艾度禮その4

 と言うワケで、《愛新覚羅宗譜》を調べてきました。婚族が分かってスッキリしますね…。と言うワケで、以下にアイドゥリとともにアダリショトについてもザザッと上げてみましょう。

第二子 碩託 三子
庚子年十一月初十日丑時生母嫡福晋李佳氏逹諸祜巴宴之女(中略)於崇徳八年癸未八月十八日處死年四十四歳(中略)嫡妻烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)i
第一子 喇喀 二子
天命十一年丙寅六月初七日午時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)ii
第二子 齋蘭布 無嗣
天聰六年壬申二月十六日酉時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iii
第三子 岳賽布 五子
崇徳三年戊寅七月廿六日巳時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(後略)iv

 ショトアンバ・フジン(正妻)はウラナラ氏ブジャンタイの娘で、記録に残る三人の子供は皆この女性との間に出来た娘さんだったようですね。

第一子 阿逹理 一子
天命九年甲子九月十七日丑時生母嫡福晋烏喇納喇氏布占泰貝勒之女(中略)於崇徳八年癸未八月十八日處死年二十歳(中略)嫡妻姓氏未詳v
第一子 杜爾渾 三子
崇徳八年癸未八月初二日巳時生嫡母姓氏未詳(後略)vi

 次にアダリですが、サハリヤンアンバ・フジン…が母親だったようなので、ウラナラ氏ブジャンタイの娘の子供だったみたいです。ネットで検索すると名前は濟海とか出てきます。典拠は《満文老檔》とか書いてあったんですが、ホントですかね…。順治帝の継位が決定した後にショトアダリが誅殺された時に、騒乱を助長したとしてショトの正妻とアダリの母親はともに処刑されてますから、ウラナラ氏勢力を排除という目的があったのかも知れない…と言う説があるみたいですね。

第二子 愛度禮 七子
庚戌年三月十三日亥時生嫡母輝發納喇氏台詩貝勒之女(中略)於順治元年甲申六月初十日處死年三十五歳(中略)嫡妻烏喇納喇氏布占泰貝勒之女vii
第一子 海度里 一子
天聰二年戊辰三月三十日亥時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女順治元年甲申因伊父獲罪處死十七歳嫡妻烏喇納喇氏長史懋墨爾根之女viii
第二子 巴爾覇 三子
天聰三年已巳十一月十三日寅時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女順治十一年甲午十月廿五日辰時卒年廿六歳嫡妻伊爾根覺羅氏都統圖頼之女(後略)ix
第三子 羅多歡 五子
天聰五年辛未正月二十日卯時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女康煕二十二年癸亥四月十六日未時卒年五十三歳嫡妻葉蒜納喇氏二等侍衛博布尼之女(後略)x
第四子 杜喇 八子
天聰六年壬申三月初十日巳時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女康煕四十二年癸未十二月十五日巳時卒年七十二歳嫡妻多羅額駙騎都尉莽庫之女(後略)xi
第五子 喇塔 一子
崇徳四年己卯三月二十四日卯時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女康煕五十年辛卯二月初八日寅時卒年七十三歳嫡妻薩察氏参領喀爾喀納之女xii
第六子 巴爾瑪 八子
崇徳五年庚辰八月廿二日丑時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女康煕五十六年丁酉三月廿六日未時卒年七十八歳嫡妻馬佳氏輕車都尉阿山之女(後略)xiii
第七子 喇新 三子
崇徳七年壬午四月廿四日牛時生嫡母烏喇納喇氏布占泰貝勒之女康煕五十七年戊戌六月廿五日卯時卒年七十七歳嫡鈕祜祿氏三等侍衛喀爾圖之女(後略)xiv

 さて、そんでもってアイドゥリxvですが、やはりアンバ・フジンウラナラ氏ブジャンタイの娘だったようです。ブジャンタイにはだんだけ娘居たんだよって話ですが、同じ人物が再嫁したと言う可能性はないでしょうか?
 確認をしてみますと、ショトの息子は長男が天命十一年の生まれで、末っ子が崇徳三年の生まれ、アダリ天命九年の生まれでサハリヤン崇徳元年に病没していますからショトフジンサハリヤンフジンが同一人物とは考えられません。
 で、アイドゥリの子供達の母親は皆ウラナラ氏ブジャンタイの娘だったようですね。長男・ハイダリ天聰二年生まれで七子は崇徳七年生まれですから、やはりブジャンタイの娘は再嫁などせず、別々に三人いたと考えた方が良さそうです。それに、処刑でもされない限り親族の奥さんを娶ることはなかったようです。
 ちなみに、ハイダリ嫡フジンであるウラナラ氏モー・メルゲンの娘です。で、モー・メルゲンブジャンタイの第六子なので、親子共々ウラナラ氏ブジャンタイの系譜からお嫁さん貰ってるんですね。ちなみにモー・メルゲンの他の娘はアバタイに嫁いでいたみたいです。

 ついでにアミンの子供も調べて見ました。

第二子 阿敏 六子
 第一子 宏科泰 三子
 第二子 愛度禮 七子
 第三子 固爾瑪渾 七子
 第四子 恭阿 一子
 第五子 果蓋 六子
 第六子 果賴 三子

 上は宗譜を元にまとめたモノですxviアイドゥリアミン第二子と言うコトが確認取れました。《清史稿》の記事とも矛盾しませんね。愛爾禮はやはりアイドゥリで間違いなさそうです。

第一子 多羅安平貝勒杜度 七子
丁酉年九月二十七日申時生母嫡夫人郭絡羅氏常舒之女崇德七年壬午六月初七日巳時溘逝年四十六歲嫡夫人烏拉納喇氏布佔泰之女

 ちなみにチュエン第一子ドゥドゥ嫡フジンブジャンタイの娘だったようです。ネット検索すると名前は寧古希とか言うみたいですが、ホントでしょうか…。
 しかし、崇徳8(1643)年当時、ドゥドゥは既に死去していています。が、息子のドルフ万暦43(1615)年の生まれですから、既に28歳で立派に成人してます。この辺で何らか事件に巻き込まれてそうなモノですが、これ以前に何らかの事件に巻き込まれていたようで、崇徳8年には皇籍を剥奪されていた可能性があります。

愨厚貝勒杜爾祜,杜度第一子。初封輔國公。從太宗圍松山、錦州有功。坐事,降襲鎮國公。復以甲喇額真拜山等首告怨望,削爵,黜宗室。順治元年,從多鐸南征。二年,復宗室,封輔國公。xvii

 時期がハッキリしないので、何とも言えませんが、もしかしたらショトアイドゥリの事件に連座して降格された…と言うコトもあるかも知れません。この記事もおかしいですよね…鎮國公の方が輔國公より爵位が上ですから、輔國公鎮國公なら降格ではなく昇格のハズなので、その間にベイセなりベイレに昇進していたのかも知れません。

杜爾祜 杜度第一子。初封輔國公。崇德七年,襲鎮國公。因罪革爵,黜宗室。順治二年,以功復宗室,封輔國公。八年,晉貝勒。十二年,卒。諡曰愨厚。xviii

 《清史稿》の皇子世表ドルフの項を見ると、崇徳7(1642)~順治2(1645)年の間に失脚して爵位と皇籍を失っています。やはり分かりませんが、ショトアダリなりアイドゥリに連座して降格処分を受けていた可能性はありますね。

貝子穆爾祜,杜度第二子。天聰九年,師伐明,穆爾祜從貝勒多鐸率偏師入寧遠、錦 州綴明師,抵大凌河,擊斬明將劉應選,追奔至松山,獲馬二百,克臺一,並有功。崇德元 年,封輔國公。七年十月,與杜爾祜 同得罪。xix

 とか言ってたら、ドルフの伝のすぐ後の弟のムルフの伝に、キチンと降格と宗籍剥奪事件は崇徳7(1642)年10月の事だって書いてますね。と言うコトは、ドルフ崇徳8(1643)~順治元(1644)年には皇籍を剥奪されていたので動くに動けなかったのか、危ない橋は渡れないと判断したのか、ともかく皇位継承について何らかのアクションを起こせる状況ではなかったってとこですかね…。
 と、ようやくアイドゥリ問題には終止符が打てそうですが、更にウラナラ閨閥の問題が残されますね…。これについては長くなったので、次項に分けます。

  1. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.40~41 [戻る]
  2. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.40 [戻る]
  3. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.65~66 [戻る]
  4. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.66 [戻る]
  5. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.78 [戻る]
  6. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.78 [戻る]
  7. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.148 [戻る]
  8. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.148 [戻る]
  9. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.157 [戻る]
  10. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.176~177 [戻る]
  11. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.198~199 [戻る]
  12. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.213~214 [戻る]
  13. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.216 [戻る]
  14. 《愛新覺羅宗譜》玉冊P.230~231 [戻る]
  15. 実録その他では艾度禮記述が多かったが、宗譜では愛度禮 [戻る]
  16. 実際には丁冊と玉冊に別れて載っている。丁冊には第二子の名前が空欄になっている [戻る]
  17. 《清史稿》卷二百一十六 列傳三 諸王二 太祖諸子一 [戻る]
  18. 《清史稿》卷一百六十二 表二 皇子世表二 太祖系 [戻る]
  19. 《清史稿》卷二百十六 列傳三 諸王二 太祖諸子一 [戻る]

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