『八旗制度の研究』メモ1 ─ドゥドゥの愚痴─
と言うワケで、杉山センセの本のメモを一休みして、同時期に出版した谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版会 のメモをば…。
杉山センセの説は八旗はそれぞれ独立した封建的な勢力であり、畢竟、マンジュ=清朝とは八旗の連合体であり、連邦制ならぬ連旗制の国家であった…という主張に立っておられるわけですが、一方の谷井センセは八旗に封建制と判断する材料や考察は充分されておらず、むしろ、史料を丁寧に読み込む程、連旗制とは正反対であるハン=皇帝の権力が非常に強い集権的な性格が非常に強い政権であったとしています。なので、杉山センセの本を読むと連旗制説の有用性を説くと共に谷井センセに反論しており、谷井センセの本を読むと連旗制自体が机上の空論で、そんなモノは存在しないとして杉山センセらの説に反対しておられます。
個人的には八旗制は杉山センセ達が言うように独立した封建的な性格はあまり有していないと思います。マンジュ=清朝では国初以来、何度も皇室内で処刑を伴う政争が起きていますが、何れもハン=皇帝やその代行者の決定(どんな理不尽な決定であっても)に従い、唯々諾々と処罰されることを受け入れ、決して皇室を二分するような武力闘争に陥っていません。こう言う観点から見ると、どうしても八旗…というかグサが封建的な独立不羈の政体であった様には自分には思えません。ただ、ハン=皇帝側も圧倒的な権威を誇りながら、八旗に君臨する旗王に対しては、たとえば大明のように独裁君主的に振る舞えなかったとも考えています。ある程度、普段はハン=皇帝が旗王に遠慮ないし顔を立てる様な姿勢を取りつつも、いざという時はハン=皇帝の権力で有無を言わせない措置を取る…という感じでしょうか。
ともあれ、今回は谷井センセの本で紹介されていた、安平貝勒・ドゥドゥが崇徳5(1640)年に受けた処罰に関する下りに関するメモです。
崇徳五年十二月、安平貝勒ドゥドゥは側近5人のものから訴えられた。(中略)彼らが訴えたドゥドゥの罪過は、以下のようなものである。
①自分は数々の功を立てたのに報われず、罪を得た故ヨトとその子ロロホン Lolohon、ろくな功のないジルガランの方が優遇されているなどと、外でも家でも絶えず口にする。
②グルン公主に贈り物を送る際、これは公課同然だと言い、公主が受け取らずに返すと、どうせ送らなかったといってまた罪せられるのだろうと言った。
②自分が〔親王・郡王より下の〕貝勒の地位にあることに不満を表した。
④自分が〔礼〕部の王に任じられたことを、重んじられたからではなく、楽をさせないために任じられたのだと言った。
⑤朝鮮国王の子が門前を通り過ぎたとき、天を恨むことばを漏らした。要するに、自分の不遇について身辺に仕える者に愚痴をこぼしたというの過ぎない。(中略)5人はドゥドゥの母方の親戚で、ドゥドゥの側近く仕え、ある程度の物的恩恵を受けていたことも窺われる。彼らはドゥドゥの不穏な発言に対して、諫めたが聞き入れられなかったとした上で、訴え出て信用されなかった場合の聞きと、訴えずにいて他人に告発された場合の危険を秤にかけ、殺される覚悟でハンに訴えたとしている。
この訴えは王・貝勒・グサイエジェン・議政大臣らの会議によって審理され、すべて事実と認められた。会議はドゥドゥ夫婦を監禁、奴隷・隷民・財物を没収するとしたほか、父を諫めなかった3人の子と、問題となった発言を聞きながら黙っていた2人の者も罪にあてたが、ハンの旨により、ドゥドゥには1万両の罰贖のみ、3人の子は罪を免じることとし、主人の罪を免じた以上、下の者を罪することは出来ないとし、黙っていた2人も放免した。罰贖の額は大きいが、全体としては穏便に解決され、訴えた5人はドゥドゥから離れることを許され、彼らを含む1ニルと50人の男子が肅親王ホーゲの下に移動した。i
ドゥドゥは割と不遇ではあったと思うのですが、それについて愚痴をこぼしたらそれを聞いていた身内に密告されてしまった…と言う話ですね。ドゥドゥはヨトと比較すれば確かに戦功では見劣りしないでしょう。また、ジルガランは戦場に出ていないわけではありませんが、ドゥドゥと比べて著しい戦功を挙げたわけではありません。ジルガランはホンタイジへの忠誠心とか刑部での勤務の方が評価されたんでしょうから、戦場での勲功を第一と考えるマンジュの価値観の中にいるドゥドゥにとってはジルガランが何故評価されるのか理解できなかったはずです。なんであれ、ドゥドゥは彼らの風下に立つのは面白くなかったはずです。
②番で上げられてる公主に贈り物をしても…という下りも、細かい上に恨みがましい性格のホンタイジならいかにも言いそうで、こう言う君主に仕えるのはめんど臭そうだなぁ…と、個人的にはドゥドゥに同情してしまいます。
そんな本筋とは別に、ヨト亡き後の礼部の管理部務王がドゥドゥだったというのがこんなところで発見できたのでビックリしましたが…。
崇徳五年十二月に訴えられた安平貝勒ドゥドゥは、宗室内での待遇の不公平をかこっていた。それによれば、彼は遵化において単独で敵を破った、朝鮮平定時に少数の兵で多くの紅衣砲を運ばせた、ドルゴンとともに江華島を攻略した、崇徳三~四年の華北遠征でヨトを助けて牆子嶺の城を取った、敵将2人を捕らえて殺した、済南府攻略に力を尽くした、明の廬軍門(象升)と戦う時にヨトは止まったが自分は兵を率いて戦った、ヨトが亡くなった夜に来襲した敵を追って撃破した、撤退するときに殿後を務め犠牲を出さなかった、という数々の「功」を立てたのを評価されなかったという。それに対して、克勤郡王ヨトは死後に罪を得ながらも郡王号を残され、ヨトの子ロロホンも多羅貝勒の爵を得た。鄭親王ジルガランは「功を得るために書に書いたことが、ただ元来ハンに忠実であったというだけの事情で鄭親王となしだぞ」ということであった。
ドゥドゥは父チュエンがヌルハチに幽閉死させられており、その他の人間関係もあって、実際に「功」の割には不遇であった可能性がある。逆にジルガランは、実兄アミンがやはり失脚して幽閉されながらも、元々兄とは不仲でホンタイジとの関係が良好であったためか、むしろ兄に取って代わる地位を得ており、確かに目だつ功績を挙げたとは言い難いが、罰を受けることもほとんど無く、親王の地位を確保している。ii
で、ちょっと先でも同じくこの事件について書かれています。こちらでは、ドゥドゥが一々戦功を誇ってる箇所が面白いですね。これだけ戦功が有るのになんでこいつ等よりも評価されないのか?という自負に溢れてますね。戦功のあるヨトは死後に罪を得たのに郡王から降格されていない上、その子供のロロホンはロクな戦功も上げていないのにベイレ位を継位している。ジルガランはホンタイジと仲が良いだけで目だった戦功は無い!とこれまた身も蓋もない事をドゥドゥは主張したみたいですね。確かにドゥドゥの父親は刑死したヌルハチ嫡子・チュエンですが、それを言うならジルガランも幽死したシュルガチの子にして、同じく幽死したアミンの弟ですから、親族に罪人がいたことに関してはドゥドゥよりは分が悪いはずです。にもかかわらず戦功のあるドゥドゥよりジルガランの方が爵位が高いのですから、不満に思うでしょうね…。この引用ではホンタイジがこのドゥドゥの異議になんと反論したのかは書かれていません。これは確認したいですね。
ドゥドゥ自身は自分の不当な待遇の理由として、「ヒルゲン Hirgenを敬わなかった」ことと、「紅旗に配属された」ことを挙げている。ヒルゲンはホンタイジから信任を得ていた大臣であり(『八旗通志初集』巻百五十・Hirgen)、彼によって妨害を受けたと言いたいのであろう。紅旗云々については不明であるが、すでにダイシャンの子らが占めていた旗に後から押し込まれたため待遇が悪くなったと言いたいのかも知れない。iii
で、先に引用した文の註では、ドゥドゥ自身が何故自分が報われないのか?という原因を分析した部分が訳出されています。要するにホンタイジの寵臣を軽視したことと、ホンタイジ旗下の鑲白旗=鑲黄旗から鑲紅旗に移されたことから、評価されないと自己分析したようです。鑲紅旗はドゥドゥが罪を得たのに降格されていないと指摘しているヨトが旗王として君臨していますから、上司とは言わないまでも目上に属します。要するに見る目が無い大したことない旗王の下に配属されたから戦功を公平に評価されなかった!と言いたいんでしょうね。まぁ、直接批判しないまでも、死後罪に問いながらヨトの郡王位を剥奪せずに子のロロホンにベイレを継位させたのも、大した戦功が無いジルガランを鄭親王に封じたのも他ならぬホンタイジですから、ドゥドゥが本当に気に食わなかったのはどう考えてもハン=ホンタイジなワケで、よくこんなこと堂々と言って大した罪にも問われなかったなぁ…と、自分などは感心してしまいます。まぁ、連旗制的な見方かも知れませんがw
ドゥドゥはこの翌年、崇徳6(1641)年6月に病没しています。ドゥドゥの嫡福晋は再三触れているようにウラ ナラ氏でブジャンタイの娘です。ドゥドゥはヨトについては買っていなかったようですが、ヨトの兄弟にしてドゥドゥの義兄弟であるショトとサハリヤンとの関係はどうだったんでしょうかねぇ…。ホンタイジ崩御時にドゥドゥが存命ならどう動いたんだろう?などとウツラウツラ考えてしまいます。案外仲悪かったりして連絡しなかったかも知れませんけど…(ドゥドゥの子であるドルフとムルフは若年とは言え存命しているので、同じウラ ナラ閥に属するショト、アダリ、アイドゥリに荷担しようと思えば出来たはず)。
ちなみに、アイドゥリに関しても谷井センセの本に言及があったので、メモ。
決議撤回の動きに加わらなかった諸王・宗室の中にも、フリンすなわち順治帝の即位に不満を燻らせる者はいた。鎮国公アイドゥリ Aiduriは「二王(ドルゴンとジルガラン)が強いて誓えというので、我アイドゥリは言葉・表面では従うけれども、心・意思では従わない。ハンは小さく我が内心では不満に思う」との文言を密かに誓詞にしたためたといい、アジゲは順治帝を指して「小さいハン」「小児」と呼び軽んじたことで糾弾されている。iv
………アジゲの記事も付いてきてますね…w