ホーゲとドルゴン
と言うワケで閑話休題。因縁深いホーゲとドルゴンの話です。
よく知られているように、この二人はホンタイジ死後、自派を恃んで帝位を狙いながら双方辞退するワケですが、史料読んでるとそれだけじゃないですよね。
ヌルハチの十四子・ドルゴンとヌルハチ八子・ホンタイジの長男・ホーゲは叔父甥の関係ですが、《玉牒》を元にしたやたらと生没年に詳しい《清皇室四譜》に拠ると、ドルゴンの生年は万暦40(1612)年12月25日寅の刻(ホントに時間まで書いてある)、ホーゲの生年は万暦37(1609)年3月13日子の刻の生まれなので、実はホーゲの方がドルゴンより3歳年上の甥なわけですね。
更に母親は共にウラナラ氏で親族だったようです。ホーゲの生母はドルゴンら白旗三王の生母=大妃・アバガイの從姑……ってどんな間柄なんでしょうね…。まぁ、近親とはいえないまでも親族である太宗の継妃でした。この辺後宮の制度が整備されていないので正妃五名とは区別されたもののどれくらい違ったのかはあまりよく分かりません。ともあれ、生まれから言えばホーゲとドルゴンにはそう差が無いわけです。
天命年間にはドルゴンがホショベイレに任じられていますが、ホーゲは無位無冠の部屋住みだったようです。ホンタイジが即位した天聰元(1627)年当時はホーゲが数え18歳、ドルゴンが数えで15歳で血気盛んな思春期です。マンジュは庶嫡の別が厳しいので、ホーゲの母親は庶妃扱いなのでフリンとは差がつくのは仕方が無いのですが、年下の叔父であるドルゴンよりは皇帝であるホンタイジとは血の繋がりが濃いわけですから、ホーゲの方が血は貴いハズです。微妙ですが。
天聰2(1628)年にはチャハル部遠征で功を上げたドルゴンにはメルゲン・ダイチンの称号が下賜され、以降、ドルゴンは天聰年間はメルゲン・ダイチン・ベイレと称されています(同時にドドにはエルケ・チュルフの称号が下賜されている)。この辺は白旗三王の傘下にある両白旗(ヌルハチ時代の両黄旗)に対するホンタイジの懐柔策だと思われますが、同じように従軍していたホーゲには恩賞はなしです。又、天聰5(1631)年に六部が設置された際も、ドルゴンは吏部を管轄しています。一方、ホーゲは六部には関われませんでした(どうやらデゲレイの死後、正藍旗旗王だけでなく戸部の担当も引き継いだ模様ですが…)。そして、ホーゲは天聰6(1632)年になってようやっとホショ・ベイレに封じられています。立場の違いはあるわけですけど、出世から見るとドルゴンとかなり差がついてます。
天聰9(1635)年のチャハル部リンダン・ハーン遺衆の摂取にもホーゲは参加していますが、ドルゴンが主将でホーゲは随将です。天聰年間ではドルゴンが方面軍司令官くらいの責務は負ってるのですが、ホーゲは随将でしかないです。これも、鑲白旗旗王のドルゴンと鑲黄旗の旗王とは言えホンタイジの名代としての旗王であるホーゲの違いが出ているのでしょうかね。ともあれ、この後主将・ドルゴン、部将・ホーゲという組み合わせで遠征に出ることが多いのですが、マンジュの軍隊編成は、兄弟や親子など近親者で纏まられることが多いので、この辺も母系が近いからホーゲと白旗三王はひとまとめにされてた可能性もあります。まぁ、近親者が常に同じ部隊に編成されるわけでもないので、この辺は断言できないのですが、それにしても外征に出ると大概この組み合わせだというのは注目に値すると思います。
この年の後半には、マングルタイ兄弟謀反未遂事件があり、ホーゲにとってみれば妻が謀反事件に関わったと言うコトで、当事者と言うコトになります。ホーゲは事件が一段落すると、猜疑心の強い父・ホンタイジの追求を逃れるためか、自らの手で妻を殺害しています。そもそも、この事件の発端もマングジ・ゲゲの娘婿だったホーゲにリンダン・ハーンの未亡人・ベヒ太后が下賜されたことであったのも、何か因縁めいてますね。一方、ドルゴンはこの時期、ホルチン部から後に元妃に封じられる女性を迎えに行っていたのでこの事件とは無関係のようです。ホンタイジの皇帝権を考える上では、両紅旗ダイシャン系の権勢を削って以降殆ど隠居状態に追い込み、正藍旗マングルタイ系を抹殺したこの一連の事件は大いに注目されるべきですが、ホーゲの今後にとっても小さくない出来事であったと、宣和堂は考えます。
翌年崇徳元年(1636)年、ホンタイジの二次即位に伴いドルゴンは和碩睿親王(ホショ・メルゲン・チンワン)に、ホーゲは和碩叔親王(ホショ・ファフンガ・チンワン)に封じられています。爵位でホーゲとドルゴンがようやく列んだ瞬間です。が、前年のマングルタイ兄弟謀反未遂事件の余波で和碩成親王・ヨトから誣告を受けたホーゲは、早速ベイレに降格されてしまいます。妻の実家であるマングルタイ家を救わなかった上、その妻を自ら手にかけたわけですから、その妻の妹の夫…要するに義兄弟であるヨトとはお互いしこりが残っていたようですね。
で、ホンタイジの二次即位に賛同しなかった朝鮮に対する二次侵攻の際、やはりホーゲはドルゴンの下に付いて遠征に出ます。次いで、ホーゲは旗下のグサエジェン・オモクトゥiが罪に問われると連座して、戸部担当旗王の役職を解任されています。オモクトゥを罪に問わず放置していたという理由でホーゲは罪に問われているので、ホーゲはオモクトゥを庇ったのでしょうし、オモクトゥはホーゲ派にカウントして良いと思います。
崇徳3(1638)年~4(1639)年にかけて行われた大明遠征ではドルゴンは奉命大将軍として八旗左翼の指揮を執っています。左翼には当時ホーゲが所属していた正藍旗も所属していますから、ココでもセットで遠征に参加しています。ちなみに右翼はホーゲと因縁のあるヨトが奉命大将軍として指揮してますから、こっちの方がホーゲも気が楽だったでしょうね。崇徳4(1639)年、左翼軍がムクデン(瀋陽)に凱旋すると、ドルゴンは褒美を下賜され、ホーゲは親王に復位して戸部の役職にも復帰します。
崇徳5(1640)年には遼東の松山・錦州戦線にドルゴンが主将、ホーゲが部将というおなじみのパターンで出征。洪承疇が杏山に移動してきたのを見て、ドルゴンとホーゲは独断で軍を移動させて一部の兵を帰国させますが、これが軍規違反としてホンタイジの叱責を受けて、二人とも親王から郡王に降格されます。翌崇徳6(1641)年~7(1642)年、ドルゴンとホーゲは再び遼東戦線に出征するモノの、今回ホーゲは鄭親王・ジルガランの旗下の部将として遠征に参加した様です。ともあれ、松山を下して洪承疇を降した軍功が認められて、ムクデン(瀋陽)凱旋後にドルゴンもホーゲも親王位に復しています。
で、崇徳8(1643)年、先年から体調を崩しがちだったホンタイジはおそらく脳卒中で崩御します。これまで見てきたとおり、一緒に組んで戦場に出ることが多かったドルゴンとホーゲですが、ホンタイジ政権下ではドルゴンが一段上に見られていたことは、これまでの経緯で分かると思います。しかし、ホンタイジ崩御を機にドルゴンとホーゲは対立を先鋭化させます。近親者と言うだけでなく、戦場を共にした上官と部下であり年下の叔父と年上の甥の争いです。おそらく手の内はお互い知り尽くしていたのでしょう。ただ、よく分からないのがドルゴンとホーゲの対立の原因です。
他の派閥のビジョンは分かりやすいと思います。ホルチン閥と両黄旗の有力大臣・旗人達はホンタイジ体制の継続を目指したのでしょう。史料からは読み取れませんが、状況から見ておそらく鑲藍旗のジルガランもドルゴンより先にこれに賛同したのでしょう。両紅旗のダイシャン系の旗王達はホンタイジにことあるごとに圧力をかけられていましたから、ホンタイジ体制を否定したはずです。ここまでは良いでしょう。しかし、ホンタイジ崩御時点でドルゴンとホーゲが帝位を目指し、対立した理由とは何だったでしょうか?…史料を読んでいるだけではサッパリ分かりません。これだけ近しいのですから、どちらかがどちらかの支援を決めれば、フリン派が台頭するまでもなく多数派を占めることは容易だったはずです。経緯を見るに、お互いにお互いを帝位に即けることだけは避けたかったように思えます。ただ、その対立の原因はサッパリです。ホーゲとドルゴンの関係には隙があったというのは、史書では散々書かれていますが、その発端となる原因などが全く書かれていないのです。この辺謎ですね。
さて、ドルゴンはホーゲを帝位には付けたくなかったようですが、早い時期から自分が即位すると言う選択肢を切り捨てたようです。ホンタイジ崩御の10日後にダイシャン主催の後継者を決めるための会議が開催されますが、数の上ではドルゴン派は、フリン派、ホーゲ派を圧倒していませんし、よしんば政治工作で後継者争いに勝利したとしても、矢面に立って両派からの掣肘を受けるのをドルゴンが良しとしなかった…というのが通説です。しかし、ドルゴンに皇帝になる意欲が本当にあったのでしょうか?個人的には懐疑的だと思いますが根拠は薄いのでホントにそうかな?と言うに留めておきます。ともあれ、ドルゴンは早々に後継者への立候補を諦めましたが、周りのドルゴンへの期待というのは結構高かったようです。弟のドドはこれに異議を唱えてドルゴンが後継者レースに出馬しないならドドが自分で出馬すると言ってドルゴンに止められてます。ドドはそれなら一族の長老格であるダイシャンが即位すべきだ!と息巻いて、ダイシャンからは老齢を理由に断られてます。後述するように、この時のドルゴンに失望したドドは、一時期ホーゲに接近してドルゴンではなくホーゲを推戴すべきだった…と、ホーゲに語ったとホーゲ自ら後に語ったとされています。白旗三王が案外一枚板ではなかったとされる根拠ですね。又、フリン即位が決定した後も、後述するように両紅旗のダイシャン第2子のグシャンベイセ・ショセとサハリヤンの嫡子である多羅郡王・アダリがドルゴンに即位を嘆願しに来るので、ドルゴン派は両白旗だけに留まらなかったようです。
ドルゴンは後継者への立候補を辞退することで、ホーゲにも立候補を諦めさせます。ドルゴンがフリン支持に回ったことでフリン派が数の上でホーゲ派を圧倒した事で決着が付いたのでしょう。輔政大臣がジルガランとドルゴンとされたのは、おそらく元々フリン派だったジルガランと、フリン派に協力したドルゴンへのホルチン閥からの論功行賞なんじゃ無いかと個人的には考えています。ダイチン・グルン内部には幼帝が即位することへの不安はあったようなので、フリン派も幼帝を支える有力旗王の必要性は感じていたに違いありません。ただ、それはフリンを擁するというのが条件だったのではないでしょうか?後継者として立候補を辞退したことが理由でドルゴンが輔政王となったのであれば、もう一人の輔政王は同じく立候補を辞退したホーゲでなくてはなりません。順治初年の輔政王とはフリンを推戴する旗王の代表であったはずです。
後継者会議では数の上で敗北したホーゲですが、そもそもなんで多数から推戴されなかったのでしょうか?よく理由として挙がるのが、徳が薄く衆望が得られなかったという点です。要するに人気が無かったと。
そもそも、お膝元として勢力基盤になるはずの正藍旗も全体を掌握しているわけではありません。何度か書いてるように、ホーゲが掌握していた正藍旗は崇徳年間に入って新たに編成し直された旗です。元々がマングルタイ・デゲレイ兄弟が管轄していた正藍旗と、元々ホーゲが管轄していた鑲黄旗をベースにした旗なので、他の旗と比べて発足から日が浅いために基盤が脆弱なのは否定できません。発足して以来ダイシャン系の管轄している両紅旗、シュルガチ系統に脈々と引き継がれている鑲藍旗、ヌルハチ時代の両黄旗としての起源を持つために精鋭と名族そろいの両白旗とは結束という面では正藍旗は今ひとつ不安が残ります。また、正藍旗内も有力旗王であるアバタイと旗を分掌している状態で、しかも、史料からはアバタイの旗幟は判然としません。アバタイの子である端重親王・ボロが順治初年にはドルゴン派として活躍しているので、この時はドルゴン支持だった可能性があります。しかし、アバタイは元々ホンタイジに忠勤を評されてヌルハチ庶子の中から抜擢されて遂には親王にまでなっているので(ヌルハチ庶子はベイレやベイセ止まりで鎮國公が最終爵位という人物も珍しくない)、フリン派であった可能性もあります。しかし、一つだけハッキリしているのは、アバタイがあえてホーゲを応援するような事情が無いことです。実際、ホーゲは後になって強引に自派の形成しようとして失敗し、却って罪に問われています。
しかし、個人的には正藍旗の事情よりもマングルタイ・デゲレイ兄弟謀反未遂事件及びその後のヨトとの悶着での、ホーゲの立ち居振る舞いが衆望を欠く原因だったのでは?と思えて仕方ありません。ホーゲは自分の支配力が及ぶであろう鑲黄旗と正藍旗の旗人で自派を形成したかったようですが、マングルタイ時代の正藍旗旗人からすれば婚姻関係があったにも関わらずヨトのようにマングルタイ家を庇わなかったホーゲに対して少なくとも積極的にもり立てていこうというモチベーションがあったようには思えません。また、閨閥から見れば、ウラナラ閥の盟主的存在のドルゴンをもり立てず、ホルチン閥から見ればフリンを盛り立てずに自派を形成するホーゲはやはり薄情に見えたのかも知れません。ウラナラ閥として近縁ではないかも知れませんが、ドルゴンのアンバ・フジンとホーゲの妻は姉妹ですから、ホルチン閨閥としては近親となります。ホルチン閨閥がフリンを押したのにそれに反対して自らが即位しようとした…とも受け取れます。これが衆望が薄いと言う結果になる一因だったように思います。
事情は複雑だった割に、あっさりとフリンの即位と言う結論が出て後継者会議は閉幕しますが、二日後にダイシャン第2子のグシャンベイセ・ショセとサハリヤンの嫡子である多羅郡王・アダリがドルゴンに帝位に即くよう説得に現れます。ドルゴンはこれを叛逆罪としてショセ、アダリを処刑し、ダイシャン系の旗王は連座して爵位を剥奪されます。ホーゲを推戴していたハズのダイシャン系が分裂しているようにも見えますが、この辺はウラナラ閨閥と見た方が良いという説もあります。しかし、それならホーゲもウラナラ閨閥にいれても良いんですが、どうなんでしょうね。ダイシャン系の両紅旗の旗王の大半はこの時に爵位と宗籍を剥奪されていますが、翌年には椀飯振る舞いで元の爵位に戻しています。このタイミングでは拙いアクションだったのでしょうが、ダイシャン系を切り捨てる意思はドルゴンにはなかったように思います。
そして、翌順治元年4月戊午朔にホーゲが自派を募ってクーデターを起こそうとしていると、正藍旗マンジュグシャンエジェンのホロホイiiの密告があります。曰く、ホーゲが正藍旗議政大臣・ヤンシャンiii、正黄旗モンゴルグシャンエジェン・オモクトゥ、ジャランジャンギンiv・伊成格(イチェンゲ?)、ヤンシャンの息子・羅碩(ロショ?)と、ホラホイを呼びつけて自派に取り入ろうと強要したという内容でした。ホロホイの供述によると、ホーゲは元々病弱なドルゴンは余命幾ばくも無いので輔政の任を全うできず、志半ばで斃れた後は異性の人間が人主として国政を動かすことになってしまうので(要するにアイシンギョロ以外の人間がハンなり皇帝に成り代わって国政を壟断することを憂いでいる)、実務能力を備えて健康にも問題が無いホーゲが代わってその位置に付くのだと、クーデターの計画を打ち明けました(同席したヤンシャン曰く、これは正黄旗吏部承政・トゥルゲイvの計画らしい)。曰く、正黄旗グシャンエジェン・タンタイvi、正黄旗護軍統領・トゥライvii、吏部啓心郎・ソニンら重臣が既にホーゲに付いていると。更に、正白旗旗王・多羅豫郡王・ドドはかつて、「和碩鄭親王・ジルガランがホンタイジ崩御の時に、ホーゲを君主とすることを議題に出したときに、ホーゲの性格が優柔不断であるを理由に会議で賛同を得られなかった。また、ドド自身もホーゲを推戴しようとはしなかったが、今にして思えばこれは失敗であった」とホーゲに語っているので、ドドをホーゲ派に取り込むことは可能。正黄旗大臣・タジャンviiiはホーゲの母方の親族であるし、両黄旗大臣筆頭のトゥルゲイixはホーゲと親しいので必ず共に立ってくれるだろう。ホロホイ達はホーゲに対して恩があることをゆめゆめ忘れるな…と、告げたと言います。計画した側にいたっぽいヤンシャンと息子の羅碩、自分の失態のおかげでホーゲの降格を招いたことがあるオモクトゥはホーゲの提案に賛同したかも知れませんが、この文章だけでは伊成格はホロホイと同席しただけでその意図は分かりません。ともあれ、《清史稿》によると、ヤンシャンと羅碩親子は棄市、オモクトゥと伊成格は職位と爵位を剥奪されています。伊成格は何かとばっちりっぽいですが、報告の義務を怠ったと言うコトでしょう。その他に供述で名前の出た人は特に罪に問われてはいないようです。ともあれ、この事件でホロホイは密告を賞賛され、ホーゲは爵位と宗籍を剥奪されて庶人に落とされています。ホロホイは天聰年間は鑲黄旗に属しており、いわばホーゲ子飼いの部下だったはずなので、陰謀が事実ならホーゲにとってはまさかの裏切りだったのではないでしょうか。
この事件の一週間後に大明故地への遠征がドルゴンに命じられているので(形式上は順治帝・フリンからの命令)、この事件が遠征への布石であることは間違いありません。また、このような計画があってもおかしくはありませんが実際に計画されていたかどうかは分かりません。ただ、ドルゴンがホーゲ派を危険視して排除したこと、ダイチン・グルン内部ではドルゴンは病弱で重責を担えるような健康状態ではない…という共通認識があったと言うコトくらいは事実なんでしょうけど。
と、この後ドルゴンは旗下の両白旗と皇帝直属の鑲黄旗と火器中心の三順王の漢軍と、交渉で言いくるめた呉三桂の軍を中心に山海関から一気に北京まで制圧します。この際にホーゲがどこに居たのかはよく分からないのですが、《清三朝実録採要》によると、順治元(1644)7月~2(1645)年正月まではホーゲは山東あたりの平定に当たっていたようです。順治元(1644)年10月に親王に復位する際にホーゲの本伝では”念豪格從定中原有功,仍復原封。”とありますが、時期からして山東制圧の途中でしょうし、この時期ならドルゴンに従って北京まで攻め上っててもおかしくないタイミングです。ともあれ、順治2(1645)年8月のアジゲ失脚以降はドルゴンもホーゲを遊ばせておく余裕がなくなったようで、順治3(1646)年正月、ホーゲは衍喜郡王・ロロホンやドロベイレ・ニカンを引き連れて四川に遠征しているホロホイに加勢して、張献忠の大西平定に従事します。折角失脚させたホーゲを登用しなければならなかったドルゴンの心中は如何なモノだったのでしょう。何はともあれこの時始めてホーゲは方面軍を任されているのも何だか皮肉です。この頃、ホロホイは正藍旗から正黄旗に移動しているので、直属の上司部下の関係ではありませんが、ホーゲはホロホイのおかげで股肱の臣を失って降格されているので気分はよくないでしょうし、ホロホイの方も報復を恐れて気が気では無いでしょう。ドルゴンもホーゲに任せないと四川を平定できないし、かといって功績を挙げられるのも我慢ならないから、反目するホロホイとコンビ組ませたという所なんでしょうか。この組み合わせで巧く行くわけ無いと思うのですが、丁度二年で張献忠勢力を駆逐して四川を平定し、順治5(1648)年2月には北京に凱旋します。
この際にドルゴンはホーゲがヤンシャンの弟である吉賽を登用した等の些細な罪をあげつらってホーゲを幽閉し、3月には獄中死させています。ホロホイが付いていながら、後世から見ても流石にどうかと思うような些細な罪状しか上げられなかったというのは、余程ホーゲも気をつけて行軍しながら、しかも軍功を上げていたんでしょうが、そもそも最初から排除する気満々だったドルゴンにとってはどちらでも良いことだったんでしょうね。ホーゲの財産は名目上は公收されたことになっていますが、実質的にはドルゴンが横領したようです。ホーゲの正藍旗も公收されたハズですが、実質的にはドルゴンが支配して、後にドルゴン主導で鑲白旗と入れ替えられています。いずれにしろホーゲの断罪がドルゴン主導の下に強引に行われた事だけは確かです。やり口はホンタイジによるマングルタイ系に対する仕打ちとうり二つですが…。
で、ホーゲの死を以てドルゴンとホーゲの因縁は終わるのかというとそうでもありません。ホーゲの死の翌年である順治6(1649)年12月にはホルチン閨閥に属するボルジギット氏・元妃が薨じます。このことが関係するのかどうかは分かりませんが、翌順治7(1650)年正月に元妃の実妹であるホーゲの未亡人を娶り、あまつさえホーゲの子供達を王府に招いて弓比べまで行っています。ホラホイにこのことを気味悪がられると、「ホラホイはワシがホーゲの子供達を愛しんでいることを知らんのだ」と言って取り合いませんでしたが、なかなかこの辺屈折しています。順治7年8月から11月までの間にドルゴンは病床に伏せており、持病は完治しないだろう事を悟っていますが、ホーゲから奪った家族に何らかを投影した様にも思えます。ドルゴン自身には子供が居なかったため、睿親王家はドドの実子・ドルポを養子として継がせています。しかし、この時すでにドドは病没していますから、今後世子に変更が無いとは言い切れません。ホーゲの遺児に睿親王家を継がせる様なことがあれば、実父の恨みを晴らそうとするかも知れません。ホラホイを恐怖させたのはこのあたりだったのではないでしょうか。
ともあれ、ドルゴンは順治7(1650)年12月に狩猟中に落命します。順治帝・フリンはドルゴンを成宗 義皇帝と太廟に祀って諡号をおくり、皇帝に準じた祭礼で葬ることを命じます。しかし、早くも順治8(1651)年2月には、正白旗・スクサハがドルゴンを弾劾し、ジルガランはじめ、マンダハイ、ボロ、ニカンの理政三王もこれに同調したためドルゴンは爵位と宗籍を追奪され、睿親王位を継承していたドルポも庶人に落とされました。このあたりはまだ順治帝・フリンの親政初期に当たるため、多分に孝荘文皇后・ブンブタイやジルガランの意向が反映されていると思われますが、おそらくはその総意であったと思われます。また、罪状にホーゲを些細な罪で陥れたことと、ホーゲの未亡人を娶ったことが上げられていましたが、その流れで同年2月にはホーゲの嫡子であるフシュオを和碩顕親王に封じて肅親王家を再興し、次いで同年8月にはホーゲの名誉は回復され和碩肅親王に復します。
その後も順治帝・フリンは在位中にドルゴンの名誉回復を認めず、順治12(1655)年にドルゴンの名誉回復と復爵の検討を奏上された時も奏上者をニングダに左遷していますから、その意思は硬かったように思います。ドルゴンは順治帝の死後も名誉回復を許されず、結局、乾隆38(1773)年になってようやく睿親王の爵位を追復され名誉回復しています。
宣和堂が太后下嫁説を取らないのはドルゴンがアンバ・フジンに元妃と諡号をおくり、ドルゴン死後は義皇后と諡号をおくられていること、元妃の死後にホーゲの未亡人を娶っていること、あと、順治帝死後にもドルゴンの名誉回復が行われなかったという点からです。ドラマの様にドルゴンが孝荘文皇后・ブンブタイに懸想していれば、ドラマと同じように元妃に対しては冷たく当たったでしょうが、史実はその逆で元妃の臨終には遠征を取りやめる程度には大切にしたようです。また、ドラマの様にブンブタイがドルゴンを思慕しているようなら、少なくともフリン死後には即座に名誉回復がなされているはずです。このような事実がない以上、ドルゴンへの処罰がフリンの意思を大きく反映していたと仮定しても、ブンブタイも同意していたと考えた方が妥当でしょう。おそらく、順治帝は長兄であるホーゲを敬愛し、その未亡人を娶ったドルゴンを人倫の道を踏み外したとして忌み嫌ったのだと思います(ホーゲの未亡人はドルゴンにとっては義理の妹)。どうにも、順治帝・フリンは自分を帝位に即けたドルゴンを憎み、帝位を奪おうとしたホーゲを敬うという、なかなか複雑な心情を持っていたようです。
ともあれ、何とも強烈なホーゲとドルゴンですが、どうにも愛憎という言葉ではカバー出来ないような複雑な関係だったと自分は考えています。……全然閑話休題になりませんでしたが。
関係ないですが、肅親王家は清末まで続いて第十代が善耆です。川島芳子の父親ですね。