孝荘文皇后と愉快な仲間達-ダイチン諸王編2
と言うワケで、ドラマはとっくに終わっちゃったのですが、ツラツラ調べたことをまとめてみるのです。今回はホンタイジの頃のダイシャン初め三大ベイレについてです。内容についてはあんまり孝荘文皇后関係無くなってきてますが、面白かったのでまとめてみました。
ダイシャン(Daišan 代善)ホショ・ドロンゴ・チンワン(Hošoi doronggo cin wang 和硯禮親王)
万暦11(1583)年、ヌルハチとヌルハチの初代アンバ・フジン(大福晋)であった元妃=トンギャ氏(Tunggiya Hala 佟佳氏)のハハナ・ジャチン(Hahana jacin 哈哈納扎青)との間に生まれる。同腹兄のチュエン(Cuyen 褚英)はアルガ・トゥメン(Arga Tumen 阿爾哈図土門 広略太子)としてヌルハチの後継者と目された。
ヌルハチの旗揚げ当初からジュシェン統一選で各地を歴戦。ベイレ(Beile 貝勒)に封じられる。対ウラ(Ula 烏喇)部戦では戦功をヌルハチに評価されてグェン・バトゥル(guyeng baturu 古英巴圖魯)号を賜わる。更に、シュルガチ、チュエンがヌルハチと対立して排除されると、アミン(Amin 阿敏)、マングルタイ(Manggūltai 莽古爾泰)、ホンタイジと共に四大ベイレに任じられ、その筆頭となる。四大ベイレの中でも特に勢力の大きいダイシャンは次第に後継者と目されるようになった模様。
天命元(1616)年、ヌルハチがアマガ・アイシン・グルン(Amaga Aisin Gurun 後金国)のハン位につくと、ホショ・ベイレ(Hošoi beile 和碩貝勒)に就任。以後、アンバ・ベイレ(Amba beile 大貝勒)と称される。天命3(1618)年に、ヌルハチが七大恨を掲げて大明に対して宣戦布告を行い、ダイシャンは撫順戦でまたもや戦功を上げる。翌天命4(1619)年には、対大明戦での大一番、サルフ(sarhū 薩爾滸)の戦いで多いに戦功を上げてその地位を不動のモノとした。以後もサルフの英雄として絶大な人気を誇る。
しかし、翌天命5(1620)年には、ダイシャンと当時のヌルハチのアンバ・フジン(大福晋)であるフチャ氏(Fuca hala 富察氏)グンダイ(Gundai 袞代)との不倫疑惑というスキャンダルが発覚する。しかし、ダイシャンが罪に問われるコトは無かったが、一方でグンダイはアンバ・フジンの座を追われ、ヌルハチから離縁されている。この辺はホンタイジ派の曲筆だ!とする説もあるモノの、ダイシャンはともかく、アミンの養母でありマングルタイの実母であるグンダイが国母たる地位を失ったことは間違いないi。
同年、今度はダイシャンの次子・ショト(Šoto 碩託)とシュルハチの第五子・ジャイサング(Jaisanggū 寨桑武)の大明逃亡疑惑事件が発覚する。二人は事件発覚後幽閉されるが、血縁者であるダイシャンとアミンは自身の手でショトとジャイサングを処刑することを申し出るが、これは許可されなかった。しかし、綿密な調査が命じられた結果、ダイシャンの先妻の子であるショトと兄のヨト(Yoto 岳託)に配分された領民が異母弟(後述のワクダやマンダハイ)と比べて不公平な状態であることが発覚した。
このことをヌルハチがダイシャンに問い詰めると、ダイシャンはショトが庶母と密通していると訴えたが、これも継母がショトを陥れるための計略であることが発覚した。又この過程で、マングルタイや五大臣の一人であるダルハン・ヒヤ(Darhan Hiya 達爾漢轄)ことフルハン(Hūrhan 扈爾漢)をも攻撃している。このことで、ヌルハチの後継者から外され、旗下の領民を没収され、議政王たるジャクン・ホショ・ベイレ(八和硯貝勒)からも外された(調査の結果ショトは解放されている)ii。依然として両紅旗を影響下に置くダイシャンは権勢を保ったモノのこの事件で後継者たる資格を失い、漁夫の利を得たホンタイジが次第に後継者と目されるようになり、ダイシャンの長子・ヨトや第三子・サハリヤン(Sahaliyen 薩哈璘)でさえ急速にホンタイジに接近していく。
天命11(1626)年にヌルハチが崩御すると、ヨトとサハリヤンに説得されてホンタイジ擁立を支持する。後継者となることはできなかったモノの、即位を支持したことからか、天聰年間初頭はアンバ・ベイレとして最大限の敬意をホンタイジから払われており、ホンタイジはダイシャンの叩頭を固辞している。しかし、ホンタイジは天聰4(1630)年にアミンを、天聰5(1631)年にはマングルタイを失脚させ、その勢力を自派のジルガラン(Jirgalang 濟爾哈朗)、デゲレイ(Degelei 德格類)に引き継がせている。ダイシャンの後継者もヨトとサハリヤンと目されていたので、旗王はすべてホンタイジ即位前からホンタイジ派と見なされていた皇族でかためられたことになる。
その後、ダイシャンはモンゴル・チャハル部侵攻に貢献した(この際に出征を渋ったらい)。天聰8(1634)年にリンダン・ハーンが病死し、天聰9(1635)年にはホンタイジはその勢力を遺族もろとも接収することに成功する。この際にダイシャンはホンタイジからリンダン・ハーンの元・妃であるニャンニャン(Niyangniyang 囊囊)太后(=バトマ・ゾー(Batma Dzoo 巴特瑪璪)、康惠淑妃)を下賜を打診されるが、却ってその財産が少ないことを嫌って断った。これより先にダイシャンは資産家であったリンダン・ハーンの妹であるタイスン公主を娶っていたり、ジルガランが欲したスタイ太后を横取りしようとするなど、かなりがめつい印象の行動を取っている。これらのダイシャンの行動に対してホンタイジは、財貨を目的に婚姻を進めたこと、議政大臣合意の元でジルガランに下賜されることになっていたスタイ太后を横取りしようとしたこと、更には息子の婚姻を強引に決めたこと、領民に衣食を充分に与えなかったこと、先の遠征で出陣を渋ったことなどを矢継ぎ早に責められている。断罪し終わるとホンタイジは宮殿に入って引き籠もり、議政王大臣たちがダイシャンの罪状を上申するまで外に出て来なかった。結果的にダイシャンはホショ・ベイレの資格とアンバ・ベイレの称号を剥奪され、領民を没収され罰金を課せられている。同時に礼部の旗王であったサハリヤンは職務怠慢を咎められて領民を没収の上、罰金を課せられているiii。ともあれ、この事件によってダイシャンの権威は一気に失墜し、以後ダイシャンの表立った活躍はなくなる。しかし、彼の一族が両紅旗を勢力下に置いていたことには変わりが無い。
翌、崇徳元(1636)年に二次即位したホンタイジからホショ・ドロンゴ・チンワン(Hošoi doronggo cin wang 和碩禮親王)に封じられ、息子のヨトは和硯成親王に封じられた。サハリヤンに封爵はなかったが、ダイシャンの後継者と目されていたらしいが、その年の内にサハリヤンは逝去してしまう。ヨトもジルガランとホーゲを讒言した咎でベイレに降格、更に崇徳2(1637)年にはホンタイジの不興を買ってベイセに降格される。しかし、崇徳3(1638)年にはベイレに昇格した上で揚武大将軍に任命され、大明侵攻の右翼軍の指揮を任されるが、翌崇徳4(1639)年にはヨトは陣没してしまう。
崇徳8(1643)年、ホンタイジが崩御すると両紅旗はホーゲを推戴するが、対抗馬であるドルゴンはジルガランを引き込んで両黄旗の推戴するフリン支持に切り替え、後継者はフリンに決定する。それでも諦めきれなかったモノか、ショセとサハリヤンの遺児・アダリ(Adali 阿達禮)がクーデターを企てるが失敗して処刑されている。翌順治元(1644)年の入関の際には両紅旗は留守番していた模様。その後、ダイシャンの第四子・ワクダ(Wakda 謙襄郡王・瓦克達)、第五子・マンダハイ(Mandahai 巽親王・満達海)が李自成征討戦で活躍するが、やはり、ダイシャン自体の事績は特にない。順治2(1645)年、北京に移転し、順治5(1648)年、逝去。享年、66歳。
ドラマではドルゴンに朝廷で声をかけるヒゲのおじさん程度の役どころしかないが、史実ではサルフの英雄、グェン・バトゥル、アンバ・ベイレとして権勢を誇る。しかし、浅田次郎の『中原の虹』に出て来るような、何でもこなすスーパー・ダイシャンという感じではなかった模様。「越過長城」どころかムクデン(瀋陽)でお留守番、かつその後は没するまで特筆すべき事も無いようなので、そこから何持ってきてああなったのかは疑問。
アミン(Amin 阿敏)ホショ・ベイレ(Hošoi beile 和硯貝勒)
ヌルハチの弟であるシュルガチ(Šurgaci 舒爾哈齊)の第二子。万暦40(1612)年のシュルガチ失脚時に長兄・アルトゥンガ(Altungga 阿爾通阿)、三弟・ジャサクトゥ(Jasaktu 扎薩克图)が死に追いやられたため、ヌルハチの養子となり、実母の実家であるフチャ氏出身のアンバ・フジン=グンダイに養育される。シュルガチの勢力はこの時再編され、アンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイ、ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジの四大ベイレに与えられた。更に翌万暦41(1613)年には後継者と目されていたチュエンが失脚し、四大ベイレがヌルハチを補佐する政治体制が完成する。天命元(1616)年、ヌルハチがハン位に即きホショ・ベイレに封じられる。シュルガチから引き継いだ利権を牛耳り、権勢はアンバ・ベイレをも凌いだと言われる。以後、ジュシェン統一戦やサルフの戦いなどで戦功を上げる。
しかし、天命5(1620)年、実母が虚偽を語った罪により処刑され、次は養母・アンバ・フジン=グンダイがスキャンダルによりヌルハチから離縁され後ろ盾を失う。さらに、同年の五弟・ジャイサングの大明逃亡疑惑事件では、調査過程でジャイサングら諸弟を疎んじiv、最低限の衣食すら分け与えていないことが判明した。しかも、ジャイサングがアンバ・ベイレ=ダイシャンや、ドゥイチ・ベイレ=ホンタイジに再三窮乏を訴えたが、二人は報告がヌルハチに誣告と取られることと、アミンの恨みを買うことを恐れて敢えて報告しなかったことが分かった。これは、アミンが恨み深い性格で、一度恨みに思うと忘れることなくネチネチと攻撃することが知られていたからでもある。ともあれ、自らの手でジャイサングを処刑することをアミンはヌルハチに願い出たが許されなかった。結局、ジャイサングは許されて釈放されている。身内から逃亡未遂事件が発覚したものの、翌天命6(1621)年も遼陽・瀋陽戦に参加して戦功を上げている。更に同年、明将・毛文龍を攻め破っている。
天命11(1626)年にヌルハチが崩御すると、ホンタイジの継位が合議で決している。アミン自体がこの襲位にどのような意見を持っていたのかは不明だが、少なくとも六弟・ジルガラン(Jirgalang 鄭親王・濟爾哈朗)はヌルハチ生前からホンタイジの与党と認識されており、ホンタイジの即位にも尽力したと思われる。
天聰元(1627)年、正月早々から、明将・毛文龍が朝鮮にかくまわれていることを理由にアミンを総大将とした遠征軍が朝鮮に侵攻する(所謂、第一次朝鮮遠征)。アミンは破竹の進撃で3月には講和を取り付けて4月にはムクデン(瀋陽)に凱旋した。しかし、この際に長期戦になると退路を断たれたり、大明やモンゴル諸部に背後を打たれる危険性を説く諸将を無視して煮え切らない朝鮮王と交渉を続けたこと、講和が成立したにもかかわらず諸将が止めるのも聞かずに帰路で略奪を働いた事などは後々ホンタイジに糾弾されたが、これもアミンが独立の気配をチラつかせたためとも言われる。
この遠征によって朝鮮との交易を再開することが出来たが、大明との交易が再開できないとジリ貧であることは明白なので、ホンタイジは天聰3(1629)年、膠着状態の山海関方面を避けて、モンゴルを攻略して北回りで北京に攻め込んだ。ホンタイジは北京を包囲して大明に講和を要求するが大明はこれに応じなかったので、周辺都市を攻撃して永平を含む四城を占領した。この時、アミンはムクデン(瀋陽)で留守を守っていたがv、翌天聰4(1630)年、ホンタイジ、ダイシャン、マングルタイらがムクデンに凱旋するのと交代してショトと共に永平の守りを託されたvi。補給線もなく敵地の真っ直中にある軍事拠点に取り残されたわけで、これを恒久支配するというのは現実的ではないように思える。ともあれ、留守を任されたアミンは独立国の王のように振る舞ったが、大明が盛り返してダイチンの勢力下にあった義州を攻めると、救援にも向かわず永平と、同じく勢力下にあった遷安城内の住民を虐殺して逃げ帰った。充分な補給線が確保されていない状況なので、無駄な交戦を避けて撤退したというのは言い訳になったにしても、退却する際に城内の住民を虐殺する必要は全くない。どうも、アミンは漢人に対していくらかの差別意識があったらしく、折に触れて漢人を皆殺しにすると吹聴したり、降伏してきた漢人を奴隷として八旗で分配するなど(通常、降伏してきた集団はその権利を保障する取り決めに合っている。戦勝の結果屈服させた相手は奴隷として八旗で分配された)記録に残ってる範囲では無茶苦茶な事をしている。
とにかく逃げ帰ったアミンに対してホンタイジは罪状十六を上げて糾弾し、死罪は免じたモノの即座にその地位を奪って幽閉した。アミンの財産はすべて没収してアミンの六弟であるジルガランに与えた。ホンタイジは遠征で占領した永平含む北京近郊の四城を橋頭堡として、この年の秋に再度北京への侵攻を構想していたと言うが、補給線も確保出来ていない状態では無謀としか言いようが無いし、そのような構想があるなら逃げ帰った後で教えるのではなく交代時に告げるべきであるから、あるいは最初からこれを狙っていたのではないかと思われる。ショトはアミンの巻き添えを食ってタイジの称号を剥奪され、領民を没収され兄のヨトの管理下に置かれている。もっとも、永平駐留から逃げ帰ったものは皆均しく何らかの罰則を受けているvii。アミン罪を許されることなく、幽閉されたまま崇徳5(1640)年に逝去。
ドラマではヌルハチの実子として登場しましたが、実際はヌルハチの甥で養子になった?とされています。ドラマの中では名前のあるモブくらいの役どころでしたが…なんともアレですね。アジゲも大概でしたけど、アミンはホンタイジから面罵されて失脚というか幽閉されているくらいですから、かなり悪く書かれているんでしょうけど、それを差し引いてもちょっとアレですね。何でもかんでもジルガランと一緒にやりたがって、ジルガランが拒んだら(実際には拒まれたわけではなく仮定しているだけ)ジクジクと刃物刺して殺してやるとかブツブツ言ってたという記事も残ってるので、なんだかキャラの立つ言動をする人だったみたいです。お行儀の良いダイチンの諸王の中で唯一独立をチラつかせたとされる人物です。朝鮮半島や永平に進駐していた時には、王のように振る舞い独立を臭わせるモノの、実際には周囲の諸王の賛同は得られず、そうこうしてるうちに最終的にはホンタイジに対して何も行動をしないまま処罰されてますから、考えて見ると独立不羈の旗王と言ったところで権力や求心力はその程度でしかなかったとも言えるわけです。
マングルタイ(Manggoyltai 莽古爾泰) ホショ・ベイレ(Hošoi beile 和硯貝勒)
万暦15(1587)年、ヌルハチとフチャ氏・グンダイの間に生まれる。年少よりヌルハチに従ってジュシェン統一戦に参加し、戦功を上げる。天命元(1616)年、ヌルハチがハン位につくとホショ・ベイレに封じられる。天命4(1619)年にはサルフの戦いに参加して戦功を上げている。以後、対大明、対チャハル部戦に転戦して戦功を上げる。
天命11(1626)年にヌルハチが崩御すると、元々マングルタイと仲が良くなかったホンタイジが即位する。もっとも、マングルタイはダイシャンとも不仲だったというので、四大ベイレで顔を合わせるのはさぞかし憂鬱だったのではなかろうか。しかし、天聰3(1629)年のホンタイジの大明侵攻に参加して、アバタイ、ドルゴンらと共に龍井関からの侵攻ルートで漢児莊、通州、遷過を経由して北京を攻撃・包囲した。しかし、北京は陥落せず翌天聰4(1630)年、アミンらと交代してムクデンに凱旋するが、その後先ほど取り上げたアミン失脚事件が起こっている。
そして翌天聰5(1631)年には大遼河戦に参加したが、陣中で些細なことからホンタイジと口論となり、怒ったマングルタイは佩刀をチラつかせながらホンタイジを睨んだので、同母弟・デゲレイはこれを不敬として拳で殴りつけたが、益々怒ったマングルタイは遂に刀を抜いて振り回してしまったらしい。この際に、マングルタイは不敬罪に問われてホショ・ベイレの地位を剥奪されてドロ・ベイレに降格、罰金を課せられた。翌天聰6(1632)年にはチャハル部遠征と大明侵攻作戦に参加するなど戦功を上げたがほどなく病没する。その葬儀ではホンタイジは大いに慟哭したらしい。
その後、マングルタイの領民・資産は同母弟のデゲレイに継承される。デゲレイは、この時既にホショ・ベイレの地位にあって戸部を統括していたが、正藍旗では兄のマングルタイの補佐役に甘んじていたので、これで名実ともに正藍旗の旗王となったのである。ヌルハチの生前からデゲレイはホンタイジの与党と目されていたので、これはアミン失脚後の鑲藍旗がジルガランに継承されたのと同様で、ホンタイジ派の旗王を増やす方策であると思われる。しかし、ここから先が正藍旗と鑲藍旗の事情は異なってくる。
天聰9(1635)年にリンダン・ハーンの遺衆を接収した際に、リンダン・ハーンの未亡人達…后妃が旗王達に再分配されている。この際にダイシャンが后妃下賜で問題を起こして失脚したことは先に書いた。同じタイミングでこの年の9月、ホーゲにベヒ太后が下賜されたが、ホンタイジの姉…と言うよりもマングルタイの同腹妹でデゲレイの同腹姉であるマングジ(Manggūji 莽古濟)は娘がホーゲに嫁いでいたのでベヒ太后下賜の話を聞くとかなり立腹したらしい。普段はマングジと仲が悪かったのに、ダイシャンはこれを聞きつけて家にマングジを呼んで宴会を開いて、帰りは四子・ワクダ(Wakda 謙襄郡王・瓦克達)に送らせている。ともあれ、マングジは娘と婿の関係を心配したモノにせよ、ホンタイジの差配に不満を漏らしていたことが分かる。この際にマングジが罰せられただけでなく、その夫であるソノム、婿であるホーゲ、ヨトも罰を受けており、姉に同調したとしてデゲレイも罰を受けている。しかも、それから10日もしない翌10月にはデゲレイは逝去する。葬儀でホンタイジはマングルタイの時と同様に大いに慟哭したと言う。その後、ホンタイジは11月中旬から12月初旬にかけて大規模な狩猟を行った。
デゲレイ死後、正藍旗には旗王が不在となっていたが、後継者の封襲は行われていない。当時、マングルタイの息子は三人いたと伝えられているが、長子は33歳(封爵を要求したとされるが名称不明)、五弟のエビルンは27歳でホーゲと同い年で後継者に適任者がいないわけではない。実際、マンジュ側の史料には残っていないが、大明が捕虜から聞いた話として残っている記録として、11月になってマングルタイの遺族が正藍旗の封襲を要求してホンタイジと対立し、マングルタイの遺族は族滅されたとされている。マンジュ側の記録では、12月初旬にマングジの家僕・レンセンギ(Lensenggi 冷僧機)がムクデンで留守を守っていた刑部ベイレであるジルガランに、故マングルタイ、故デゲレイとマングジ・ソノム夫妻による謀反計画が告発される。ほぼ同時期にソノムも行在に赴いてホンタイジの母方の伯父であるアシダルハン(Asidarhan 阿什達爾漢)に己の罪を自白している。何にしてもこの時期にいきなり三年前に死んでいるマングルタイの謀反を告発する人間が二人も出て来るのが不自然きわまりない。また、ダイシャンやアミンの失脚の際には長々と罪状を読み上げているにもかかわらず、今度は淡々としすぎている。証拠も押収された「金国汗之印」と言う印爾だけである。ともあれ、叛逆罪を問われたマングジ以下、マングルタイの五子・エビルン、マングルタイの異父兄・アンガラが処刑され、マングルタイの母・グンダイの一族である正藍旗旗人のアイバリも斬刑の上族滅。また、マングルタイとデゲレイの子孫は宗籍から抹消され庶民に落とされており、後世名誉回復もされていない。《宗室王公功績表伝》でもマングルタイとデゲレイは以罪黜宗室貝勒と言う項目に上げられ、表でも子孫の名は記されていない。ちなみにマングジの娘婿であるヨトは独り義母マングジを擁護したが当然聞き入れられていない。ホーゲはこの事件の後に妻であるマングジの娘を殺している。ヨトもこれに倣って妻を殺そうとしているがホンタイジに止められている。崇徳年間からのヨトの行動はこの事件の影響が大きいのかも知れない。少なくともジルガランとホーゲを陥れたというのはおそらくこの事件に関することだったのではないだろうか。
更にマングルタイ、デゲレイの資産は他の七旗で均等に分配され、正藍旗に所属していたニルは両黄旗に吸収されて正藍旗は消滅している。崇徳以来の正藍旗は鑲黄旗から移籍してきた旗人による新生正藍旗でありそれ以前の正藍旗との連続性はない。八旗が成立してから一つの旗を丸ごと消滅させた例は他にない。おそらく冤罪であるマングルタイの同腹兄弟の大逆事件により正藍旗を完膚なきまで潰すことによって、ホンタイジの皇位は盤石となり、それは翌崇徳元(1636)年に二次即位を行うことによって象徴されることになる。やはり天聰9年はホンタイジにとっては君主権確立のための大きな節目だったのである。
と言うワケで、ドラマでは「辮髪も守れない者が国を守れるか!」のセリフでおなじみのマングルタイです。ですが…これはちょっと《清史稿》などを調べていて違和感だらけの記述だったんですが、杉山清彦「清初正藍旗考──姻戚関係よりみた旗王権力の基礎構造──」viii)あたりを読むと如何にもこれは強引ですね。もうちょっと皆さんマングルタイに優しくしてあげても良いと思いました。ちなみに、この頃ドルゴンは嫁取りのためにホルチン部に出向いていたらしいので、正藍旗解体は彼のあずかり知るところではなかったようですが、こんな所はドラマは割と史実に忠実だったのかと驚きました。
- この辺の事情は松村潤『明清史論考』山川出版社「アミン=ベイレの生涯」を参照 [戻る]
- この辺の事情は岡田英弘『大モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店「清の太宗嗣立の事情」を参照 [戻る]
- この辺の事情は松村潤『明清史論考』山川出版社「天聰九年のチャハル征討をめぐる諸問題」を参照 [戻る]
- どうやら、アミンの実母の死はジャイサングの噂が関わっている模様だが、因果関係は分からない [戻る]
- 留守の際に狩猟をして遊びほうけていたと後々糾弾される [戻る]
- この際も交代してムクデンに帰る六弟・ジルガランと駐在したいとホンタイジに訴え、あまつさえホンタイジはアミンとジルガランを別々に行動させていることにもヌルハチ時代にはなかったことと抗議している。 [戻る]
- アミンの項については松村潤『明清史論考』山川出版社「アミン=ベイレの生涯」参照。ホンタイジが数えて聞かせたと言うアミンの罪状十六が全訳で紹介されている。 [戻る]
- 史學雜誌 107(7 [戻る]