延禧攻略の小ネタ5 御花園の皇族
と言うわけで《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を相変わらずツラツラと見ています。今回は23集に出てきた乾隆年間の皇族を纏めておこうかと。
で、まずはこのドラマのキ-マンである和親王・弘昼ですね。五阿哥とか、五爺言われるからには雍正帝iの五男で、四阿哥。寶親王であった乾隆帝のすぐ下の弟で…ずいぶん親しかったようですね。
和恭親王弘晝,世宗第五子。雍正十一年,封和親王。十三年,設辦理苗疆事務處,命高宗與弘晝領其事。乾隆間,預議政。弘晝少驕抗,上每優容之。嘗監試八旗子弟於正大光明殿,日晡,弘晝請上退食,上未許。弘晝遽曰:「上疑吾買囑士子耶?」明日,弘晝入謝,上曰:「使昨答一語,汝虀粉矣!」待之如初。性復奢侈,世宗雍邸舊貲,上悉以賜之,故富於他王。好言喪禮,言:「人無百年不死者,奚諱為?」嘗手訂喪儀,坐庭際,使家人祭奠哀泣,岸然飲啖以為樂。作明器象鼎彝盤盂,置几榻側。三十年,薨,予諡。ii
《清史稿》に載ってる記事からしていきなりカンニング疑惑であるあたりからして、なんだか残念な感じがしますね。100年後に生きている人間なんて居らぬワイ!と言って生前葬を行ったことも書かれてますね。ゲラゲラ笑ったかどうかは書かれてませんが、家人が葬式をする様子を見ながら飲食して楽しんだとはありますね…。あぐらかいて笑ってたと言われてもあんま違和感がありません。
で、この記事の元になったとおぼしき記事が《嘯亭雜録》にあります。
和王預兇
和恭王諱弘晝,憲皇帝之五子也。純皇帝甚友愛,將憲皇所遺雍邸舊貲全賜之,王故甚富饒。性驕奢,嘗以微故,毆果毅公訥親於朝,上以孝聖憲皇后故,優容不問,舉朝憚之。最嗜弋腔曲文,將琵琶、荊釵諸舊曲皆翻爲弋調演之,客皆掩耳厭聞,而王樂此不疲。又性喜喪儀,言人無百年不死者,奚必忌諱其事。未薨前,將所有喪禮儀注皆自手訂,又自高坐庭際,像停棺式,命護衛作供飯哭泣禮儀,王乃岸然飲啖以爲樂。又作諸紙器爲鼎、彞、盤、盂諸物,設於幾榻以代古玩。余嘗睹其一紙盤,仿定窯式而文緻過之,宛然如瓷物,亦一巧也。及王薨後,其子孫未及數年相次淪謝,亦預兇之兆所感應也。iii
雍正年間は皇帝の別宅扱いだった旧雍王府=後の雍和宮を乾隆帝から下賜されたので頗る裕福だったとか、性格は驕慢でちょっとしたことで朝廷でネチン(訥親 Necin)を殴りつけたものの乾隆帝生母である孝聖憲皇后の取りなしで不問に付されたので、朝廷では恐れ憚ったとか何とか。ネチンの話は流石にないだろうと思ったら、時期は不明ながらも元ネタありましたね…。もっとも、当時ネチンは吏部尚書だったハズなので、軍機大臣では盛りすぎですね…。ともあれ、《嘯亭雜録》の作者・昭槤は乾隆41(1776)年生まれで、乾隆30(1765)年に薨去した弘昼とは面識がないはずですが、まぁ、ケチョンケチョンですね…。ただ、音楽はかなりの腕前だったり、生前葬に使用した紙で模倣した陶製の礼器はなかなかのもんだったと評していますが、和親王家と礼親王家でなんかトラブルでもあったんでしょうかねぇ…。
ついでなので、茶会に出席していた他の皇族も紹介しておきます。
まず、乾隆帝のもう一人の弟・弘曕から。康煕50(1711)年生まれの乾隆帝と雍正11(1733)生まれの弘曕は20以上も年の離れた弟になります。圓明園で養育されたため、圓明園阿哥と称されたとかなんとか。乾隆帝の皇長子・永璜が雍正6(1728)年生まれですから、甥より若い叔父に成るわけで、宮中で乾隆帝の皇子たちと共に育ったと言う話も納得出来ますね。
果毅親王允禮,聖祖第十七子。(中略)無子,莊親王允祿等請以世宗第六子弘曕為之後。
弘曕善詩詞,雅好藏書,與怡府明善堂埒。御下嚴,晨起披衣巡視,遇不法者立杖之,故無敢為非者。節儉善居積,嘗以開煤窰奪民產。從上南巡,囑兩淮鹽政高恆鬻人葠牟利,又令織造關差致繡段、玩器,予賤值。二十八年,圓明園九州清宴災,弘曕後至,與諸皇子談笑露齒,上不懌。又嘗以門下私人囑阿里袞。上發其罪,並責其奉母妃儉薄,降貝勒,罷一切差使。自是家居閉門,意抑鬱不自聊。三十年三月,病篤,上往撫視。弘曕於臥榻間叩首引咎,上執其手,痛曰:「以汝年少,故稍加拂拭,何愧恧若此?」因復封郡王。旋薨,予諡。iv
その後、弘曕は叔父である果親王・允禮が無子のまま薨去したので、果親王家を継承しています。どうせなら、果親王・允禮をこのお茶会で登場させても良かったと思いますが…。
弘曕は詩詞に長けており、また蔵書家としても有名で怡親王・弘暁の明善堂に匹敵するほどの量を誇っていたようです。ただ、乾隆28(1763)年には兩淮鹽政・高恆との癒着や、窯元を強引な手段で開いて民間の窯元を圧迫したことでベイレに降爵の上、職務を剥奪されてますね。その後、乾隆30(1765)年、重病のため郡王に進爵したもののそのまま薨去。むしろ、ドラマの中の怡親王のモデルなんではって感じですが…。
で、十二叔と言われていた履親王・允祹ですね。謎の多い人物で、オロス佐領率いたり、順治帝生母の孝荘文皇后の侍女・スマラ姑に養育されたとか、色々興味が尽きません。
履懿親王允祹,聖祖第十二子。康熙四十八年十月,封貝子。自是有巡幸,輒從。五十六年,孝惠章皇后崩,署內務府總管事務,大事將畢,乃罷。五十七年,辦理正白旗滿洲、蒙古、漢軍三旗事。六十年,上以御極六十年,遣允祹祭盛京三陵。六十一年,授鑲黃旗滿洲都統。世宗即位,進封履郡王。雍正二年,宗人府劾允祹治事不能敬謹,請奪爵,命在固山貝子上行走。二月,因聖祖配享儀注及封妃金冊遺漏舛錯,降鎮國公。八年五月,復封郡王。高宗即位,進封履親王。乾隆二十八年七月,薨,予諡。v
とは言え、乾隆年間は管理宗人府事務として大祭を代行するくらいしか実録にも記載ないです。ドラマの中で怡親王の現状を説明しているのが管理宗人府事務を踏まえてのことならなかなかなもんなんですが。
で、慎郡王・允禧です。
慎靖郡王允禧,聖祖第二十一子。康熙五十九年,始從幸塞外。雍正八年二月,封貝子。五月,諭以允禧立志向上,進貝勒。十三年十一月,高宗即位,進慎郡王。允禧詩清秀,尤工畫,遠希董源,近接文徵明,自署紫瓊道人。乾隆二十三年五月,薨,予諡。vi
詩作や工画に優れて五代宋初の董源や明代の文徵明に私淑した…と。文人皇族の走りと言っていい経歴の人物です。
最後に平郡王・福彭ですが…。なんでこの人引っ張ってきたのかなぁという唐突さがありますね。
平敏郡王福彭既襲爵,授右宗正,署都統。(雍正)十一年,命軍機處行走。授定邊大將軍,率師討噶爾丹策零。師次烏里雅蘇臺,奏言:「行軍,駝馬為先。今喀爾喀扎薩克貝勒等遠獻駝馬,力請停償直。彼不私其所有,而宗室王、公、貝勒皆有馬,豈不內媿於心?臣有馬五百,願送軍前備用。」十二年,率將軍傅爾丹赴科布多護北路諸軍。尋召還。十三年,復命率師駐鄂爾坤,築城額爾德尼昭之北。尋以慶復代,召還。乾隆初,歷正白、正黃二旗滿洲都統。十三年,薨,予諡。vii
平郡王は克勤郡王家の嫡流ですね。封号が改称されて平郡王になってますが、子の慶寧の代の乾隆43(1778)年に封号が克勤郡王に戻ります。ただ、他の皇族と違って雍正年間には定辺大将軍としてジュンガルのガルダン・ツェリンとの紛争に参加したりと、武人寄りの経歴の持ち主ですね。なんで出てきたんだろ……。
参考文献・サイト
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
漢籍電子文獻資料庫
人名權威資料庫
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫