決戦山海関─モンゴル档案から見た順治元年

 清初ハルハ部の事を調べいて、《清内秘书院蒙古文档案汇编》という資料集が出ていることを知りました。しかし、モンゴル文の影印版かつ七冊の大部と知って自分の能力を超える明らかなオーバースペックに尻込みしていたところ、《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》というダイジェスト漢訳版が出ていることを知りスルッと購入してみました。で、サラサラ流し読みしていたところ、以下のような記事が目に入ったので、とりあえずメモです。

02-01-04 理藩院以吴三桂降清山海关大捷奉旨晓谕外藩蒙古诸王公台吉等书
顺治元年五月初二日
 钦奉谕旨理藩院晓谕外藩蒙古诸王公台吉等。摄政王、和硕睿亲王多尔衮统率大军伐明,四月二十八日奏报歼敌捷音。臣谨奏:四月十三日,明国总兵官吴三桂派来副将杨新、尤革库、玉龙等言,流贼之兵已经攻占北京。我崇祯帝、大皇后缢死。流贼头目李自成于三月二十二日即帝位,其国号曰大顺,年号曰永昌。曾经常派人招降吴三桂,则吴三桂不从,自宁远领军民、家属、牲畜等从永平府回返留守山海关,并遣人来说今归服尔,为皇上报仇云云。遂让其所遣之人赉书先去。我立即急忙连夜前往。四月二十一日,流贼头目李自成亲率二十余万马歩兵,并强行携领崇祯帝之太子朱司兆、三子定王、四子等三个儿子以及崇祯帝宗族山西所属太原府晋王朱新隽、潞安府秦王、陕西西安府秦王朱孙基、平阳府汉王朱少涛、郡王西德王、尚令王、三音王、吴三桂之父吴襄等,派人去催促吴三桂投降而吴三桂不从。故围攻山海关城墙,投降流贼总兵官唐通率领马歩军自山海关城墙之益边西角而出堵截去路布阵。那夜遇到唐通几百个骑兵,杀死一百来个人。当天夜里唐通之兵卒,由海关城墙进入逃跑。明日我大军至海关城墙,吴三桂即即开城门投降。我军由前水门、后水门及城墙中门进去视看,流贼头目李自成亲率二十余万马歩军,其行伍一头伸张至北面之山,另一头延伸至南边大海布列战阵。又那天刮起飓风,尖土飞扬,看不清任何东西,我军摆好战阵一看,对方士兵延伸至大海,比我们还多。我召集我诸王、贝勒、贝子、台吉纳尔、诸公及诸固山额真、掌管旗帜之诸章京,对他们说:“尔等不得前后侵攻。不得与此兵轻易交战,各自必须谨慎小心。若能战胜此(敌人)则就如同立即开创基业一样。我军与对方延伸至大海之军阵布列看齐,由我右翼兵之边与吴总兵官兵马布列看齐。由于地方太远,故军号音声听不见。从我身旁发喊时尔等越发大声喊。两次齐喊时大家并列让马使颠,各自突击。”如此训话之后,遂派去。遂我军先整齐布列军阵之后,当两度大喊进攻时,大风开始趋于平静,遂各自战胜对方兵马,追击至四十里地之远,杀得他们前迎后合。生擒太原府朱新隽。流贼头目所站地方正好与我整个镶黄旗(军马)所在地正面对峙。当击溃此敌兵时,科尔泌右翼土谢图亲王带有一千个士兵,左翼士兵一百来个,土黙特两旗兵马、固伦公主士兵来迎战。除此之外,其他外藩蒙古兵马未至。今我大军与总兵吴三桂马歩兵军以及取得红衣炮前往北京。为晓谕天佑捷音喜讯而领发此书。i

 と言うわけで、理藩院が作成した山海関の戦捷報告のモンゴル文です。原文はモンゴル語だからか、結構な分量があります。この報告については、《世祖実録》5月1日の条に朝鮮王朝外藩モンゴル…つまり、南モンゴル清朝に帰服した有力者に山海関での戦勝報告を行ったことが記事にありますiiモンゴル文の档案とは日付に1日のズレがあるのは気になりますが、作成を命じたのが5月1日、完成したのが5月2日と考えれば、ほぼほぼ問題はないかなと。

 さて、肝心の内容については、
瀋陽山海関の戦いの報告は4月28日に瀋陽にもたらされた。
呉三桂は一旦永平府まで進軍して北京陥落を知って山海関に引き返した。
唐通山海関の西角(一片石関?)から進入した兵力は数百騎ほどで、内百騎ほどが討ち取られた。
などなど、気になることが書いてあります。
 更に興味深いのが山海関の戦いについての記事デス。ちょっと長めですが訳しましょう。
 明日(4月22日)、我が軍は山海関城壁に到着し、呉三桂は城門を開け放って投降した。我が軍は前水門後水門及び山海関城壁正門から入城したところ、流賊の頭目・李自成は自ら二十余万の騎・歩兵を率いて、北側は山まで隊列を布陣しており、もう一方の南側は大海にまで陣列が伸びていた。また、この日は悪天候で風が強く、砂を巻き上げられて視界が悪かった。我が軍は有利な場所に戦陣を敷けたが、敵軍は南方の海まで布陣が伸びている上に(つまり間断なく包囲されている)、(呉三桂軍と併せても)我が軍よりもまだ兵力が多かった。私(ドルゴン)は諸ベイレベイセタイジノヤン、諸及び諸グサ・エジェン、旗を掌管するジャンギンを召集して「卿等は抜け駆けせず、軽々しく交戦せず、各自軽挙を慎み注意深くするように。もし、敵軍に大勝出来ればこれは創業の大功と同等の戦功である。一方では我が軍も敵軍も布陣が海まで伸びており、我軍の右翼端と呉三桂軍の陣は遠く離れている。それ故に軍令の声は聞こえても何も見えない。まず、我が陣より大声で号令を発するので、卿等はより大声で号令を返し、二度目に号令が聞こえたら各自隊列を乱さずに順次突撃せよ」と指示して、(呼び出した指揮官達を)各自自陣に戻らせた。我が軍は陣形を整え終えると号令を二度返し攻撃を開始した。すると、風が止んで静かになり(視界が開け)各自目前の敵を各々打ち破り、40里も遠方まで追撃して散々に敵軍を屠った。太原府朱新隽(=晋王)を生け捕りにした。流賊の頭目(=李自成)は我が軍の鑲黄旗正面に布陣していた(つまり、皇帝直轄軍が敵本軍を打ち破った)。敵軍を潰滅させた戦闘では、ホルチン右翼のトゥシェート親王の1千騎、左翼1百騎、トゥメト両旗の兵馬、グルン公主の士兵が参戦したが、その他のモンゴルの兵馬は間に合わなかった…。
 という感じの内容です。特に最後の段にモンゴルの援軍の内訳を記しているのは、山海関に援軍を出さなかった有力者へのプレッシャーでしょうね…。ホルチン右翼トゥシェート親王は一代目トシェート親王バタリのことでしょう。ホルチン左翼順治帝の生母である孝荘文皇后の生家のあるジョリクト親王家も属しているのですが、当時の当主で孝荘文皇后の実兄であるウクシャンに言及がないのはどうしたことでしょうかね…。トゥメト部については中期にはこの進軍コースが遊牧テリトリーだったようなので、遊牧地が替わっていなければ兵を出さざるを得ない状況ではあったハズです。
 で、問題のグルン公主(=固伦公主)の兵ですが…候補は2名居ます。順治元年当時に、モンゴルに嫁いだ公主は、アオハンバンダイに嫁いでいたホーゲの12歳年下の同母妹であるアオハン・グルン公主。もう一人が孝端文皇后ジェレの娘でチャハルエジェイに嫁いだマガタです。しかし、アオハン部のバンダイ順治年間ドドテンギス追撃戦に加わっているので、順治元年当時まだ在世中ですから、もしもアオハン部の兵を指すならバンダイの兵と書くはずです。従ってこの兵は、崇徳6年にエジェイが他界して順治2年にエジェイの弟であるアブナイに再嫁するまで未亡人であった固倫温荘長公主マガタ所属のチャハル部の兵力を指していると考えられます。《欽定外藩蒙古回部王公表伝》をパラ見する限り、モンゴルの援軍はこれだけではなささそうなんで、また暇があったら確認します。
 ともあれ、いずれにしろ、瀋陽出発時にモンゴル諸公の名前がないことから、瀋陽に集合する予定はなく、清朝八旗本隊の進軍中にモンゴルの援軍が合流して北京を衝く構想だったと考えた方が自然です。であれば、準備して期日通りに集合場所に居たとしても、モンゴル諸公のなかには清朝本隊合流出来なかった勢力もあっただろうに、恨みがましくおまえ等援軍よこさんかったやろ!と詰問される覚えはないだろうなぁ…と同情してしまいました。この辺、モンゴル諸公は元々の作戦が変更になったことを急に伝えられた関ヶ原合戦の徳川秀忠みたいな立場だったんじゃないかと思います。

 ところで、朝鮮王朝にもこの山海関の戦いの戦勝報告は伝えられたことが確認出来ます。

(仁祖22年5月7日)甲午(中略)
○鳳林大君還自瀋陽。(中略)
○文學李䅘馳啓曰:“世子之行,自發瀋陽,連日作行,十五日早發,隨至山海關。摠兵吳三桂遣將官二人,請兵于九王曰:‘皇城爲流賊所陷,皇帝自縊,后妃以下皆自焚。關內諸城,盡皆見陷,惟山海關獨存,朝暮且急,約與貴國致討。’云。二十日到錦州城西止宿,漢人又來告急,淸兵遂疾馳,二十二日朝,進迫關門,吳將率諸將出城,納降開門迎入,則漢人已與賊兵接戰于關內數里許大野中,淸兵直衝賊陣,一食之頃,僵屍蔽野,賊皆奔北,追殺于海口。至夜還陣關內五里許,二十三日朝,行軍直向北京云。世子則常在九王陣中,交兵之際,亦不得出陣。領兵將朴翰男領錦州軍五百五十四人,到寧遠衛,以九王之令,使軍官金忠壽,先率善放砲手一百人,二十二日已到山海關矣。”
○淸國付勑書于譯官之出來者,有曰:
四月十三日,有明總兵官吳三桂,差副將楊新、遊擊柯遇隆,至軍請降言:“流賊已尅北京,崇禎皇帝及后俱自縊。賊酋李志誠,三月二十三日卽位稱帝,國號大順,建元永昌。屢差人招吳揔兵,吳揔兵不從,率家屬及寧遠兵民,堅守山海關,欲附淸國,以報故主之仇。”云。九王答書付來官,許以裂土封王,遂兼程前進,二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬,執崇禎太子朱慈照、竝其第二、第四子及太原府晋王、潞安府瀋王,西安府秦王、平凉府韓王,又有西德王、襄陵王、山陰王及吳三桂之父吳襄於陣前,欲降三桂。三桂不降,賊恐奔投我國,差僞摠兵官唐通,率兵數百,從一片石出,要截其路。是晩遇我前鋒,殺死百餘,唐通夜遁入關。次日吳三桂開關出降,我兵入關,正値賊兵陣於關前,北至山南至海。時値大風,塵土飛揚,對面不相識。而賊兵多近海,九王向海迎敵,吳揔兵隨右側布陣進兵,大風卽止,不意直抵賊營,敗其兵,追殺四十餘里,橫屍遍野,晋王被我所獲。今大兵帶神威大將軍砲兵及吳揔兵馬、步兵前驅北京,故諭。
是時,我國與大明絶,不得相通,及聞此報,雖輿臺下賤,莫不驚駭隕淚。 iii

 モンゴル档案の漢語訳は《朝鮮実録》と比較すると、固有名詞についてはかなり不安が残りますね…iv。このあたりは翻訳の精度の信用性にも関わりますが…。

 それはさておき、最初、この記事を読んで 鳳林大君瀋陽から勅書昭顕世子のお付きである文学・李䅘からの状啓を携えて漢城に帰還したんだと思ったんですが、《昭顕瀋陽日記》の方を確認すると、勅書は愚か状啓よりも先に鳳林大君が出発していることが判明します。今までネタにしてた昭顕世子の従軍日記は〈西行日記〉として巻末に付された番外編です。瀋陽館の記録の方が実はメインなので、瀋陽の様子を定点観測するには、本文を当たる方が適切です。

(甲申年四月)十一日 戊辰 晴
(中略)○鳳林大君并夫人行次,離發館中,止宿於野坂.v

 ということで、こんな記事があるわけです。鳳林大君は夫人を伴って4月11日に瀋陽を出発して、ゆるゆると5月7日に漢城に到着したようですね。

 一方、山海関の戦勝が瀋陽にもたらされたのは、モンゴル档案にもあったように、4月28日だったようです。

(甲申年四月)二十八日 乙酉 晴
 申時八門撃鼓,留鎭王,會于大衙門.講院因衙譯言,随大君進去,則清人自陣上来傳蒙書一道.所謂博士者釋言,流賊於二月間,已陥皇城,以兵進攻山海關.寧遠總兵呉三桂與清將相約,今月二十二日,開關門引入,遇賊大戰得捷,故送人來狀云.(後略)vi

 これを見ると、瀋陽にもたらされた山海関の戦いの戦勝報告第一報はモンゴル文の文章であったようで、モンゴル語の出来るバクシが訳して、瀋陽で留守番をしていた要人達に披露したようですね。そりゃモンゴル文がオリジナルで、文がその訳出された文章ならモンゴル語の報告書の方が細かいのも納得です。

 で、やはり5月1日にこういう記事があります。

(甲申年)五月初一日 戊子 晴
(中略)○邊難以衙門意來言,西行得捷事,當送勅書,陪持人差出云.禁軍呉孝立・軍牢一名定送内書及宰臣狀啓,文學李䅘狀啓并付送.(後略)vii

 戦勝報告の勅書を送るように清朝から指示があったこと、更に《朝鮮実録》にもあった文學・李䅘状啓の他に瀋陽館からの状啓も使者に持たせた事が書いてあります。案外裏が取れるもんなんすなぁ…。

 と、ここまで来て、なんだか最初に紹介したモンゴル文の訳に似たような文章見たような気がするけどどこだったかなぁ…と思いつつ《清初内国史院满文档案译编》をペラッと捲ったらやっぱり同じ文章ありましたね…。

顺治元年五月
 五月初一日。皇帝钦谕朝鲜国王李宗viii曰:朕命摄政王和硕睿亲王持奉命大将军之印,率大军西征明国。摄政和硕睿亲王于四月二十八日奏曰:四月十三日,明总兵吴三桂遣副将杨珅、游擊郭云龙来禀:流贼已陥燕京,崇祯帝后自缢。贼首李自成于三月二十二日僭称帝,国号大顺,改元永昌,又遣人招降吴三桂。三桂不从,遂自宁远取其家口,率军民自永平府返据山海关,欲来投,为崇祯帝报仇。遂谕其使曰:若来投,即裂地封王。谕毕,今赉书而去。臣即星夜前往,于四月二十一日抵山海关,値贼首李自成亲率马歩兵二十余万,挟崇祯帝太子朱慈烺、第三子定王、第四子等三子、以及崇祯宗室山西太原府晋王朱审煊、潞安府秦王、陕西省西安府秦王朱顺吉、平阳府汉王朱劭道、郡王绥德王、襄陵王、山阴王、并吴三桂父吴襄倶来,招三桂降,三桂不从,贼遂即围山海关。流贼总兵叛将唐通率马歩兵,于山海关外一片石列阵。是晩,遇贼总兵唐通马兵数百余人,唐通兵马遂遁往山海关。次日,大军直薄山海关,吴三桂开门迎降,我军遂从南水门、北水门、关中门入,望见贼首亲率马歩兵二十余万,自北山横亘至南海列阵。是日,大风扬尘,咫尺不见,我军对贼布阵,不能横列及海。臣遂集诸王、贝勒、贝子、公、固山额真、纛章京等,谓之曰:尔等毋越伍躁进,此兵不可轻击,须各自努力,破此则大业可成,我军可向海对贼阵尾,鳞次布列,吴总兵可分列右翼之末,若以吹螺进兵,则路不得闻也,故由王处传呼,俟二次呼噪进兵,风遂止,各对阵奋击,大败贼兵,追杀击至四十里。阵获太原府晋王朱审煊。贼首立足之处,正値我正黄旗立兵之处。现正率大军,与总兵吴三桂马歩兵及红衣炮直捣燕京。奏毕,以天助破贼捷音向尔宣谕。
 是日。皇帝勅谕理藩院、外藩诸王、贝勒、贝子曰:摄政王和硕睿亲王,率大军西征明国,于四月二十八日以破贼捷音启奏曰:四月十三日,明总兵吴三桂遣副将杨珅、游擊郭云龙来禀:流贼已陥燕京,崇祯帝后倶自缢。贼首李自成于三月二十二日僭称帝,国号大顺,改元永昌,又遣人招降吴三桂。三桂不从,遂自宁远取其家口,率军民自永平府返据山海关,欲来投,为崇祯帝报仇。遂谕其使曰:若来投,即裂地封王。谕毕,今赉书而去。臣即星夜前往,于四月二十一日抵山海关,値贼首李自成亲率马歩兵二十余万,挟崇祯帝太子朱慈烺、第三子定王、第四子等三子、以及崇祯宗室山西太原府晋王朱审煊、潞安府秦王、陕西省西安府秦王朱顺吉、平阳府汉王朱劭道、郡王绥德王、襄陵王、山阴王、并吴三桂父吴襄倶来,招三桂降,三桂不从,贼遂即围山海关。流贼总兵叛将唐通率马歩兵,于山海关外一片石列阵。是晩,遇贼总兵唐通马兵数百余人,皆斩之。是夜,唐通兵马遁往山海关。次日,大军直薄山海关。吴三桂开门迎降,我军遂从南水门、北水门、关中门入,望见贼首亲率马歩兵二十余万,自北山横亘至南海列阵。是日,大风扬尘,咫尺不见,我军对贼布阵,不能横列及海。臣遂集诸王、贝勒、贝子、公、固山额真、纛章京等,谓之曰:尔等毋越伍躁进,此兵不可轻击,须各自努力,破此则大业可成。我军可向海对贼阵尾,鳞次布列,吴总兵可分列右翼之末。若以吹螺进兵,则路不得闻也,故由王处传呼,诸军齐列进兵。号令毕,我军齐列,及二次呼噪进兵,风遂止,各对阵奋击,大败贼兵,追杀击至四十里,阵获太原府晋王朱审煊。破此兵时,仪有科尔泌右翼土谢图亲王,并率有兵一千,另有左翼兵一百,土黙特二旗兵、固伦公主兵等,未动用外藩一兵一卒。贼首立足之处,正値我正黄旗立兵之处。现正率大军与总兵三桂马歩兵及红衣炮直捣燕京。奏毕,以天助破贼捷音宣示之。ix

 前半は朝鮮王朝に対しての勅書、後半はモンゴル有力者への勅書ですね。満文档案にある内容と同様の文章が、《朝鮮実録》や蒙文档案でも記述があるので裏が取れたって事になりますかね…。

 前にネタにしたとおり、《昭顕瀋陽日記》や《世祖実録》によると、呉三桂からの使者は4月15日にドルゴンと会見するワケですが、勅書にはすべて4月13日としているからには何らかの事実を反映していると考えるべきだと以前から思っていました。考えられるのは、呉三桂の使者達が錦州寧遠アイドゥリあたりに接触して、呉三桂の意思を始めて清朝に伝えたのが4月13日だと考えれば日程的には何となくしっくり来るのかな…と、ふと考えました。《昭顕瀋陽日記》によると、4月13日段階でドルゴンが駐屯していた愁乙古錦州より3日の距離にあると書かれていて、そこから1日進軍して4月15日朝に翁後呉三桂の使者とドルゴンは会見していますから、2日のタイムラグは何とか説明出来るんじゃないかと。まぁ、この辺は状況証拠しか出揃ってないので、なんとも言えませんが。

参考文献:
希都日古 编译《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》社会科学文献出版社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
《大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行

  1. 《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》P.57~58 [戻る]
  2. 順治元年甲申。五月戊子朔(1日)。以破流賊李自成捷音。宣示朝鮮及外藩蒙古諸王貝勒。⇒《清世祖実録》巻5 順治元年五月戊子朔 条 [戻る]
  3. 《朝鮮王朝実録》仁祖実録 巻45 [戻る]
  4. 遊擊柯遇隆⇒尤革库、玉龙、崇禎太子朱慈照⇒崇祯帝之太子朱司兆、潞安府瀋王⇒潞安府秦王、平凉府韓王⇒平阳府汉王、襄陵王⇒尚令王、山陰王⇒三音王等など固有名詞の語訳が多く見られる。 [戻る]
  5. 《昭顕瀋陽日記》甲申年 [戻る]
  6. 《昭顕瀋陽日記》甲申年 [戻る]
  7. 《昭顕瀋陽日記》甲申年 [戻る]
  8. 当時の朝鮮王・仁祖は李”倧”。原文では”宗”だが、編を入れるスペースが不自然に空いているので、にんべんが脱落したと考えられる。 [戻る]
  9. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.12~13 [戻る]

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