所なので中に入ることは出来ませんが、敷地全体を見渡すことが出来ます。わかりにくい場所ですが(北条経時の宝塔を見た帰りに発見したくらいデス)、実に幻想的です。
今までこの辺は来たことがなかったのですが、逗子に近いせいか?海を感じられる土地柄ですね。釜揚げのしらすの臭いのする街でした。
と、何となく続きます。