決戦、山海関─《明季北略》吳三桂請兵始末より─
と、ここで昭顕世子一行の山海関から北京までの行程を追う前にドルゴンが余裕綽々で李自成を迎え撃ったとする根拠となったと思われる記事をちょっと見てみましょう。
度々出している《明季北略》からです。 Read more
宣和堂の節操のない日記
と、ここで昭顕世子一行の山海関から北京までの行程を追う前にドルゴンが余裕綽々で李自成を迎え撃ったとする根拠となったと思われる記事をちょっと見てみましょう。
度々出している《明季北略》からです。 Read more
所定の目的は達成しましたが、折角なので続けて山海関の戦いのあたりを訳していきます。と言うわけで、山海関の戦いの当日です。
前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでて引っかかった部分のネタです。
まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i
ドルゴンが以逸待労の計で李自成をコテンパンにしたことになってますが、本当にそうだっけ?と言うお話です。
前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。
まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i
ドルゴンが兵法三十六計の以逸待労を以て李自成をいてこましたんやで!と言うことになってるけど、そうだっけ?と言うお話です。
岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 は読んでいて刺激が多く、特に外交面で興味深い本だったのですが、読んでいて一カ所引っかかる部分があったので、今回調べてみました。具体的には下に引用した文章です。
明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京に戻して首都の防衛に当たらせる。しかし間に合わなかった。(中略)長城東端の要衝、山海関にはドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は前方に李自成、後方に清朝と挟まれる形になって、窮地に立たされる。(中略)そこで呉三桂は、敵対する清軍に密使を送って、援軍を要請する。(中略)ドルゴンは思いがけず、敵軍の前線の司令官から密使が来たばかりか、その君主の最期まで告げられて、さぞかし驚いたに違いない。(中略)『東華録』という清朝の年代記にみえるこのやりとりは、互いの立場と知略をよくあらわしている。呉三桂はあくまでも前線を守る明朝の将軍として、対峙する敵国の清朝に援助を求めたにすぎない。(中略)ドルゴンは高圧的な態度に出て、あくまで呉三桂の降伏・帰順を強いた。i
この文章を見るに、
①:明滅亡、呉三桂は北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる
②:清朝のドルゴンは明の滅亡を知らずに山海関まで進軍
③:進退窮まった呉三桂は清朝に援軍の要請のため密使を送る
④:明の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要
…と言う時系列で岡本センセは理解しているようです。自分の記憶とかなり時系列が違うので驚きました。まぁ、岡本センセも清末の外交関係がご専門だからか、参考にした《東華録》にそんなことでも書いてあったのかしら…と思いながらなんか引っかかっていたんですが、昨日、別の調べ物をしていたところ、似たような文章に出くわしました。
1644 順治元年(崇禎17年) 4 ドルゴン、呉三桂の投降を受け出征し、山海関で李自成を撃破。ii
山川出版の『世界歴史大系 中国史4』の年表にもこう書かれると、自分の記憶が不安になってきましたので、今回、《明史》と《大清世祖章皇帝實録》で確認して見ました。