順治元年、北京までの道─昭顕世子の見た入関
さて、折角なので改めて昭顕世子の見た入関、山海関⇒北京の行程を見てみましょう。今回も主に《昭顕瀋陽日記》の付録、〈西行日記〉を読んでいきます。
二十四日 辛巳 晴風
(中略)○卯時、行軍四十里、至深河驛、止宿。
4/24、晴、風あり。朝方(卯時)出発して40里行軍して深河駅(河北省秦皇岛市抚宁区深河乡)に到着して宿営した。
山海関を下して2日目にして、前日の雨も上がった様なので本格的に進軍を開始します。日に40里ですから、駆け足行進を始める前の速度に戻っています。24日の到達地点である深河駅は《大清世祖章皇帝實録(以下《清実録》)》iや《清初内国史院满文档案譯编(以下《内国史院档》)》iiでは新河駅となっていますが、現在の地名から考えると誤記でしょうねぇ…。
二十五日 壬午 晴風
(中略)○卯時、行軍六十里、至撫寧縣城北、止宿。城中人數百、迎詣軍前、皆慰諭遣之。問其知縣、則聞變勤王、不知去處云矣。永平府、亦迎遣降書、問其知府、則亦勤王不還云、而未知其言之眞的也。禁軍廉益儉、率行中瘦病夫馬、落後追行。
○是日大風、黃埃滿目、人不堪其苦。
4/25、晴、風あり。朝方(卯時)出発して60里行軍して撫寧県城(河北省秦皇岛市抚宁区)の北に到着して宿営した。城中の人たち数百が軍を出迎えたので、皆は彼ら慰撫して(摂政王の)諭旨を伝えた。彼らに県知事の所在を聞いたところ、崇禎帝をお守りするために出発したが、いずこに去ったのかは知らないと言う。また、永平府から使者が来て書をもって降伏の意を伝えに来たが、府知事の所在を問いただしたところ、やはり崇禎帝を守りに出て戻らず、その言が真実であったかどうかは分からないという。(清朝の?)禁軍は倹約を旨としたので、軍内の飢えてやせ衰えたり病気になった者や馬は捨て置いて後を追わせた。
この日は風が酷く、黄塵で目を開けられないほどたった。
と、どうやら、出発に先立って呉三桂が道中の州県に書状を送って降伏を促していたようでiii、それが功を奏したようで、撫寧県は城を挙げて降伏したという事のようです。清軍は自軍が略奪することを恐れて撫寧県城内には入らず、県城の北に宿営しています。
《清実録》ivや《内国史院档》vでもこの日は撫寧県を通過したことは裏が取れます。
この日から後の記事によく出てきますが、知県事なり知府事なりが勤王のためと称して出撃して任地不在のため、住民が清軍に降伏を申し出ています。知県事なり知府事なりは本当に勤王軍を指揮して李自成に攻撃されたか、勤王を口実にしていずこかに逃げたのかは住民にも判断が付かなかったと。
ここでは李自成が山海関を攻撃する前に軍を集結した拠点である永平府がいち早く降伏を申し出ていますね。ただ、この後の行軍経路を見るに、清軍はあまり永平府に立ち寄ることをよしとはしなかったようです。《朝鮮王朝実録》によると、永平府に通じる道…永平大路を通らなかったのは、李自成軍が通った後はぺんぺん草も生えない状況だったため、馬の食料確保のために少々遠回りになるものの、永平大路を避けたようですvi。ちょっと言い訳がましく聞こえてしまいますが…。
二十六日 癸未 晴
(中略)○卯時、行軍、孔・耿兩將四萬騎、領率大炮車子、由大路直行、九王大陣迤南、而並行七十里、至昌黎城南、止宿。知縣徐姓人、持犒饋之物、出降軍前、九王不受所獻、剃頭而送。
4/26、晴。朝方(卯時)出発した。孔有徳・耿仲明の両将軍に率いられた四万騎が車に積んだ大砲を携えて幹線経由で(北京に?)直行し、九王=ドルゴンの本陣は進路を南に転じて70里進んで昌黎城の南に到着し、ここで宿営した。徐と言う県知事が貢ぎ物をもって軍前に来て降伏したが、ドルゴンは貢ぎ物を受け取らず、知事を辮髪にして返した。
と言うわけで、行軍速度が日に日に上がってきてる気がしますが、ドルゴンは撫寧県から西進して永平府に向かう道は選ばず、南に転じて昌黎県(河北省秦皇岛市昌黎县)に向かっています。この辺も《清実録》viiと《内国史院档》viiiでも確認が取れます。しかし、孔有徳、耿仲明の漢人砲兵部隊4万騎はそのまま西進した様ですから、なんか理由があったんでしょうけどよく分かりません。ホンタイジ時代に永平府を占領したような失敗を犯してはならない…と言うのが清朝首脳部の共通認識としてあったようなので、無用な混乱を避けるために清軍主力は因縁の地・永平府を避けたのかもしれません。李自成の残存兵力が永平府に残って居る可能性を鑑みて避けたのかとも思いましたけど、前日に永平府からの降伏の使者が来てますしその線はなさそうですね。
二十七日 甲申 晴
(中略)○卯時、行軍、西行八十里、至灤河邊、止宿、北去灤州十里云。
4/27、晴。朝方(卯時)出発。進路を西に転じて80里進み、灤河の川辺に到着して、宿営した。灤州(河北省唐山市滦县)の北十里の地点と言うことだ。
この辺、《清実録》では灤州ix、《内国史院档》では滦州河x、《朝鮮王朝実録》では灤河下流灤州之南xiで若干記述に揺らぎはあるものの、灤州は灤河に近接しているのでほぼ同じ地区を指します。そして、昌黎県から進路を西に転じて灤河なり灤州に行ったとしてやはり、城外で宿営してるわけですね。それにしても、進軍速度が順調に上がってますね…。
二十八日 乙酉 晴
(中略)○卯時、行軍、至關平城西十里許、止宿。是日、行百十里矣。人馬多不能得達者、驅人龍川李有病甚、不能運身。留置村舍而行。關平知縣、不知其姓名、而卽流賊所署者、清人執斬之。
4/28、晴。朝方(卯時)に出発。開平城(河北省唐山市开平区)の西10里の地点に到着し、宿営した。この日、行軍距離は100里に及んだ。この行軍スピードについてこれない人馬は多く、(昭顕世子一行の?)龍川出身の李有(?)も病状が酷く動くことが出来なかったので、村舎に留めて先行した。開平県知事についてはその姓氏も知らないが、流賊(李自成)が任命した者であったので、清人はこの者を捕らえて斬った。
原文では関平城となっていますが、《清実録》xiiと《内国史院档》xiii、及び《朝鮮王朝実録》xivでは開平衛となっていますから、ここは開平衛城と言うことでいいでしょう。と言うことで、4/25時点でも記述がありますが、グングン行軍スピードが上がるために脱落者が出始めて、ついに昭顕世子一行からも、行軍スピードについてこれない脱落者を置き去りにして強行軍を継続する様子が書かれています。出発時には一日60里ペースだったのが、この日にはついに100里に及んでいます。そもそも、山海関到着前でも結構な強行軍なのに更に強行軍を強いられているわけです。山海関合戦の勝利も北京占領までの通過点で、全く以て清軍は気を抜いていません。というか、軍事行動としてちょっと常軌を逸しているような気がしますが…。
二十九日 丙戌 晴風
(中略)○卯時、行軍百餘里、止宿玉田。自灤河以西、村居稠密、棗梨成林、必宜於土地、而居民以此利食也。
4/29、晴、風あり。朝方(卯時)から出発。行軍100里あまりで玉田(河北省唐山市玉田县)に到着して宿営した。灤河から西に入ると村落の密度が高くなり、棗や梨が林立していた。住民はこれを食べて生活しているようだった。
この日も100里オーバー行軍して玉田県に到着しています。流石に無茶かと思いますが、李自成を圧倒して北京を押さえるにはスピード勝負だと考えていたんでしょうね。《清実録》xvでも《内国史院档》xvi及び、《朝鮮王朝実録》xviiでもこの辺は裏が取れます。
三十日 丁亥 晴
(中略)○卯時、行軍七十里、至薊州南二十里漁陽橋下流邊、方欲止宿、九王聞流賊在通州、備禦江邊、欲爲逆戰之報、猝發前進。我行顚倒莫甚、僅辦水剌以進、員役以下、未及糊口、蒼黃隨後。夜行二十里許、止宿。朴宗寧、領卜在後、夜深相失、不及止宿處、上下人員、皆不得打火。
4/30、朝方(卯時)出発。70里行軍して薊州(天津市蓟州区)の南20里の地点にある漁陽橋の下流にある川辺に宿営しようとしたが、九王=ドルゴンは流賊=李自成が通州にいると聞いて川辺に防衛戦を引いたものの、かえってこれを迎え撃とうと軍を動かした。昭顕世子一行にはそれほど転倒する者はいなかったが、わずかに水をかき分けて進むくらいだった。員役より下位の者は皆食事にありつけず、顔色の悪い者達が後に続いた。夜になって20里ほど行軍して宿営した。一行のうちの朴宗寧は後発していたが、深夜になってはぐれてしまい、宿営地に辿り着けなかった。一行は上下隔たりなくみな食事にありつけなかった。
《清実録》xviiiおよび《内国史院档》xixでは公羅店となっていますが、《朝鮮王朝実録》では薊州之南二十里xxとあります。公羅店がどこの地名か判別出来ませんので、ここは地名として調べの付く薊州の南20里としておきます。
と、このあたりから炊事をしていないとか、食事にありつく暇もないと言った記録が目に付くようになります。李自成の敗退が決定的なものなら堂々行軍しても良さそうなものですが、どうも清軍の方では速度を落とすわけには行かない事情があったように感じます。《朝鮮王朝実録》によると、この頃、清朝は降伏してきた李自成残党から李自成本隊はすでに北京から逃亡した旨情報を得ていたようですがxxi、それでも行軍スピードを落とさなかったと言うことは、あまり降伏してきた兵の言葉を信用してなかったのか、他の勢力に空になった北京を掠め取られたくなかったのか…。いずれにしろ、清軍は行軍速度を緩めずむしろ上げていきます。
五月初一日 戊子 晴夜陰
(中略)○卯時、發行。清陣先已先進矣、疾馳行六十餘里、至三河縣夏店。日氣甚熱、人馬飢困、世子少歇于路上關王廟(中略)廟在夏店、東門外左右、店舍櫛比、盡爲空虛。流賊偵探者五騎、隱匿於店舍、爲清人所獲、斬之。
○午時、過店。此去通州四十里也。至通州江邊、則十王率精騎先行、城中居民、開門迎入、十王已慰諭居民而過去矣。
5/1、晴、夜から曇り。朝方(卯時)出発。清軍はすでに先行しており、60里を疾駆して、三河県夏店(河北省廊坊市三河市)に到着した。この日は暑い上に人馬は飢えていたので、世子は道端の関帝廟で休憩を取った。(中略)廟は夏店の東門外にあったが、その左右の役所の建物は壊されて伽藍堂になっていた。流賊=李自成の偵察部隊5騎が夏店の役所に隠れ潜んでいたので、清人がこれを捕まえて斬った。
昼(午時)、夏店を通過した。ここは通州から40里離れた地点である。通州の川辺に到着すると、十王=ドドが精鋭を率いて先行したが、通州城中の民衆は門を開けて清軍を迎え入れたので、ドドは民衆を慰撫して通州を通過した。
と言うことで、五月に入りましたが一行はまだまだ進軍を続けており、三河県を通過して李自成が待ち構えていると噂のあった通州に到着したものの、すでに李自成軍は退却した後のようで通州は開門して城を挙げて清軍に降ったと言うことですね。この日、清軍が通州を通過したことは《清実録》xxiiと《朝鮮王朝実録》xxiiiでも裏が取れます。三河県については記述がないんですけど、薊州から通州への通り道ですし通過はしたんでしょう。
通州と北京は目と鼻の先ですし、途中の三河県では李自成の斥候とも遭遇しています。また、通州は李自成が防衛戦を張っていると噂のあった場所ですから、当然ドドが精鋭を率いて先行するなど清軍もやる気満々ですが、城中から民衆が出迎えるなど、なかなか肩すかしな展開ですね。でも、清軍の内実としては強行軍に次ぐ強行軍で疲労は蓄積してますし、当然輜重隊を置き去りにして先行している上に略奪行為を厳禁してますから、当然この時の清軍はヘトヘトの腹ペコ軍団ですから、いくら兵は迅速を尊ぶと言ったって限度はあろうに…と思ってしまいますが、北京を早急に押さえる事がどうも急務だったようです。これでこの日の午後までですから、続けて夕方からの記事デス。
○酉時、大軍渡江、而久旱水淺、不用船隻騎而渡涉、僅纔沒膝。城外舟楫、一望迷津、皆商船・賈舶也。我行蹔駐、未及打火。清陣遽發。世子下令曰、罔夜疾馳、人馬飢乏、今日前進爲難、而大軍已行、日勢且暮、到此危懼之境、尤不可孤單落後、令速起馬。行廚蒼黃、僅辦水剌以進、其艱楚莫甚。一行顚倒發行、日沒後渡江、行過城底、出沒坑塹、軍馬紛沓、其奔馳顚沛之狀、不可形容去。城西十里許、雷電大作、風雨暴至。世子只設幕於田中、陪從皆露處冒雨、倚馬經夜、清兵亦不爲前進、待晴而發。
夕方(酉時)、清軍は江(通州江?)を渡った。日照りが続いたため水深が浅かったので、舟を使わずに騎行や歩行で渡河が可能だった。城外の舟を一望したところ、渡りに残っていたのはみな(軍船ではなく)商船であった。昭顕世子一行がここに留まる間、食事のための火を起こさなかった。清軍が慌ただしく出発すると、世子は「連夜の強行軍で人馬は窮乏し、今日は前進が難しいかもしれないが、清軍はすでに行軍を始め、日が暮れてきた。これが生死の境目と心得て、脱落者を出すな。」とご下命を下されると、すぐに出発を命じられた。顔色の悪い者に弁当を分け与え、わずかに水をかき分けて進んだが、甚だしい困難であった。昭顕世子一行は蹴躓きながら進軍し、日没後に渡河し終わった。(通州の?)城下を通り過ぎると、塹壕が現れ軍馬は行き交い、駆けづり回って蹴躓くような体で形容しがたい状況であった。(北京?)城の西10里まで来たところで、雷が落ち暴風が起きた。世子だけが田んぼの中に設営した幕営に、従者はみな暴風雨に晒された。連夜馬に寄りかかっていたため、清軍も前進することが出来ず、雨が止むのを待って出発した。
と言うわけで、夕方には日照りで水量が少なくなっていた河を歩いて渡れたと言うのに、夜には暴風雨で進軍出来ないほどになっていた…というか、北京と目と鼻の先に来ても日が暮れてからの渡河も深夜の行軍も辞めなかったと言うことで、清軍が何に急き立てられてこの強行軍のスピードを保ったのかは興味がありますが、さしあたっての史料がないので想像するしかないですね…。
日付 | 干支 | 世祖實録 | 内国史院檔 | 昭顕世子瀋陽日記 | 瀋陽日記備考 |
---|---|---|---|---|---|
04/09 | 丙寅 | 未時:永安橋西 | 大風 | ||
04/10 | 丁卯 | 六哈 | 卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊 | 大風、永安六十里 | |
04/11 | 戊辰 | 杨柽木 | 卯時:遼河、宿:狼胥山 | 晴、遼河二十里 | |
04/12 | 己巳 | 张郭台口 | 申時:豆乙非 | 朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里 | |
04/13 | 庚午 | 遼河地方 | 辽河地方 | 卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程) | 晴、豆乙非六十里 |
04/14 | 辛未 | 卓所 | 卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村 | 風、行六十里 | |
04/15 | 壬申 | 翁後 | 翁后 | 卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進 | 風、明日當為倍程 |
04/16 | 癸酉 | 西拉塔拉 | 西拉塔拉 | 卯時:出発、宿:古長城南十五里 | 晴、迤南行五十里、又行六十里 |
04/17 | 甲戌 | 团山堡 | 卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里 | 晴、行八十里 | |
04/18 | 乙亥 | 基扎堡 | 卯時:出発、申時:雙曷之 | 晴、行八十里 | |
04/19 | 丙子 | 鄂新河 | 卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里 | 晴 | |
04/20 | 丁丑 | 連山 | 连山 | 卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城 | 晴 |
04/21 | 戊寅 | 山海關十里外 | 山海关十里外李霞山台 | 黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所 | 晴風 |
04/22 | 己卯 | 山海關 | 山海关 | 平明:出発、入關門、初更:關門五里 | 晴風 |
04/23 | 庚辰 | 北山山麓 | 卯時:出発 | 朝晴晩雨、行十里 | |
04/24 | 辛巳 | 新河驛 | 新河驿 | 卯時:出発、宿:深河驛 | 晴風、行四十里 |
04/25 | 壬午 | 撫寧縣 | 抚宁县 | 卯時:出発、宿:撫寧縣城北 | 晴風、行六十里 |
04/26 | 癸未 | 昌黎縣 | 昌黎县 | 卯時:出発、宿:昌黎城南 | 晴、迤南行七十里 |
04/27 | 甲申 | 灤州 | 滦州河 | 卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里) | 晴、西行八十里 |
04/28 | 乙酉 | 開平衛 | 开平卫 | 卯時:出発、宿:開平城西十里 | 晴、行百十里 |
04/29 | 丙戌 | 玉田縣 | 玉田县 | 卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居 | 晴風、行軍百餘里 |
04/30 | 丁亥 | 公羅店 | 公罗店 | 卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里) | 晴、行軍七十里 |
05/01 | 戊子 | 通州 | 卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江 | 晴夜陰、行六十餘里 | |
05/02 | 己丑 | 燕京 | 待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿 | 晴 |
初二日 乙丑 晴
(中略)○清人待明行軍、我行人馬、飢餒馳行、已兩晝夜矣。世子隨後卽發、而上下飢甚、幾不得行矣。此去皇城三十里、而砲聲遠遠相聞、蓋先陣已入皇城。虛放城上大砲也。
5/2、晴。清人は夜が明けるのを待って行軍を開始した。昭顕世子一行の人馬はすでに二日間夜を空きっ腹を抱えたまま行軍していたので、世子に従ってすぐに出発したものの上下ともに飢えの極みだったのでまともに行軍出来る者が殆いなかった。皇城から30里の場所を過ぎると砲声が遠くから聞こえてきた。先陣はすでに皇城に入城したようだったので、城壁の上から空しく砲を放っていただけのようだ。
と言うわけで、運命の5/2です。清軍は空きっ腹を抱えながら夜明けには進軍を開始してます。よほどこの断食が応えたものか、ワザワザ本国にまでこの事を知らせていますxxiv。辛く長い行軍を経てようやくの北京です。瀋陽から出発したのが4/9ですからほぼ一月、山海関からの出発が4/22ですから10日ほどですか…時には1日100里ペースの殺人的な行軍でようやく昭顕世子一行は北京を肉眼で捕らえられる場所にまでやってきたのです。思えば遠くに来たものです。
辰時、清兵進迫城東五里許、都民處處屯聚、以迎軍兵、或持名帖來呈者有之。或門外設瓶花焚香以迎者亦有之矣。因聞山海之戰、流賊騎兵十萬・步兵二十萬出去、而戰敗之後、只餘六千餘騎生還。皇城宮闕公廨、燒毀殆盡、掠取帑藏金帛及宮女。載諸橐駞・騾馬、棄城南走、纔已數日云。八王・十王、因爲追逐。
朝(辰時)、清兵は北京城の東5里の距離に迫ってきた。都民は所々に集まり、ある者は名刺(名帖)を持参し、ある者は門外に花瓶に花を飾って香を焚いて清軍を出迎えた。山海関の戦いで流賊=李自成は騎兵10万、歩兵20万で出撃したが、敗戦してただ6千騎が生還しただけであったと皆聞いたからである。皇城、宮闕、官衙は殆ど焼き尽くされ、宝物財貨に宮女は奪われていた。(李自成達は)略奪品をラクダやラバに載せて北京を棄てて南方に逃走してからすでに数日経ったという。八王=アジゲと十王=ドドは李自成軍を追跡した。
明け方から行軍を開始した清軍を近隣の都民が歓迎したって記事デスね。李自成の時も同じような光景があったはずですから、この辺は新しい征服者がやってきた時の定例行事でしょう。宮廷の財宝はあらかた李自成に略奪された後だと言うことで、洪承疇あたりは報償のあてを持って行かれて悔しがったでしょうね…。しかし、清軍の行軍スピードもかなりものでしたが、考えて見ると李自成は山海関の敗戦後、清軍とほぼ同じルートを敗走して、北京に戻って財宝をかっさらって宮中に火をかけて逃げ出してから数日経ったということは、清軍より遙かに早いスピードで行軍したって事ですよね…。しかも、清軍が騎兵中心なのに対して、李自成軍の中核は歩兵だったハズです。まぁ、戻ってきたのは騎兵中心だったんでしょうけど。《明季北略》によると李自成の北京帰還は4/26ですがxxv、6千騎に減ったとは言え、流石に山海関から北京まで4日でかえってくるのは恐らく無理でしょう。一方、《朝鮮王朝実録》では清軍の薊州通過前後、つまり4/30前後に李自成残党から得た情報として、李自成は4/29夕方に北京から逃亡したxxviとしています。3日の違いですが、清朝が通らなかった幹線である永平大路を通って、山海関から北京まで6日ならまだあり得そうです(それでも相当な強行軍だと思いますが)。
となると、清軍の殺人的な行軍スピードは、李自成軍に追いついて北京に籠城させないためだったと考えるのが、多分一番しっくりくるんじゃないかと思います。急いでいるのに永平大路を避けて遠回りしたのは、おそらくはホンタイジ時代の確執から小競り合いなど不測の事態が起きて、却って行軍速度が落ちることを嫌ったのでしょう。それに、後で輜重隊が追いついたとしても、籠城戦をやるとなると兵站線が延びきってちぎれてる上に、当面占領政策として略奪して現地調達もできない清軍は分が悪いですしね…。
○巳時、九王入自城東門【朝陽門也】、世子亦隨行、而只許禁軍・譯官陪從、其餘員役、則清人攔阻不入、皆留置城外。都人盛陳儀仗諸具、以迎清兵。九王乘輦輿、以入闕內、灰燼之中、只有武英殿存焉。九王陞座御榻、受大小漢官之拜禮、慰諭居民、使之安業、流賊餘卒、散匿閭巷者、盡爲搜捕斬之、軍兵之出入民家者、論以斬律、城中避亂者、稍稍還集、宗室稱郡王者、年可二十許人、乃太宗後裔也。世襲王爵、在太原永寧府、爲流賊所執、山海之戰、清人得之、置在軍中。入城之日、都人見之、或有叩馬而流涕者。(後略)
昼前(巳時)、九王=ドルゴンは東門=朝陽門から北京に入城し、世子もそれに随行した。世子には禁軍と訳官のみが従い、その他の随員は清人に止められて北京城外に留め置かれた。北京の住民達は儀仗を並べ立てて清軍を迎えた。ドルゴンは輿に乗って紫禁城内に入り、灰燼と帰した宮殿の中でただ一つ焼け残った武英殿に向かい、玉座について百官の拝礼を受けた。住民を労って治安を回復するため、北京城内に隠れ潜んでいる流賊=李自成残党を見つけ次第これを斬った。北京城中から戦乱を避けて逃げていた者達も次第に戻ってきていた。また、明宗室の郡王を称する、年齢20位の人物がいた。明太宗=永樂帝の後裔だという。王爵を世襲し、太原永寧府に居たところ李自成軍に捕まり、山海関の戦いで清軍の捕虜となって軍中にいた。北京入城の日、北京の住民はこれを見てある者は馬を叩き、ある者は涙を流した。
と言うわけで、ようやく昭顕世子一行は北京にたどり着きました。長かった。ここでは特に昭顕世子がドルゴンに随行して北京に入城した旨明記されているので、ドルゴンの見た光景とほぼ変わらない風景が記録されていると考えて良いでしょう。武英殿…自分は北京オリンピック後に武英殿前まで行ったんですが、当時閉館してて中見たことないんですよね…。
で、李自成の残党狩りを命じつつ、ようやく思い出したように山海関で捕虜になった明の晋王について記述します。今まででも紹介するタイミングはあったはずですが、北京の民衆が故明の皇族が清朝の捕虜となって入城したことに対するリアクションを記載するのみです。晋王や明朝に対する記述は《朝鮮王朝実録》の記事と比べるとかなりドライな印象受けます。
(仁祖22年5月)甲午(7日)(中略)淸國付勑書于譯官之出來者,有曰(中略)晋王被我所獲。(中略)是時,我國與大明絶,不得相通,及聞此報,雖輿臺下賤,莫不驚駭隕淚。xxvii
そもそも、山海関の戦いの段階で晋王が清朝の捕虜になったことは、清朝から朝鮮王朝への報告書ですでに触れられています。知っていて昭顕世子一行の随員は晋王について記述する必要がないと判断していた様に思えます。《朝鮮王朝実録》と《昭顕瀋陽日記》の晋王と明朝に対する温度差は建前と本音みたいな対比に見えてしまいます。あるいはこの辺が、昭顕世子と後に対立する父親である仁祖の明・清に対する考え方が反映されているんでしょうかねぇ…。
と、5/2の状況については《朝鮮王朝実録》の記事の方が細かかったりするので、長いですけどちょっと引用して見てみましょう。
初二日早發而行,繞出皇城,九王以皇帝前所受黃儀仗前導,乘轎鼓吹而行,入自朝陽門,至闕門近處,則錦衣衛官,以皇帝屋車儀仗迎之。九王乘黃屋轎,排儀仗于前路,入自長安門,到武英殿下轎陞榻,以金瓜、玉節,羅列殿前。臣與九王幕官,列坐東西,招宦官,問賊中形勢、皇城失守之由,則曰:“流賊自二月念間,來圍皇城,以大砲、火箭,攻逼城中,而守城之兵,以累月不給餉米,皆無戰心,散處於外,未及入城,以一人守四五堞,不能抵當,皆棄城而走。賊遂梯城以入,皇帝與皇后自縊,太子及皇子三王被執。都民以皇帝皇后之喪,葬于北鎭山百里地。”云。xxviii
5/2は早朝から行軍して皇城=北京を練り回ったが、九王=ドルゴンは皇帝として北京城門の前で儀仗の先導を受けた。輿に乗って鼓吹を伴って行進し、朝陽門から入城して宮闕近くまで到ると、錦衣衞の官吏が皇帝用の屋車と儀仗で出迎えた。長安門から武英殿まで来て輿を下ろし、金爪・玉節を殿前に並べた。臣=昭顕世子はドルゴン幕下の官吏と東西に並んで座った。(ドルゴンは)宦官を招き寄せ、賊=李自成支配下の情勢と、北京逃亡の理由を問いただした。すると、「流賊=李自成は二月から、皇城を包囲した上で大砲や鉄砲などを使って攻めて城に迫りました。しかるに守備兵たちには毎月の糧食すら滞っており、みな戦意を失っていたので外に居た者はそのまま戻りませんでした。残った者は1人で4~5つの姫垣を守らなければならず、抵抗出来るわけがありませんから、みな城を棄てて逃げ出しました。賊は遂に城壁を越えて北京に入城し、皇帝陛下と皇后陛下は自害され、太子及び皇子三王は捉えられました。北京住民は皇帝と皇后の葬儀を行い、北鎮山(不明)百里の地に埋葬しました。」と。
賊旣入城,國號大順,改元永昌,稱皇帝者四十二日,欲收人心,禁止侵掠。及山海關敗歸之後,盡括城中財寶而去,以火藥燒殿宇、諸門,但不害人命。九王入城,都民燃香拱手,至有呼萬歲者。城中大小人員及宦官七八千人,亦皆投帖來拜。宮殿悉皆燒燼,唯武英殿巋然獨存,內外禁川玉石橋,亦宛然無缺。燒屋之燕,差池上下,蔽天而飛,春燕巢林之說,信不虛也。九王處臣于武英殿前廊,地窄人衆,告于九王,得殿東一室,比前稍寬,且有床卓、器仗矣。九王入城之後,使龍將等管門嚴禁,淸人及我國人,毋得出入,故淸人及臣行人馬,皆在城外矣。値淸人回瀋之便,忙遽之中,草草馳啓,不勝惶悚云。xxix
また、「賊はすでに北京に入城し、国号を大順として永昌と改元し、皇帝を称した42日間は民衆の関心を買うために略奪を禁じました。山海関の敗北から帰ると、城中の財宝をことごとく持ち去り、火薬を使って宮殿や城門を焼きましたが、人命を害することはありませんでした。九王が入城するや民衆は香を焚いて拱手して歓迎し、中には万歳を叫ぶ者まで現れました。」とも応えた。城中に居た大小の官吏や宦官7~8千人は、またもや皆投降して拝跪した。宮殿はみな焼き尽くされて、ただ武英殿のみが焼け残っていた。内外の御河や玉石の橋にも損傷はなかった。(中略)ドルゴンは武英殿の前廊で(故明の)諸臣と面会した。狭苦しい場所に人が集まったので、ドルゴンに武英殿東の一室に移るように進言する者が居た。場所を移すと、確かに前廊よりはもう少し広い場所で、椅子や机や儀仗も備え付けられていた。ドルゴンが入城した後、龍将=イングルダイらに城門の通好を厳しく管理させ、清人や朝鮮人は勝手に出入りさせなかったので、他の清軍や昭顕太子一行随行員達は皆城外に留まっていた。清人の瀋陽への伝令にこの状啓を託す。
なかなか臨場感ある記録ですね…。朝鮮本国に送った状啓=報告書を元にした記録でしょうね。気になるのは、李自成が皇帝を称した42日間は略奪を禁じていたとか、北京を去る時に財宝を持ち去り、宮殿と城門を火薬を使って焼き払ったけど、民衆を殺さなかった…というあたりですかね。《明季北略》の記述と矛盾がある気もしますが、略奪の対象は高官だけだったとか、裁判を行った後に財産を没収したから略奪じゃないなどの解釈は可能かと思います(苦しい解釈だと思いますが)。ただ、李自成が潰走した後の北京で、特に李自成に義理立てする必要もなさそうなタイミングでの発言なので妙に引っかかります。まぁ、この宦官が李自成に積極的に協力していたので、被害をわざと過小に評価しているという可能性もなくはないと思いますが。
あと、北京への道中でも見られましたが、住民との軋轢を回避するために軍を城外に留めて居るあたりですね。ドルゴンが最も信頼するイングルダイをその任に当てているあたり、本気度は高かったんじゃないでしょうか。城内に入れてしまえば清軍は略奪を行い、思わぬ反発を生むのは確実だと思っていたからの処置なんでしょうけど、占領軍の大将がほぼ身一つで占領地のど真ん中に滞在するのってどうなんでしょうかねぇ…。略奪を禁止しても自軍は必ず破るという絶対的自信がこういう不利を受け入れたんでしょうけど、よほど信頼なかったというかなんというか…。
何にしてもドルゴンの北京占領については手際がいいように感じていましたが、実態はかなり行き当たりばったりで、泥臭い行軍の連続なのにも関わらず、どうやら最初から明の旧領を本気で統治するつもりで細心に気を遣いながら進軍していた事が、今回の昭顕瀋陽日記や朝鮮王朝実録を調べて分かりました。何だろう、この大胆を通り越した博打的な展開と、妙に後々の展開を見据えたように的を射た統治理念の共存は…。
参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
《大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社
- (四月)辛巳(二十四日)。師次新河驛。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十四日。帅次新河驿。《清初内国史院满文档案譯编》P.8 [戻る]
- (仁祖22年5月)庚戌(23日)(中略)九王以下諸陣,大破流賊之後,已得破竹之勢,而且吳三桂先移文帖于前路州縣,使皆迎降。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)壬午(二十五日)。師次撫寧縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十五日。(中略)是日。帅次抚宁县。《清初内国史院满文档案譯编》P.9 [戻る]
- 翌日早發,不由永平大路,直向縣西下路而行,蓋以流賊往返之後,沿路無寸草,下路雖稍遠,取便喂馬之故也。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)癸未(二十六日)。師次昌黎縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十六日。帅次昌黎县。《清初内国史院满文档案譯编》P.9 [戻る]
- (四月)甲申(二十七日)。師次灤州。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十七日。帅次滦州河。《清初内国史院满文档案譯编》P.9 [戻る]
- 二十七日宿永平府灤河下流灤州之南。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)乙酉(二十八日)。師次開平衛。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十八日。帅次开平卫。《清初内国史院满文档案譯编》P.10 [戻る]
- 二十八日到開平衛城西十里地《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)丙戌(二十九日)。師次玉田縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 二十九日。帅次玉田县。《清初内国史院满文档案譯编》P.11 [戻る]
- 二十九日到玉田縣前《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)丁亥(三十日)。師次公羅店。《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
- 三十日。帅次公罗店(中略)。《清初内国史院满文档案譯编》P.11 [戻る]
- 三十日到薊州之南二十里地止宿《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 前在薊州,流賊百餘人來降言:“山海關見敗之後,知淸兵之來追,蒼黃收掠財貨、婦女,二十九日夕,以焇藥燒宮宇城門逃走。”云。仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 順治元年甲申。五月戊子朔。(中略)攝政和碩睿親王多爾袞師至通州。《大清世祖章皇帝實録》巻5 [戻る]
- 五月初一日涉通州江淺灘,夕至通州西二十里地止宿《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 臣蓐食而過,講院以下皆闕二日之食。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- (四月)二十六日癸未,自成回京《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末 [戻る]
- 前在薊州,流賊百餘人來降言:“山海關見敗之後,知淸兵之來追,蒼黃收掠財貨、婦女,二十九日夕,以焇藥燒宮宇城門逃走。”云。仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月 [戻る]
いつも楽しくブログを見させせていただいております。ところで某歴史系まとめサイトにて最近の史学の世界では鮮卑や匈奴などの北から侵入してきた遊牧民も漢民族とされており中国ほど単一の民族が君臨した国はないとされていていわゆる征服王朝説はだれも相手にしていないという話しがありましたが本当でしょうか? クソリプすみません
匿名様
気がつくの遅れてすみません。コメントありがとうございます。
最近の史学というより、中国共産党の建前としては匈奴も鮮卑も中華民族の祖先って事になるでしょうけど、漢民族とは明らかに違う民族でしょうね。ただ、匈奴や鮮卑をチュルク系だとかモンゴル系だとかいう分け方自体は最近熱心じゃないとは思います。
あと、征服王朝説が顧みられないのは単一の民族云々と言うことはないですね…。
自分の知らないところでそういう説があるかもしれませんが、少なくとも日本では一般的な説ではないですね。