鑲紅旗 承澤親王ショセ
と言うワケで、鈴木真センセの「清朝入関後、旗王によるニル支配の構造」iをツラツラ読んでいると、
ダイシャンの二子ショトは、ホンタイジ死去後に罪を得て処刑され、麾下の鑲紅旗ニルはやがて順治帝の異母兄・多羅承澤郡王ショセ麾下に賜与された(後の和碩荘親王家)。ii
等という文章にあたり、椅子からズリ落っこちました。ええ?そうだったの?
前々から何故、ホンタイジの五子であるショセの所属が鑲紅旗で、その麾下のニルはどこから来たのか…についてはしっくりきていなかったので、なる程!と、目から鱗が落ちました。注釈を見ると…
杜家驥『清皇族与国政関係研究』230-231頁参照。
と、絶版書を参考文献としてあげられてしまい、これまた確認事項が増えてしまいました…。どこに根拠があるのか確認するのは楽しみです。
話を戻しましょう。ダイシャン二子のショトはホンタイジ崩御直後の爵位はグサ・ベイセながら、同母兄ヨトや従兄弟ドゥドゥと供に鑲紅旗を率いていたようです。以前書いた記事では自分はショトは正紅旗の所属だと勘違いしたんですが、どうやら間違っていたようです。確かに同母兄と同じグサに配属されるのが原則でした。
で、このショトはホンタイジ期は幾度となく罰せられて爵位やニルを剥奪されています。そして、ホンタイジ崩御後、フリンの継位が決まった後もドルゴンの継位を画策して実父たるダイシャンに告発され、嫡福晋と甥である郡王アダリとその母親(ショトの弟であるサハリヤンの嫡福晋であり、ショト自身の嫡福晋の実姉妹)ともども処刑されています。この辺の経緯は《瀋陽状啓》八月二十六日と言う記事の後半に書きました。
まぁ、結果としてショトの家財はドルゴン管轄となり、アダリの家財はダイシャン管轄となります。恐らくこの家財とは麾下のニルも含んだはずです。また、この際にショトの息子達及びアダリの弟達、サハリヤンの弟達は連座して皇籍を剥奪されています。
翌順治元年10月、入関後の論功行賞ではショセが多羅承澤郡王に封じられます。この時に鑲紅旗の元ショト麾下のニルがショセに配されたと言うコトですよね。と言うコトは、ドルゴンは自分が管理していた鑲紅旗のニルをショセに託したと言うコトになります。ショトの遺産をドルゴンを管轄するのはドルゴンの母系とショトの閨閥がウラ ナラ氏だから…で説明が付きそうですが、そのニルをショセに分配するのはどう考えても違和感があります。
まして、鈴木真センセも雍正年間の荘親王家を十六阿哥允祿に継承させることに関して
既存の旗王家をいわば乗っ取ることに對しての風當たりは強かったのである。iii
としているので、入関直後なら更に風当たりは強かったのではないでしょうか?まして、おそらくはヌルハチ分封から続くニルが乗っ取られているわけですから、雍正年間の無嗣断絶しかかった荘親王家への養子に入るのとは訳が違います。むしろ、天聰9(1635)年の正藍旗解体にも迫る処置ではないでしょうか?
と、ここで、ショトとショセの閨閥を《愛新覚羅宗譜》に従って確認してみましょう。ショトの生母はリギャ(李佳)氏 逹諸祜巴宴の娘で嫡福晋は先ほど書いたようにウラ ナラ氏ブジャンタイの娘です。一方、ショセの生母は側妃イェヘ ナラ氏阿納布の娘、嫡福晋はナラ氏議政大臣軽車都尉フィヤング(費揚古)の娘なので、閨閥的には繋がりが在るように見えません。少なくとも、ニルの継承をすんなりと行えるような関係ではないように思えます。似てるのは名前くらいですかね…。
そもそも、ショセには嫡福晋ウラ ナラ氏ブジャンタイの娘との間に子供が三人もおり、当時まだ存命であったにもかかわらずiv名誉挽回は行われず、あえてホンタイジ五子のショセに継承させているわけです。非常に違和感のある人事です。
順治元年はドルゴン政権を確立していない時期のことですから、たとえば孝荘文皇后やジルガランとのパワーバランスの上からやむを得ない人事だったとしても、ドルゴン政権確立後にショセは親王に抜擢されていますから、ショセとドルゴンの関係性も確認する必要がありそうですね…って資料無さそうですけど。ともかく、ドルゴンはむしろウラ ナラ氏に不利になる人事を好んで行ったように見える…と言うコトだけに今回は留めておきます。
ちなみに、アダリの遺衆は翌11月にアダリの弟であるレクデフンが継承した模様v こちらは先に書いたように、アダリ死後はダイシャン管轄に属したニルを付与しているので、むしろドルゴンよりもむしろダイシャンの意向の方が反映されてるのではないでしょうか。それにしても、同じ事件で罪に問われたハズなのに、ショトが受けた罰とアダリが受けた罰は内容が全く違う様に見えますねぇ…。
- 『歴史学研究』830号 [戻る]
- 鈴木真「清朝入関後、旗王によるニル支配の構造」『歴史学研究』830号 [戻る]
- 鈴木真「旗王家の繼承と新設 ─雍正朝の兩紅旗を例に─」『東方学』109号 [戻る]
- 《愛新覚羅宗譜》によると、少なくとも第三子岳賽布は康煕49年まで存命 [戻る]
- 鈴木真「旗王家の繼承と新設 ─雍正朝の兩紅旗を例に─」『東方学』109号⇒「サハリヤンの正紅旗ニルを相続したのは、嫡長子アダリ、ついでその同母弟レクデフン(Lekdehun 勒克德渾)・ドゥラン(Dulan 杜蘭)」。《愛新覚羅宗譜》によると、ドゥランは順治6年10月に始めてドロ ベイレに封じられているので、それまでは元アダリ麾下のニルはレクデフンかダイシャンの元にあったはずである。 [戻る]