ホンタイジの接待狩猟

 と言うワケで、GoogleBooksで陳捷先センセの《皇太極寫真》を読んでたら、 面白い記事があったのでメモ。

昔太祖時,我等聞明日出獵,即豫為調鷹蹴毬。若不令往,泣請隨行。今之子弟,惟務出外遊行,閒居戲樂。在昔時無論長幼,爭相奮厲,皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少,人各牧馬披鞍 ,析薪自爨,如此艱苦,尚各為主効力,國勢之隆,非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵,或言妻子有疾,或以家事為辭者多矣,不思勇往奮發,……惟偷安習玩,國勢能無衰乎?i

 出典書いてなかったんですが、ネットで検索したら、どうやら、《太宗文皇帝聖訓》からの引用みたいですね。

崇徳元年丙子、七月丁卯。上諭。曰諸固山貝子爾等敬聽。朕言「昔太祖時、我等聞明日出獵、即豫為調鷹蹴毬。若不令往、泣請隨行。今之子弟、惟務出外遊行、閒居戲樂。在昔時無論長幼、爭相奮勵、皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少、人各牧馬披鞍、析薪自爨、如此艱辛、尚各為主效力、國勢之隆、非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵、或言妻子有疾、或以家事為辭者多矣、不思勇往奮發、而惟耽戀室家、偷安習玩、國勢能無衰乎?」ii

 句読点は《皇太極寫真》を参考にしてます。何が書いてあるかというと…

適当な訳⇒崇徳元(1636)年、7月丁卯。陛下は諸グサ ベイセ等にこう訓示された。「昔、太祖皇帝の御代、我等は明日猟に出ると聞けば、道具や鷹の準備をしたものだ。もし、猟に同行する命令がなければ、泣いて随行を願い出たものだった。今時のお前等は、ただ外に出て遊んだり、家の中でどんちゃん騒ぎするだけだ。昔は年齢に関係なく、お互いにいがみ合っていても、一旦猟に出ると皆一同に喜んだものだ。こういう時は供回りの者も少なく、各々が飼い慣らした馬に鞍を置いて、自分たちで薪を割って自炊したものだ。このように苦楽を共にして主人につくしたので、国勢は高まったのだ。今のお前等ときたら、猟に出ると言われたら、やれ妻子が病気でとか、やれ家事が忙しくてと何かと理由を付けては辞退する者が多い。進んで猟に出ようとも思わず、ただ家の中で思いに耽ってだらだらしているだけで、国勢が衰えないと言うコトがあるだろうか?」

 最近の若いモンは…と言う感じに書かれてますけど、カリスマ君主であったヌルハチと陰険あら探し大好きマンのホンタイジでは、一緒に猟に出るにしても部下のテンションは違ったって事では…w以前iiiも触れましたけど、多分、ホンタイジは一緒に接待ゴルフで回りたくないタイプの人だったように自分は思います。史書を見るに、猟自体は皆さん好きだったようですし。

  1. 陳捷先《皇太極寫真》遠流出版 [戻る]
  2. 《太宗文皇帝聖訓》卷一 [戻る]
  3. 『八旗制度の研究』メモ1 ─ドゥドゥの愚痴─ [戻る]

李自成─駅卒から紫禁城の主へ

 と言うワケで、佐藤文俊『李自成─駅卒から紫禁城の主へ(世界史リブレット人041)』山川出版 をザラッと読んだので、自分的にメモを。

 まあ、Twitterで皇太極(こうたいきょく)とか、多鐸(トド)とか、マンジュ関係のあまりにあんまりで統一性がないルビで弄ったものの、明末の流寇対策については分かりやすかったですし、怪しげな伝説が多い李自成本人に対しては堅実な記述が多かったと思います。特に明末の崇禎帝の取った施策というのが分かりやすかったので、自分用にメモ。
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ダイチン・グルンの歴代モンゴル・ハーン号?(2016/05/22追記)

※この項を書いた後、コメントでご指摘のあったようにダイチン・グルンのハーン号はホンタイジまでで、順治帝以降のの称号については元号のモンゴル語訳でしかなかったようです。本来なら全面改定すべきですが、コメント自体が興味深かったのでモンゴル語の発音だけご指摘通り直してあとはそのまま残します。

 昨日の杉山センセ本のメモでホンタイジの本名に触れましたが、あの本では次にモンゴル・ハーン号に付いて触れられていたので、他の皇帝についても気になって検索してみたところ、中文Wikipediaに蒙古大汗という項目があったので、メモ。正直どこから取ってきたのかよく分からない。ちなみに、カタカナ表記とアルファベット表記は自分が適当につけたモノなので、間違ってる可能性は大いに大デス!
 あと、ヌルハチのモンゴルハーン号も補ってみました。
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