艾度禮 その3
さて、そんな訳で前回からの続きでアイドゥリのネタです。現政権への不満を願文にしたためていたことがバレたアイドゥリは妻子と、何故か公府直属の医者と供に処刑されました。で、正確な月日が分からないモノの先の記事からそう遠くない段階の記事と思われるのが、次の記事。
摄政王奉命大将军咨行摄政和硕郑亲王:倘艾度禮之罪的确无疑、岂能容此向天发誓行恶者生存?故应照尔等审理完结此。若有疑惑、则可监候。再、来虎罪过一案中、有图尔格依、车尔格依等人曾向天发誓、又向王等担保:凡我方人员有往巴图鲁郡王地方者、或他人处者、均应抓拿告发等语。但对违背此言未告发前来者之人、未予治罪。故为何将未曾向天发譬及未向王等担保之幼童来虎治死罪?予实不解。着将幼童来虎释放、重新审理。i
ザッと訳してみましょう。摂政王奉命大将軍(ドルゴン)は摂政和碩鄭親王(ジルガラン)に公文書で「まだ、アイドゥリの事件の様に、罪状が確実で疑いがないのであれば、天に祈願までしたこの悪人を容認することなど出来ないので、貴君達の審理は完結したと言える。しかし、もしもこのような事件で、まだ疑問を挟む余地があるのであれば(アイドゥリの様な容疑者を)収監(して再審)するべきだ。」どうやら、ドルゴンはアイドゥリの罪科については蒸し返すつもりはないようですが、その他の審議については再審するように指示を出しているようですね。
また、ライフ?(来虎=來虎)の審議中、トゥルゲイ(图尔格=圖爾格 Turgei)、チェルゲイ(车尔格=車爾格 Cergei)兄弟達が、かつて天に向かって祈願し、王たちに対して保証した事があった立場で?証言した。この辺の訳出は難解で正直全く自信がありませんが、アイドゥリ事件に関連する事件なのか、ここでライフという人物?に関する審議に際して、トゥルゲイとチェルゲイ兄弟が出てきます。彼らはヌルハチ時代の五大臣の筆頭格であるエイドゥの第八子と第三子で、トゥルゲイは元々は鑲白旗に属していましたが、崇徳年間に鑲白旗の旗王であるアジゲといざこざを起こして黄旗に移っています。ちなみにトゥルゲイはタジャンとともにホーゲには自派と見なされています。この、王たちが誰を指すのか、保証するって言うのはどう言う意味なのかサッパリですが、自分にはホーゲを擁立する謀議に加わっているように見えて仕方有りません。ですが、そんなコトしてたらこの人達も無事では済まないはずなので、順治元年にトゥルゲイは論功行賞で出世してますから、解釈まちがってるンだと思いますが…。
「我々の一族はバトゥル郡王(アジゲ)旗下に配属されているか、あるいは他所の旗下に配属されていますが、皆この事件に関する告発を取り上げるに違い有りません。」バトゥル郡王は武英郡王のマンジュ号でアジゲを指すと宣和堂は考えました。元々鑲白旗に属していたのですから、トゥルゲイらが鑲白旗にある程度の影響力があったと言うコトを言っているのでしょうかね。
「今まで、このことば(ドルゴンの指示?ライフに対する死刑判決?)に背いてまで告発しようとする者が居なかったので、処罰が与えられていないだけです。どうしてまだ天に祈願していない、まだ王に対して保証もしていない幼子のライフを死罪とすることが出来るのでしょうか?」と証言した。こうして、幼子ライフは釈放され、再審を受けることになった。トゥルゲイとチェルゲイがなんで関わってくるのかさっぱり分かりませんで…。
ともあれ、アイドゥリの事件に関連して間接的にではあるものの、トゥルゲイとチェルゲイが出て来る記事が有るというのは興味深いなぁ…と。
あと、阿南惟敬『清初軍事史考』甲陽書房 所収 「八旗通志満洲管旗大臣表「鑲白旗」考」を再読していたら、こんな記事が…。
満洲固山額真は拜尹図(鑲黄)、何洛会(正藍)、艾度礼(鑲藍)、葉臣(鑲紅)、阿山(正白)、譚泰(正黄)、葉克書(正紅)の七人まで上がっており(後略)ii
艾度礼(鑲藍)………!!!!!!ココで書いてるなら、「清初固山額真年表考」の方も直しておいてよ!!!しなくて良い苦労したよ!ww
阿南氏は同論文にて『太宗実録』崇徳7年3月乙未(26日)条の記事を引いて「艾度礼(鑲藍)」と書いていますが,史料では明確にアイドゥリが鑲藍旗のグサエジェンであることを記しているわけではないんですよね。当時グサエジェンを務めた旗人たちが旗の序列を無視して列挙されているので,グサエジェンのリストなのだろう,消去法でアイドゥリが鑲藍旗なのだろうという推測で導いたに過ぎないと思います。
ところで『内国史院檔』天聡8年7月25日条(訳編p.97)に「鑲藍旗阿格艾度礼」とあります。満文ではkubuhe lamun tui aiduri ageです。さらに同天聡8年8月21日条(訳編p.100)に「鑲藍旗和碩貝勒済爾哈朗家人及費揚古阿哥,艾度礼阿哥,屯斉喀阿哥,羅托阿哥等…」とあります。満文ではkubuhe lamun i hoxoi jirgalang beilei booi ursei baha deji fiyanggv age aiduri age tunjika age loto agei bahaです。「鑲藍のホショのジルガラン=ベイレの家の輩が得た献上品」と書き,その後にフィヤング,アイドゥリ,トゥンジカ,ロトの名を列挙していますので,アイドゥリが鑲藍旗所属であることと,ジルガランの一族であることは間違いありません。ただし,アミンの子であることは書かれていませんね。
この記事のトップの画像について教えて頂けますでしょうか。題材,タイトル,年代などおわかりになる範囲でお願い致します。
>蒙古旗人 様
ご指摘ありがとうございます。やたらとアイドゥリの経歴に詳しくなってきますw後日ご指摘受けた箇所を確認してみますです。いずれにしても、檔案類にもアイドゥリの出自については書かれていない感じですかねぇ…。
あと、この記事のトップ画像ですが、この画像は《清史図典》第三冊 康煕朝 上 紫禁城出版社 P.22の図版からスキャンしたものです。
全幅については同第六冊 乾隆朝 上 P.23《塞宴四事図》です。これによると作者は郎世寧で北京故宮の収蔵となっていますね。
アイドゥリがアミンの子であることは間違いなさそうですが,それを示す史料が見つかりませんね。別件で諸史料・文書を調査中でして,アイドゥリに関する史料が目にとまった際に随時報告させて頂いています。今後も何か見つかった時にはコメント致します。
ともかくも清朝の裁判記録は具体的で,当時の生活臭を嗅ぎ取れるので興味深いですね。
こちらこそ貴重なご教示ありがとうございます。概資料を調べてみます。
>蒙古旗人 様
宗譜や玉牒でも削られたマンマなんすかねぇ…。今度帰省するときに民博図書館で確認しようと思ってるんですが…。
順治即位時の王公序列の中には他にもよく分からない皇族いっぱいいるんですが、やっぱりアイドゥリは気になるので、自分も他の記事見るときにはメモをエントリに上げていきますw
今、《清初内国史院満文檔案訳編》のマングルタイ謀反未遂事件の裁判部分読んでいるんですが、結構いろんな事書いてあるんですね。おもろいです。