十二月の本
12/11 秋梨惟喬『もろこし紅游録』創元推理文庫
12/10 田中芳樹・荻野目悠樹『野望円舞曲 10』徳間デュアル文庫
12/15 田中芳樹『水妖日にご用心 薬師寺涼子の怪奇事件簿』講談社文庫
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宣和堂の節操のない日記
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さて、今回も以下の本に従いながら比叡山に上ります。
前回は比叡山境内としては、ケーブルカーに乗ってロープウェイに乗って雲母坂を下ってきただけで、実は前回は伽藍が全く出てきてません。
ご存じの通り、比叡山は元亀2(1571)年、織田信長に焼き尽くされてます。歴史は古いわけですが、建物はそう古いわけではありません。当然、これから紹介する建物も基本的には江戸以降の再建となります。
で、信長の比叡山焼き討ちの際に不邪淫戒…というか比叡山境内に女性が生活していたことが、信長に比叡山攻めの口実を与えたと言います。現在的な感覚で言えば、一身を仏に捧げたはずの出家者たる僧侶が女性と…しかも大寺院の境内で生活していると言うコトは抵抗があると思います。
が、もともと比叡山に限らず、当時の大寺院には女性が多く生活していましたし、そもそも座主と言われるような身分の高い僧侶は妻帯していて、中には代々名門と言われる寺社の座主に収まる家系も出てきます。つまり、出家者のハズの僧侶が、有力寺社の座主という地位を世襲したわけです。しかもコレが異端の宗派ではなく、中世では随一の勢力を誇った延暦寺や園城寺(三井寺)での話です。しかも、コレが当時非難されるコトはなく、むしろ僧侶の娘が貴族に嫁入りまでしていますから、座主のような地位の高い僧侶は貴族と同等のクラスにいると考えられていた…と推測されます。
自分としては、特定の寺院の座主を特定の家系が世襲したわけではない…というあたりに引っかかりは感じるのですが、同格の寺院の座主を同じ家系の僧侶ばかりが占めている…という状態だったようですね。
先に挙げた本では保元の乱で後白河天皇のブレーンであった信西(藤原通憲)に始まる家系は、その際たる例であるとされています。
とはいえ、信長のように、この矛盾を突いて大義名分にして、仏教を弾圧しようとする人は昔からいたようです。師である法然が弾圧される様を見て、親鸞は僧侶の妻帯を大々的に認め、コレを明文化するわけです。親鸞の偉業は人間としての業を認めた点ではなく、事実上行われていた僧侶の妻帯を堂々と追認した点にあるというわけですね。
今日では浄土真宗に限らず、お坊さんは妻帯されている方は当然おられますし、大部分のお寺では住職は世襲されているわけですから、昔からこんなモンだったと思えば想像もしやすいかと思います。
話は変わりますが、中世、比叡山は技術者が集うテクノクラートの街としても栄え、朝廷も武士も大がかりな建築は寺社に属する技術者に依頼するほかになかったようです。事実、戦国時代に描かれた各種の洛中洛外図では、寺社は敷地が広く、屋根は瓦葺きであったり銅葺きであるのに対して、内裏や将軍御所などは敷地が狭く、屋根は檜皮葺き…と言う状態なのもそういった事情からです。
以上の事情から、戦国大名が築城する際も寺社の技術者が関わったと考えられています。比叡山には堅牢な石垣があちこちに見受けられますが、どうやら中世の山城として石垣を持つような建築は、この比叡山をもってその元祖とすべきだと言われています。
実際何度も外敵に焼き討ちされても居ますが、何度も撃退しても居ます。要塞都市と言われる鎌倉は、実は要害としての役には立っていなかった…というのは最近の研究書では統一した見解なので(鎌倉幕府滅亡時も結局新田義貞の挙兵から一ヶ月も経たずに落とされてます)、実は比叡山の方が余程か要塞都市だったと言えます。
あと、延暦寺が中世一貫として宗教的権威を保ち続けたのは、この戒壇院を持っていたからですね。僧侶となるには必ず菩薩戒(僧侶として守るべき戒律)を受けなければなりませんが、授戒を行う戒壇院は日本国内では一時、天下の三戒壇と比叡山の大乗戒壇のみだったからです。受戒をしていなければ私度僧として罰せられるわけですから、戒律壇を所有している寺院にはそう逆らうわけにはいきませんよね。
まあ、この辺も貴族や武家出身の学侶身分だけの話で、一般民衆出身の堂衆身分の人たちが菩薩戒など受けていたのか?と言うとそんなコトはなさそうですから、戒壇院があることが民衆に対して意味は持たなかったかも知れないですね。ただ、皇室や貴族に対しては大いに意味があったことでしょう。
で、その巨大な比叡山の中心は、伝教太師・最澄が建立した一乗止観院の後身である根本中堂(こんぽんちゅうどう)です。
信長に限らず延暦寺と敵対した勢力(朝廷や武家だけでなく、むしろ他の寺社勢力)に何度も焼かれています。今の建物は信長の叡山焼き討ちの後、江戸時代に徳川家光の発願で再建された建物です。流石に気合いの入った再建でこの建物自体が国宝指定を受けています。根本中堂内部は撮影が禁止なので、外側からです。
中側もかなり荘厳で、流石は国宝という威圧感がありました。勿論、伝教大師・最澄によってもたらされたという、不滅の法灯も中に安置されていました。当番決めたり交換時間決めたらそこから油断が生じるのよ!油断大敵ぃ!…という、ありがたい解説も頂きました。
境内はかなり広い上に、自分の好物である苔がそこら中に生えててナカナカの雰囲気でございました。ただ、広大すぎて東塔地区しか回れませんでした…。全部回ろうとすると体力的にも2~3日必要かと…。
昼過ぎには快晴だったので、東坂本側から琵琶湖がよく見えました。これだけ近ければ琵琶湖の漕運を制御することはむしろ当然とも言えますね…。琵琶湖漕運に加えて京都までの輸送手段である馬喰も比叡山の影響下にありましたから、商業という特性上、近江商人も比叡山の制御下にあったのではないかと…というか元々比叡山の荘園から近江商人が出てきたんなら無関係ではないのか…むしろ一体と考えて良いんですかね?
と、東塔地区を後にして、坂本ケーブルに乗って東坂本に降りるのです。まだ続くんですなw
と、連休で帰省したのでついでに比叡山上ってきました。と言うのもここ数年、この本を読んで以来、自分の中で比叡山が熱かったからです。
どういう本かというと、中世は武士とか貴族じゃなくて、寺社勢力!中でも南都北嶺と言うよりむしろ比叡山が中心にいたんだよ!と言う内容の本ですね。何しろ比叡山の門前町は近江坂本じゃなくて京都洛外だ!と主張するわけです。ええ~そんなコト言ったって京都からどれくらいの距離だっけ?と急に気になったわけです。
まあ、言う程掛からないですよね。今回はこの本によると、比叡山の正面玄関は西阪本!雲母坂がメインストリートである!という話なので、京阪出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅に…更にそこから叡山ケーブル→ロープウェイと乗り継ぎました。まあ、ロープウェイだと時間掛かりませんが、凄い勾配です。普通に登山客が多かったので、やはりお山です。
前日まで雨が降っていたので、ものすごい勢いで煙ってました。普通に山岳信仰沸いてきますね…。
中世、叡山僧は強訴の為に、この雲母坂(きららざか)を度々下ったと言います。日吉社の神輿を担いでこの坂を下ったというので、もっと太い路だと思ったのですが普通に山道です。
ちなみに雲母坂の名の由来は、この坂には雲母質の石が多いことから…と言う説がありますが、成る程、矢尻でも作れそうな石が多かった様に思います。
中世では本地垂迹説に従って、比叡山の麓にある西阪本にある日吉社(ひえしゃ・ひよししゃ)は比叡山と一体化していたのですが、何事か朝廷と揉めたり貴族と揉めると、叡山僧は神輿を持ち出して、自分たちの要求を通そうとしました。貴族だけではなく、皇室も武士も動かぬはずの神輿が動くという怪異を恐れ、大体の要求は神輿を動かすことで通しています。
ちなみに御神輿の元祖は、この日吉社の神輿と言われています。政治的な運動が正にお祭りとして熱狂を発散する場であったのだ!と考えると感慨深いですね。
勿論、比叡山の位置は京都の北東、つまり艮=鬼門にあり、交通の観点からも京都の東の玄関口…要衝であった為、鎮護国家の重責を担っていました。要するに呪術的に首都を守る存在であったわけです。宗教的な権威はコレによって否応にも上がったことでしょう。
宗教的・呪術的権威に加え、中世では、比叡山は琵琶湖の漕運や、当時の穀倉地帯である北陸方面の輸送手段である馬喰(馬による陸上輸送)を独占されていたため、比叡山なくして京都は日常生活を送ることさえ不可能だったとまで言われています。実際、南北朝時代や戦国時代に於いても、比叡山と敵対した勢力が京都を長期に渡って影響下に置くことは難しかったようです。
先に挙げた本では、比叡山が中世において権勢を誇ったのは、洛外にある祇園社を勢力下に置いて、洛外の商工業の殆どを比叡山のコントロールしたことに原因があると見ています。
当然、比叡山僧も比叡山ばかりではなく、洛外に於いて活躍することが多かったようです。特に室町以前は商工業者に租税がかけられていませんでしたから、当時の日本では随一の人口を誇る京都の富が、比叡山に集中したと言うことになります。
比叡山が中世に於いて影響力を発したのは、宗教的・呪術的な権威もさることながら、むしろ経済力が圧倒的だったからこそ発揮し得たモノの様ですね。
比叡山の主である天台座主も、普段は雪深い比叡山山中ではなく、洛外でぬくぬく生活しており比叡山で問題が発生した際に駆けつける…というような状態だったようです。
マダマダ先は長いんで以後益々続きます。
と言うワケで、大学のOB会に参加がてら伏見稲荷を覗いてきました。あいにくの雨でしたし、十分くらいしか居なかったんですがw
学生時代は年末年始この神社でバイトとかしたので個人的には懐かしいです。まあ、初詣のヘルプに参加しただけなので知り合いが居るわけでもないわけですが。
伏見稲荷のお土産ストリートと言えば、以前は七味唐辛子しかなかった様な印象しかないんですが、今回は見かけませんでした。
伏見稲荷と言えばやはり千本鳥居。雨が降っていたので良い感じに暗くなってましたね…。微妙に雨よけにならないモンですね。
午前11時頃に撮ったんですが、雨が降ってたおかげでこんなんでした。歩いてて横から引っ張られたら多分泣いたでしょうねぇ…。
と言うワケで、7月に見に行ったモノの諸般事情のために中途半端にしか見られなかった誕生!中国文明 展が終了するので上京ついでに東京国立博物館で見てきました。正直、ちょっとバカにしてたンですが、改めて見直すとやはり来てるモノは良かったと思います。
まぁ、基本的に今回の展示は河南省から出土した文物だけと言うコトで、話題の曹操墓の博物館建設のための出稼ぎ感アリアリとか、河南省は文物の宝庫ながら一級品は中国国家博物館に入っているから大したものは来ないとか、色々言われたわけです。さして期待してませんでしたが、そこそこ面白い文物来てたと思います。
第一部 王朝の誕生 については…まあ、時系列になっていてわかりやすいですね。先史時代(いわゆる夏代)から後漢までズラーッと代表的な文物が並べてあってわかりやすいと思います。青銅器とか玉とか瑪瑙の装飾品とか銀縷玉衣とかわかりやすさ満載ですねwただ、青銅器あたりは綺麗すぎて複製品なのか?出土品なのか?はたまた偽造品なのか?色々考えながら見てしまいました。うーん…思い込みかも知れませんが、青銅ってもうちょっと器の形が変形して出土するって言う思い込みがあるのでどうも最近出土の青銅器って慣れません。
ただ、思ったよりも河南省から出土する青銅器は楚の様式のモノが多いと言うことが分かっただけでも展示を見た意義はあったと思います。
第二部 技の誕生 の切り口は面白かったデスね。特に№52炉 と№54 動物の解体 は目を奪われました。
№52炉はキャプションに拠ると漢墓から出土したとのことですが、炉を模した明器の上に蝉が載せられています。なんと蝉の炙り焼きを模した土器なワケです。前々から銀縷玉衣で埋葬された人物の口に玉蝉が噛まされていることが不思議だったんですが、あるいは漢代では蝉ってポピュラーで神聖な食べ物だったの?と考えるに足る文物です。キャプションに拠ると今でも河南省の一部の地域では蝉を食べるんだそうです。何か凄いですねw
一方、№54 動物の解体は家畜の解体風景を象った土器です。写実的とは言えませんが、かなり解体作業の一場面を具体的に描いています。ナカナカ動物の解体シーンなどは絵に描かれたりすることはないので珍しいですね。解体している人物の足下で犬が骨を囓っているのも何だかほほえましいです。
この二つの土器は同じ濟源市泌北電廠西窯頭工地10号墓からの出土なので、もしかすると墓主はそこそこの食いしん坊だったのかも知れませんね。
第三部 美の誕生 の初っ端が神仙の世界で、これも面白かったデス。失われた楚の神話体系で重要な位置を占めたとも言われる羽人をモチーフにした文物が多くてナカナカ楽しめました。特に№95羽人 の西洋の悪魔像のような造形はナカナカ面白かったデス。結局羽人って何なんだろうって言うコトを考えながら見るのも一興です。
№90-1,2,3 神面 は西周時代の青銅製のお面なワケですが、特に№90-1は横を向いた女性を模した面でパッと見た目が諸星大二郎っぽくてむしろビックリしました。これ見て図録買っちゃったんですけどね。
神仙世界の後は仏教世界に行っちゃうので正直興味は減退するんですが、№117三彩舎利容器 は北宋の年号である咸平元年と刻された三彩でちょっとドッキリしました。何となくイスラム様式の建物を模した舎利容器だったんですが、寡聞にして宋三彩という文物があることを知らなかったのでまじまじと見ちゃいました。
№136盟書 は史書でよく出て来る盟約の際に作られた盟書の実物。犠牲を捧げて盟約を交わした証拠となるモノで、ホントにあったんだ!という類のモノ。石に墨と毛筆で書かれたと言うコトだけど、どうやって残ったモノか気になりますw
№140楊国忠進鋋 と、№141王尚恭墓誌 は有名人が関わるキャッチーな文物ですね。№141 は范純仁の撰で司馬光の書ですね。図録でもキャプションでも司馬光ばっかり大きく取り上げてましたが、范純仁も有名人だと思うんですがねぇ…。
他にも面白い文物はあったモノの力尽きたので以上。まあ、今日で東京国立博物館でのこの展示終わっちゃうわけですが、お近くの博物館に来た際には見ても損はしないと思います。
ただ、各テーマごとに時代がリセットされてしまうので、場所によっては唐代の文物の横に殷代の文物…という具合になってしまって、何となくそのあたりが見づらいかな…という気はしますね…。