比叡山煙る
と、連休で帰省したのでついでに比叡山上ってきました。と言うのもここ数年、この本を読んで以来、自分の中で比叡山が熱かったからです。
どういう本かというと、中世は武士とか貴族じゃなくて、寺社勢力!中でも南都北嶺と言うよりむしろ比叡山が中心にいたんだよ!と言う内容の本ですね。何しろ比叡山の門前町は近江坂本じゃなくて京都洛外だ!と主張するわけです。ええ~そんなコト言ったって京都からどれくらいの距離だっけ?と急に気になったわけです。
まあ、言う程掛からないですよね。今回はこの本によると、比叡山の正面玄関は西阪本!雲母坂がメインストリートである!という話なので、京阪出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅に…更にそこから叡山ケーブル→ロープウェイと乗り継ぎました。まあ、ロープウェイだと時間掛かりませんが、凄い勾配です。普通に登山客が多かったので、やはりお山です。
前日まで雨が降っていたので、ものすごい勢いで煙ってました。普通に山岳信仰沸いてきますね…。
中世、叡山僧は強訴の為に、この雲母坂(きららざか)を度々下ったと言います。日吉社の神輿を担いでこの坂を下ったというので、もっと太い路だと思ったのですが普通に山道です。
ちなみに雲母坂の名の由来は、この坂には雲母質の石が多いことから…と言う説がありますが、成る程、矢尻でも作れそうな石が多かった様に思います。
中世では本地垂迹説に従って、比叡山の麓にある西阪本にある日吉社(ひえしゃ・ひよししゃ)は比叡山と一体化していたのですが、何事か朝廷と揉めたり貴族と揉めると、叡山僧は神輿を持ち出して、自分たちの要求を通そうとしました。貴族だけではなく、皇室も武士も動かぬはずの神輿が動くという怪異を恐れ、大体の要求は神輿を動かすことで通しています。
ちなみに御神輿の元祖は、この日吉社の神輿と言われています。政治的な運動が正にお祭りとして熱狂を発散する場であったのだ!と考えると感慨深いですね。
勿論、比叡山の位置は京都の北東、つまり艮=鬼門にあり、交通の観点からも京都の東の玄関口…要衝であった為、鎮護国家の重責を担っていました。要するに呪術的に首都を守る存在であったわけです。宗教的な権威はコレによって否応にも上がったことでしょう。
宗教的・呪術的権威に加え、中世では、比叡山は琵琶湖の漕運や、当時の穀倉地帯である北陸方面の輸送手段である馬喰(馬による陸上輸送)を独占されていたため、比叡山なくして京都は日常生活を送ることさえ不可能だったとまで言われています。実際、南北朝時代や戦国時代に於いても、比叡山と敵対した勢力が京都を長期に渡って影響下に置くことは難しかったようです。
先に挙げた本では、比叡山が中世において権勢を誇ったのは、洛外にある祇園社を勢力下に置いて、洛外の商工業の殆どを比叡山のコントロールしたことに原因があると見ています。
当然、比叡山僧も比叡山ばかりではなく、洛外に於いて活躍することが多かったようです。特に室町以前は商工業者に租税がかけられていませんでしたから、当時の日本では随一の人口を誇る京都の富が、比叡山に集中したと言うことになります。
比叡山が中世に於いて影響力を発したのは、宗教的・呪術的な権威もさることながら、むしろ経済力が圧倒的だったからこそ発揮し得たモノの様ですね。
比叡山の主である天台座主も、普段は雪深い比叡山山中ではなく、洛外でぬくぬく生活しており比叡山で問題が発生した際に駆けつける…というような状態だったようです。
マダマダ先は長いんで以後益々続きます。