比叡山根本中堂

 さて、今回も以下の本に従いながら比叡山に上ります。

 前回は比叡山境内としては、ケーブルカーに乗ってロープウェイに乗って雲母坂を下ってきただけで、実は前回は伽藍が全く出てきてません。

漸く伽藍が見えてきます

漸く伽藍が見えてきます

 ご存じの通り、比叡山元亀2(1571)年、織田信長に焼き尽くされてます。歴史は古いわけですが、建物はそう古いわけではありません。当然、これから紹介する建物も基本的には江戸以降の再建となります。
 で、信長比叡山焼き討ちの際に不邪淫戒…というか比叡山境内に女性が生活していたことが、信長比叡山攻めの口実を与えたと言います。現在的な感覚で言えば、一身を仏に捧げたはずの出家者たる僧侶が女性と…しかも大寺院境内で生活していると言うコトは抵抗があると思います。
 が、もともと比叡山に限らず、当時の大寺院には女性が多く生活していましたし、そもそも座主と言われるような身分の高い僧侶は妻帯していて、中には代々名門と言われる寺社座主に収まる家系も出てきます。つまり、出家者のハズの僧侶が、有力寺社の座主という地位を世襲したわけです。しかもコレが異端の宗派ではなく、中世では随一の勢力を誇った延暦寺園城寺三井寺)での話です。しかも、コレが当時非難されるコトはなく、むしろ僧侶の娘が貴族に嫁入りまでしていますから、座主のような地位の高い僧侶貴族と同等のクラスにいると考えられていた…と推測されます。
 自分としては、特定の寺院座主を特定の家系が世襲したわけではない…というあたりに引っかかりは感じるのですが、同格の寺院座主を同じ家系の僧侶ばかりが占めている…という状態だったようですね。
先に挙げた本では保元の乱後白河天皇のブレーンであった信西藤原通憲)に始まる家系は、その際たる例であるとされています。

阿弥陀堂と奥に法華総持院東塔

阿弥陀堂と奥に法華総持院東塔

 とはいえ、信長のように、この矛盾を突いて大義名分にして、仏教を弾圧しようとする人は昔からいたようです。師である法然が弾圧される様を見て、親鸞僧侶妻帯を大々的に認め、コレを明文化するわけです。親鸞の偉業は人間としてのを認めた点ではなく、事実上行われていた僧侶妻帯を堂々と追認した点にあるというわけですね。
 今日では浄土真宗に限らず、お坊さんは妻帯されている方は当然おられますし、大部分のお寺では住職は世襲されているわけですから、昔からこんなモンだったと思えば想像もしやすいかと思います。

東塔地区の石垣

東塔地区の石垣

 話は変わりますが、中世比叡山技術者が集うテクノクラートの街としても栄え、朝廷武士も大がかりな建築は寺社に属する技術者に依頼するほかになかったようです。事実、戦国時代に描かれた各種の洛中洛外図では、寺社は敷地が広く、屋根は瓦葺きであったり銅葺きであるのに対して、内裏将軍御所などは敷地が狭く、屋根は檜皮葺き…と言う状態なのもそういった事情からです。
 以上の事情から、戦国大名築城する際も寺社の技術者が関わったと考えられています。比叡山には堅牢な石垣があちこちに見受けられますが、どうやら中世山城として石垣を持つような建築は、この比叡山をもってその元祖とすべきだと言われています。
 実際何度も外敵に焼き討ちされても居ますが、何度も撃退しても居ます。要塞都市と言われる鎌倉は、実は要害としての役には立っていなかった…というのは最近の研究書では統一した見解なので(鎌倉幕府滅亡時も結局新田義貞の挙兵から一ヶ月も経たずに落とされてます)、実は比叡山の方が余程か要塞都市だったと言えます。

人が少なくて感じが良い戒壇院

人が少なくて感じが良い戒壇院

 あと、延暦寺が中世一貫として宗教的権威を保ち続けたのは、この戒壇院を持っていたからですね。僧侶となるには必ず菩薩戒僧侶として守るべき戒律)を受けなければなりませんが、授戒を行う戒壇院日本国内では一時、天下の三戒壇比叡山大乗戒壇のみだったからです。受戒をしていなければ私度僧として罰せられるわけですから、戒律壇を所有している寺院にはそう逆らうわけにはいきませんよね。
 まあ、この辺も貴族武家出身の学侶身分だけの話で、一般民衆出身の堂衆身分の人たちが菩薩戒など受けていたのか?と言うとそんなコトはなさそうですから、戒壇院があることが民衆に対して意味は持たなかったかも知れないですね。ただ、皇室貴族に対しては大いに意味があったことでしょう。

不滅の法灯がこの中に…

不滅の法灯がこの中に…

 で、その巨大な比叡山の中心は、伝教太師最澄が建立した一乗止観院の後身である根本中堂こんぽんちゅうどう)です。
 信長に限らず延暦寺と敵対した勢力(朝廷や武家だけでなく、むしろ他の寺社勢力)に何度も焼かれています。今の建物は信長叡山焼き討ちの後、江戸時代徳川家光の発願で再建された建物です。流石に気合いの入った再建でこの建物自体が国宝指定を受けています。根本中堂内部は撮影が禁止なので、外側からです。

根本中堂の中は撮影禁止なのです!

根本中堂の中は撮影禁止なのです!

 中側もかなり荘厳で、流石は国宝という威圧感がありました。勿論、伝教大師最澄によってもたらされたという、不滅の法灯も中に安置されていました。当番決めたり交換時間決めたらそこから油断が生じるのよ!油断大敵ぃ!…という、ありがたい解説も頂きました。

良い感じに苔生してます

良い感じに苔生してます

  境内はかなり広い上に、自分の好物である苔がそこら中に生えててナカナカの雰囲気でございました。ただ、広大すぎて東塔地区しか回れませんでした…。全部回ろうとすると体力的にも2~3日必要かと…。

向こうに見えるのが瀬田の唐橋…という話です

向こうに見えるのが瀬田の唐橋堅田の琵琶湖大橋…という話です

 昼過ぎには快晴だったので、東坂本側から琵琶湖がよく見えました。これだけ近ければ琵琶湖の漕運を制御することはむしろ当然とも言えますね…。琵琶湖漕運に加えて京都までの輸送手段である馬喰比叡山の影響下にありましたから、商業という特性上、近江商人比叡山の制御下にあったのではないかと…というか元々比叡山荘園から近江商人が出てきたんなら無関係ではないのか…むしろ一体と考えて良いんですかね?

青空に映えるドヤ顔

青空に映えるドヤ顔

 と、東塔地区を後にして、坂本ケーブルに乗って東坂本に降りるのです。まだ続くんですなw

比叡山煙る

 と、連休で帰省したのでついでに比叡山上ってきました。と言うのもここ数年、この本を読んで以来、自分の中で比叡山が熱かったからです。

 どういう本かというと、中世武士とか貴族じゃなくて、寺社勢力!中でも南都北嶺と言うよりむしろ比叡山が中心にいたんだよ!と言う内容の本ですね。何しろ比叡山門前町近江坂本じゃなくて京都洛外だ!と主張するわけです。ええ~そんなコト言ったって京都からどれくらいの距離だっけ?と急に気になったわけです。

雨上がりで比叡山が煙ってました

雨上がりで比叡山が煙ってました

 まあ、言う程掛からないですよね。今回はこの本によると、比叡山の正面玄関は西阪本雲母坂がメインストリートである!という話なので、京阪出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅に…更にそこから叡山ケーブルロープウェイと乗り継ぎました。まあ、ロープウェイだと時間掛かりませんが、凄い勾配です。普通に登山客が多かったので、やはりお山です。
 前日まで雨が降っていたので、ものすごい勢いで煙ってました。普通に山岳信仰沸いてきますね…。

煙る雲母坂!オオオオ!

煙る雲母坂!オオオオ!

 中世叡山僧は強訴の為に、この雲母坂きららざか)を度々下ったと言います。日吉社神輿を担いでこの坂を下ったというので、もっと太い路だと思ったのですが普通に山道です。
 ちなみに雲母坂の名の由来は、この坂には雲母質の石が多いことから…と言う説がありますが、成る程、矢尻でも作れそうな石が多かった様に思います。

雨上がりだったので足下がちょっと悪かったデス

雨上がりだったので足下がちょっと悪かったデス

 中世では本地垂迹説に従って、比叡山の麓にある西阪本にある日吉社ひえしゃ・ひよししゃ)は比叡山と一体化していたのですが、何事か朝廷と揉めたり貴族と揉めると、叡山僧神輿を持ち出して、自分たちの要求を通そうとしました。貴族だけではなく、皇室武士も動かぬはずの神輿が動くという怪異を恐れ、大体の要求は神輿を動かすことで通しています。
 ちなみに御神輿の元祖は、この日吉社神輿と言われています。政治的な運動が正にお祭りとして熱狂を発散する場であったのだ!と考えると感慨深いですね。

流石に石塔とかもあるのです

流石に石塔とかもあるのです

 勿論、比叡山の位置は京都の北東、つまり鬼門にあり、交通の観点からも京都の東の玄関口…要衝であった為、鎮護国家の重責を担っていました。要するに呪術的首都を守る存在であったわけです。宗教的な権威はコレによって否応にも上がったことでしょう。

思ったよりも長い道のり

思ったよりも長い道のり

 宗教的・呪術的権威に加え、中世では、比叡山琵琶湖漕運や、当時の穀倉地帯である北陸方面の輸送手段である馬喰馬による陸上輸送)を独占されていたため、比叡山なくして京都は日常生活を送ることさえ不可能だったとまで言われています。実際、南北朝時代戦国時代に於いても、比叡山と敵対した勢力が京都を長期に渡って影響下に置くことは難しかったようです。

やっと建物が見えてきました

やっと建物が見えてきました

 先に挙げた本では、比叡山中世において権勢を誇ったのは、洛外にある祇園社を勢力下に置いて、洛外の商工業の殆どを比叡山のコントロールしたことに原因があると見ています。
 当然、比叡山僧比叡山ばかりではなく、洛外に於いて活躍することが多かったようです。特に室町以前商工業者に租税がかけられていませんでしたから、当時の日本では随一の人口を誇る京都の富が、比叡山に集中したと言うことになります。

人里が近づいたよ!

人里が近づいたよ!

 比叡山中世に於いて影響力を発したのは、宗教的呪術的な権威もさることながら、むしろ経済力が圧倒的だったからこそ発揮し得たモノの様ですね。
 比叡山の主である天台座主も、普段は雪深い比叡山山中ではなく、洛外でぬくぬく生活しており比叡山で問題が発生した際に駆けつける…というような状態だったようです。

道のりは長い…。

道のりは長い…。

 マダマダ先は長いんで以後益々続きます。

伏見稲荷神社

 と言うワケで、大学のOB会に参加がてら伏見稲荷を覗いてきました。あいにくの雨でしたし、十分くらいしか居なかったんですがw
 学生時代は年末年始この神社でバイトとかしたので個人的には懐かしいです。まあ、初詣のヘルプに参加しただけなので知り合いが居るわけでもないわけですが。

信楽焼と狐さん

信楽焼と狐さん

 伏見稲荷のお土産ストリートと言えば、以前は七味唐辛子しかなかった様な印象しかないんですが、今回は見かけませんでした。

延々と鳥居が回廊のように並ぶ千本鳥居

延々と鳥居が回廊のように並ぶ千本鳥居

 伏見稲荷と言えばやはり千本鳥居。雨が降っていたので良い感じに暗くなってましたね…。微妙に雨よけにならないモンですね。

逢魔が時にはご用心

逢魔が時にはご用心

 午前11時頃に撮ったんですが、雨が降ってたおかげでこんなんでした。歩いてて横から引っ張られたら多分泣いたでしょうねぇ…。

ガンダム撮りにデジイチを…

 と言うワケで、ボーナス出たことだし…っと、何となく購入したデジイチ。折角望遠レンズもつけたことだし何か撮りに行こうと思ったわけですが、イイ被写体というと…静岡在住のメリットを生かしてとりあえず公開前のガンダム撮りに行きました。コンデジと撮り比べてどっちがあってるのか?とか確認しにいこうかと思ったワケでw
 とりあえず、コンデジの写真から。

コンデジ 東静岡駅からガンダム

コンデジ 東静岡駅からガンダム

コンデジ 東静岡からガンダム2

コンデジ 東静岡からガンダム2

コンデジ 横からガンダム

コンデジ 横からガンダム

コンデジ ズーム無し後からガンダム

コンデジ ズーム無し後からガンダム

コンデジ 後からガンダム

コンデジ 後からガンダム

コンデジ 前からガンダム

コンデジ 前からガンダム

コンデジ 時間よ…止まれ!

コンデジ 時間よ…止まれ!

コンデジ 前からガンダム

コンデジ 前からガンダム

 一方こっちがデジイチ。望遠レンズがついてるだけにハッキリクッキリ。

デジイチ 東静岡からガンダム

デジイチ 東静岡からガンダム

デジイチ 東静岡からガンダム2

デジイチ 東静岡からガンダム2

デジイチ 時間よ…止まれ!

デジイチ 時間よ…止まれ!

デジイチ 時間よ…止まれ!2

デジイチ 時間よ…止まれ!2

デジイチ 後からガンダム

デジイチ 後からガンダム

デジイチ 望遠で後頭部

デジイチ 望遠で後頭部

デジイチ 後からランドセル

デジイチ 後からランドセル

デジイチ 前からガンダム

デジイチ 前からガンダム

 カメラマンに腕がないから、意外とコンデジで撮った写真の方が気に入った写真が撮れたりwwでも、デジイチの方が思った通りの写真は撮れるって言うコトは分かりました。

 っと、報道見るに一般公開されたら大変な混雑になってるみたいですねぇ…。

NHKドラマ 蒼穹の昴 第12回 それぞれの戦(いくさ)

 と言うワケで今回は前回に引き続き珍妃のお仕置きの回ですね。写真のことで皇后にいびられた珍妃は、李蓮英の売官のことをそれとなーく光緒帝に告げ口して、却って分を超えて政治に口出ししたことを慈嬉太后に責められて罰を受けます…。

 と言うコトになっていますが、史実に残る事件は真逆ですね…。ちょっと長くなりますが引用します。

 (前略)長春宮の回廊を飾る『紅楼夢』に壁画である。
 透視図による斬新な構図と巧妙な遠近法、一草一葉にいたる細密絵画の手法は、あたかも長春宮が『紅楼夢』の世界の中に存在しているかのような錯覚をもたらす。
 中国の『源氏物語』ともいわれる曹雪芹の長編小説『紅楼夢』は、帝王の封建制を批判したという理由で乾隆が「禁書」としたが、晩清にいたって西太后の愛読書となり、爆発的な流行をみた。西太后の熱中ぶりを知る瑾妃と珍妃の姉妹が、西太后六十歳の賀の贈物として、太后の居宮を飾るべく趣向を凝らしたのであろう。清末の進士で宮廷事情に通じた九鐘主人こと呉士鍳の著『清宮詞』の珍妃を詠った部分の注として「珍、瑾二妃は畫苑をして紅楼夢大観園を畫かしめ、内廷臣に詩を題せしむ」の添書がある。姉妹が発案して大観園の絵画を描かせただけでなく、さらに内定の官人に詩文を求めていたことが知られる。(中略)
 まさに才気煥発を謳われた珍妃姉妹が西太后への恭順を示す「気のきいた贈物」であった。しかしこの抜群のアイディアが王臣達の疑念を招く結果になる。これだけの作品に要した金銭的負担───いかに皇帝の寵愛をうけているとはいえ、この正月、妃に昇格したばかりの姉妹ではないか。その封銀でとうてい賄えるはずもないこの制作費は、いったいどこから出たのだろうか、と。1

 (前略)西太后六十歳の賀の恩恵として珍嬪とその姉は妃に昇格した。その感謝のしるしとして秋の祝典に披露された『紅楼夢』の障壁画は、その抜群の着想で廷臣たちをあっと言わせた。しかしその直後、もう一度全宮廷をあっと言わせる事件が生じる。姉妹そろって妃から無品の貴人に二階級降格させられたのである。(中略)
 その問題とは、口利きによる収賄「売官」であった。2

 と言うワケで、慈嬉太后に懲罰を受けたのは出しゃばって売官を糾弾したからではなく、還暦祝いの為に売官して儲けたためだったわけですね。このスキャンダルが発覚すると、芋蔓式に珍妃のお付きの太監や慈嬉太后お付きの太監も罪を問われて、死刑に処されています。となると、この事件の二年後には妃に復帰している珍妃瑾妃はやはり光緒帝の寵愛あつかったと言うコトでしょうか…。もしくはスキャンダルを利用してお仕置きされたモノか…。どっちもありそうですけど。

2008年11月23日 宣和堂撮影 長春宮扁額

2008年11月23日 宣和堂撮影 長春宮扁額

長春宮紅楼夢長廊

長春宮紅楼夢長廊

 と、長春宮の写真です。いつもの如く写真はあるんですが、紅楼夢障壁画は絵画保護のためにガラスがビッチリはめ込まれているので、あんまりきれいに撮れないんですよねぇ…。暗いしフラッシュ弾くでまともに撮れたことがありません。自分の技術ではコレが精一杯。

 で、個人的には待ちに待ってた李鴻章が漸く(名前だけ)登場するわけですが…原作と扱いが180°違います……。また大陸で評価変わってきたんですかねぇ…。近代化の英雄=ジェネラル・リーではなくどっちかというと、旧態依然とした漢奸買弁のイメージで進めるみたいですねぇ…。

 代わって原作では名前が出て来ない馮子材清仏戦争の英雄として出てきます。自分は寡聞にして知らなかったので、「ええ~清仏戦争って言ったら黒旗軍劉永福じゃないの?」とガッカリでしたが、調べてみると実在の人物で太平天国関係では有名な人だった模様…。光緒帝とも縁があるので、あの文脈なら劉永福ではなく馮子材なんだろうなぁ…と納得。ちなみにこんなおじいちゃんだったみたいです。

《清史図典》第十二冊 光緒 宣統朝 下 P.222

《清史図典》第十二冊 光緒 宣統朝 下 P.222

 今でも公園で太極拳してそうなおじいちゃんですが、六十超えてベトナム遠征してフランス軍の大砲の中に矛持って突っ込んで撃退したり、七十超えても義和団が迫る北京に駆けつけようとしたりする元気なおじちゃんだったみたいです。知らないコトっていっぱいあるんだなぁ…。勉強になりました。

  1. 入江曜子『紫禁城──清朝の歴史を歩く』岩波新書 P.147~148
  2. 入江曜子『紫禁城──清朝の歴史を歩く』岩波新書 P.156
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