順治前半のまとめ(ドルゴン期)

 と言うワケで前回に続いて論文とか《清史稿》とか《清三朝実録採要》あたりをザラッと読んでまとめたメモなのです。

ドルゴンの勢力拡大⇒
 翌順治元(1644)年4月、今度は正藍旗所属のホロホイiが正藍旗旗王である肅親王・ホーゲがクーデターを謀っていると告発。
ホロホイの供述
:両黄旗の実力者を味方に付けたホーゲはドルゴンが元々身体が弱く病がちなので、摂政の職務を全うできないと断定。
:豫親王・ドドも以前はホーゲ擁立に動かなかったのは間違いだったという発言をしていた…と、ホーゲが語った。
:ホーゲはホラホイらも自派に加わるように強要。
 この事件により、ホーゲの推戴者とされた大臣達は処刑され、ホーゲ自体も多羅肅郡王に降格され、失脚している。

入関直前⇒
 同月、大明滅亡の報に接すると、ドルゴンは范文程ら漢人旗人の入関の献策を入れて李自成の大順を制圧するために出征。
 この際、ドルゴン勢力圏である両白旗、皇帝直属の両黄旗、漢人降兵で組織された三順王の火器部隊のみを率いている。
 最初からこの軍事行動は恒久的に漢土を征服することを目的としていたため、ドルゴンはのるかそるかの大博打を自派の権力増大に利用した模様。

入関直後⇒
 順治元(1644)年4月、山海関守将・呉三桂を懐柔し、山海関からなだれ込んで、5月にはドルゴンは北京を制圧。
 崇禎帝の喪を発し、北京内城から漢人を追い出し、辮髪を強要するなどドルゴンは北京制圧後も精力的に漢土征服に邁進。
 10月、順治帝以下皇族がムクデンから北京に入城して北京遷都を公布し、ドルゴンは摂政王から皇叔父摂政王に晋封。次いでジルガランは和碩鄭親王から信義輔政叔王、ホーゲは和碩肅親王に復帰し、アジゲは多羅武英郡王から和碩英親王、ドドは多羅豫郡王から和碩豫親王に晋封する。
 白旗三王のうち英親王・アジゲと豫親王・ドドに李自成勢力の潰滅を命じて討ち取る。
 順治2(1645)年、英親王・アジゲは李自成を敗死させるが、その報告を怠り、許しを得る前に北京に凱旋し、出征中に収賄していたことも発覚したことから武英郡王に降格され、この後暫く干される。
 この後、南明政権の制圧に豫親王・ドドを、張献忠勢力の討伐をホラホイと肅親王・ホーゲに一任している。

反ドルゴン派の粛正⇒
 入関後、ドルゴンの権勢は日を追う事に拡大される。
 順治4(1647)年1月、輔政和碩鄭親王・ジルガランの王府が規定を越えた基準で作ったことで罪に問うてその織を剥奪(その後、順治5年9月に湖広に叛乱鎮圧のために出征している)。
 7月、和碩徳豫親王・ドドをジルガランの後釜として輔政和碩叔徳豫親王に晋封。多羅武英郡王・アジゲを和碩英親王に復した。
 翌順治5(1648)年2月、四川を平定した肅親王・ホーゲが北京に凱旋するが、ドルゴンはホーゲが臣下の功績を盗み、順治元年に処罰されたヤンシャンの弟を登用した事を理由に捕縛して幽閉、3月にはそのままホーゲは獄中死した。
 ホーゲの死後、ホーゲの支配下にあった正藍旗はドルゴンの支配下に入ったと思われる。これで、ドルゴンは三旗を領有し、数の上で皇帝を凌ぐ存在となっている。
 清明節に反ドルゴン派となっていたソニンが昭陵(ホンタイジの陵墓)に祭儀に派遣された隙に、ドルゴンはソニンがトゥルゲイらと肅親王・ホーゲの擁立を計ったとして官職と籍を奪われて、そのまま昭陵の墓守を命じられている。
 同じ頃、ソニンと同じく反ドルゴン派となっていたオボイ、范文程も失脚した模様。
 7月、輔政和碩叔徳豫親王・ドドが平西王・呉三桂の息子・呉応照に勝手に賞金を授けたとしてドルゴンに罰せられている。ドドはこのようにドルゴンにとって扱いやすい弟ではなかった。
 9月、ドルゴン派と目される理政三王のうちドロベイレ・ボロ(アバタイ三子)を多羅端重郡王に、ドロベイレ・ニカン(チュエン三子)を多羅敬謹郡王に、またドルゴンに近いとされるドロベイレ・レクデフン(サハリヤン三子)を順承郡王に晋封した。
 10月、長老格たる和碩禮親王・ダイシャンが薨去。
 11月、ドルゴンが皇父摂政王を称する。この段階でドルゴンは反対派を押さえ込みドルゴン派による政権を確立させた。

ドルゴン政権期
 順治5(1648)12月、大同総兵・姜瓖は謀反を起こした。宣教師の記録によると、この叛乱の原因や以下の通り⇒ホルチン部に順治帝の婚儀の交渉のために英親王・アジゲが大同を通過する際、部下が大同の街の女性を拐かした。
 拉致された女性の中には結婚間もない新婦も居たため、大同総兵官・姜瓖がアジゲの宿を訪れて抗議したが、アジゲがこれを門前払いにしたため、怒った姜瓖は謀反を起こした…という。
 翌順治6(1649)年正月、多羅敬謹郡王・ニカンを大原に派遣する。
 2月、ドルゴン自ら大同に赴く。姜瓖は元々明将であったが入関時にアジゲに下って李自成平定戦に従軍した過去があるため、アジゲの手の内をよく知っており籠城戦もダイチン側が劣勢で、しかも、モンゴルなどとも連絡を取り、放置しておくと侮りがたい勢力になりかねないため?
  しかし、ドルゴンは陣中で輔政和碩叔徳豫親王・ドドが天然痘を発症したことを聞き、大同総兵官・姜瓖と交渉して休戦し、即日軍を引き返す。
 陣中で多羅承澤郡王・ショセ、多羅端重郡王・ボロ、多羅敬謹郡王・ニカンをそれぞれ親王に晋封している。
 ドルゴンが居庸関に差し掛かったときに、輔政和碩叔徳豫親王・ドドの訃報に接する。
 4月、ドロベイレ・マンダハイの和碩禮親王家の継承を認め、和碩巽親王に封じる。
 7月、ドルゴンは再度大同に軍を差し向け、和碩巽親王・マンダハイを先発させているが、ドルゴン自身の出発は取りやめている。
 8月、遠征中であった和碩鄭親王・ジルガランに軍を返すように命じ、次いで英親王・アジゲに大同平定を命じ、攻められた大同は総兵官・姜瓖を殺して投降し、アジゲは8月中に大同を鎮圧した。
 包囲時か凱旋したときかは史料によって違うが、大同遠征の際にアジゲはドルゴンに対してフジン両名が逝去したため後添えが欲しいとか、ドドと比較しても己の戦功が少なくないことを主張して叔親王の称号を要求している。ドルゴンは当然これを却下してアジゲが旗の要職に就くことや漢人官僚がアジゲを訪問することを禁じている。 
 10月、ドルゴンは自ら大軍を率いてカルカ部遠征に向かう。ドドの嫡子・ドニにドドの王位継承を認め、和碩豫親王に封じる。
 12月、ドルゴンは軍を返す。ドルゴンのアンバ・フジン=ボルジギット氏元妃が薨去する。軍を返したのはこのためか?
 この頃までにドドとアジゲの鑲白旗と元ホーゲの正藍旗の換旗を敢行している。ドドの後継者・ドニとアジゲは正藍旗に移り、ホーゲの遺衆は鑲白旗に遷ってドルゴンの支配下に収まった。
 順治7(1650)年正月、ドルゴンはボルジギット氏元妃の実の妹であるホーゲの未亡人を娶り、ホーゲの嫡子・フシェオを睿親王府に呼び寄せて射術を教えるなどしている。ホラホイはコレを見て「(ドルゴンは)幽霊にでも魅入られているのか?見ていてヒヤヒヤする。なんとかしてフシュオを排除せねば…」と人に語った。ドルゴンはこれを伝え聞いて「ホラホイはワシがフシュオを愛しんでいることを知らないのだ」と語った。その割にドルゴンの生前、フシュオは爵位を授かるなどの恩恵は受けていない。
 2月、和碩巽親王・マンダハイ、和碩端重親王・ボロ、和碩敬謹親王・ニカンを理政王として行政の補佐をさせる。所謂理政三王。その他、和碩承澤親王・ショセ、多羅順承郡王・レクデフン、多羅謙郡王・ワクダもドルゴン政権下では重責を担っていた。
 7月、ドルゴンは持病が悪化して病床につくことが多くなった。見舞いに来たシガン、レンセンギ、オボイらに「予の病は篤く、今後完治はしないだろう。帝は幼少にして人主におわすとは言え、君ら大臣がついて政治を輔けているのだから、帝がお見舞いに来てくれても良いではないか」と漏らしたが、すぐに「このことを帝に言ってご幸行なされるようなことがあってはならない」と釘を刺し、その場を辞したシガンらに使いを送って止めようとしたが間に合わず、結局、順治帝は叡親王府にドルゴンを見舞った。ドルゴンはシガンらを死罪に問うたが死罪は免れたが降格された。ホーゲが指摘しているように、ドルゴンは元々病弱だったらしいが、元妃を失い気力が衰えた模様。
 8月、和碩端重親王・ボロ、和碩敬謹親王・ニカン、和碩承澤親王・ショセをそれぞれ郡王に降格(ドルゴンが親王に封じた者が多い?)。
 11月、ドルゴンは塞外に狩猟に出かけ、12月にはハラ・ホトンで病没している。

 と言うワケで、ドルゴン政権をザッと時系列で追うとこんな感じになる。まず、ドルゴンはフリン即位を機にホーゲを失脚させ、その与党を処断するコトに成功。入関して漢土を順調に平定するなど追い風に恵まれるが、実兄・アジゲがアホだったために、ワザワザ失脚させたホーゲを四川平定にを使わざるを得なかった模様。ホーゲはホラホイと出征するが、そもそもホーゲが失脚したのもホラホイの告発に端を発しているので、ホーゲの監視役であったとみられる。同時に、すっかり影が薄くなっていたジルガランを失脚させて外征ばかりさせている。そして、ホーゲが四川を平定して凱旋した直後に、ドルゴンはホーゲに難癖を付けて幽閉し獄中死させている。監視役が付いていたにもかかわらず、もっともらしい理由で断罪されていない所を見ると、側近を失ってホーゲが慎重になったとも考えられるが、どっちにせよ噛みつく暇もなく幽閉されているので慎重だろうが迂闊だろうが結果は変わらなかっただろう。強引なやり口で旗王を失脚させ、その旗を奪うのはホンタイジの正藍旗改編の際の手口と似ている。この点、ドルゴンはホンタイジ体制の後継者と言える。
 ホーゲ派とジルガランを一掃した後、フリン擁立では共闘した両黄旗とホルチン閥と対立する。両黄旗の有力者であるタンタイ、トゥライ、グンガダイ、シガンらを抱き込み、反対派に転じたソニンやオボイ、范文程を失脚に追いこんでいる。その一方で、ドドを輔政和碩叔徳豫親王に封じ、マンダハイ、ボロ、ニカンを親王に封じ理政三王として軍政・行政代行させ、ショセを親王にワクダを郡王に封じて自派を形成している。また、ホーゲの幽死、ドドの病死を契機に換旗を断行し、両白旗を直轄旗とし、実兄のアジゲ、甥のドニに正藍旗を掌握させて、数の上で他家を圧倒する様になっている。
 このように着々と権力基盤を築き上げたドルゴンではあるが、フリン即位当時から懸念された健康状態が悪化し、摂政王に着任して7年目で病没している。ともあれ、ドルゴンの勢力基盤に注目すると案外入関後の大順鎮圧、大順平定、南明掃討あたりはアジゲ、ドド、ホーゲ、ジルガランらに代行させており、あまり政局に影響がない様に見える。むしろ、モンゴル方面に影響を及ぼす大同の兵乱やモンゴルのカルカ部遠征にはドルゴン自らが動いている。漢土を中心に見てしまうとこの視点が抜け落ちてしまう。

 また、政敵が一掃された後は後進の育成に務めており、正紅旗ダイシャン第三子のマンダハイ、鑲紅旗ドゥドゥ第三子のニカン、正藍旗アバタイ第三子のボロを理政三王に抜擢し、鑲紅旗ホンタイジ第五子のショセ、正紅旗ダイシャン第四子ワクダ、正紅旗サハリヤン第二子レクデフン、ドド嫡子ドニらを登用している。存外自派だけではなく鑲藍旗以外の旗から満遍なく登用しているように見える。

  1. Holohoi 何洛會 [戻る]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です