『加沢記』の松殿
と言うわけで、ご多分に漏れず日曜夜のNHK大河ドラマ『真田丸』を毎週楽しみに見ています。元々、期待値は高かったのですが、考証的にもまぁ、いっか!って感じの解釈ですし、思いの外ドラマとしても個人的には面白いです。
で、先週の放送、第6回「迷走」で、織田信長への人質として、安土に滞在していた木村佳乃演じる松が、安土から小県へ逃走中に失踪するという一段が有りました。松は史実では村松殿=小山田茂誠正室で法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉と言いますが、あまり事績がはっきり分かる人物でも有りません。なので、いやこんな話聞いたことないなぁ…オリジナルぶっ込んできたのかなぁ…と思っていると、Twitterで流れてきた文章見ると、どうやら真田家の史料である『加沢記』という書物に元ネタが有るようです。
村松殿 安土の乱で行方不明 桑名で渡し守にかくまわれ
二年後 桑名で保護される (加沢記)#真田丸 pic.twitter.com/yW3rCdNguf— M原 (@Mharayaruo) 2016, 2月 14
『加沢記』で検索をかけたところ、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに『加沢記』が収録されていて、その中の四〇 信長公御生涯 附安土へ被遣候人質御娘子樣之事/84という段の様です。折角なので関係箇所をテキストに起こしてみました。
信幸公大熊靱負を召てのたまひけるは御姉君は如何と被仰て御人を安土へ御迎に遣され(中略)
安土へ遣されける御娘子樣の御行衞無りければ昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ御一門家老の人々日々に御會合有て此行衞のみ無覺束御落涙の外は無かりけり。信長公御臺公達は日野と云所へ蒲生忠三郎氏郷以忠義引取御扶育有ければ若此御方へ御一所にもやと被申方も有けり、いやゝゝ忠節も左のみましまさゞりければ日野へもいかて伴ひ給ふべき、只傍若無人の手にも渡りいか成御身とも成果給らんとて人數を以て御尋有んより外なしとて手分に成て尾江遠三甲駿六ヶ國在々所々草を分つて手の及限御尋有けるに秀吉公の御代に移り世上靜謐しけれども御行衞更になし、猶も此事忘れ給ふ隙もなく御なげき深りける、昌幸公上洛したまふ折節、翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入て休息しければ二十斗の女房走出て、今日御上洛の殿樣は何なる大將にて國は何處と申ければ下郎ども申は信州眞田殿の御上洛と申、其時女房さめゞゝとないて信濃と聞はなるかしや、自も信濃の者なるが聊仔細有て此國に有つるが本國なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申有けるが取直し上田の城町の喜兵衞と申者の所へ御届たまはり候へとて紙包一つ渡されける、下郎なれば何の辨もなく心得たりとて懐して御歸陣迄沙汰なくして上田へ持來り、城町の喜兵衞と尋けれども何か御城主喜兵衞樣と申ければ其名を付べき者はなし、此事寄々足輕大將聞付て此紙包を被披見けるに御姫樣よりの御文也、早々山田文右衛門に渡して奥方へ差上ければ不斜悦有て早々桑名へ御人被遣、渡守に御褒美被下御迎取被遊ける。渡し守安土の亂に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、淺間鋪御有樣にて二とせのうきめの程思ひやられて御いたわしく聞人ことに哀は增りけり、後に小山田殿のご内室に成給ひけるとなり。i
途中出てくる漢文風記述の返り点はスルッと無視しますけどこんな感じですね…。まとめますと…
①:織田家への降伏時、信幸の発案で安土に信幸の姉を人質に送った
②:安土に送った真田昌幸の娘が本能寺の変以降行方知れずになった
③:方々手を尽くして探したけど一向に消息がつかめなかった
④:二年後に真田家が上洛する際に桑名に立ち寄った際に、真田家の使用人が信濃出身の渡し守の女房から上田城下の喜兵衛宛に手紙を託された
⑤:紆余曲折有って手紙は真田家に届き、桑名の渡し守に褒美を取らせて娘を取り戻した
⑥:その後、小山田殿…恐らく誠茂さんに嫁がせた
と言うわけで、『加沢記』によると⇒渡し守自ら「安土の亂に奪捕ければ」と言っているので、本能寺の変後の混乱期に村松殿と思われる真田昌幸の娘は桑名の渡し守に誘拐され(有り体に言うと人狩りに有った)、どうやら無理強いされて結婚?もしくは監禁されていた模様だと。真田昌幸の娘が桑名で真田家にそのまま身を投じて保護を訴えてればよかったんじゃないかと思いますが、人目を忍ぶように使用人と接触して身分を明かさずに手紙を託している所から見ると、失敗して渡し守に知られでもしたらリスクが高い状態に有ったようですよね。で、所在がはっきりした為、真田家は渡し守に褒美を取らせたって事になってますが、これって身代金払って取り戻したって事ですよね。それはまぁ…「淺間鋪御有樣」という表記で推して知るべしでしょう…。
意外と元ネタあったんだなぁ…と思いながら、ドラマ『真田丸』の考証の先生の一人の著作で有る、丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』新人物文庫 をペラペラめくっていたら、村松殿の項目にこんな事書いててありまして…。
昌幸が織田信長に従属した際、信之の嫡男とともに安土(近江八幡市)に人質として出され、本能寺の変時に行方不明になったとされるが(『加沢記』)、極めて疑わしい。この時点では信之の嫡男信吉は生まれておらず、早逝した長男が居たとも伝えられていない。また、昌幸は織田家宿老滝川一益の与力に配属されており、人質は一益の居城厩橋城に出していたはずである。昌幸のような遠方の国衆が、安土に人質を出すとは考えられない。ii
版本が違うのか見方が悪いのか、人質に信之長男も入っていたかどうかは自分は『加沢記』では確認できていないんですが、確かに滝川一益に昌幸実母である河原氏を人質に送って居るので、何人人質出すんだよって話になりますわね…。勿論、ドラマのように本能寺の変で安土の人質が行方知れずになったので、滝川一益が改めて国衆から人質を要求した…という想定もありだと思いますから、この辺は解釈の範囲だと思います。
ともあれ、『真田丸』で松殿が本能寺の変後に失踪したのは元ネタが有ることなんだねって事です。こういう仕掛け有るとおもろいですよね。
意外とKindleでも出てるんですね…。参考文献もすこぶる面白いのでオススメです。
- 『加沢記』四〇 信長公御生涯 附安土へ被遣候人質御娘子樣之事/84 [戻る]
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』新人物文庫 P.229 [戻る]