順治元年入関前夜─昭顕世子の見た入関
少し間が空きましたが、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。
まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i
とまぁ、兵法三十六計の以逸待労を以てドルゴンは李自成を破ったと言うことになっているんですが、はてそうだっけ?と言うのが今回のお話です。
時系列で追っていきましょう。まずは、崇禎17=順治元(16287)年3月からです。
三月(中略)癸巳(四日),封總兵官吳三桂、左良玉、唐通、黃得功俱為伯。
甲午(六日),徵諸鎮兵入援。ii
と言うわけで、《明史》莊烈帝本紀 を見ると、まず、3/4に崇禎帝は呉三桂はじめ左良玉、唐通、黄得功を封爵しています。いよいよ李自成が迫ってきたので地位で忠誠を買おうとしたんでしょうね。この中で左良玉と黄得功は李自成軍に降ることなく南明の福王弘光政権に加わって清朝に抵抗して没していますから、ある程度効果はあったみたいです。もっとも、呉三桂は清朝に降り、唐通は李自成に降った後に清朝に降りますが…。
で、3/6に兵を移動…具体的には北京の守備にシフトした配置にし直します。寧遠にいた呉三桂はひとまず山海関に移動します。
順治元年(中略)莊烈帝封三桂平西伯,並起襄提督京營,徵三桂入衛。寧遠兵號五十萬,三桂簡閱步騎遣入關,而留精銳自將為殿。
三月甲辰(十六日),入關iii。
戊申(二十日),次豐潤iv。
而自成已以乙巳(十七日)破明都,遣降將唐通、白廣恩將兵東攻灤州。三桂擊破之,降其兵八千,引兵還保山海關v。vi
今度は《清史稿》呉三桂伝の記事デス。次いで、呉三桂は3/16には山海関に入り、3/20には豐潤県に進軍しますが、そこで始めて3/17にすでに北京が陥落したことを知ります。この文章を読むに、呉三桂は寧遠から山海関に配置換えになったわけではなく、北京に向かう途中に山海関を通過した…と言うコトみたいですね。そして、(《明季北略》では3/27に)かつての同僚である唐通と白広恩が先鋒となって李自成軍は灤州にまで攻めてきます。呉三桂はこの軍勢を打ち破り、八千の兵が呉三桂に降りますが、呉三桂は山海関に引き返して始めてここを拠点とするわけです。
一方、清朝の方では明の滅亡については知らなかったようですが、国境地帯の異変を察知しています。
(三月)甲辰(十六日)。防守錦州鎮國公艾度禮等、所解逃人稟稱、大兵既下前屯等城。寧遠一帶。人心震恐。聞風而遁。隨下令修整軍器。儲糗秣馬。俟四月初旬、大舉進討。vii
3/16に錦州防衛の任についていた鑲藍旗グサ・エジェン 鎮国公アイドゥリから、寧遠一帯がもぬけの空になっていて、噂によると兵が逃げたらしいという報告が入ります。呉三桂が寧遠から移動したのは3/6以降ですが、3/16までには移動は完了していたようです。ともあれ、呉三桂が山海関に入った日付と同じタイミングでアイドゥリは寧遠がもぬけの空になっていることに気がついたようですね。この報告を受けて、ただならぬ雰囲気を察した清朝…というかドルゴンは4月初旬を目標に入関作戦を計画したようです。
ちなみにアイドゥリはこの年の2月に錦州駐防の当番のために赴任して1ヶ月目にこの事件に対峙してます。
(順治元年二月二十二日)辛巳。命固山額真鎮國公艾度禮同梅勒章京伊爾德等更番駐防錦州。viii
その後他の武将が当番に赴いた記録は見当たりませんでしたが、以前記事にした通り、アイドゥリはこの年の6月に鄭親王ジルガランによって処刑されています。
(順治元年六月二十七日)癸未。鎮國公固山額真艾度禮於誓期前日、私言二王迫脅盟誓。(中略)艾度禮及妻、並其子海達禮及醫者並棄市。家產及所屬人口、俱交與和碩鄭親王。ix
おそらくはドルゴンの入関には従わずに錦州に留まって、その後瀋陽に帰還したんでしょうね。
この後の展開も含めて、この時期の錦州に居たアイドゥリの功績は相当高い物になったはずです。何しろ、入関作戦そのものがアイドゥリの報告から企画されています。どうも、ジルガランの手で裁いたというあたり、ウラナラ閥と孝荘文皇后派の対立とか(アイドゥリの嫡フジンはウラナラ氏ブジャンタイの娘)、鑲藍旗内での権力闘争(アイドゥリは四大ベイレ・アミンの第二子でジルガランの甥)の線が強そうですが、その辺は今回は脇に置いておきます。
で、本当にこの報告だけで入関作戦を決意したのかなぁ?と、宣和堂は半信半疑だったのですが、朝鮮王朝側の資料見ると、どうやら3月後半の時点で入関作戦はすでに決定事項とされていたようですね。
(三月)二十六日 甲寅 陰
(中略)皇帝前禮單呈送。朝食後、龍將・噶林博氏率鄭譯、來詣館所。世子出迎于中門外、入坐內書筵廳。辟左右、輔德・司書入侍、還卽出來。移時而罷。下令曰、宰臣・講院引接。賓客・輔養官・輔德・文學・司書并入侍。世子歷言龍將問答說話、蓋右議政李敬輿事及西行事也。(中略)龍將(中略)又曰、今番西征時、世子從九王當行、鳳林大君出去、元孫・諸孫去留、任意爲之。世子答曰、數千里往還之餘、一身勞悴、固不敢言、而今又離此遠去、則彼此消息亦不得通。國王未寧之中、必多慮念、以此爲悶云。則龍將曰、每事任意爲之、則何以來在此地耶云云矣。x
と、朝鮮王朝の人質として瀋陽に駐在している昭顕世子の随員の記録である《昭顕世子瀋陽日記》によると、昭顕世子はイングルダイ(龍将=龍骨大)とガリン(噶林博氏xi)…を通してドルゴンから、3/26時点で入関作戦時にはドルゴンの指揮下に入って従軍するよう指示を受けています。今回の記事はほとんど同時代資料たる朝鮮王朝の瀋陽館の記録である《昭顕世子瀋陽日記》と入関作戦の従軍記録である《西行日記》によるものです。
折角なので《朝鮮王朝実録》の方でほぼ同じ内容があるので、こちらで確認しておきましょう。
(四月)丁卯(十日)/輔養官金堉、賓客任絖等馳啓曰: “兩宮 【世子與嬪。】 前月二十四日到瀋陽。二十六日,龍骨大及加麟博氏率鄭譯, 來詣館所,(中略)龍將(中略)云。 四月初九日, 九王將西犯, 世子當從焉。 元孫、諸孫去留, 使之任意, 而麟坪則留瀋, 鳳林則近當出送矣。 以收用五臣之故, 大致詰責, 將順付勑書於鳳林之行云。 且聞涉河、寧遠自潰, 皇城又爲流賊所圍, 諸鎭皆入援, 故九王將乘虛直擣云。”xii
《朝鮮王朝実録》を見ると、昭顕世子は一時帰国して3/24に瀋陽に着いた翌々日にさっきの話を聞いたようですね。内容はこっちの方が若干詳しいので、《昭顕瀋陽日記》の引用ではほったらかしの部分も訳します。
で、イングルダイとガリンが昭顕世子に対して言うには、4/9にドルゴンの入関作戦の進軍が開始するので、世子は当然従軍すること。ただし、世子の子供たちについては瀋陽に留め置くこと。三弟・麟坪大君は瀋陽で留守番、二弟・鳳林大君(後の孝宗)は近々帰国するように…と。で、帰国した鳳林大君に持たせた手紙には、遼西走廊の沙河鎮、寧遠県は放棄され、北京は李自成軍の包囲を受けており、明の地方軍は皆救援に向かっているが、ドルゴンは機に乗じて北京を直撃するといっている…とあったようですね。李自成が北京を包囲しているこの機会を逸することなく、北京を攻撃してしまおうというドルゴンの決断は朝鮮王朝側にも伝わっていたようです。3月下旬には出兵の期日まで決定していたことが分かります。
しかしまぁ、内向きの記録とはいえ”九王將西犯”とか明贔屓が隠れてませんねぇ…w
一方、この頃、呉三桂はどうしていたのでしょうか。
自成脅襄以書招之,令通以銀四萬犒師,遣別將率二萬人代三桂守關。三桂引兵西,至灤州,聞其妾陳為自成將劉宗敏掠去,怒,還擊破自成所遣守關將;遣副將楊珅、游擊郭雲龍上書睿親王乞師。xiii
《清史稿》の呉三桂伝では、期日は書いてませんがこういう記述が続きます。李自成は呉三桂の父親である呉襄に手紙を書かせ、(呉三桂の元同僚で李自成に寝返った)唐通に銀四万両と一緒に持たせて呉三桂の元に送りました。他の将軍に二万の軍勢を率いて呉三桂に替わって山海関を守るべく移動させました。呉三桂は軍を率いて西に向かって灤州まで来ます。ここで陳圓圓が劉宗敏に掠め取られたと聞いて怒って…(このあたりは自分は懐疑的ですが一応ここではそうしておきます)李自成軍を撃破し、山海関の守将に使いを送り、副将・楊珅、遊撃・郭雲龍をドルゴンに派遣します。
他に比較する記事がないので《明季北略》を確認すると、唐通が呉襄の手紙と銀四万両を持って呉三桂を訪れたのは3/29のこととしていますxiv。更に《明季北略》では、呉三桂は皇太子を連れてくれば投降すると公言して、李自成は皇太子の弟である定王を身代わりにすることを計画して唐通の陣に定王を送り込んだことになっています…。ただ、呉三桂と崇禎帝の皇子に関する《明季北略》の記述はイマイチ信用度がおけないのでこの辺はスルーしましょう。
次いで《明季北略》では4/4に唐通から定王を迎えた呉三桂は、皇太子が来れば投降すると表明しますが、書簡では李自成を散々罵り、4/9に北京に届いたその書簡を読んだ李自成はカンカンに怒ったとしています。定王と皇太子の件は眉唾にしても、呉三桂と李自成の交渉が不首尾に終わったことは事実だと思われます。
一方、清朝では着々と入関作戦軍出発の準備をしています。
乙丑(七日)。上御篤恭殿。賜攝政和碩睿親王多爾袞大將軍敕印。敕曰。「我皇祖肇造丕基。皇考底定宏業。重大之任。付於眇躬。今蒙古、朝鮮、俱已歸服。漢人城郭土地、雖漸攻克。猶多抗拒。念當此創業垂統之時。征討之舉、所關甚重。朕年冲幼、未能親履戎行。特命爾攝政和碩睿親王多爾袞、代統大軍。往定中原。用加殊禮。錫以御用纛蓋等物。特授奉命大將軍印。一切賞罰、俱便宜從事。至攻取方略、爾王欽承皇考聖訓。諒已素諳。其諸王、貝勒、貝子、公、大臣等、事大將軍、當如事朕。同心協力、以圖進取。庶祖考英靈、為之欣慰矣。尚其欽哉。」王受印敕。行三跪九叩頭禮。xv
この辺は前回も訳したのでスルーするとして、要するに4/7にドルゴンが入関作戦の総司令官に就任したわけです。
更に翌日儀式が行われたようです。
初八日 乙丑 晴夜少雨
(中略)辰時、舉動率兩大君、進參大衙門之會。諸王・諸將咸集於大衙門中庭。東庭九王作頭、十王以下諸將序立。西庭右眞王及大王作頭、孔・耿兩將小吏阿口序立、世子立於小吏之左。左右排立畢、皇帝乘黃轎、陳軍樂、至八角殿上坐、九王前進、跪于下階、帝賜帽・靴・衣服・毛具・弓矢凡九種物、王受之、拜叩而退、其次十王以下諸從征者、皆跪於庭下、各賜錦衣襲。世子則具鞍馬一匹。行茶禮、徧及從者而罷。蓋以明日出師、九王專征。故有此受命之舉也。(後略)xvi
《世祖章皇帝實録》にはない4/8の記事が《昭顕世子瀋陽日記》にあったので載せておきます。大衙門=大政殿の前廷で東はドルゴン(九王)、ドド(十王)をはじめとした諸将が階位に従って並び、西にはジルガラン(右眞王)とダイシャン(大王)を始め孔有徳、耿仲明両将軍が並び、昭顕世子もその末席に並びました。皆が並び終わると、軍楽が演奏される中、順治帝が乗った黄轎が入場して八角殿=大政殿で黄轎から降りて玉座に座りました。ドルゴンは前に進み出て階下で跪き、順治帝はおよそ九種の礼物を下賜し、ドルゴンは拝跪してこれを受け取って退出しました。ドドらもそれに続き、出征する者は順繰りに皆跪き、各々錦衣を下賜されました。世子も鞍と馬を下賜されました。祭祀を行い、明日からの出兵の儀式を終えます。一連の行事はドルゴンが入関作戦の総司令官に就任する儀式だったようです。
《世祖章皇帝實録》では更に翌日、又お祭りを…。というか、この記事は内容的には《昭顕瀋陽日記》と変わりませんから、日付間違えたんですかねぇ。儀式に参加したメンバーも同じですし、昭顕世子の名前も入っていますから、間違いないでしょう。
(九日)是日、攝政和碩睿親王多爾衮、同多羅豫郡王多鐸、多羅武英郡王阿濟格、恭順王孔有德、懷順王耿仲明、智順王尚可喜、多羅貝勒羅洛宏、固山貝子尼堪、博洛、輔國公滿達海、吞齊喀、博和託、和託、續順公沈志祥、朝鮮世子李●xvii、暨八旗固山額真、梅勒章京、詣堂子。奏樂。行禮。又陳列八纛。向天行禮畢。統領滿洲蒙古兵三之二、及漢軍、恭順等三王、續順公兵、聲礮起行。xviii
こちらの方が参加者については詳しいですね。以前の記事にでも触れましたが、後のドルゴン政権を担う人材が勢揃いです(精々、謙郡王ワクダ、順承郡王レクデフンあたりが抜けてるくらい)。
一方、《昭顕世子瀋陽日記》の同日付の記述は出発時の様子です。
初九日 丙寅 晴大風晦冥
世子巳時、自瀋陽館所離發西行。(中略)朝、皇帝送酒餞若干物種於館所。世子親受於中門外。(中略)世子出坐大門外、兩大君亦同坐、待諸王騎馬、同時發行。由東門而出、隨諸王往城隍堂、行祭後、因出北秫門外、結陣處駐駕。(中略)世子座於大門之時、龍將與所謂戸判者、來謁世子前、辟左右、相語而罷、未知爲某事也。世子出往北門之後、鄭譯言、今番勅書、初欲順付於大君之行、今聞本國有逆變、欲爲詳問。且向化刷還事、永爲蕩滌。故勅書亦當持去。爲此三件事、上使於士介博氏・副使鄭自行定、於再明與大君一時出往云云。發行臨時、賜文學襦衣一領、他餘治行諸事及陪從員役夫馬容入之數。詳見西行日記。xix
昭顕世子は大門(ムクデン皇宮正門の大清門?)に座して、二弟・鳳林大君、三弟・麟坪大君も並んで座っていたと。諸王は騎馬で待機して、同時に東門を経由して出発し、城隍堂に立ち寄って祭祀を行って北秫門?より外に出て進駐しました。調べたところ、この頃のムクデンには北秫門という名前の門はありませんので、実際にはどこから出たのかは分かりません。出発に際してイングルダイとグルマフン(鄭訳)が挨拶に来てますね。この辺案外面倒見いいんでは?とか思ってしまいますが、グルマフンは相変わらず恩着せがましいですね…。
さて、《昭顕瀋陽日記》は瀋陽の世子居館の随員の記録なので、瀋陽に入ってきた情報しか書かれてないのですが、最期に「詳見西行日記」とある通り、《昭顕世子瀋陽日記》には昭顕世子に従って入関軍に従軍した随員の記録も付録としてついています。清朝の入関作戦に関する同時代、一次史料ですし、かなり詳しいので重宝します。
と、今回は長くなってしまったので、ドルゴンの以逸待労の検証はまた次回に持ち越しです。
参考文献:
岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
- 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46 [戻る]
- 《明史》卷24 本紀第24 莊烈帝 朱由檢 二 崇禎十七年 [戻る]
- 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 にも”十六日入關。”とある。 [戻る]
- 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 にも”二十(日)抵豐潤,京師陷矣。三桂聞變,頓兵山海。”とある。 [戻る]
- 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 には”三月廿七(日),將自成守邊兵二萬,盡行砍殺,止餘三十二人。賊將負重傷逃歸。三桂遂據山海關。報至,自成遣叛將唐通,統兵往禦,又遣叛將白廣恩,統兵往永平救援。”とあり、李自成側と呉三桂の小競り合いがあった後に山海関に戻り、唐通と白広恩を派遣して永平府を守らせたとあるので、《清史稿》とは若干時系列が異なる。 [戻る]
- 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]
- 《大清世祖章皇帝實録》巻3 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻3 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻3 [戻る]
- 《昭顕瀋陽日記》甲申年 [戻る]
- 内藤虎次郎=湖南『満蒙叢書 第9巻 瀋陽日記』の序文にある「唯書中滿洲の地名・人名等を記するに朝鮮字音を用ひらる爲めに之を清朝の記錄と對照するに頗る困難を感ずるものあり。例えば(中略)剛林を加隣若しくは葛林と記し(後略)」という説に従った。 [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 仁祖22年4月10日 [戻る]
- 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]
- 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末⇒”二十九日,自成使唐通與文武二人犒師銀四萬,賚吳襄手書,招三桂(中略)遂佯喜曰:「願一見東宮而即降。」報書復命,賊計以定王往,既日遣賊將挈定王赴唐通營。” [戻る]
- 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 《昭顕世子瀋陽日記》甲申年 [戻る]
- 昭顕世子・李(湍-而+王) [戻る]
- 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 《昭顕世子瀋陽日記》甲申年 [戻る]