順治元年、清朝北京に入る─昭顕世子の見た北京2
と言うわけで、前回に続いて朝鮮世子・昭顕世子日記の北京滞在部分です。今回は後半部分ですね。
十二日 己亥 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○八王・十王、追流賊、不及而還。
5月12日。晴。世子は北京に滞在。講院、薬房がお加減を確認したところ、問題ないとの仰せだった。八王=アジゲと十王=ドドが流賊=李自成を追跡したが、追いつかずに帰還した。
と言うことで、呉三桂については書かれてませんが、5月12日にアジゲとドドが北京に帰還したようです。この辺はアジゲとドドと名指ししているわけではありませんが、実録でも裏が取れますi。
十三日 庚子 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。○午時、移寓于館所。卽隆慶駙馬侯姓人第。亦廣仁街之西也。其宏傑、殆非閭里家所比、牆內有石假山、山上建一小閣、登臨可以俯瞰長安矣。
5月13日。晴。世子は北京に滞在。講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。午時=昼時に引っ越しして隆慶帝の駙馬の侯姓の人物の邸宅に居館を移した。(前に見た万煒の息子の邸宅と同じく)広仁街の西にあって、甚だ広いお屋敷だったが、周りには殆ど家がなかったii屋敷の造りは大層広く、田舎の家と比べることなど出来なかった。塀の中に築山があってその上に小さな建物があって、登ると長安街を俯瞰することが出来た。
と言うことで前回保留となっていた世子の邸宅選びの続きです。で、《明史》を見ると、隆慶帝の娘である寿陽公主が侯拱辰に降嫁しているのでiii、世子は侯拱辰の旧宅に移ったようです。朝鮮側でもこの人誰よ?って調べたみたいですが、王世貞の文集に載ってる侯拱辰だ!という事を突き止めたようですiv。まぁ、逆にこれ以外情報がないと言えばなかったみたいですが。
ただ、寿陽公主も万暦帝の妹で万暦9年に侯拱辰に降嫁しているので、万暦13年に降嫁した瑞安公主と万煒と条件はほぼ同じなんですが、方や隆慶の駙馬、方や万暦の駙馬とするところがスッキリいきません。《明史》によると瑞安公主のみが万暦帝の同母妹と記述されてるから、その辺を反映したのかしらんと思ったら、ネットで検索すると寿陽公主の墓誌銘が発掘されているらしく、そこには寿陽公主も万暦帝の同母妹とされているようなんですね。え~っと、やっぱり条件一緒やん!
と、いくらか脱線しましたが、何でかドルゴンは昭顕世子に立て続けに万暦帝の姉妹の嫁ぎ先のお屋敷を手配したことになります。ともあれ、屋敷も広いし眺めはいいしで侯氏のお屋敷は万煒の息子のお屋敷よりは使いやすかったんでしょうね。万煒の息子の屋敷が曲水園だったと仮定した場合、その近所にあると想定される侯拱辰の邸宅からは長安街まで結構な距離があるでしょうから、築山から見えるンだとしたらたら確かに壮観ですね。
十四日 辛丑 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。
5月14日。晴。世子は北京に滞在。講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。
十五日 壬寅 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。○清人有出瀋者、狀啟付送。【狀啟、王世子行次、本月初二日、攝政王一時、隨入北京之後、氣候安寧、入城之日、以衙門分付、只令譯官、禁軍陪從臣與他餘員役等、一切攔阻、使不得陪入、置在城外陣中。故初四日、清人出瀋、而末由探得往來、一行多少聞見之事、不得馳啟、極爲惶恐、清人入城之後、軍機甚密、凡干多少處置之舉、未能一一詳聞、大槩漢官之續續投來者、並爲仍舊察任。而亦以清人使之攝察云云。清兵趕逐流賊、至保定府、人馬瘦困、不得逐及、十二日回還入城。流賊騎兵、尚有六七萬、遁向山東、而所掠金銀輕寶。則疾馳搬運、已在軍前、清兵尾擊、只獲宮女百餘人・彩段七萬餘匹、奪來云云。皇子八歲兒一人、被執於流賊・置在軍中、一時率去云云。皇帝・皇后、則遇害之後、都民收厝於去皇城百里許北鎮山、有清人分付後、當爲改葬云云。諸王・諸將、分給家舍、世子所館處、亦爲定給、本月十三日、已爲移寓、而處所狹窄、許多人馬、容接極難、在城外員役・軍兵、纔得入城陪衛、而蒭糧罄竭、人馬俱飢、自衙門若干給料、而名曰老米、陳腐無比、觸手飛屑、糖土居半、人不堪飢乏、一番糊口、則腹痛輒作、病臥相繼、自行中艱難、拮據以救目前之急、而些少行資、亦已竭盡、萬無可繼之路、出還遲速、杳然莫知、前頭之事、極爲悶慮云云。】
5月15日。晴。世子は北京に滞在。講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。清人に瀋陽に行くという者が居たので、状啓を託した。状啓の内容は以下の通り⇒「王世子は今月2日に摂政王=ドルゴンに従って北京に入城した後、衙門の言いつけで翻訳官だけを従えて、禁軍や從臣その他の付き人の随行は一切許されず、城外の陣中で待たされた。なので、4日には瀋陽に行く清人が居たが、世子との往来も少なく、一行の得られた少ない情報で状啓は書けなかった。おそらく、清人が北京に入城した後は軍事機密の管理が厳重になったようで、細かいことを一々詳しく聞けなくなった。旧明の官吏が続々投降し、大体の官吏は前職のまま採用されたが、中には清人の仕事を代行させているとか何とか…。清軍は流賊=李自成を即座に追撃したが、保定府まで来た所で人馬の体力が尽きたので追い切れずに、12日には北京に帰ってきた。李自成の騎兵はなお6~7万ほどいて、山東方面に退却して、現地で金銀や持ち運べる財宝を略奪している。早く持ち去れるように軍の前に略奪品を運ばせているので、清軍が追撃したが宮女百余人を捕獲し、錦布7万余匹を奪って来ただけだったとか何とか…。八歳児の皇子一人が李自成軍に捉えられており、退却をともにしているとか何とか…。皇帝、皇后が自害された後、北京の民衆が亡骸を北京から百里離れた北鎮山に葬ったが、清人から指図を受けて改葬するとか何とか…。諸王、諸将は屋敷を支給され、世子の館も支給された。今月13日にすでに引っ越しを終えたが、手狭なので城外に居る從臣や禁軍の人馬をすべて受け入れるのは非常に困難で、世子の護衛兵を入城させるのがやっとだった。食料も枯渇しているため、人馬はともに飢えている。衙門から若干の支給はあるものの、触るとクズが舞い散る糠と土が混じったような古米で干からびている。人々は飢えに耐えかね、古米を粥にして空腹を凌ごうとしたが、食べると腹痛を起こしたり、病気で床に伏せる者が続出し、歩けるのがやっとという者ばかり。目先のトラブルに対応するだけで資金も底をついて希望も見いだせないので、早く瀋陽に帰りたいが先のことは全く分からないので、悶々としているとか何とか…。」
と言うわけで、北京陥落から二週間経とうというタイミングで、ようやく朝鮮本国への報告書である状啓を瀋陽に帰る清人に託せたと言うことのようです。
5月4日云々という言い訳から入るのですが、これだけだと何のこっちゃですが、《朝鮮王朝実録》の同年5月庚戌(23日)の項を見ると、この状啓についてはどうやら従者ではなく世子が自分で筆を執って直接状啓を送っていたようですね。
(仁祖22年5月)庚戌(23日)(中略)世子遣禁軍洪繼立,以手書馳啓曰:v
世子が直接状啓(報告書)をしたため、禁軍の兵士を派遣して漢城府に状啓を送ったわけです。本来は随行の文官の職務である状啓の作成を果たせず、世子の手を煩わせたわけでそりゃまぁ言い訳から入るのもしょうがないですね。この時も5月4日?に出発した洪継立は12日後の5月16日に瀋陽を経由してvi、その7日後の5月23日に漢城府の仁祖に報告していますから、この時の北京から漢城までの所要時間は19日ですね。
でも、5月4日には文官が瀋陽に行く清人を見かけただけで、この清人が世子の状啓を託された訳ではないかもしれませんが、そうそう使者が往復してたわけではないでしょうし、言い訳の文章から入っているので、とりあえず5月4日に状啓を携えた使者が出発したこととしましょう。
話戻って5月15日に送った状啓が漢城府の仁祖の元に着いた記事も《朝鮮王朝実録》にあります。
(仁祖22年6月)戊午(2日)文學李䅘馳啓曰:“淸人入北京之後,事機甚密,不能詳知,而槪聞,漢官連續來投者,姑令仍察舊任,而又使淸人摠攝,人民之在城中,盡令剃頭。淸兵之追擊流賊者,至保定府,人馬疲困,不能追及,只得所棄宮女百餘人,彩段數萬匹而還,賊兵尙有六七萬,遁向山西,皇子八歲兒,被執於流賊,留置軍中云。以大家一區,定爲世子所館處,卽隆慶皇帝駙馬侯姓人家也。以五月十三日移寓,諸從者及軍兵等始許入城陪衛,而公私儲積,蕩然無餘,芻糧俱乏,人馬飢餒。自衙門給以若干料米,糠土居半,觸手作屑,不堪糊口,食輒腹痛。蒙古兵則許皆姑還,使之及秋來會,大擧南侵云。所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。”vii
5月15日に北京から出した状啓が9日後の5月24日に瀋陽を経由してviii、その7日後の6月2日には漢城の仁祖の元に着いてます。順治元(1644)年5月は小の月で29日までですから所要日程は16日ですかね。5月4日時点よりは3日短縮されてます。瀋陽⇒漢城間は7日間で安定していますが、北京⇒瀋陽間は混乱があったんでしょうかねぇ…。戦時体制下であることを考えると早いんですかね。で、この状啓は《昭顕瀋陽日記》の5月8日の条に北京に入城したことで名前が見える、文学・李䅘がこの状啓の報告者だったようです。と言うことで本来は随行の文官が状啓の報告者としての職務をになっていたと言うことです。
内容については《昭顕瀋陽日記》の当該記事より簡潔になってたりニュアンスが違う気もする部分もありますが、だいたい内容的には大きな違いはないですね。ただ、この時点で北京城内で薙髪令が施行されていたことix、モンゴル兵が皆帰還する許可を得たが、秋にはまた従軍、大挙して南方に侵攻する予定だという噂があるとかx、昭顕世子があてがわれた屋敷の元の持ち主侯某というのは、王世貞の文集に載っている侯拱辰の事だろうxi等など、日記の方に記述がないことも補足もされてますね。
状啓に関しては双方正確に記録していない可能性はあるんでしょうけど、一カ所見逃せない食い違いがあります。李自成軍が逃げた先が山東ではなく山西になっている箇所xiiです。李自成が逃げた先が山東と山西じゃずいぶんと違います。実際の進路を見ると李自成は保定府経由で山西⇒陝西と逃走したので、結果として山西に向かったと言うのが正しいんでしょうけど、山東方面に向かったと言う情報が当時あったのかもしれません。《昭顕瀋陽日記》の影印を確認したところ、当該箇所は確かに山東になっていました。
十六日 癸卯 晴
世子留北京。○領兵將南斗爀、以衙門分付、率軍兵、入屯於玉河館。【是日、有此後勿爲問安之令。】
5月16日、晴。世子は北京に滞在。領兵将・南斗爀が衙門に割り振られて軍兵を率いて玉河館に駐屯した。この日から問安の令(⇒世子へのご機嫌伺い?)を取りやめた。
と言うわけで、北京入城してから2週間後にようやく朝鮮軍が北京に入城しています。玉河館は明代からの朝鮮の外交施設で場所としては現在の東交民巷のあたりにあったようです。別名、朝鮮館、高麗館。《乾隆京城全図》で検索するとこの辺です⇒№2680高麗館。
どうやら、玉河館は焼け残っていたようですから、大使館のような外交施設があるなら世子もそこに入ればいいじゃない!と思うんですが、これも高貴な人に粗末な役所を使わせるわけには行かない!って事なんでしょうかね。順治年間にはまだ朝鮮使節が使用していた玉河館ですが、その後ロシア使節に占拠されて追い出されたようですxiii。というか、どうやら清朝は玉河館≒会同館は特定の国に貸し与えて居るわけではなく、派遣された外交使節の滞在施設として共同で貸し与えていたんじゃないかと。比較的人数が多かった朝鮮が慣例で使用していた玉河館を、その後交流が活発になったロシアが多数を占めるようになった…ので、他にも北京に大使館的施設を所有していた朝鮮が追い出された…という感じだったんでしょうね。
十七日 甲辰 晴
世子留北京。○蒙古王弟、來謁辭歸、饋茶果以送。
5月17日、晴。世子は北京に滞在。モンゴルの王弟が別れを告げに挨拶に来たので、茶菓を選別に渡した。
つい先週までは粥で飢えを凌いでいた朝鮮一行も、選別の品を送れるくらい支給を受けていたようですね。と同時に、5月15日段階の朝鮮に着いた状啓に書かれていたモンゴル軍の帰還は割と直近のことだったんですね。
十八日 乙巳 晴夕乍雨
世子留北京。○世子陪衛炮手一百三十四名・領兵所率六百名、九王賞賜有差。【領兵彩段一百疋、偏將四十疋、軍兵各二十疋、錢文則毎名六貫分給。】
5月18日、晴、夕方から雨。世子は北京に滞在。世子は砲手134名と兵600名を連れて九王=ドルゴンに謁見し、論功行賞を行った。領兵は錦100疋、偏将は40疋、兵はそれぞれ20疋、銭はそれぞれに6貫が支給された。
城外に駐屯していた禁軍及び砲兵を引き連れて世子はドルゴンに謁見したようですね。それぞれに下賜された物品をちゃんと記してあるのはありがたい限りです。
十九日 丙午 晴
世子留北京。
5月19日、晴。世子は北京に滞在。
二十日 丁未 晴
世子留北京。
5月20日、晴。世子は北京に滞在。
二十一日 戊申 晴
世子留北京。
5月20日、晴。世子は北京に滞在。
ここ三日ほど平穏無事だったようですね。ところが翌日から急転直下です。
二十二日 己酉 晴
世子留北京。○世子早朝、往候于武英殿、見龍將。言及出還瀋陽之意。龍將答曰、當報知九王前云。差晚、世子更見、則龍將曰、以分綵軍兵事、無暇報知。明早圖之云云。
5月22日、世子は北京に滞在。世子は早朝、武英殿にご機嫌伺いに行き、龍将=イングルダイに謁見し、瀋陽への帰還願いを申し出た。イングルダイは九王=ドルゴンに必ずお伝えすると答えた。晩に差し掛かり、世子がもう一度謁見すると、イングルダイは論功行賞に手間取って、知らせる暇がなかったので明朝早い時間にお伝えすると言った。
北京入城から20日経った段階で、世子からイングルダイを取次にしてドルゴンに対して帰還願いを出したようですね。モンゴルも帰ったし、わし等も瀋陽に返してや!と言うわけでしょう。早朝に武英殿まで行ったのにドルゴンに会えなかった理由が報償の分配に時間を食ったというのはありそうです。先に朝鮮軍に分配していますから、やはり優遇されるように感じます。
二十三日 庚戌 晴
世子留北京。○世子朝進武英殿、見龍將、則龍將曰、九王前、言及世子出瀋之事、九王許令、明日出還、而八月當爲入來云云。
5月23日、晴。世子は北京に滞在。世子は朝から武英殿に行き、イングルダイに謁見した。イングルダイがドルゴンに世子の瀋陽への帰還についてお伺いを立てたところ、ドルゴンは明日瀋陽への出発を許可して、八月にまた帰還するよう指示した。
帰還申請後翌日に許可が下りてます。え?てっきり何のかんの戦時中で処理が追いつかないとか、そもそもまだ北京の支配が安定したわけではないとか何とか言って引き延ばされるものだと思ってたら即決ですね。判断速すぎでは…。しかも、許可翌日に出発指示とかスピード感ありすぎです。流石に何の記述も無い3日間の間に駆け引きがあったんじゃないかと疑いたくなりますが、史料上は申請翌日に即認可、翌日出発の驚くべきスピード決済です。素晴らしい。
世子の瀋陽への帰還なり、朝鮮への帰国なりは、6月7日時点に漢城府に来た清朝使節に対して要請したようですが、間に入った翻訳官からは時期尚早と諫められてますxiv。実際にはそれよりも2週間以前の5月23日時点で帰還申請が認可されているわけですね…。この段階では一旦瀋陽に帰還した後、8月の遷都に合わせて北京に来るように指示されていますが、最終的には世子は瀋陽に帰り、8月に順治帝の遷都の行列を見送ったもののこれに同行せずに翌年帰国しています。ドルゴンなりの論功行賞だったのではないかと自分は思います。
二十四日 辛亥 晴
世子留北京。○世子朝早、往候武英殿、龍將更稟世子出瀋之意、九王許令、今日出去、八月間皇帝入來時、率嬪宮・大君、一時入來云。○早食後、世子臨發、衙譯來言、一行員役、皆來領賞。世子率陪從、進去衙門、員役三十六人、各給彩段十五匹、拜謝于武英殿門外。【當初、衙門只錄三十六人而去、放給以此數、世子還館所、他員役之不得受者、以此分給有差、至於軍牢輩、俱得參焉。】○午時、世子發行、出自東門。申時、至通州城東十里許江邊、止宿。內官・司禦・宣傳官・禁軍以下落留者、并錄于下。(中略)○皇帝・固山額眞、領率甲軍之還瀋者、世子一時出來、軍兵之數、十餘萬云、而蒙人居多焉。領兵將南斗爀軍兵、亦爲出還、而直向山海關大路而行。
5月24日、晴。世子は北京に滞在。世子は早朝に武英殿に赴いて、イングルダイに再度瀋陽帰還願いを申し出たところドルゴンはこれを許可し、本日出発して八月に皇帝が北京入城する際に妻子(嬪宮)や兄弟(大君)を引き連れて来るようにと付け加えた。
朝食後に世子が出発準備をしていると、衙門付きの翻訳官が来て、一行の役職についている者は皆、衙門に立ち寄って報償を貰うようにと伝言した。世子は随員を引き連れて衙門に行くと、役職についている36名に対して各々錦15疋が支給され、武英殿門外で拝謁して謝意を伝えた。当初は衙門では36名が随員として登録されていたので36名分が支給されたが、世子が居館に帰ると登録から漏れて報償に預かれなかった随員が居たので、俸給に格差が出てしまった。特に軍属の輩は5月18日下賜分と併せて二度も報償を受け取っていた。
昼頃(午時)、世子一行は東門(朝陽門?)から出発した。
昼過ぎ(申時)、通州城から東へ10里の川辺に到着したのでここに宿泊することにした。文官、軍属で行軍途中に脱落した者は以下の通り(省略します)。皇帝やグサ・エジェンの命令で軍を引き連れて世子のように瀋陽に一時的に帰る兵は十余万と言う噂だ。内訳としてはモンゴル人が多い。領兵將・南斗爀が引き連れている軍は山海関大路を直行した。
と言うことで、世子一行は3週間程度の北京滞在の後、瀋陽に向けて出発しました。報償を受け取れなかった随員は一体どれくらいいたのか気にはなりますが、報償の有無や差が道中のトラブルの種にならなければいいんですがねぇ。で、半日で通州近くまで進み、宿泊します。宿を取ったというよりは野営を張ったという感じでしょうかねぇ。朝鮮軍が山海関大路を直行するのを横目に世子一行は別ルートを進むようです。
と言うわけで、無事世子一行が北京を出発したので、以降は次回に回します。
参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社
劉侗・于奕正《帝都景物畧》北京古籍出版社
于敏中《日下舊聞考》北京古籍出版社
《京師五城坊巷衚衕集・京師坊巷志稿》北京古籍出版社
《大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
- (順治元年五月)○己亥(十二日)(中略)○追擊賊兵之諸王貝勒等還京。遣大學士范文程等、迎勞之。王等入城。謁攝政和碩睿親王。行三跪九叩頭禮。《世祖章皇帝實錄》卷之五 [戻る]
- この辺、特に訳に自信ないです⇒遊牧民先生からご指摘があったので訳の参考にしました [戻る]
- 壽陽公主,萬曆九年下嫁侯拱辰。國本議起,拱辰掌宗人府,亦具疏力爭。卒贈太傅,諡榮康。⇒《明史》卷一百二十一 列傳第九 公主 穆宗六女 [戻る]
- 以大家一區,定爲世子所館處,卽隆慶皇帝駙馬侯姓人家也。以五月十三日移寓(中略)所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。⇒《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 二十二年 六月 [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 [戻る]
- (五月)十六日 癸卯 朝陰午晴(中略)禁軍洪季立、内書・狀啟陪持出来。⇒《昭顕瀋陽日記》甲午年五月[宣和堂註:禁軍の洪繼立が洪季立になっているのが気になるモノの、どちらかが誤記したモノとと考える] [戻る]
- 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 二十二年 六月 [戻る]
- (五月)二十四日 辛亥 晴風 衙門招、司書詣通政院、則鄭譯出給行中内書・文學李䅘狀啟、而諸文書皆析見後傳付。⇒《昭顕瀋陽日記》甲午年五月 [戻る]
- 人民之在城中,盡令剃頭。 [戻る]
- 蒙古兵則許皆姑還,使之及秋來會,大擧南侵云。 [戻る]
- 所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。 [戻る]
- 賊兵尙有六七萬,遁向山西 [戻る]
- 順治初。設朝鮮使邸于玉河西畔。稱玉河館。後爲鄂羅斯所占。鄂羅斯。所謂大鼻㺚子。最凶悍。淸人不能制。⇒朴趾源《熱河日記》巻4 關関内程史 八月初一日丁未 [戻る]
- (仁祖22年6月)癸亥(7日)領議政金瑬、領中樞府事沈悅率百官,將呈文于淸使,請還世子,先使譯官,微通于卞蘭,蘭答曰:“淸人雖得北京,中原猶未底平,宜待事定,別遣大臣以請之。今日發言,恐爲太早計也。且勑使之行,專爲報喜,如此等事,非其所幹也。”蘭遂不出見,諸官不得呈而退。⇒《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 [戻る]