天聰~崇徳のまとめ
論文とか専門書とか読んでいてなる程こうなのか~と個人的に理解したことのメモを上げておこうかと。個人的な興味はドルゴン~順治帝なので先はまだまだ長い…。
天聰年間
ホンタイジは即位前からの所属旗である両白旗を、即位後に両黄旗に改称。同時にヌルハチ時代の両黄旗は両白旗に改称されている。これもホンタイジの君主権が脆弱だった証左とされる。
※三大ベイレとホンタイジの権力闘争⇒ホンタイジの治世はまず、三大ベイレとの権力闘争から始まる
サルフの英雄である嫡二子アンバ・ベイレ=ダイシャン、シュルガチの第二子であるアミン、嫡三子マングルタイ
しかし、三大ベイレの身内には即位前からのホンタイジのシンパが存在する⇒ホンタイジ即位にそれぞれ功績があった模様
ダイシャンの嫡長子・ヨト、嫡三子・サハリヤン、アミンの同腹弟・ジルガラン、マングルタイの同腹弟・デゲレイ
①アミン幽閉⇒
天聰元(1627)年の第一次朝鮮侵攻時に独立の動きを見せたホショベイレ・アミンを、天聰4(1630)年の北京攻略時に占領した永平など4城を放棄して、降伏した永平・遷安の領民を虐殺してムクデン(瀋陽)に撤退してきたのを捕らえて、十六の罪状を数え上げてアミンを幽閉してそのまま獄死させた。
②マングルタイ失脚⇒
更に天聰5(1631)年には、大遼河戦の陣中でホンタイジとマングルタイが口論になり、怒ったマングルタイが佩刀に手をかけて弟のデゲレイに殴らるや、更に逆上して遂には抜刀して剣を振り回す事件が起こる。この事件で不敬罪に問われたマングルタイはホショ・ベイレの地位を剥奪されて、ドロ・ベイレに降格。
翌年にはマングルタイはチャハル部と大明への遠征に参加しているが、その年の内に病没している。
ホンタイジ即位前から、マングルタイはホンタイジと仲が悪かった様だが、葬儀の際にホンタイジは号泣して死を悼んだと言う。
③ダイシャン失脚⇒
つぎに天聰8(1634)年、チャハル部のリンダン・ハーンが病没、翌天聰9(1635)年、その遺衆をドルゴンらが摂取すると、その財産の分与に端を発して事件が起こる。
まず、ホンタイジがリンダン・ハーンの未亡人であるベヒ太后をホーゲに賜与すると、ホーゲに娘を嫁がせていたマングジ・ゲゲ(マングルタイ、デゲレイの同腹の皇女)が公然と不満を表明した。
これを聞きつけたダイシャンは、普段マングジとは疎遠であったにもかかわらずマングジを自宅に呼んで宴会を開いた。
ダイシャンはリンダン・ハーンの未亡人を下賜する際にもホンタイジの意向に添わず、財産目当てで他の妃を要求することが何度かあったため、これを機会にホンタイジからの叱責を受け、ホショ・ベイレの地位とアンバ・ベイレの称号を剥奪された。
マングジとその同腹弟のデゲレイも罰せられた。
④正藍旗の解体⇒
天聰9(1635)年のダイシャン失脚を以て三大ベイレに対する権力闘争は決着を見るが、次にホンタイジ即位に尽力した旗王達への牽制が始まる。
ダイシャンへの処罰が下された10日後、唐突にデゲレイが病没する。ホンタイジはその葬儀で慟哭したものの、マングルタイの遺族が王位の継承を訴えるとそれを許さなかった。
ホンタイジが狩猟で留守の間に、マングルタイ、デゲレイと同腹の皇女であるマングジ・ゲゲの家僕・レンセンギがマングルタイ、マングジ、デゲレイ兄弟がクーデターを計画していたとホンタイジに告発。
更にマングジの夫であるソノムも刑部を司るジルガランに妻のクーデター計画に参加したと自首してきた。
捜査の結果、レンセンギ、正藍旗のアイバリはマングルタイ、デゲレイ、マングジが謀反の盟約を交わした会合に同席していたことが判明し、マングルタイの邸宅からは金国皇帝之印と刻した木印が16個発見された。
マングジ初め関係者及びその親族は族滅(マングルタイ五子のエビルンは処刑⇒エビルンはマングルタイが不敬に問われた大遼河での抜刀事件について、その場に居合わせたら自分も抜刀してホンタイジに斬りかかったなどと発言して、兄の光袞に密告されたがホンタイジはこれを公表していなかったらしいがこの時公表された模様)、マングルタイ、デゲレイは爵位を追奪されて遺産は没収(これは八旗で等分された模様。ちなみにマングルタイの未亡人が二人いたが、一人はホーゲ、一人はヨトが娶り、デゲレイの未亡人はアジゲが娶っている)、遺族は謀反の罪によって宗籍から除名された(マンダリ(邁達里)、光袞、サハリヤン(薩哈璘)、アクダ(阿克達)、舒孫、噶納海らマングルタイの六子、デゲレイの子・鄧什庫らは庶民に落とされた)。
乾隆年間に制定された《欽定宗室王公功績表伝》あたりを見ると、生前若しくは死後爵位を剥奪されているアミン、アジゲ、ドルゴン(《欽定宗室王公功績表伝》編纂時はまだ名誉回復していない)は生前の最高位の爵位で記述されているのに、この兄弟に関しては以罪黜宗室貝勒、罪によって宗籍を剥奪された人達にカテゴライズされているので、徹底して謀反人とされている模様。
更にマングルタイ、デゲレイ兄弟が支配した正藍旗は解体されて両黄旗に吸収され、崇徳2(1637)年、肅親王・ホーゲが旗王となりホンタイジ旗下の鑲黄旗が母体となって新生正藍旗が編成される。
これによってホンタイジは両黄旗に加えて正藍旗の三旗を掌握し、数の上で他の旗王を圧倒し皇帝権が確立されたとされている。
天命ホンタイジ派の末路⇒
上のマングルタイ兄弟謀反未遂事件の際に、マングジ長女の娘婿であるダイシャン嫡長子ヨトはマングジを擁護しているが、皇族内ではむしろ少数派であった模様。
サハリヤン、アバタイ、アジゲ、ドドらも一様にマングジに対しては怒りをあらわにしている(この事件のあったとき、ドルゴンは嫁取りのためにホルチン部に出向いていたため不在)。
一方、マングジの次女の娘婿であるホーゲは、父皇の死を願う者の一族として妻を殺害している。コレを聞いたヨトも妻を殺そうとして許しを請うたが、ホンタイジに止められている。
ホンタイジ即位に尽力したヨトはこれ以降、ホンタイジに対して少なくとも協力的ではなくなる。
翌崇徳元(1636)年には和碩成親王の爵位を受けたばかりのヨトはホーゲとジルガランを誣告したとしてその年の内にベイレに降格、翌崇徳2(1637)年にはホンタイジに対して不遜な態度を取ったとしてベイセに降格されている。
原因はマングルタイ兄弟謀反疑惑事件と考えられる(義兄弟でもあったホーゲはマングジを擁護した様子はないし、ジルガランは告発を受けてマングジを裁く立場にいた)。
ヨトの同母弟のサハリヤンは崇徳元(1636)年に病没、ヨトも崇徳4(1639)年には大明遠征中に陣没している。
サハリヤンやヨトの遺児達は王位の継承が許され、その後も正紅旗、鑲紅旗の有力な旗王家として存続している。
一方、デゲレイやその遺児は徹底的に排除されている。デゲレイの遺児達は宗籍を剥奪され、清朝通じて名誉が回復される事は無かった。
デゲレイは幼少の頃ホンタイジと共に養育されたらしく、それ故に同腹兄・マングルタイとは仲の悪かったホンタイジとも仲が良かったようであるが、有無を言わせず徹底的に取りつぶされている。
ちなみにジルガランは特にホンタイジに対して忠実であったらしく、ホンタイジ治世下では信頼度が絶大だった故に順治年間に入るとドルゴンと共に摂政王となっている。
崇徳改元⇒
リンダン・ハーンの遺衆から大元ウルスの玉爾の献上を承け、ダイチン・グルンの皇帝=ハンとして二次即位を行い、名実ともに”皇帝”となった。一次即位の際のような合議制の代表者ではなく、独裁制の皇帝となったのである。
ホンタイジは各旗王たちを掣肘する意味からか度々叱責しては降格を行い、1~2年後には爵位を戻している。
しかし、崇徳7(1642)年以降はホンタイジが病気がちになった関係から締め付けが厳しくなっている。
他の旗王が些細なことで罪に問われる中、ドルゴンは目立った失態も見せず、ホンタイジ存命中はホンタイジに忠実であったため大きな降格は経験していない。
猜疑心の強いホンタイジを相手にしているので、ドルゴンは余程細心にホンタイジに接していたか、本当に忠義者だったかどちらかのハズ。
ホンタイジの崩御⇒後継者争いが勃発
崇徳8(1643)年8月、脳卒中でホンタイジが崩御する。既に和碩肅親王であったホンタイジの長子・ホーゲがすんなりと即位しそうなモノだが、どうやら人望に欠いていた模様。
ホーゲは正藍旗は掌握し、両紅旗を牛耳る長老ダイシャンの支持を取り付けていたモノの、ホンタイジお膝元である両黄旗は完全には掌握し切れていない(両黄旗の一部にはトゥルゲイi 、タジャンii、バブハイiiiらホーゲ推戴派もいた模様)。
対抗馬たるドルゴンは両白旗は掌握しているが、数の上で劣勢。
ドルゴンはホンタイジ嫡系に拘るホルチン閥筆頭の皇太后・ブンブタイと両黄旗有力者のソニンやオボイ、タンタイiv、トゥライv、ゴンガダイvi、シガンviiらを抱き込み、自分が後継者を断念する代わりにホーゲにも断念させた。
かくして、ジルガラン、ドルゴンが摂政王として補佐する形で嫡長子・フリンが即位が決定する。
その二日後、ダイシャンの第二子・ショセと第三子・サハリヤンの遺児・アダリがドルゴンに即位をうながすと、却ってドルゴンは彼らを捕らえて処刑している(このあたりはダイシャン系の分裂と言うよりは、ドルゴンの母系であるウラ=ナラ氏の閨閥と考えた方が良い模様)。
両白旗の換旗⇒
崇徳8(1643)年10月、多羅豫郡王・ドドが大学士・范文程の妻を略奪しようとしていたことが発覚。
和碩肅親王・ホーゲがそれを知りながら隠蔽したことを罪に問われる。
この際、ドドは降格されるコトは無かったモノの、正白旗30ニル全て掌握していたのを半分の15ニルを没収される。
ドルゴンとアジゲは共に鑲白旗の15ニルずつを掌握していたが、没収されたドドの15ニルは鑲白旗の旗王であるドルゴンに委ねられた(罪に問われて没収された旗王の財産は近親者が管理するのがこの頃のマンジュの風習)。
この際に、ニルを半数に減らされたドドは正白旗から鑲白旗に移されてアジゲと鑲白旗を両分。ドドから15ニルを預かったドルゴンは元から管理する鑲白旗15ニルを併せて正白旗に移動した。
当時、鑲白旗よりも正白旗が序列が上位であったためジルガランとの対比上、少しでも優位に立つためと言われるがこの辺定かではない(そもそもジルガランの鑲藍旗は八旗の序列中最下位なので)。
しかし、少なくとも、これ以前は摂政王の序列はジルガラン、ドルゴンだったモノが、これ以後、ドルゴン、ジルガランの順番に一変した。
取りあえずここまで。