[歴史屋のたわごと2]露伴の『運命』とその彼方─ユーラシアの視点から
と言うワケで、久しぶりに神田に行ったついでに東方書店冷やかすつもりで、何冊か本買っちゃいました…。その中でも、杉山正明『[歴史屋のたわごと2]露伴の『運命』とその彼方─ユーラシアの視点から』平凡社 がいつも通りの感情論で押し進めるやり方がむしろ清々しかったのでメモ。
宣和堂の節操のない日記
と言うワケで、久しぶりに神田に行ったついでに東方書店冷やかすつもりで、何冊か本買っちゃいました…。その中でも、杉山正明『[歴史屋のたわごと2]露伴の『運命』とその彼方─ユーラシアの視点から』平凡社 がいつも通りの感情論で押し進めるやり方がむしろ清々しかったのでメモ。
と言うワケで以前書いた艾度禮という記事にコメントを頂きまして…。
どうやら、この時に取り上げた鎮國公・アイドゥリが磯部淳史「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」『立命館東洋史學』第30號で言及されてる様ですね。こないだ大学図書館に行ってEvernoteにクリップしておいたので、確認してみました。
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と言うワケで、久しぶりに読み応えがある歴史本を読んだので、メモ。ってあれ?Kindle板あるじゃん……あるじゃん…。
いや、確かに講談社だからもしかしたらとは思ったけど…あるんだ…。未来だぜ…。
作者の上田信センセは新版講談社中国の歴史で、第九巻『海と帝国 明清時代』を執筆された先生。このシリーズは、今は講談社学術文庫に入っている旧版講談社中国の歴史との差別化からかピーキーな内容の本が多かったんですが、特に海洋貿易に特化した内容のこの本は異彩を放っていましたね…。
と、気を取り直して内容をザッと紹介します。わかりにくい題名から内容のコトを察しにくい本書ですが、基本的にはモンゴル時代以降のアジアの海洋世界とその中心となった人物をメインに執筆されています。蜃気楼王国って言うのは、確実に勢力圏として存在したはずなのに、記録が残っていない海の民の王国ってニュアンスでチョイスされた単語なんだと思います。内容としては…
序章:概論…と鉄砲伝来 第一章:足利義満と朝貢貿易 第二章:鄭和と東南アジアのムスリム社会 第三章:王直と嘉靖倭寇の実態 第四章:小西行長と慶長・文禄の役 第五章:鄭成功と最後にして最強の蜃気楼王国
って感じデス。と言うワケで内容についてのメモ。基本的に文の後にカッコでくくっている部分と※のついている部分は宣和堂の個人的な感想デス。
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そんなこんなで、清代王府の位置を知る過程で《嘯亭雑録》を買ってみました。サラッと読むと、やはり歴史の話題を中心とした随筆ですね。神田信夫『清朝史論考』山川出版 の中にそのものズバリ、「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」という論文が載っているのですが、コレを読むとどうやら《嘯亭雑録》はかなり歴史的価値の高い随筆みたいですね。個人的にはいきなり〈太宗讀金史〉の項で辮髪と言うか満洲の衣冠に触れていた点で評価高まりましたし、その次が〈設間誅袁崇煥〉だったりするので、序盤からおお!って思いますわね。
で、その著者である昭槤ですが…この人、九代目・礼親王なんですよね。礼親王・ダイシャンの後裔です。漢語版Wikipediaの記事によると、乾隆41(1776)年の生まれで、道光13(1833)年に病没しているようです。礼親王の王位には、嘉慶10(1805)年から嘉慶20(1815)年までの十年間ついていたみたいですね。在位中は散逸大臣に任じられているようですが、これは宗室に対する名誉職みたいなモノで、特に何か重責を担っていたわけではないみたいですね。いずれにしても、政治的な功績よりも文化的な功績が大きい家柄だったみたいなので、特に問題でも無いでしょう。
しかし、普通、親王は没するまで王位にあるものなので、これは問題起こして王位を剥奪されてるわけです。「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」によると、御史・果良額が弾劾し調査の結果、礼親王・昭槤が大臣・景録を陵辱したり、戸部尚書・景安を自家の奴と面斥しただけに留まらず、不法の刑具を用いて家来を虐待し、その上、家人に軍機中堂と呼ばせていた等の罪状で王位を剥奪されて身柄を拘束されたようです。景録と景安は同じ字を使ってることから何となく同族なんじゃ無いかと思うモノの、よく分かりませんね。この事件そのものが昭槤の濡れ衣じゃないかという説もありながら、《嘯亭雑録》でも自分の過失とする文章がいくらか残ってるみたいですから、昭槤自体がサディスティックで激しやすい性格だったことは間違いなさそうです。李贊華さんにしろ、文化的な王族が残虐な行為で弾劾されるって結構あるんですかね…。
その後、礼親王位は昭槤の従兄弟である麟趾の系統に嗣がれて辛亥革命を迎えています。昭槤の子孫は目立った官位には就いていませんが、文化的な家柄は続いたみたいですね…。
と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。
本文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。
思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。
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