李自成─駅卒から紫禁城の主へ

 と言うワケで、佐藤文俊『李自成─駅卒から紫禁城の主へ(世界史リブレット人041)』山川出版 をザラッと読んだので、自分的にメモを。

 まあ、Twitterで皇太極(こうたいきょく)とか、多鐸(トド)とか、マンジュ関係のあまりにあんまりで統一性がないルビで弄ったものの、明末の流寇対策については分かりやすかったですし、怪しげな伝説が多い李自成本人に対しては堅実な記述が多かったと思います。特に明末の崇禎帝の取った施策というのが分かりやすかったので、自分用にメモ。

◇流賊発生の原因
崇禎年間の陜西省:天災による飢饉の発生⇒飢饉から死没者が大量発生⇒人口が減っても税負担は変わらずむしろ増える⇒生き残るために賊に投じる(富者は貧者に、貧者は盗賊に)
要するに負のスパイラルが回りまくっていた。
また、この事態は辺境防備の軍隊への給金を遅配もしくは無給状態を加速し、組織を維持したまま盗賊へ身を投じる。

◇崇禎初年の流賊は延安や延綏鎮関係者が多い
王嘉胤、神一元、神一魁、張存孟(綽名:不沾泥)、高迎祥(綽名:闖王)、張献忠(綽名:西方八大王)、馬守応(綽名:老回回)、趙勝(綽名:点灯子)、王自用(綽名:紫金梁)、羅汝才(綽名:曹操)
明は鎮圧に際して場当たり的にこれら流賊を招撫し、免死牌を渡してそのまま集住させたが、官軍が去ると流賊はやっぱりまた略奪行為を行って立ち去った。

◇李自成の出自
十代続いた農家の出身。養馬戸に指名され、政府から預かった母馬と子馬が死亡して弁済のために破産し没落。幼少の李自成は貧農の子として育った模様。
李自成の生誕地は米脂県李継遷寨といわれている。後に即位した際にも祖先を西夏の太祖・李継遷としている。

◇流賊・李自成
李自成の流賊参加の時期や流賊参加前の職業は諸説有る⇒駅卒出身で崇禎4(1631)年に張存孟に参加した…と言う説をこの本では取っている。
ごく初期の李自成集団の内訳は不明。ただ、李自成の兄の子=甥である李過、鍛冶屋出身の劉宗敏、田見秀はこの頃から李自成と行動を共にした模様。
張存孟か苗美の麾下にあったときに李自成は第八部隊の隊長を務めたことから、李自成は「八隊」と綽名された。やがて母体である張存孟か苗美が明軍に討たれると、遺衆を糾合して闖将と名乗った。
闖王・高迎祥と闖将・李自成は綽名は似ているものの李自成は高迎祥に直属したわけではなく、独立した流賊集団=掌盤子として共同行動したり分散して独自行動も行っていた。
高迎祥死後もすぐにはその後継者とはならず、「老八隊」と呼ばれた。高迎祥の後継者が次々と明に降り、結果的に崇禎14(1641)年ごろには闖王を名乗るようになったと思われる。

◇流賊集団
流賊の首領を掌盤子、掌家、菅営者と呼ぶ。集団は営と隊によって構成されていたが、これは脱走明軍が集団の基礎となったからだろう。
営は老営(標営・中営)、左右前後の五営からなり、各営は老菅隊(大哨頭)⇒小菅隊(哨頭、領哨)⇒菅隊(20人隊の長)のピラミッド構造になっている。掌盤子の部隊は大小様々だが、大掌盤子といわれる勢力になると、数万以上にも達した。
構成は兵士ばかりではなく、その家族も含まれ多くは老営に所属していた。なので、老営を攻撃されると流賊の士気は著しく低下した。
明軍、流賊双方諜報組織が編成されており、流賊側は掌盤子直属の80~90名の従僕の中から強者を選び、諜報組織の管轄者・夜不收とした。
掌盤子集団の軍事行動の特徴は機動性と、情報戦に優れている点である。また、戦闘行為を支えたのが騎兵であった。非常に多くの馬を有していて、その補充にも行動の重点を置いた。
馬は戦闘用のみに使役し、荷物の運搬はロバとラバを使った。騎兵1人につき馬2~4頭支給されたので、1人1頭明兵とは速度、補給の面で有利に立っていた。
戦闘で獲得した僧侶、道士、医者、卜者、木匠、銀匠などは逃亡の防止策として入れ墨を入れたり髪を切ったり耳を割いた。

◇崇禎年間の流賊対応
三辺総督・楊鶴、賑撫延綏陝西巡按・呉甡、延綏巡撫⇒三辺総督⇒五省軍務総理・洪承疇、昌平副総兵・左良玉、大同総兵・曹文詔、五省軍務総理・陳奇瑜、湖広巡撫⇒五省総理・廬象昇、順天府副知事⇒陝西順撫⇒兵部侍郎⇒兵部尚書七省督師・孫伝庭、遼東総兵・祖寛、宣府大同山西軍務総督⇒兵部尚書・楊嗣昌、福建巡撫⇒両広巡撫⇒兵部尚書・熊文燦

呉甡・洪承疇⇒流賊は組織を潰滅させないと意味が無いので、指導者を倒して招撫をおこない流賊を解散させるべき
楊鶴⇒まず招撫したものの、流賊指導者と取引を行い、集団を解散させずに安易に決着を図った⇒楊鶴は呉甡・洪承疇に糾弾される
楊鶴は呉甡・洪承疇を恨まず、後任に洪承疇を推薦している。

五省軍務総理・陳奇瑜は短期間で勝利を重ね、高迎祥、張献忠、李自成、羅汝才を全滅寸前に追い込んだが、李自成は陳奇瑜の周辺に賄賂を贈って投降を申し出た。陳奇瑜はこれを信じて武装解除しない李自成軍を迎えたが、反撃されて大敗北を喫し、陳奇瑜は責任を問われて獄につながれ辺境の軍卒とされた。

陳奇瑜の後任の五省軍務総理が洪承疇(三辺総督も兼任)。崇禎8(1635)年に高迎祥は中都鳳陽府に攻め込み明皇族の墓を暴いたので、これに驚いた崇禎帝は洪承疇に六ヶ月以内の流賊を討滅を命じる。
この命令が洪承疇の焦りに繋がり、麾下の多くの指揮官と兵を失うが、中でも洪承疇をして明季の良将第一と言わしめた曹文詔を失ったのは痛手となる。
ちなみに曹文詔は同僚・呉甡によると忠義と勇敢さを兼ね備え、軍律に厳しく略奪行為を厳禁していたという。
一方、左良玉等はその麾下に投降流賊や逃亡軍士を含み、食料は現地調達で行ったため、略奪が流賊よりも酷かったらしい。むしろ、当時としてはこっちの方が一般的だった模様。

この頃になると、流賊の行動範囲は広がったので、洪承疇だけでカバー出来なくなってきたので、湖広巡撫・廬象昇を五省総理に就任させ、麾下に遼東総兵・祖寛と麾下の鉄騎兵を付けた。更に洪承疇の麾下に順天府副知事・孫伝庭を抜擢して陝西巡撫とした。
高迎祥は河南から陝西に抜ける所を洪承疇と孫伝庭に補足され、部下の裏切りにあって補足され、北京に送られて公開処刑された。

マンジュの天聰華北遠征(ホンタイジ親征により内モンゴルから北京近郊に侵入)にショックを受けた崇禎帝は楊鶴の子・楊嗣昌を抜擢して兵部尚書とする。
楊嗣昌は鄭芝龍招撫に功のあった熊文燦を実務担当者として推挙し、崇禎帝は熊文燦を兵部尚書に任じている。
楊嗣昌は三ヶ月で流賊を殲滅することを公約し、次々と水も漏らさぬ作戦を献策するが、現場担当の洪承疇や孫伝庭はこれを机上の空論と非難した。

しかしながら、張献忠や羅汝才を投降させ、主要な流賊では李自成以外はみな投降か逃亡を余儀なくされ、また李自成自身も18騎のみで辛くも危地を脱した様な状態だったが、洪承疇や孫伝庭、左良玉が上げたこれらの功績は全て上司たる楊嗣昌、熊文燦の功績となった。
マンジュの崇徳華北大遠征(ヨト、ドルゴンを主将とした二部隊による内モンゴルから北京近隣、山東までの略奪作戦)に対応するため、廬象昇麾下の鉄騎兵を遼東に戻した。
マンジュとの交戦で廬象昇は戦死し、対マンジュ策として楊嗣昌は洪承疇が兵部尚書・薊遼総督として遼東に送り、孫伝庭は陝西軍を率いて保定山東河北総督に任命した。
孫伝庭は麾下の陝西兵を遼東に留めることに反対し、上奏したが認められず辞職した。しかし、楊嗣昌は孫伝庭が仮病を使っている崇禎帝に讒訴したため、崇禎帝は激怒して孫伝庭を解職した上で投獄した。
継いで、この頃明に投降していた張献忠は自身の討伐計画を察して羅汝才と連絡を取って再度蜂起し、激怒した崇禎帝は張献忠を招撫した熊文燦を解職して投獄した。

この時期、却って楊嗣昌は兵部尚書に加えて礼部尚書を兼任し、東閣大学士として入閣させた。
楊嗣昌はマンジュと流賊を一気に根絶やしにする策を練り崇禎帝に提案したが、畢竟増税して賄う形の提案であった。
勢いを盛り返した李自成は洛陽を急襲して悪名高い福王・朱常洵を殺し、張献忠は襄陽を陥落させ、襄王を殺した。張献忠討伐の責任者であった楊嗣昌は責任を取って自害した。
これによって明軍は統率の取れた軍事行動が取れなくなり、逆に流賊は略奪して移動を繰り返していた方針を改め、都市を占拠すると維持する方向に転換する。

開封は五度にわたって李自成の攻撃を受け、副将軍・陳永福は李自成に矢を集中させて左目を失明させている。以後、李自成は闖瞎子と綽名されることになる。
そして李自成軍は薊州を、張献忠軍は武昌を襲っている。
熊文燦、楊嗣昌を相次いで失った崇禎帝は自らが投獄した孫伝庭を復帰させて兵部侍郎に就任させた。孫伝庭は兵の練度を上げるべく上奏するが許されず、李自成と河南で戦って敗北した。
しかし、崇禎帝は孫伝庭を兵部尚書、七省督師として出陣を促した。孫伝庭は敗戦の痛手を復旧するには時間が必要だと考えたものの崇禎帝の命令には逆らえず、出陣する。
投降者から李自成の老営の場所を特定した孫伝庭は即座に急襲し、李自成自身も危地に陥るが、七日間降り続いた長雨のため明軍の食糧が尽き、孫伝庭は無謀な突撃を行って戦死した。

 長くなったので分けます。

 それにしても、崇禎帝が癇癪起こして短期間で流賊平定を命令⇒期日に焦って失敗⇒解職投獄って言うパターンが多すぎ…。洪承疇が清に降ったのも崇禎帝よりはホンタイジの方が仕え甲斐があると判断したからじゃないかなぁ…。流賊とマンジュの二正面作戦強いられていたにしても、部下を巧いこと使えなかったって言う印象が強すぎるんですよねぇ…崇禎帝って。

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