延禧攻略の小ネタ4 吃肉分福と怡僖親王・弘暁

坤寧宮

 と言うわけで、またツラツラと《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を見ています。今回は14~15集当たりに出てくる福分けの肉吃肉分福の話を纏めました。

 坤寧宮で行われるマンジュの儀式で臣下に賜与される茹で豚肉自体は、一般向けの書籍でも紹介されているので割と有名です。まずは入江陽子『紫禁城─清朝の歴史を歩く』岩波新書 にこうあります。

 毎朝四時頃から始められる朝祭は、シャーマンが手に神刀を捧げ神歌を唱えながら跳舞し、列席の人々も三弦、琵琶、拍板、手拍子の伴奏にあわせて「オーララ」とはやす。この時主厨太監は二頭の生きた豚を祭神に供え、その耳に水を注ぐ、豚は当然悲鳴をあげ暴れるが、これを神が御嘉納になった証としてその場で殺して皮を剥ぎ、頭、尾、肩、肋、肺、心に解体して「阿瑪尊肉(アマーソンロウ)」と称して神前に供える。
 夕祭は午後四時頃から行われる。朝祭の後、一日中祭場に据えられた大鍋で煮た犠牲の肉が再び神前に供えられる。シャーマンは美麗な絹の裳裾と鈴を腰に巻き、手鼓を打ち旋回舞踏しながら無我の状態に入り、ペチコート「内裙」と鈴を解いて神前にささげる。この直後、すべての窓に黒布の幕が引かれ、竈の火を含めた殿内のすべての灯が消された闇のなかを、参列者は鼓板を打つ太監だけを残して退去。シャーマンが鈴を鳴らし神を言祝ぐ歌を三度ゆっくり唱える。これを「背灯祭」という。やがて灯がともされ、招き入れられた皇帝の代僧や当直の大臣、侍衛が犠牲の肉を食べることから「吃跳神肉(チーチャオシェンロウ)」ともよばれる奇怪な神事である。
 ことに正月二日の大祭には、この満州族iの秘儀に参列し吃肉を許す王公大臣を皇帝が自ら指名する。臣下に対する最高の恩賞で、なかには葬儀のときに「坤寧宮吃肉」と書いた牌をかかげる人も少なくない。ii

 わりと長い引用になりましたが、おおよそこんな感じの儀式ですね。毎日豚は煮られていたようですが、特に正月二日の儀式に参加出来るのは大変な栄誉とされたわけですね。ドラマ《延禧攻略》では太祖ヌルハチが苦難の時に臣下と塩ゆでの豚を分け合ったとか言うことになってますが、どれ見てもそんなことは書いてません。光武帝の豆粥かよって話ですがそれはさておき、マンジュシャーマンによる神事で供されるお裾分けというのは共通しています。まぁ、儀式の様子は坤寧宮を暗室にしたような記述になってますから、ドラマとは全然違いますね…。
 ともあれ、この日のメンバーに選出されることは大変な栄誉だったわけです。しかし、豚肉が美味いの不味いのについては触れられていません。

 で、更に引用長くなりますが、茹でただけの豚肉が不味かったという話は他の本には記述があります。

(前略)清朝の決まりによれば、坤寧宮はシャーマニズムの祭祀の場所であり、豚肉を煮ることはその中でも重要な儀式であった。毎日朝晩に祭祀を行うほかに、大祭と一日、十五日には皇帝と皇后が自ら参加することになっていた。祭祀のあとに下げた肉は無駄にせず、宮中の侍者たちに分け与えられた。いわゆる「祈りの心が神のみもとに届けば、捧げものは人がいただく」というところだ。
 夜明けになると、乾清門では宦官のあの甲高い声でこう伝えられる。「大人がたに肉をお召し上がりいただきます───」。こうしてすべての侍者を坤寧宮の入り口に呼び集めて肉を分けるのだ。宦官が朱塗りの鉢を運んでくると、そこにはきれいに切り整えられた肉がのせられ、塩がまいてあり、それを直接手で持って食べることになっていた。大臣たちにも肉を食べる機会があり、清末の瞿鴻機が宮中での見聞を記した『儤直紀略』の記載によれば、「毎年坤寧宮では肉を三度いただき、宮中の臣下たちはみな加わった」という。貝勒(ベイレ)(貴族)や大臣たちがこの白煮肉(パイジューロウ)を食べる際には「晶飯を吃する」と雅やかに表現した。食べ方も侍者たちと比べて文雅で、小刀で肉を薄片に切って碗の中に入れ、樺の樹の箸で食べる決まりであった。
 もともと坤寧宮の大鍋で肉を煮る際には調味料を加えなかった。やがてこの原始的な食べ方は、遊牧生活に別れを告げて終日豪奢な衣装をまとい、豊かな食事を口にするようになった王侯や大臣たちからすると、吞み下すのにも苦労するものになっていた。そこで誰ともなくある方法が考え出された。上等の醤油を浸した「油紙」と呼ばれる紙を用いるのだ。白煮肉が運ばれてくると、彼らはこの紙を取り出し、小刀と碗を拭うふりをして味をしみ出させた。これで肉をうまい醤油につけたのと同じことになるわけで、ずいぶん食べやすくなった。iii

 と言うわけで、崔岱遠 著/川浩二 訳『中国くいしんぼう辞典』みすず書房 にはこうあります。ドラマの中では祖宗の苦難を忍ぶ儀式に塩を持ち込むなんて…って感じでしたが、清末にもなるとすでに塩で味付けしてあったり、紙に醤油しみこませて誤魔化したみたいですね。
 

坤寧宮

坤寧宮扁額 2008/11/23撮影

 と、一旦和書を離れて漢籍を確認すると、こんな感じです。

派吃跳神肉及聽戲王大臣
 定制,大內於元旦次日及仲春、秋朔,行大祭神於坤寧宮,欽派內外藩王、貝勒、輔臣、六部正卿祭神。上面北坐,諸臣各蟒袍補服入,西響神幄行一叩首禮畢,復向上行一叩首禮,合班席坐,以南爲上,蓋視御座爲尊也。司俎官捧牢入,各實銀盤,膳部大臣捧御用俎盤跪進,以髀體爲貴。司俎官以臂肩臑骼各盤設諸臣座前,上自用御刀割析,諸臣皆自臠割,遵國俗也。食畢賜茶,各行一叩首禮。上還宮,諸臣以次退出。是晚,各賜糕餈酏□iv,各攜歸邸。至上元日及萬壽節,皆召諸臣於同樂園聽戲,分翼入座,特賜盤餐肴饌。於禮畢日,各賜錦綺如意及古玩一二器,以示寵眷焉。v

 まずはこういうことは大抵書いてある随筆《嘯亭雑録》を調べたら案の定、記述がありました。著者の礼親王昭槤の活躍した嘉慶年間には正月二日と仲春、秋朔に坤寧宮で大祭が行われ、その儀式で皇帝自ら煮豚を諸臣に切り分け配るのは清朝の旧習であると書かれていますね。肉を食べた後はお茶を下賜されて、臣下がお辞儀をした後皇帝はその場を立ち去り、参加者は糕…つまりケーキの類いをお土産に貰ったようですね。割と他の文章でも糕は出てくるんで、セットで参加者に配っていたようです。

 で、《嘯亭雑録》のもう一カ所にもこの儀式についての記述があったのでついでに…。

貴臣之訓
 定例,坤寧宮祭神胙肉,皆賜侍衛分食,以代朝餐,蓋古散福之意。有貴臣領侍衛者,因訓其屬曰:「居家以儉爲要,君等朝餐既食胙肉,歸家慎勿奢華,晚間惟以糟魚醬鴨啖粥可也。」某侍衛應曰:「侍衛家貧,不能購此珍物。」某公乃語塞。其生長富貴不知閭巷之艱難若此,可知「何不食糜」之言,洵非虛也。又誡同族少年曰:「在外慎勿胡亂行走。」少年性黠,因故爲不解狀,某公赧顏良久曰:「所謂嫖妓等事是矣。」少年曰:「我輩外間皆名宿娼也。」一堂哄然。vi

 ザッと言うと、侍衛にも肉は分けられたと。で、これを朝ご飯の代わりとして、昔は福を散じると言う意味があったと。で、これから会話形式になっているんですが、その侍衛の主人たる貴人が侍衛に言うには、その肉を食べた後に帰宅して豪華な食事を取っては成らない、夕食には糟魚(山東省の魚の発酵食?)、鴨の味噌漬け?や淡いお粥など(粗末な食べ物)なら良いだろう…と。侍衛は家は貧しくてそのような珍奇な食べ物は買えません!と…云々。と言うわけで、侍衛に任命されるくらいの人にとってはむしろご馳走だったってことですかね…。

 で、更にこういうネタはとりあえず当たっておけと言う《養吉齋叢錄》を調べたらやっぱり記述がありました。

 坤寧宮,廣九楹。每歲正月、十月祀神於此,賜王公大臣喫肉。至朝祭、夕祭,則每日皆然。宮內西大炕,供朝祭神位;北炕,供夕祭神位。朝以寅卯,夕以未申。祭均用,並設香碟、淨水及糕。糕以黃荳、稷米爲之。朝則司祝擎神刀,誦神歌,三弦琵琶和之以致祝,遂進牲。夕則司祝束腰鈴,執手鼓,鏘步誦神歌以禱,鼓拍板和之,亦進牲。撤香灶、燈火,展背燈青幕,眾退出,闔戶。司祝振鈴誦歌四次致禱,所謂背燈祭也。既乃卷幕開戶,明燈撤供。朝祭神爲釋加牟尼佛、觀世音菩薩、關聖帝君,夕祭神爲穆哩罕神、畫像神、蒙古神,而祝詞有阿琿、年錫、安泰阿雅喇、穆哩穆哩哈、納丹岱琿、納爾琿 軒初、恩都哩僧固、拜滿章京、納丹延瑚哩、恩都蒙鄂樂、喀屯諾延諸號,中惟丹岱琿爲七星之祀。其喀屯諾延,即蒙古神,以先世有德而祀,餘無可考。又背燈祭,四時獻鮮,春雛雞,夏鵝,秋魚,冬雉。凡祭神供獻之際,撒麻以清語告神。俗謂撒麻太太,即舊會典贊祀女官長、贊祀女官類也。又司香婦長、司香婦、掌爨婦、碓房婦等,皆只承祀事者。又滿洲富貴之家,每歲祭神,亦有背燈祭。
 坤寧宮每日祭神及春秋立竿大祭,皆依昔年盛京清寧宮舊制。凡聖駕東巡盛京,亦必於清寧官舉祀神禮。
按:嘉慶丙辰,內禪以後,仁宗仍居毓慶宮,故即在毓慶宮立竿祀神,並在宮中行祀灶諸禮。vii

 《養吉齋叢録》の著者、呉振棫昭槤と同時代人ですが、昭槤より20才年少です。『紫禁城』の儀式に関する記述は結構ここから引用されてますね。ただ、こちらでは坤寧宮の大祭は正月と十月とされています。正月二日と仲春、秋朔の年3回としている《嘯亭雑録》の記述とはちょっと違いますね…。気にはなりますが調べようがないのでここは放置して次に行きましょう。

 で、『紫禁城』には阿瑪尊肉という記述があるのに《嘯亭雑録》と《養吉齋叢録》にはかけらもないのが気になったので調べてみると、阿尊肉と言う記述が《竹葉亭雜記》という随筆にあることが分かりました。著者である姚元之昭槤より10才年下で呉振棫の10才年上という感じでちょうど真ん中くらいの年かさです。皆さん年齢はそれぞれ10才くらい違うわけですが、同時代人ですね。

跳神,滿洲之大禮也。無論富貴士宦,其內室必供奉神牌,只一木版,無字。亦有用木龕者,室之中西壁一龕,北壁一龕。凡室南向、北向,以西方為上;東向、西向,則以南方為上。龕設於南,龕下有懸簾幃者,俱以黃雲緞為之。有不以簾幃者。北龕上設一椅,椅下有木五,形若木主之座。西龕上設一杌,杌下有木三。春秋擇日致祭,謂之跳神。其木則香盤也。祭時,以香末灑於木上燃之。所跳之神,人多莫知,遂相以為祭祖。嘗與嵩觀察齡、伊孝廉克善詳言之。南方人初入其室,室南向者多以北壁為正龕,西為旁龕;東向則以西壁為正龕,南為旁龕。不知所謂旁龕,正其極尊之處。始悟《禮》所謂以西方為上,南方為上,與此正合。極尊處所奉之神,首為觀世音菩薩,次為伏魔大帝,次為土地。是以用香盤三也。相傳太祖在關外時,請神像於明,明與以土地神。識者知明為自獻土地之兆,故神職雖卑,受而祀之。再請,又與以觀音、伏魔畫像。伏魔呵護我朝,靈異極多,國初稱為『關瑪法』。『瑪法』者,國語謂祖之稱也。中壁所設,一為國朝朱果發祥仙女,一為明萬曆帝之太后,關東舊語稱為『萬曆媽媽』。蓋其時明兵正盛,我祖議和,朝臣執不肯行,獨太后堅意許可,為感而祀之,國家仁厚之心亦云極矣。余則本家之祖也。其禮,前期齋戒。祭用豕,必擇其毛純黑無一雜色者。及期未明,以豕置於神前。主祭者捧酒尊而祝之,畢,以酒澆入豕耳,豕動則吉。若豕不動,則復叩祝,曰:齊盛不潔與,齋戒不虔與,或將有不吉,或牲毛未純與。下至細事一一默祝,以牲動為限,蓋所因為何,祝至何語而牲動矣。其牲即於神前割之,烹之。煮豕既熟,按豕之首、尾、肩、脅、肺、心排列於俎,各取少許,切為釘,置大銅碗中,名『阿嗎尊肉』,供之,行三跪、三獻禮。主祭者前,次以行輩排列,婦女後之,免冠叩首有聲。禮畢,即神前嘗所供阿嗎尊肉,蓋受胙意也。至晚,復獻牲如晨禮,撤燈而祭,其肉名『避燈肉』。其禮,祭神之肉不得出門,其骨與狗。狗所余骨,則夜中密棄之街,看街者即為埋之,亦有焚為灰而埋者。惟避燈肉則以送親友雲。舊禮,舍外一見祭室竈煙起,不論相識與否,群至賀,席地坐,以刀割肉自食。後漸以主人力不足供眾,遂擇請親友食肉矣。其日,炕上鋪以油紙,客圍坐,主家仆片肉於錫盤饗客,亦設白酒。是日則謂吃肉,吃片肉也。次日則謂吃小肉飯,肉絲冒以湯也。其所謂阿嗎尊肉,初不以食客,意謂此不可令客食也,然亦有與客食者。蓋主家人多,當其自嘗尚不足,故不能食客。若主家人少,自嘗有餘,又恐棄之,故以食客。初非秘不與客也。客食畢不謝,唯初見時道賀而已。客去,主人亦不送。又主屋院中左方立一神桿,桿長丈許。桿上有錫鬥,形如淺碗。祭之次日獻牲,祭於桿前,謂之祭天。舊有祝文,首句云『阿布開端機』。國語『阿布開』,天也;『端機』,聽也。謂曰天聽著。下文為『某某設祭』云云。今多不用祝文,唯主祭者默自口祝而已。又覺其文首句詞氣闊大,其祝時多亦不用此,首句但言『某某今擇於某月日獻牲設祭』。是祭也,男子皆免冠拜,婦人則不與。其錫鬥中切豬腸及肺肚生置其中,用以飼烏。蓋我祖為明兵追至,匿於野,群烏覆之。追者以為烏止處必無人,用是得脫,故祭神時必飼之。每一置食,烏及鵲必即來共食,鷹從未敢下,是一奇也。錫鬥之上、桿梢之下,以豬之喉骨橫銜之。至再祭時,則以新易舊而火之。祭之第三日換鎖,換鎖者,換童男女脖上所帶之舊鎖也。其鎖以線為之。舊禮,生人後乞線於親戚家為之作鎖。今不復乞線,但自買線為之。線用藍、白二色,亦有用紅、黃者,聚為粗線作圈。線頭合處結一疙疸,結處翦小綢三塊縫其上。舊例,上次祭時所帶,必至下次祭時始換之。今多只帶三日即取而藏之,下次祭時再帶之以俟換。其換鎖之儀,用箭一枝,搭扣處系以細麻及新鎖。院中神桿旁別置小桿,桿上紮柳枝一束,柳上翦白紙作垂綏二以系之。神座木版前有一釘,用黃絨繩一條,其繩極長,一端掛於釘上,一端牽於門外,系之柳枝上。令帶鎖者群聚圍座一處。主祭者持箭,以麻縷新鎖繞於香煙上,然後取一細縷搏於帶鎖者之懷。置已遍,復繞於煙,每繞一度,懷麻縷一度。如是者三,然後換新鎖。其舊鎖即系於所牽之黃繩上。自國初以來,所易者均在,若有以午久朽壞者,始取而焚之。神座前,平時每掛一黃布袋,即用以貯黃繩者也。當祭時開袋取繩,祭畢仍貯之懸於神前。其帶鎖,男子至受室、女子至於歸後始止。每換鎖時,有祭品一席,撤供即置於帶鎖者圍座處,群爭攫而食之。其未受室、於歸者,雖年二十餘,亦行此禮,亦與群兒攫食,蓋受福之意也。viii

 ちょっと手元に本がないのでアレですが、かなり記述が詳しいですね。皇族である昭槤より詳しいのナンなのよ…とは思いますが、長すぎるのでとりあえず上げるだけにしておきます。萬曆媽媽とか気になりますけど。

 ただ、この阿嗎尊肉嘉慶年間に活躍した3人の随筆からは不味い肉という感想はあんまり見られません。それどころか、むしろ当時としてはやはりご馳走だったのでは?という記事も先に引用した『中国食いしんぼう辞典』にあるので、引用しておきます。

 白煮肉を食べる習俗は宮中だけではなく各王府にもあり、食べきれない肉は下働きのものたちに下し渡された。乾隆六年(一七四一年)、定親王府に雇われていた夜回りの男が王府近くの缸瓦市(ガンワーシー)に食堂を開き、特大の砂鍋(土鍋)で煮た白煮肉の専門店にした。彼は伝統的なやり方改良を加えて大衆の味覚にあわせたために、商売はたいそう繁昌した。やがて時がたち、客は店を「砂鍋居(シャーグオジュー)」と呼ぶようになった。ix

 と言うわけで、ちょっとアレンジを加えれば市井の人気店になってるあたり、当時としてはあまり不味い部類ではなかったのではないかと思うんですよね…。《清宫述闻》あたりとツラツラ見ても、下賜用の阿嗎尊肉を横領して市井に売っていた宦官の話が出てくるので、そう不味い肉ではなかったのではないかと。
 時代が経つにつれて、儀式自体がないがしろにされてる感じもしますが、《清宫述闻》を読むと慈嬉太后西太后の時代にも坤寧宮の儀式を当日キャンセルした大臣が、翌日ものすごい勢いで慈嬉太后に怒られたという逸話も載っているので、重要な年中行事の儀式としては清末までは命脈を保ったようです。
 もっとも、堂子での儀式とセットだったようなんで、肉をみんなに分ける儀式…というよりマンジュとしての風習を思い出すための伝統的な儀式という側面は強かったようですが。

坤寧宮煙突 2008/11/23撮影


 で、ついでなので、ドラマ《延禧攻略》ではこの儀式でとばっちりを受けていた、怡僖親王弘暁についてもちょっとだけ。
 と言いながら、かの高名な怡賢親王十三阿哥胤祥の後継者の割に、史書での記述は多くありません。《清史稿》の怡賢親王允祥伝ではこんな感じです。

子弘曉,襲。乾隆四十三年,薨,諡曰僖。x

 胤祥の後継者であることと乾隆43(1778)年に薨去したこと、諡号が僖であったことしか記述がありません。《八旗通志》初集、《清史列傳》には怡賢親王から襲爵したことのみで《清史稿》の記事と内容はさして変わりません。欽定《八旗通志》には記載もないですね…。
 それではなんだからと、人名權威資料查詢を検索してみたら、ちょっとは詳しい記事が出てきました。《中國歷代人名大辭典》の引用だそうで…。

弘曉,清宗室,字秀亭。怡賢親王胤祥之子(後避諱,改允),襲怡親王爵。嗜典籍,建藏書樓九楹,名「樂善堂」。乾隆間《四庫》館開,各地藏書家均進呈藏書,惟「怡府」未進呈,其中善本、珍本甚多。

 どうやらかなりの蔵書家だったようですが、《四庫全書》編纂作業の時には全く協力しなかったと言うことのようですね。それはそれでドラマティックなんではないかと思うんですが、ドラマのようなクソ野郎ではなさそうですし、乾隆6年当時に問題起こして革職されたというわけではさそうです。ちなみに乾清門侍衛だったという記述もあるようですが時期も不明で、少なくとも乾隆6(1741)年当時は正白旗漢軍都統だったようなので、ドラマのように不遇を恨んだりはしそうにないですね…。まぁ、娴妃の父・訥爾布(ノルブ?)は検索するだに官位が引っかからないので、都統だったかすら怪しいんですけどね…。

◇参考文献
入江陽子『紫禁城─清朝の歴史を歩く』岩波新書
崔岱遠 著/川浩二 訳『中国くいしんぼう辞典』みすず書房
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
呉振棫《養吉齋叢録》中華書局
章乃炜等 编《清宫述闻》紫禁城出版社

  1. 原文ママ [戻る]
  2. 『紫禁城』P.56~57 [戻る]
  3. 『中国くいしんぼう辞典』P.58 [戻る]
  4. [齋の上部/酉] [戻る]
  5. 《嘯亭續錄》巻1 派吃跳神肉及聽戲王大臣 [戻る]
  6. 《嘯亭續錄》巻3 貴臣之訓 [戻る]
  7. 《養吉齋叢錄》卷7 [戻る]
  8. 《竹葉亭雜記》巻3 [戻る]
  9. 『中国食いしんぼう辞典』P.59 [戻る]
  10. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 聖祖諸子 怡賢親王允祥 附伝 [戻る]

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