明末チベット僧のインテリジェンス活動~袁崇煥と王喇嘛、李喇嘛~

大金國璽影印

 清朝チベット仏教政策を調べていたら、清初…というか明末に対モンゴル、対マンジュ交渉…というか諜報活動で活躍した二人のチベット僧が出てきたので、とりあえず纏めておきます。縦横家のように舌先三寸でモンゴル諸部をマンジュから離反させた王喇嘛と、袁崇煥ホンタイジとの和平交渉を担った李喇嘛の事績が中心です。
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ソグド陰謀論

 宣和堂は以前、どこかで「アッバース革命と安史の乱は両方ともソグドの陰謀」みたいな説を何かの概説書で読んだ記憶があったモノの、どの本に書かれていたのかをど忘れしてしまい、悶々とした日々を過ごしてました。流石にこんな突飛な説を、自分で思いつくわけもないし、どこに書いてあったのか……本棚に立って本を捲ってはこれも違うアレも違うと、捜索する度に発見に到らずなんだっけどこだっけとウンウン唸っていたわけです。ソグドと言えば、森安孝夫センセの『シルクロードと唐帝国i』だっただろうか?それとも、森部豊センセの『安禄山ii』だったか…。でも、この二冊を手に持って何度頁を捲ってもソグド陰謀論は出てきませんでした。

 うむー…どこで読んだんだろう…考えても思い出せないので暫く放っておくことにしました。と、暫く立ってからやんごとなき事情で本棚を整理しているときに、ふと、久しぶりに我等が杉山正明先生の『疾駆する草原の征服者iii』を手にとってパラパラ見たところ、あれ?これじゃん?と思う間もなく、ビックリする程ボロンと出てきました…ソグド陰謀論。手に取ったときに何となくあれ?と言う予感があったんですが、やっぱり、このセンセが仰ってたんですね…!ww
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  1. 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社 [戻る]
  2. 森部豊『世界史リブレット人018 安禄山―「安史の乱」を起こしたソグド軍人』山川出版社 [戻る]
  3. 杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 ─遼 西夏 金 元─』講談社 [戻る]

天命~康煕の旗王と序列メモ

※マンジュ・グルン建国
建州左衞都指揮使・ヌルハチと建州右衞都指揮使・シュルガチとの二頭体制
四旗制⇒1:黄旗(ヌルハチ)、2:白旗(チュエン)、3:紅旗(ダイシャン)、4:青旗(シュルガチ)
×シュルガチ、チュエン失脚⇒黄旗(ヌルハチ)、紅旗(ダイシャン)、白旗(ホンタイジ)、藍旗(アミン)

※天命年間
両黄旗(ヌルハチ)、両紅旗(ダイシャン)、鑲藍旗(アミン)、正藍旗(マングルタイ)、正白旗(ホンタイジ)、鑲白旗(ドゥドゥ)⇒四大ベイレ(アンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイ、ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジ)
1:鑲黄旗(アジゲ、ドルゴン)、2正黄旗(ドド)、3:正紅旗(?i)、4:鑲紅旗(ヨト)、5:鑲藍旗(アミン、ジルガラン)、6:正藍旗(マングルタイ、デゲレイ)、7:鑲白旗(?ii)、8:正白旗(ホンタイジ)⇒八ホショ・ベイレ
旗王の序列(天命9年)⇒1:アンバ・ベイレ=ダイシャン、2:モンゴル諸侯、3:アミン・ベイレ、4:マングルタイ・ベイレ、5;ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジ、6:アジゲ・アゲ、7:ドド・アゲ、8:アバタイ・アゲ、ドゥドゥ・アゲ、9:ヨト・アゲ、ショセ・アゲ

※天聰年間
三大ベイレ(アンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイ)
1:正黄旗(ホンタイジ)、2:鑲黄旗(ホーゲ、アバタイ)、3:正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、4:鑲紅旗(ヨト)、5:鑲藍旗(アミン、ジルガラン)、6:正藍旗(マングルタイ、デゲレイ)、7:鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、8:正白旗(ドド)⇒両黄旗と両白旗の入れ替え
旗王の序列(天聰5年)⇒1:ベイレ・アバタイ(鑲黄旗)、2:ベイレ・デゲレイ(正藍旗)、3:ベイレ・ジルガラン(鑲藍旗)、4:ベイレ・メルゲン・ダイチン=ドルゴン(鑲白旗)、5:ベイレ・エルケ・チュフル=ドド(正白旗)、6:ベイレ・ショト(鑲紅旗)、7:ベイレ・サハリヤン(正紅旗)、8:ベイレ・ホーゲ(正黄旗)

×アミン、マングルタイ、デゲレイの失脚
正黄旗(ホンタイジ)、鑲黄旗(ホーゲ、アバタイ)、正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、正白旗(ドド)、鑲紅旗(ヨト)、鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、鑲藍旗(ジルガラン)、正藍旗()⇒両黄旗:北、両白旗:東、両紅旗:西、両藍旗:南に相当、右翼:正黄旗、正紅旗、鑲紅旗、鑲藍旗、左翼:鑲黄旗、正白旗、鑲白旗、正藍旗

※崇徳年間
×正藍旗解体=新正藍旗再編
1:鑲黄旗(ホンタイジ)、2:正黄旗(ホンタイジ)、3:正白旗(ドド)、4:正紅旗(ダイシャン、サハリヤン)、5:鑲白旗(ドルゴン、アジゲ)、6:鑲紅旗(ヨト)、7:正藍旗(ホーゲ、アバタイ)、8:鑲藍旗(ジルガラン)⇒両黄旗:北、両白旗:東、両紅旗:西、両藍旗:南に相当、左翼:鑲黄旗、正白旗、鑲白旗、正藍旗、右翼:正黄旗、正紅旗、鑲紅旗、鑲藍旗、この頃は上二旗、内六旗(モンゴルなど外藩部の外八旗と比較して”内”)
ホショ・チンワン⇒ホショ・ドロンゴ・チンワン(和碩禮親王)=ダイシャン、ホショ・メルゲン・チンワン(和碩睿親王)=ドルゴン、ホショ・エルケ・チンワン(和碩豫親王)=ドド、ホショ・ウジェン・チンワン(和碩荘親王)=ジルガラン、和碩成親王=ヨト
ドロ・ギュンワン⇒ドロ・バトゥル・ギュンワン(多羅武英郡王)=アジゲ、ドロ・バヤン・ギュンワン(多羅饒餘郡王)=アバタイ

×サハリヤン、ヨト死去
1:鑲黄旗(ホンタイジ)、2:正黄旗(ホンタイジ)、3:正白旗(豫郡王・ドド)、正紅旗(禮親王・ダイシャン)、鑲白旗(睿親王・ドルゴン、武英郡王・アジゲ)、鑲紅旗(衍禧郡王・ロロホン(Lolohon 羅洛宏iii)、鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、正藍旗(肅親王・ホーゲ、饒餘郡王・アバタイ)

※順治年間
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(睿親王・ドルゴン)、4:正紅旗(禮親王・ダイシャン)、5:鑲白旗(豫親王・ドド、英親王・アジゲ)、6:鑲紅旗(衍禧郡王・ロロホン)、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、正藍旗(饒餘郡王・アバタイ、肅親王・ホーゲ)⇒崇徳8年のドドの処罰ivにより、鑲白旗と正白旗を換旗。
順治5年、反ドルゴン派粛正
×ホーゲ、ダイシャン、ドド逝去⇒ホーゲ旗下の正藍旗とドド旗下の鑲白旗の換旗が行われる

1:鑲黄旗(フリンv)、2:正黄旗(フリンvi)、3:正白旗(睿親王・ドルゴン)、4:正紅旗(巽親王・マンダハイ(Mandahai 満達海vii)、順承恭恵郡王・レクデフン(Lekdehuni 勒克徳渾viii)、5:鑲白旗(睿親王・ドルゴン)、6:鑲紅旗(敬謹郡王・ニカン(Nikan 尼堪ix)、謙襄郡王・ワクダ(Wakuda 瓦克達x))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、8:正藍旗(信親王・ドニ(Doni 多尼xi)、英親王・アジゲ、端重郡王・ボロ(Bolo 博洛))⇒マンダハイ、ニカン、ボロはドルゴンに重用され、理政三王と称された

×ドルゴン逝去直後
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(睿親王・ドルボ(Dorbo 多爾博xii))、4:正紅旗(巽親王・マンダハイ(Mandahai 満達海xiii)、順承恭恵郡王・レクデフン(Lekdehuni 勒克徳渾xiv)、5:鑲白旗(睿親王・ドルボ)、6:鑲紅旗(敬謹郡王・ニカン(Nikan 尼堪xv)、謙襄郡王・ワクダ(Wakuda 瓦克達xvi)、承澤親王・ショセ(Šose 碩塞xvii))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン)、8:正藍旗(信親王・ドニ(Doni 多尼xviii)、端重郡王・ボロ(Bolo 博洛))

×マンダハイ、ボロ、レクデフン、ワクダ、ショセ、ニカン、ジルガランが相次いで逝去
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(フリン)、4:正紅旗(巽親王・チャンガタイxix)、5:鑲白旗(顕親王・フシェオ(富綬 Fušeoxx))、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド(Bokodo 博果鐸xxi))、ベイレ・ドゥルフ(durhu 杜爾砧xxii)))、7:鑲藍旗(鄭親王・ジルガラン、簡郡王・ジドゥ(jidu 濟度xxiii)、敏郡王・レドゥ(ledu 勒度xxiv)、ベイレ・シャンシャン(sangsan 尚善xxv))、8;正藍旗(安郡王・ヨロ(yolo 岳楽xxvi)、信郡王・ドニ)

×フリン崩御時
1:鑲黄旗(フリン)、2:正黄旗(フリン)、3:正白旗(フリン)、4:正紅旗(康親王・ギイェシュxxvii、順承郡王・レルギイェンxxviii、ベイレ・チャンガタイxxix)、5:鑲白旗(顕親王・フシェオ(富綬 Fušeoxxx)、温郡王・モンゴ)、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド(Bokodo 博果鐸xxxi)、ベイレ・ランプxxxii)、ベイレ・ドゥルフ(durhu 杜爾砧xxxiii)))、7:鑲藍旗(テセxxxiv)、8;正藍旗(安郡王・ヨロ(yolo 岳楽xxxv)、ベイレ・チクシンxxxvi、信郡王・チャニxxxvii

※康煕年間
鑲白旗と正藍旗は皇帝庶子が封じられるモノの、他の旗に関しては皇帝といえども基本的に不干渉。
追記:(皇太子冊立時)
1:鑲黄旗(上三旗 皇帝直属 輔国公・常舒(議政王))、2:正黄旗(上三旗 皇帝直属)、3:正白旗(上三旗 皇帝直属)、4:正紅旗(康親王・ギイェシュ(議政王)、順承郡王・レルギイェン(議政王))、5:鑲白旗(顕親王・丹臻、裕親王・福全(議政王)、純親王・隆禧、温郡王・仏永恵)、6:鑲紅旗(荘親王・ボゴド、平郡王家・ロゴド、恵郡王・ボンゴノ、鎮國公・スヌ(議政王))、7:鑲藍旗(簡親王・ラブ、ベイレ・シャンシャン(議政王)、ベイセ・ウンチ(議政王)、輔國将軍・バルカン(議政王))、8:正藍旗(安親王・ヨロ(議政王)、信郡王・オジャ、ベイレ・チャニ(議政王)、ベイレ・ドンゲ(議政王)、恭親王・常寧(議政王))

参考資料:杜家驥《八旗与清朝政治論稿》人民出版社
    :内田直文「清朝入関後における内廷と侍従集団」九州大学東洋史論集 37号
    :鈴木 真 「清朝康煕年間の皇位継承者問題と旗王・権門の動向」史學雜誌 120(1)

  1. 実質的な旗手はダイシャン [戻る]
  2. 実質的な旗手はアバタイ? [戻る]
  3. ヨト長子 [戻る]
  4. ホーゲに接近して范文程の妻を強奪しようとした? [戻る]
  5. ドルゴン実効支配? [戻る]
  6. ドルゴン実効支配? [戻る]
  7. ダイシャン第七子 [戻る]
  8. サハリヤン第二子 [戻る]
  9. チュエン第三子 [戻る]
  10. ダイシャン第四子 [戻る]
  11. ドド第二子 [戻る]
  12. ドド第五子、ドルゴンの養子 [戻る]
  13. ダイシャン第七子 [戻る]
  14. サハリヤン第二子 [戻る]
  15. チュエン第三子 [戻る]
  16. ダイシャン第四子 [戻る]
  17. ホンタイジ第五子 [戻る]
  18. ドド第二子 [戻る]
  19. 常阿岱 マンダハイの長子 [戻る]
  20. ホーゲ第四子 [戻る]
  21. ショセ・長子 [戻る]
  22. ドゥドゥの長子 [戻る]
  23. ジルガラン第二子 [戻る]
  24. ジルガラン第三子 [戻る]
  25. ジルガランの弟のフィヤングの子 [戻る]
  26. アバタイ第四子 [戻る]
  27. ダイシャン八子・フセ後裔 [戻る]
  28. サハリヤン系 [戻る]
  29. マンダハイ後裔 [戻る]
  30. ホーゲ第四子 [戻る]
  31. ショセ・長子 [戻る]
  32. 順治18年6月、敬謹親王を継位 [戻る]
  33. ドゥドゥの長子 [戻る]
  34. 順治18年2月荘親王襲位 [戻る]
  35. アバタイ第四子 [戻る]
  36. 端重親王家、順治帝崩御の二日後に没。無嗣断絶 [戻る]
  37. 順治18年正月より空位、同年6月襲位 [戻る]

旗王と八旗その3+メモ

 先日上げたヌルハチ期の領旗ですが…

ヌルハチ即位以前
黄旗⇒ヌルハチ直轄、グサイ・エジェン:エイヅ、アンバ・ジャルグチ:フュンドン
白旗⇒ベイレ:チュエン、グサイ・エジェン:ダルハン・ヒヤ
紅旗⇒ベイレ:ダイシャン、グサイ・エジェン:ホホリ
青旗(藍旗)⇒ベイレ:シュルガチ、グサイ・エジェン:ションコロ・バツル

 これに出て来るグサイ・エジェンとアンバ・ジャルグチってそうかなとは思ったけど、やっぱり五大臣スンジャ・アンバン(sunja amban)よね…。

五大臣
エイドゥ(Eidu 額亦都 別名:エイドゥ・バートル Eidu Baturu 額亦都巴圖魯):ニオフル(鈕祜祿)氏 鑲黄旗
アン・フィヤング(Anfiyanggū 安費揚古 賜号:ショコロ・バトゥル Songkoro Baturu 碩翁科洛巴圖魯i):ギオルチャ(覺爾察)氏 鑲藍旗
フュンドン(Fiongdon 費英東 別名:フュンドン・ジャルグチ Fiongdon Jargūci 費英東扎爾固齊):グワルギャ(瓜爾佳)氏 鑲黄旗⇒オボイの叔父
ホホリ:(Hohori 何和禮 別名:ホホリ・エフ Hohori Efu 何和禮額):トンギャ(佟佳)氏 正紅旗
フルガン(Hūrhan 扈爾漢 賜号:ダルハン・ヒヤ Darhan Hiya 達爾漢轄):ギョロ氏 鑲白旗

 当たり前と言えば当たり前ですが、グサイ・エジェンなりアンバ・ジャルグチ時代に属した旗にその後も属したみたいですね。

 この中のエイドゥフュンドンはゲレン=イ=エジェン(geren i ejen 八旗左右両翼の主)と言われたようですね。二人とも黄旗に属したみたいなので、一段上に上げられたみたいですね。これが十王亭八旗旗王の象徴なのに左翼王右翼王が別個に設けられて合計十王亭になったという根拠ですね。

 あと、ネットでフラフラしてたら天聰5(1631)年の六部設立時の旗王の担当とその部下が見つかったので、メモ。

工部 旗王:アバタイ(鑲黄旗?)⇒承政:ムンガトゥ(正白旗)・カンカライ(鑲藍旗)⇒啓心郎:ミオショホン(不明)
戸部 旗王:デゲレイ(正藍旗)⇒承政:イングルダイ(鑲白旗)・サビガン(正藍旗)⇒啓心郎=ブダン(鑲白旗)
刑部 旗王:ジルガラン(鑲藍旗)⇒承政:チェルゲイ(鑲白旗)・ソーハイ(鑲黄旗)⇒啓心郎=エルケトゥ(鑲黄旗)
吏部 旗王:ドルゴン(鑲白旗)⇒承政=トゥルゲイ(鑲白旗)⇒啓心郎=ソニン(正黄旗)
兵部 旗王:ヨト(鑲紅旗)⇒承政:ナムタイ(正黄旗)⇒イェクシュ(正紅旗)⇒啓心郎:ムチェンゲ(不明)
礼部 旗王:サハリヤン(正紅旗)⇒承政:ギスン(鑲黄旗)・バドゥリ(正白旗)⇒啓心郎:キチュンゲ(正白旗)ii

 各部の配置と旗にも色々思惑がありそうで調べるとおもろそうですが、次回の宿題ってとこですね…。

  1. ショコロは海東青を指すので、海東青バートル!意訳すると神鵰侠!! [戻る]
  2. 立命館文学 第619号 磯部淳史「清初における六部の設置とその意義 ―太宗の「集権化」政策の一例として― 」 [戻る]

入関前の旗王と八旗

 旗王と八旗の変遷のメモ

ヌルハチ即位以前
黄旗⇒ヌルハチ直轄、グサイ・エジェン:エイヅ、アンバ・ジャルグチ:フュンドン
白旗⇒ベイレ:チュエン、グサイ・エジェン:ダルハン・ヒヤ
紅旗⇒ベイレ:ダイシャン、グサイ・エジェン:ホホリ
青旗(藍旗)⇒ベイレ:シュルガチ、グサイ・エジェン:ションコロ・バツルi

 ヌルハチの共同統治者たる同腹弟・シュルガチは青旗、後継者=アルガ・トゥメン チュエン白旗を管轄している。

ヌルハチ即位以後
正黄旗⇒ヌルハチ直轄
鑲黄旗⇒ヌルハチ直轄
正紅旗⇒ダイシャン
鑲紅旗⇒ダイシャン
正白旗⇒ホンタイジ
鑲白旗⇒ドゥドゥ
正藍旗⇒マングルタイ
鑲藍旗⇒アミンii

 四旗が八旗に増設。チュエンシュルガチの死によってベイレも代替わりしている。白旗チュエンの長子・ドゥドゥ鑲白旗と、ホンタイジ正白旗に、青旗シュルガチの第二子・アミン鑲藍旗マングルタイ正藍旗に引き継がれている。四大ベイレ(ホショ・ベイレ)=アンバベイレ・ダイシャンアミンマングルタイドゥイチ・ベイレ・ホンタイジがそれぞれグサイ・ベイレ(gūsai_beile)を兼任しているが、正鑲紅旗を管轄するダイシャンが相対的に権力を持ち得る環境にあったことが分かる。

ホンタイジ天聰年間
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホーゲ、アバタイ
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン
鑲紅旗⇒ヨト、ドゥドゥ
正白旗⇒ドド
鑲白旗⇒アジゲ、ドルゴン
正藍旗⇒マングルタイ、デゲレイ
鑲藍旗⇒ジルガランiii

 アミン失脚後、マングルタイ失脚前と言うコトになる模様。ホンタイジが即位に伴って正白旗から正黄旗に移動、鑲黄旗ホンタイジの長子・ホーゲドゥドゥ鑲白旗からダイシャンの縄張りの鑲紅旗に移動、ダイシャンの長子ヨトが独立して鑲紅旗に、ヌルハチ最晩年に正鑲黄旗に配されたと思われる、アジゲドルゴンドド兄弟が正鑲白旗に移動、鑲藍旗アミン失脚後、ホンタイジ即位前からホンタイジ派と目されていた、アミンの弟であるジルガランが継承している…と言う具合。
 《太宗実録》と《瀋陽日記》からの復元なので二人上げた場合はどちらがグサイ・ベイレだったのかは不明。両紅旗ホンタイジの即位に関して功績のあるヨトサハリヤンダイシャンの勢力の中でも発言力を増したと捕らえるべきか…。ただ、鑲白旗アジゲ天聰2(1628)年にドドの婚姻を勝手に手配してグサイ・ベイレの任を解かれているので、以後はドルゴン鑲白旗グサイ・ベイレとなっている。また、正藍旗天聰6(1632)年のマングルタイ死後にデゲレイ正藍旗グサイ・ベイレを継承している。そのデゲレイ天聰9(1635)年に死去、その後、マングルタイデゲレイは罪に問われて宗籍を追奪、子孫も庶人に落とされて正藍旗ホンタイジに摂取されている。これが皇帝直属の上三旗の発端(順治年間にドルゴンが自らの正白旗と正藍旗と入れ替える)。
 
ホンタイジ崇徳年間
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホショ・ファフンガ・チンワン(Hošoi fafungga cin wang 和硯肅親王)・ホーゲ
正紅旗⇒ホショ・ドロンゴ・チンワン(Hošoi doronggo cin wang 和碩禮親王)・ダイシャン(サハリヤン)
鑲紅旗⇒ホショ・キセヘ・チンワン?(Hošoi kicehe cin wang?和碩成親王)・ヨト
正白旗⇒ホショ・エルケ・チンワン(Hošoi erke cin wang 和碩豫親王)・ドド
鑲白旗⇒ホショ・メルゲン・チンワン(Hošoi mergen cin wang 和碩睿親王)・ドルゴン
正藍旗⇒ホンタイジ直轄
鑲藍旗⇒ホショ・ウジェン・チンワン(Hošoi ujen cin wang 和碩鄭親王)・ジルガランiv

 と言うワケで、天聰末年ホショ・ベイレの中でも、グサイ・ベイレを兼ね備えた者がホショ・チンワンに封じられた模様。天聰末年にはホショ・ベイレであったサハリヤン崇徳元(1636)年時点では親王には封じられていない。しかし、その後間もなく崇徳元(1636)年に死去した際に追封してホショ・スレ・チンワン(Hošoi sure cin wang 和碩穎親王)となっているので、ダイシャンの後釜と目されていたと考えられる。ヨトはこの後、罪に問われてベイセに降格し、死後ドロ・キセヘ・ギュンワン(Doroi kicehe giyûn wang 多羅克勤郡王)に追封されているので、マンジュ語の王号がこれで合っているのかは分からない。
 ヨト大明遠征中崇徳4(1639)年に死去している以外は順治まで異動は無かったと思われるが、その後の鑲紅旗グサイ・ベイレが誰に継承されたのかは調べていないので、今後の宿題にしようかと…。

  1. 承志『ダイチン・グルンとその時代 ─帝国形成と八旗社会─』名古屋大学出版P.47~48 [戻る]
  2. 承志『ダイチン・グルンとその時代 ─帝国形成と八旗社会─』名古屋大学出版P.48 [戻る]
  3. 神田信夫『清朝史論考』山川出版社「清初の貝勒について」P.42 [戻る]
  4. 神田信夫『清朝史論考』山川出版社「清初の貝勒について」P.46 [戻る]
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