喇嘛の奇薬

 と言うわけで、中野江漢『北京繁昌記』東方書店 をパラパラ捲っていたら、なんだか酷い内容だけど面白い記事を見つけたのでメモ。


 と言うわけで、まずは引用です。

 清朝に興国の淫婦と亡国の妖婦とがあり、清は淫に興り淫に終わったといってもよい。亡国の妖婦はかの西太后で、興国の淫婦とは、太宗〔清朝第二代の皇帝、ホンタイジ。在位一六二七~四三年〕の后、順治帝の母、博爾済〔フルチ〕氏即ち孝荘文皇后である。后は天成の妖艶に加え巧笑柔媚〔こびるように笑い、なまめかしい〕以て鬼神を魅するに足り、肌膚玉のごとかりしとて、宮中にては「玉妃」の称があった。明の洪承疇(明朝北部総司令官で、崇徳二年〔一六三七年〕盛京松山の戦いに敗れて捕虜となり、獄中において絶食して不屈の決心を示していた)を閨中に説いて清に降らしめ、愛新覚羅氏〔清朝の皇室〕のために三百年の運命を開拓したスタートとなったことは、清朝興亡史を繙く者の誰も知っていることである。伝うるところによれば、玉妃には「蟲術」という術があって、毎夜よく十男を御せられたという。太宗皇太極〔ホンタイジ〕が兵を外に用いて不在がちなるを幸い、玉妃は布囲いの車に美少年を載せて宮中に引き入れたということである。晋の賈后〔?~三〇〇年。恵帝の皇后〕、日本の吉田御殿〔徳川秀忠の長女、千姫の故事〕を合わせた好三幅の乱行である。i

 この記事の前に中野江漢も『雑書を漁って』と書いてますけど、まぁゴシップばっかりで酷いですね…。孝荘文皇后ホルチン出身のボルジギト氏…清朝の刊行物では博爾濟吉特氏ですから、基本情報からして信用度がガタ落ちなんですがこれは…。
 あと、孝荘文皇后の通称を玉妃としていますが、孝荘文皇后の本名を大玉兒としていた《清宮十三朝演義》は民国15(1925)年で、中野江漢が『北京繁昌記』を書いたのは大正11(1922)年なので、《清宮十三朝演義》が成立する前から孝荘文皇后を玉なんとかという名前だとする説があったようですね。こういうのも興味深いです。
 あと、洪承疇孝荘文皇后に色仕掛けで籠絡されたというのは何が元ネタなんですかねぇ…。《清宮十三朝演義》をちょっと見てみましょう。
 捕虜にされた洪承疇をなんとか投降させようとしますが、金品では洪承疇は釣れません。それどころか、洪承疇は投降を拒んで絶食に入ります。ドドが彼の書童を自宅に招いて侍女を使って聞き出したところ、洪承疇は他のことでは動かないモノの好色という弱みがあることが判明します。ホンタイジはこれを聞くと早速漢人の美人を四人選んで洪承疇の元に送りますが、洪承疇は見ようともせず追い返します。孝荘文皇后は婢を何人連れて行ったところで洪承疇の眼鏡には適わないだろうとして、自分が洪承疇を直接説得することを提案します。ホンタイジは秘密が守れるのであれば手段は問わないと許可を出します。
 絶食を開始して五日経った時、洪承疇が幽閉されている屋敷に一人の女人が現れます。訝って目も開けない洪承疇に、女人は死にたいなら楽に死ねるように毒をさし上げましょうと持ちかけます。毒と聞いてようやく目を開いた洪承疇は女人の持つ毒酒を奪って飲み干したものの、女人に床に寝かされて家族構成について質問され、死んだら家族はどうなる?と諭されると洪承疇は声を上げて泣き出します。女人は「毒薬を飲んだのに何で死なないとお思いで?」と笑いかけ、実は絶食している洪承疇の養生のために朝鮮人参のスープを飲ませたと明かします。女人は洪承疇にここで死ぬよりは清朝に投降した方が良い理由を理路整然と説明しますが、洪承疇は女人を追い払おうとします。そこで、女人が持参した満漢合璧の印璽を洪承疇に見せると、満文の横に漢字で「永福宮之寶璽」と掘ってありました。ようやく、洪承疇は女人が関外一の美人と名高い孝荘文皇后であることを知って恐れ入って非礼を詫びて…で、なんか急に接近した二人は朝チュンしてるんですね…。翌朝洪承疇が起きると昨日の女人は床から消えていました。ついに洪承疇は先にホンタイジから送られた四美女の用意した水で顔を洗って、同じく用意した朝食のお粥を平らげ、やってきた諸王の説得を受けて辮髪を結ってホンタイジに帰順した…と、大体そんな感じの話が書いてあります。孝荘文皇后洪承疇を色仕掛けで籠絡したという逸話は、この頃には形成されていたってことでしょうね。それはそうと、洪承疇の牢獄に美男子が送られて籠絡されたっていうバージョンもどこが元ネタなんですかねぇ…。
 引用を続けます。

 当時太宗の母弟に睿親王多爾袞〔ドルゴン。一六一二~五〇年〕という人があった。排行〔一族の同一世代における年齢による序列〕第九番目に当たるので、九王とも称する。太宗の突如たる崩御とともに皇位継承問題が起こった時、九王は第一候補者であったが、孝荘文皇后の色仕掛けに遭い、閨帳裏〔ねやのうち〕の夢の間に、当年六歳の福臨王(順治帝)が皇位を嗣いだ。九王はその後摂政となりてますます醜聞あり、ついには「皇太后降嫁」の詔が発せらるるに至った。太后といえば天子の母である。天子の母が降嫁せられたということは、中国史上未曾有の破例である。この詔書は明の降臣で詩人銭謙益の筆になり、実に典麗荘重を極めたものである。その略に曰く、

朕天下を以て養うと雖も、而も太后春秋鼎盛〔人生真盛り〕なり、孑焉〔孤独なさま〕として偶〔配偶者〕なくんば、春花秋月悄然として怡こばざらむ。今以うに、皇叔摂政王は、周室の懿親〔近親〕、元勲の貴冑〔高貴な子孫〕なり、克く徽音〔名誉〕に配せば、永く休美〔幸福〕を承けむ。(云々)

 爾来九王は「皇父」と尊称せられた。玉妃、大詔により天下晴れて降嫁し、九王はその限り寵眷に浴し、一人を以て独りその衝に当たり、精力を竭くして玉妃に媚び、余勇を鼓しまた私かに宮女を漁した。さしもの九王も荒淫度なかりしため三十六、七になってから力支うること能わず、人参、鹿茸〔鹿の角を干したもの〕、膃肭臍等のあらゆる捕剤を用いたが著しき効果もなく、日一日と衰弱して行くばかりであった。ii

 ドルゴンの通称を九王というのは、『韃靼漂流記』にも見えますから(正確には”キウワンス”ですが)、当時ドルゴンはこう呼ばれていたようです。この辺がなんだかこの記事面白いんですよね。
 で、孝荘文皇后に籠絡されて皇位を諦めたドルゴン皇后降嫁をのんだと言うことになっているわけですが…。まぁ自分は状況から見て皇后降嫁はなかったと思いますので、この辺はスルーします。で、銭謙益皇太后降嫁の詔書を書いたことになっていて、もっともらしい詔書本文が挙げられているモノの…いや、銭謙益って順治3~5年の間は清朝に帰順していたようですけど、詔書起草できるような地位にいたんでしょうか。それに、その本文を検索してもそれらしい文章が出てきませんね…。この辺は大嘘でしょう。
 ただ、ドルゴンの体力が衰えてたのは好色の故で…というのも、額面通りに受け取れないモノの最晩年になってもホーゲの未亡人娶ったり、朝鮮から子女を娶ったりという状況を考えると、宮女漁りしていたとかなんとかはともかく、当時そういう噂があったとしてもおかしくないでしょうね。この辺モデルになった史実がありそうで侮れないですね…。まぁ、元々ドルゴンは病気がちだったようで、体力が衰えたというのも30後半から始まったことではないでしょうけど。
 引用続けます。

この時に当たって王に一策を献じた好事者があった。「喇嘛西番に在り、さきに興奮薬を以てその術を神にす。今聞くその嚢中に奇薬多し」という意味を白して、これを索めて効験があると薦めた。九王は直ちに使を派し喇嘛僧に向かってこの旨を述ぶると、喇嘛はまず皇父が喇嘛教に帰依し親しくこれを祭るにあらずば、この薬はとうてい求むることができぬと、巧みに持ち掛けたので、九王は直ちに壇を宮中に設けて淫殺の神を祭るようになった。
 この奇薬を得るまでにがなかなか手数を要する。まず壇を設けて牲牢〔いけにえ〕、樽俎〔さかだると供物の台〕、金台、銀盞〔銀のさかずき〕等、つぶさに豊腆〔豊かで手厚い〕を極め、終日鐘、太湖その他の楽器を打ち鳴らして囃し立てる。夜に入ると、神燈を星のごとく輝かし、参列する喇嘛百八人、これが一斉に経を誦して壇を繞る。その間は唱経の声と、楽音とが混和して屋根裏も抜けんばかりである。かくのごとくすること三日三夜、はじめて壇の中央に浄瓶一を置く。瓶の大きさ牛胆のごとく、膠皮紙を以てその口を封固し、紙上に符籙状を載せておく。かくのごとくして喇嘛は経を誦しながら壇を繞ることやや久しくして、柱錫を持って身構えをなし、「イヤッ!」と一声気合いをかけると、色赤くして丹砂〔水銀と硫黄の化合物〕に似たる小粒が二つ現るる。それが喇嘛の奇薬で、名づけて「子母丸」、または「阿肌蔵丸」ともいうもので、昔達頼第一世の座牀の時、この丸を以て金瓶の中に置いてこれを第二世に伝え、その後世々伝わっている天下の珍薬である。
 喇嘛はこの薬を九王に示していうには、「この薬はおのずから生息して永久不変である。大功徳の仏縁ある者が経壇を設けて誦呪すること三日、かくて浄瓶の中にこの丸を納め、また謹んで祝すること七日、更に浄室の中に移置すること三七日、かくして初めてその封を啓くと薬が必ず中に満ちている。この丸霊験異常、量を計って用うればいかなる難症もたちどころに全癒する。とうてい人力の配製すべきところでない」と。九王唯々としてその言のごとくにした。そして浄室の内外は日夜厳重に侍臣に守護させ、喇嘛はもちろんのこと、断じて人の出入りと禁じた。かくて期到ると、アナ不思議や丸薬瓶に満ち満ちてその数百余粒に増していた。九王が試みにこれを用ゆるに神采煥発、精力大いに振るったので悦ぶことはなはだしく、半歳ならずしてことごとく飲み尽くしてしまった。それより後一月を経るとまたたちまちにして委頓(衰弱)したので喇嘛を呼んで更にこれを求めんとしたが、今度は喇嘛は断乎として拒絶した。
 その断った理由というのは、この霊薬は「子母」と名づく。母があってこそ始めて子を得ることができる。母までも飲み尽くしてしまえばいかに壇を設け法をなすといえども効なし。その母薬は今一個西藏なる達頼法王の庫内にあるのみである。西藏までの往復は一年を要するからとうてい間に合わぬといった。九王は強いて喇嘛を出発させたが、その帰らざるうちに身体とみに衰弱してついに馬より墜ちて死んでしまった。iii

 と言うわけで、伝奇小説のような喇嘛の奇薬こと歴代ダライ・ラマ相伝の、何故か勝手に増えるバイアグラの製薬方法の記述が延々と続いています。ドラえもんのバイバインの様に増えすぎてしまって困るオチじゃなくて、増えるよりも早く飲み尽くしてしまった…ってオチなんですね。なんだか、いつの間にか話が孝荘文皇后の乱行からドルゴンの回春話にシフトしてますね…孝荘文皇后はこの薬のことを知っていたのか気になりますが、残念ながら記述はありません。
 あと、ダライ・ラマラマを派遣という話も、順治元年~3年くらいの話なら《世祖章皇帝實録》に記述があるんですよね…。

(順治元年正月10日)遣使偕喇嘛伊拉古克三胡土克圖、往迎達賴喇嘛。仍以書諭厄魯特部落顧實汗知之。iv
(順治3年8月)戊戌(25日)。前遣往達賴喇嘛察罕喇嘛還。達賴喇嘛厄魯特顧實汗等。遣班第達喇嘛達爾漢喇嘛等同來。v

 と言うわけで、バイアグラ欲しさと言うわけではないでしょうけど、ラマは派遣しています。派遣したラマの名前が違うのは、イラグサン・ホトクト順治3年くらいに亡くなったようなので、チャガン・ラマがその後を継いだものと思われます。いずれもチベット文献にも名前が残っているゲルク派の高僧です。それにしても、順治元年正月段階でムクデン(瀋陽)にダライ・ラマ呼ぼうとしてたんすな…。時期を順治6~7年のこととするとしてしまうと嘘になりますが、ドルゴンラマダライ・ラマに派遣した…と言う内容は史実ではあるんですよね…。
 更に言えば、ドルゴンの死因を体が衰弱して落馬したとしていますけど、これも概ね史実通りですね。
 と言うわけで、かなり不正確な情報を元に書かれている割に全くの想像で書いてるわけでもなさそうなのがタチ悪いですね…。それにしても、中野江漢には、これがどの本に載ってたのかちゃんと書いて欲しかったと言うのが素直な感想ですねぇ…。

  1. 『北京繁昌記』P.72~73 [戻る]
  2. 『北京繁昌記』P.73 [戻る]
  3. 『北京繁盛記』P.73~75 [戻る]
  4. 《世祖章皇帝實録》巻3 [戻る]
  5. 《世祖章皇帝實録》巻27 [戻る]

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