《太平廣記》での高駢#1
突然、残唐の高駢さん熱が再発したのでとりあえず、ネットに転がってた《太平廣記》iから高駢関係の記事をザッと訳してみました。暫く高駢さんの記事を訳していこうかと…。
唐燕公高駢微時。為朱叔明司馬,總兵巡按。見雙雕,謂眾曰:“我若貴,矢當疊雙。”乃伺其上下,果一矢貫二雕。眾大驚異,因號為落雕公。(出《感定錄》)ii
【適当な訳】唐の燕公・高駢がまだ官位が低く、朱叔の司馬となっていた頃の話。閲兵を行った際、高駢は二匹の大鷲(雕)がいるのを見ると、皆に向かって「もし私が出世するなら、一本の矢で二匹とも貫くコトが出来るでしょう」と言った。高駢は一匹が上を飛び、一匹が下を飛ぶ機を見計らうと、果たして一矢を以て二匹の鷲を射落とした。皆大層驚き、高駢は「落雕公」と号された。
【宣和堂評】武侠小説のように格好いい出だしですね。落雕公と呼ばれるのは、後々、高駢が燕公に封じられてからかも知れませんが、つかみとしてはマズマズではないでしょうか?
唐光啟三年,中書令高駢,鎮淮海。有蝗行而不飛,自郭西浮濠,緣城入子城,聚于道院,驅除不止。松竹之屬,一宿如剪。幡幀畫像,皆啗去其頭。數日之后,又相啖食。九月中,暴雨方霽,溝瀆間忽有小魚,其大如指,蓋雨魚也。占有兵喪。至十月,有大星夜墮于延和閣前,聲若奔雷,迸光碎響,洞照一庭。自十一月至明年二月,昏霧不解。或曰:“下謀上之兆。”是時粒食騰貴,殆逾十倍。寒僵雨仆,日輦數十口,棄之郭外。及霽而達坊靜巷,為之一空。是時浙西軍變,周寶奔毗陵。駢聞之大喜,遽遣使致書于周曰:“伏承走馬,已及奔牛。(“奔牛”堰名,在常州西。)今附齏一瓶,葛粉十斤,以充道途所要。”蓋諷其齏粉也。三月,使院致看花宴,駢有與諸從事詩。其末句云:“人間無限傷心事,不得樽前折一枝。”蓋亡滅之讖也。及為秦彥幽辱,計口給食。自五月至八月,外圍益急,遂及于難。(出《妖亂志》)iii
【適当な訳】→唐・光啓3(887)年、中書令・高駢が淮海ivに鎮守していた時、イナゴが発生したがただ這いつくばるだけで飛ばなかった。イナゴは城西から護城河を浮いて移動し、城壁にへばりついて内城に侵入した。イナゴは道路や庭園に集まり、駆除するまで這いつくばって進むのをやめなかった。松や竹のような樹木は一晩の内に、ハサミで剪定したようになり、幟(のぼり)の上に書かれた絵は、皆頭の部分を食いちぎられていた。数日後、イナゴは共食いした。
9月中旬、激しい雨の後に晴れると、用水路の中に突然小魚が発生した。大きいモノは親指ほどの大きさがあったが、全て雨魚(アマゴ?)であった。占いによると、これらの現象が起こるのは兵乱のある兆しだと言うことだった。
10月になると、ある晩、隕石が延和閣の正面に落ちた。雷が落ちたような轟音が鳴り響き、閃光が輝いて何かが壊れるような音がして、光が庭園中に満ちあふれた。
11月から翌年の2月までは霧が発生して日中でも暗く、長期間にわたって晴れることがなかった。ある人はコレは下克上の凶兆だと言った。米価が高騰して、以前の十倍以上の値段がついていた。寒さと大雨のために死人が続出し、城外に車で運び出される死人は日に数千人にも上った。空が晴れるのを待って横町や市街にある家を覗いてみると、全て空になっていた。
この時、浙西軍vで反乱が起きvi、周宝viiは毗陵(江蘇省常州市)に逃げてきた。高駢はコレを聞くと大層喜んで、早速使者に手紙を持たせて周宝に送った。手紙には「貴君は馬を走らせ奔牛viiiに到達した。今、貴君に一瓶の齏粉ixと十斤の葛粉xを贈ろう!行く道すがら必要になるだろう」と書かれていた。コレは周宝が齏粉…つまり粉みじんになってしまえ!という諷刺である。
3月、使院xiで花見の宴会を催し、そこで出席者は詩を詠んだが、詩の末尾の句の「人間に傷心の事限りなし、樽前に一枝を折るを得ず」は滅亡の予言である。
高駢は秦彦xiiに生け捕りにされる恥辱を受けると、人口を把握して食物を与えようとした(慣用句?)。
5月から8月まで、高駢は城を囲まれて更に困窮し、遂に難に遭うことになる。
【宣和堂評】→どちらかというと、残唐の揚州の怪異を集めただけで、半分はあんまり高駢関係ないですね…。引用元の《妖乱志》自体がどうやら、高駢と呂用之が反乱にあって殺された事件の書物のようですが、散逸してますしあまり好意的には捉えてませんからよく分かりませんね。
ただ、高駢が近衛軍=神策軍にいた頃の先輩でありながら、後に犬猿の仲になる周宝に対して取った行動は…成る程納得の行動ですね…って言う感じデス。花見の宴会で歌詠んで後付けで予言詩にされてしまうのも高駢らしいですし…。
咸通中,南蠻圍西川,朝廷命太尉高駢,自天平軍移鎮成都。戎車未屆,乃先以帛。書軍號其上,仍書一符,于郵亭遞之,以壯軍聲。蠻酋懲交阯之敗,望風而遁。先是府無羅郭,南寇才至,遽成煨燼。士民無久安之計。駢窺之,畫地圖版筑焉。慮畚插將施,亭堠有警,乃命門僧景仙奉使入南詔,宣言躬自巡邊。自下手筑城日,舉烽直至大渡河,凡九十三日,樓櫓矗然,旌旆竟不行。而驃信詟慓,不假兵以詐勝,斯之謂也。(出《北夢瑣言》)xiii
【適当な訳】→咸通年間(860~874年)、南詔xivあたりには西川xvを包囲したので、朝廷は太尉・高駢に命じて天平軍xviから成都に着任させた。
高駢は輜重車が到着する前に、まず布に軍号を書き、その上に呪符(?)を書き入れ、通過した駅舎に次々と掲げさせ、大軍が押し寄せているように見せかけた。南詔は交阯xviiでの敗北xviiiを憶えており、コレを見るや風のように逃走した。
この時まで成都府には城壁が無かったため、南詔軍が攻め寄せると市街は焼き討ちにあったが、成都の人々にはコレを防ぐ策がなかった。高駢はコレを知ると、地形を測り築城の計画を建てた。この頃、まさに春耕の時期であったので、見張りを立てて警戒した。また、高駢は僧侶や道士を使者に立てて南詔に帰順をうながし、高駢自ら辺境を巡回すると告げた。この日から築城を開始し、部下を派遣してたいまつを掲げて河を渡らせ、おおよそ93日中に軍を動かさずに城壁を完成させた。高駢はこのようにして交戦することなく、巧妙に策を巡らせて勝機を掴んだのである。
【宣和堂評】→こちらは戦略家としての高駢ですね。虚兵で大軍のように見せかけたり、使者使って恫喝しながら南詔に攻撃する隙を与えないうちに迎撃態勢を整えたワケです。ココでも呪符が出て来るあたり流石高駢ですねw築城技術もおそらくは子飼いの道士…と言うよりテクノクラートによるモノで、日数まで提示してるからには通常よりも短期間で強固な城壁を築いたんだと思います。
唐南蠻侵軼西川,苦無亭障。(中略)高駢自東平移鎮成都,蠻猶擾(“擾”原作“傳”,據明抄本改)蜀城。駢先選驍銳救急。人人背神符一道。蠻覘知之,望風而遁。爾后僖宗幸蜀,深疑作梗,乃許降公主。蠻王以連姻大國,喜幸逾常。因命宰相趙隆眉、楊奇鯤、段義宗來朝行在,且迎公主。高太尉自淮海飛章云:“南蠻心膂,唯此數人,請止而鴆之。”迄僖宗還京,南方無虞,用高公之策也。(後略)(出《北夢瑣言》)xix
【適当な訳】→唐は南詔に西川を侵略されたが、防御線がないことに苦しんだ。(中略)高駢が東平xxから成都に鎮を移すと、南詔は成都城を襲った。高駢はまず精鋭を選んで先行させた。先行隊にはそれぞれ背中に呪符を背負わせた。南詔は偵察してコレを知ると、風のように逃走した。
その後、僖宗が蜀に幸行すると、僖宗は南詔が攻め込んでくるコトを恐れ、公主を南詔に降嫁して政略結婚させようすると、南詔は大変喜んだ。南詔は宰相の趙隆眉、楊奇鯤、段義宗を僖宗の行在に派遣して、公主を迎える準備をしに来た。太尉・高駢は淮海から急ぎ「南詔の要人は今来ている数名だけです。引き留めて毒殺すべきです」と奏上した。この後、僖宗が長安に戻るまで、南詔は攻め込んでこなかった。コレは高駢の策のためである。(後略)
【宣和堂評】→前半の記事は一個前の記事と同じですが、呪符は幟に書くだけじゃなくて、兵士に背負わせてますねw記事としてはこちらの方が面白いと思います。更に僖宗が娘を南詔と政略結婚させる際に謀略する様に勧めてます。実際には政略結婚が成功したために南詔が攻めてこなくなったんでしょうが、この後、南詔に内乱があって南詔王が弑逆されるのはもしかしたこのあたりが効いてるのかも知れませんね…。まあ、正直あまり褒められる謀略ではありませんが…。
と、もうちょっと続けますよ~。
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- 淮海節度使。使府は揚州 [戻る]
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- 鎮海軍節度使の将・劉浩の反乱 [戻る]
- 鎮海軍節度使で高駢とは因縁の間柄 [戻る]
- 地名、常州の西にある堰 [戻る]
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- 淮南節度使の役所? [戻る]
- 宣歙観察使。元々は黄巣旗下にあったが、高駢に生け捕りにされてのちに帰順。その後に高駢に反旗を翻す [戻る]
- 卷第一百九十 將帥二(雜譎智附) 高駢 [戻る]
- 大雑把に現在の雲南あたりにあった国。詳しくはWikipedia参照。 [戻る]
- 大雑把に言うと、現在の四川省西部 [戻る]
- 大雑把に山東省の一部を鎮守する節度使 [戻る]
- 現在のベトナム北部ソンコイ川流域。 [戻る]
- 咸通5(864)年の高駢による安南都護府奪還のこと [戻る]
- 卷第一百九十 將帥二(雜譎智附) 南蠻 [戻る]
- 東平郡天平軍節度…要するに天平軍節度 [戻る]