康煕帝諸皇子の王府3

 と、前回の続きで康煕帝皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。
 本文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。


より大きな地図で 康煕帝阿哥府邸地図 を表示

 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府密雲県博物館もチェックしてます。

12:履親王府☞東直門内針銭胡同

東西寛街
宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii

 謎の十二阿哥王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が近所に建ってたりしたみたいですね。これは清露国境での紛争で捕虜にしたロシア人北京のこの辺に移住させて八旗に組み込んだためのようですが、彼らが信仰のために作ったのがこの教会だったようです。北清事変…というか義和団事件の際にはこの教会が義和団側の標的となって破壊されます。その後、八ヶ国連合軍北京に侵攻すると、履親王府ロシア軍の報復の標的とされて完膚なきまで破壊され尽くされたようです。この教会が再建される際に履親王府の跡地を購入して拡大し、この教会は致命堂と名づけられたみたいです。で、その縁から中共成立の際にソ連大使館とされたようです。その後、ソ連崩壊後も変化はなかったようで、未だに履親王府ロシア大使館の敷地内にあるみたいで、どうやら履親王府の遺構も残っているようです。
履亲王府

13:怡親王府 舊府☞王府井大街路東 新府☞朝陽門内大街路北 寧郡王府☞東单北級閣三条71号

就日坊北大街
俗稱東單牌樓大街。井二。南接崇文門大街、迤北有米市。東小衚衕、曰七間樓。井一。采訪册‥怡親王府在東單牌樓大街東。謹案‥怡邸捨爲賢良寺、後移朝陽門内北小街。咸豐十一年、嗣王載垣獲罪、以寗王裔孫鎮國公某襲。故寗府今爲怡府。故寗府今爲怡府。寗良郡王宏晈、怡賢親王次子也。iii
朝陽門北小街
井二。舊有雲南會館、今廃。嘯亭續録‥怡親王新府在朝陽門内北小街。采訪册‥澍貝勒府在北小街。謹案‥怡府今廃。貝勒爲宣宗孫孚敬郡王諱奕譓之子、舊爲誠貝勒允祁府。

 さて、面倒くさい怡親王府です。前回に書いたとおり、十三阿哥王府王府井近くにあったようです。十三阿哥の死後、怡親王府賢良寺とされますが、早くも乾隆20(1755)年には冰碴衚衕に移転します。その後、光緒34(1908)年の《詳細帝亰輿圖》を見ると、陸軍小学校がこの当時は在ったみたいですね。民国10(1921)年の《新測北京内外城全圖》を見ると、陸軍将校所とあります。いずれにしろ、陸軍の管轄だったみたいですね。現在は校尉小学校紙盒廠…ってことはトレイ?カートン?工場?なんでしょうかね…。もっとも遺構は残ってないみたいですが。
 で、十三阿哥没後は怡親王府朝陽門に移転します。で、世襲親王家なので爵位が落ちることなく、その後も親王であり続けるます。六代目怡親王載垣の代になると、欽差大臣になるなど咸豊帝の信任を得てその病没に際して顧命八大臣に任命されるワケですが、祺祥政変またの名を辛酉政変というクーデターに遭います。六代目怡親王載垣はクーデターの首謀者である西太后こと慈嬉太后に自尽を命じられます、当然、王位は剥奪され王府も没収されます。この後、怡親王新府同治3(1864)年に道光帝の第九子である孚郡王奕譓に下賜され、その後この王府孚郡王家に継承され、辛亥革命を迎えます。現在は中科院自然科学史研究所辨公が占有していますが、王府の状態は完備されていて状態はかなり良いと言います。2010年には火事があったと言う記事もありますから、早いところ公開して欲しいもんですね。
 で、同治3(1864)年、怡親王位は同じく十三阿哥の末裔で在る寧郡王家鎮国公載敦が継承し、七代目怡親王となります。しかし、載敦の長子・八代目怡親王溥静光緒26(1900)年、義和団事件の際に死没したようですが、義和団を容認して八ヶ国連合軍の進駐を招いたとして、死後爵位を剥奪されています。ただし、その二年後、光緒28(1902)年には載敦の第二子・溥耀の長子…つまり、八代目怡親王溥静の甥に当たる毓麒が九代目・怡親王寧郡王府を継承して辛亥革命を迎えます。現在も王府の状態はかなり良いみたいですが、未解放です。
 しかし、十三阿哥の子孫も時代に翻弄されてますねぇ…。
怡亲王府
贤良寺
宁郡王府
孚王府

14:恂郡王府☞西直門内大街後半壁街

西直門大街
(前略)嘯亭續録‥恂郡王府、惠郡王府、貝勒永璂宅、倶在西直門大街。謹案‥恂郡王府諱允禵、聖祖十四子。康煕時以貝子授撫遠大將軍、諱曰勤。今爲壽莊公主府(後略)iv

 で、撫遠大将軍十四阿哥王府です。景山寿皇殿十四阿哥が幽閉される前の王府がココだったのかは謎なんですが、少なくとも軟禁を解かれた乾隆年間王府の位置はココで間違い在りません。しかし、十四阿哥死後、王府十四阿哥の子孫には継承されませんでした。かなり長いこと空き家だったようで、同治2(1863)年になってようやく道光帝の第九女・寿荘公主に下賜されます。光緒10(1884)年に寿荘公主が没すると、その後、光緒14(1888)年にこの王府乾隆帝の第十子である成親王永瑆の後裔である貝子毓橚の府邸として下賜され、辛亥革命を迎えます。民国10(1921)年の《新測北京内外城全圖》を見ると、工業学校とか師範学校の敷地となっていますね。現在、まだいくらか遺構は残っているみたいですが、一般解放されていません。
恂郡王府

15:愉郡王府☞西城区柳蔭街路27号

龍頭井
井一。嘯亭續録‥愉郡王府在三座橋西。宸垣識略云在龍頭井。采訪册‥瀅貝勒府在三轉橋西。謹案‥愉王諱允禑、聖祖十五子、諱曰恪。後爲鍾郡王府(後略)v

 愉郡王家は累代継承して同治5(1866)年に鎮国公奕橚が没すると府邸は没収されます。同治7(1868)年恭親王奕訢の第二子である載滢道光帝の第八子鍾郡王奕詥の爵位を嗣いだ際に府邸を下賜されています。その後、光緒26(1900)年に、義和団を容認して八ヶ国連合軍の進駐を招いたとして爵位を剥奪されて、王府も没収されます。その後、光緒28(1902)年に醇親王奕譞の第七子である載涛鍾郡王家を嗣いで王府も継承しています。その後、この府邸は涛貝勒府と称されて辛亥革命を迎えます。
 その後は教育機関に使用され、現在は北京市第十三中学校になってます。
愉郡王府
涛贝勒府

16:荘親王府☞西四北太平倉

太平倉
(前略)嘯亭續録‥承澤親王府、在太平倉。謹案‥(中略)聖祖以十六子莊恪親王允禄爲後。(後略)vi

 流石に国初の世襲八大鉄帽子王家王府だけあって大きいですね。途中、アヘン中毒のために七代目の荘親王奕賣が爵位を剥奪さてます。更に、義和団事件の際に十一代目荘親王載勛が、荘親王府義和団のために祭壇まで築いたため、本人は慈嬉太后西安に逃げたモノの、当然、載勛は職務と爵位を剥奪されて自尽を命じられますが、その後間もなく、荘親王位は載勛の弟である載功が嗣いでいます。辛亥革命後も十六阿哥の末裔である溥緒荘親王位を継承しています。しかし、騒動が収まった後も荘親王府義和団の死屍累々と言う有様で廃墟と化したまま、載功の代で埋蔵金目当ての北洋軍閥李蒓李馨兄弟に売却されました。埋蔵金を掘り当てるために更に荘親王府は荒らされたようです。いくらか遺構は残っているようですが、現在は公安局の某機関の宿舎だとか。
庄亲王府

17:果親王府☞平安里西大街東首路北

葡萄園
宸垣識略‥果親王府在宮門口葡萄園・謹案‥果親王諱允禮、聖祖十七子。雍正初、任議政、諡曰毅。今府在孟端衚衕。vii

 で、果親王府ですね。十七阿哥から数えて五代目の貝勒綿律の時代、嘉慶11(1806)年に何らかの罪に問われて爵位を剥奪されて王府を没収されて、果親王家孟端衚衕viiiに引っ越します。爵位自体は綿律の義理の弟(綿律は養子)である綿㣚貝子に封じられてはいるので、まだ王府で生活する資格はあったのに、何故か王府を追い出されています。その後、果親王府嘉慶帝の第四子・綿忻嘉慶24(1819)年に瑞親王に封じられると、その王府として下賜されます。
 で、瑞親王家ですが…この家って光緒帝廃位が準備された頃の大阿哥溥雋の出身家なんですね。溥雋の父親・載漪惇親王奕誴の第二子ですが瑞親王家に養子に入って…何故かよく似た漢字の端郡王に封じられています。ご存じの通り義和団事件の際に義和団を支持したので、八ヶ国連合軍進駐を招いた責任を取らされています。光緒28(1902)年には爵位を剥奪された上、大阿哥溥雋と共に新疆に流されてます。同年、瑞親王家(端郡王家?)は醇親王奕譞の第六子である載洵に継承されて辛亥革命を迎えています。王府も当然継承されたのでしょうが、八ヶ国連合軍の攻撃の標的となった為に瓦礫の山となったようです。跡地は中国少年児童活動中心の東部になっているようですね。いくらか遺構は残っているようですが、外からは遺構は覗えないようです。
 それにしても、載漪って王府楊露禅招いて呉全佑太極拳教えさせるとか、小説的な意味でもなかなか面白い人物ですよねぇ。
果亲王府
瑞亲王府

20:多羅貝勒允禕府☞王府倉23号

王府倉衚衕
嘯亭續録‥貝勒允禕宅在王府倉衚衕。謹案‥允禕、聖祖二十子、諡簡靖、今爲賀公宅。ix

 何故か《乾隆京城全図》には記載が見当たりません。一族は辛亥革命まで爵位を保ち、中華民国14(1925)年、八代目の載鎧の時に府邸は売却されたようです。その後、中華民国19(1930)年には李鏡湖が購入し、私立鏡湖中学となります。現在、跡地は北京市第三十八中学校の運動場になっているようです。遺構が大水車胡同小学校の敷地内にあるって言う記述もありますが、細かいことはよく分かりません。
王府仓胡同

21:慎郡王府☞平安里西大街中間路北

嘯亭續録‥誠親王舊府在官園、今爲質親王府。謹案‥誠王諱允祉、聖祖三子、雍正中以罪除。乾隆二年追諡曰隠。(後略)x

 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》では慎郡王府については、第二代の乾隆帝の第六子・永瑢から質親王家に封号が変わるので、質親王府として記載されています。もっとも、慎郡王府にしろ質親王府にしろ、元を正せば三阿哥誠親王舊府と言うコトなんですよね。時代降って義和団事件とそれに続く八ヶ国連合軍の進駐で隣の端親王府=元・果親王府が標的となったために、一緒に瓦礫の山と化したようです。慎郡王家九代目の毓亨はこの時に引っ越して王府には戻らなかったようです。遺構は殆ど残っていないようですが、現在、王府の跡地は中国少年児童活動中心の中央部分となっています。
诚亲王府
慎郡王府

22:多羅貝勒允祜府☞朝陽門内北小街倉南胡同5号

舊太倉街
(前略)宸垣識略‥多羅恭勤貝勒府在小街舊太倉南。謹案‥貝勒諱允祜、聖祖二十二子、恭勤其諡也。今府移取燈衚衕。((《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.124))

 で、二十二阿哥府邸です。上の記事で見るとおり、《京師坊巷志稿》の書かれた光緒年間には取燈衚衕に移転していたみたいです。…と言う一方で、二十二阿哥の後裔である九代目の溥陽辛亥革命後、中華民国7(1918)年に段祺瑞に売却したという記述もあったりします。どうも、後者の記述の方が信頼出来そうですが、詳しいことは何とも…。で、この際に大規模な増改築が行われて敷地内に西洋建築が新設されて、北洋政府段祺瑞の邸宅として使われたようです。今でも段祺瑞旧邸として有名みたいですね。現在は民家になってます。
 それにしても、袁世凱よりも段祺瑞の方が良く出て来るイメージあるんですが、段祺瑞って向こうで人気あったんでしたっけね?
多罗恭勤贝勒府
段祺瑞宅

23:郡王銜貝勒允祁府☞東直門北小街東側

西直門南小街
井一。嘯亭續録‥貝勒允祁宅、惇親王府、倶在北小街。謹案‥允祁、聖祖二十三子。乾隆四十九年、加郡王銜、諡曰誠。惇王諱錦愷、仁宗四子。(後略)xi

 さて、そんなわけで二十三阿哥府邸です。二十三阿哥の系譜は辛亥革命まで続きますが、王府を所有する資格は早々に失っていますから早々に移転して、王府自体は上の記事の通り、嘉慶帝の第四子である惇親王錦愷に転賜されています。その後の経緯はよく分からない物の、王府八ヶ国連合軍の進駐の際に、隣接した履親王府もろともロシア軍の破壊を承けて瓦礫の山と化したようです。根拠はよく分かりませんが、こちらの記事xiiによるとロシア大使館に隣接した東直門中学校なんだそうだ。多分、遺構は残っていないモノと考えられる。

24:諴親王府☞美術館後街23号

安定門大街
井四。關帝廟俗稱紅廟、井一。迤南午達東直門街者曰交道口、井二。鑲黄旗満洲都統署在焉、其北爲漢軍都統署。倶詳衙署。采訪册‥諴親王府在安定門大街東、今爲榮壽公主府。謹案‥諴親王允祕、聖祖二十四子、諡曰恪。(後略)xiii

 遂に二十四阿哥です。長かった…。で、二十四阿哥王府ですが、諴親王の三代目・永珠道光16(1836)年に爵位を剥奪された際に王府も没収されたようです。爵位はその年の内に貝子綿勳が継承しますが、王府咸豊帝の長女・栄安公主に下賜され、その没後、恭親王奕訢の長女である栄寿公主に転賜されます。辛亥革命後、栄寿公主家が没落したため府邸は売却されました。一時期、吉祥戯院憲兵三団が所有していたようですが、1956年には北京中医医院の所有となりました。が、1985年、北京中医医院の立て替えにともない、王府の遺構は密雲県に移築され、現在、密雲県博物館として使用されています。
諴亲王府
大公主府
密云县博物馆
 ほんでもって、貝子綿勳宣武門内絨綫胡同に移り住みます。こちらは六代目の溥霱まで継承されます。俗に霱公府と言われてます。辛亥革命後、銀行家・周作民に売却され、国民党敗退後の1950年には更に中央監察部に転売されます。その後、1959年には敷地の一部が四川飯店としてレストラン営業を開始し、現在に至るわけです。
霱公府

 こうやってまとめてみると、義和団運動が盛り上がった当時、いかに王公が彼らに期待して肩入れしたかがよく分かりますね。少なくとも康煕帝皇子達の子孫の中には義和団運動に反対した人は居なかったようです。少なくとも、没落していない家系は義和団に荷担した!と言う名目で爵位を失った家ばかりですね。調べてて一人くらいは反対してないかなと思ったんですが、てんでダメですね。荘親王家に至っては王府に祭壇設置するの許してるくらいなので、ドップリ肩まで浸かってますね…。

参考文献:
張爵・朱一新《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》北京古籍出版
馮其利《尋訪京城清王府》文化芸術出版
竇忠如《北京清王府》百花文芸出版
段柄仁《北京地方志 風物図志叢書 王府》北京出版社
神田信夫『清朝史論考』山川出版 「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤 」

参考地図:
乾隆京城全図
清北京歴史地図》北京燕山出版社
老北京胡同詳細図(詳細帝亰輿圖)》xiv
新測北京内外城全圖》中国地図出版社
柴五郎・服部宇之吉 大山梓 編『北京籠城 北京籠城日誌』東洋文庫53

参考サイト:
清代王府
百度百科 王府
北京で勇気十足 北京 散歩に飽きない北京 たくさんある王府
        北京 八大鉄帽子王府の場所
        北京 十二家鉄帽子王(八大鉄帽子王以外)の王府の場所
        北京 東交民巷(正義路から東側) 壱 散歩おばさんの妄想編
        北京 東交民巷(正義路から東側) 弐 散歩おばさん警察に怒鳴られる

 知ることは実に楽しかったです。…と、あとちょっとこのネタで引っ張るかも知れませんね。

  1. 《清北京歴史地図》北京燕山出版社 ちなみに《乾隆京城全図》を複数の版本を比較して校訂した《加摹乾隆京城全図》を出版したのもこの会社。 [戻る]
  2. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.177 [戻る]
  3. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.109 [戻る]
  4. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.150 [戻る]
  5. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.159 [戻る]
  6. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.91 [戻る]
  7. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.143 [戻る]
  8. 竇忠如《北京清王府》百花文芸出版 [戻る]
  9. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.139 [戻る]
  10. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.145 [戻る]
  11. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.150 [戻る]
  12. 第23子允祁的府第现在是东直门中学 なのだそうだ。 [戻る]
  13. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.169 [戻る]
  14. 北京の土産物屋で購入。出版社が塗りつぶされてる模様… [戻る]

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