NHKドラマ 蒼穹の昴 第10回 結婚祝い
と言うワケで、原作ではサラッと結婚していた梁文秀と楊喜禎の娘(ドラマ版では楊青筠)の結婚式がメインのお話。だから、こんないらん話する暇があったら郎世寧とジョーホイ(兆恵)の出番を削るなと…。
で、同時に醇親王・奕譞が病に倒れ、光緒帝は実父を見舞いたいけど、慈嬉太后に気兼ねして言い出せない…という所を、春児が巧いこと京劇を絡めて説得するのが見所ですね。原作ではサラッとしてた部分ですが…。
《故宮珍蔵人物照片薈萃》紫禁城出版P.62
←醇親王・奕譞と→恭親王・奕訢兄弟の写真です。光緒15(1889)年、それぞれ五十才と五十八才の時に恭親王府で撮られた写真です。
この写真だと醇親王はやせていますが、他の写真を見るとボーとしてちょっとふっくらしてます。ドラマの役者さんはヒゲの形はよく似てましたね。醇親王は良くも悪くもおっとりした性格で、光緒帝が即位した際も後見人として政治に参与しますが、あまり目立った事はしません。
一方の恭親王は咸豊帝の兄弟で次期皇帝候補とされていましたが、才気走ったところが父帝である道光帝から嫌われたモノか、太子密建儲ではワザワザ奕訢を恭親王に封じて、奕詝(咸豊帝)に皇位を継承させるとまで書かれたくらいデス。
しかし、親の期待を受けた咸豊帝は太平天国の乱やアヘン戦争で揺れる国内外の事件に対して無為で、アロー号事件で北京が焼け野原になるのを尻目に、自分は熱河避暑山荘で京劇を見ながら死んでしまいます。
次期皇帝として有力視されたくらいですから、有能であった恭親王はこの機会に慈安太后、慈嬉太后と組んでクーデターを起こして、顧命大臣たる怡親王・載垣、鄭親王・端華、粛順らを粛正します。この時、このクーデターが起こっていなければ、同治帝も祺祥帝と呼ばれていたんだなぁ…とか、その程度ですが(粛正された顧命大臣が定めた年号が祺祥だったので、排除された後は勝者たる東太后・慈安と西太后・慈嬉が共同統治する…という意味の同治という年号に収まったという経緯がある)。
実質的に慈嬉太后の治世を担っていた人物でありながら、色々と貧乏くじを引かされた感が否めません。
ちなみに、咸豊帝が皇四子、恭親王が皇六子、醇親王が皇七子です。なので、ドラマでもこの二人は六哥とか老七と呼び合って、見舞いに来た慈嬉太后のことを四嫂と呼んでも良いかとか言ってるんですね。醇親王、皇太后陛下と呼び合うよりは、ファミリー感漂う呼び名なワケです。
さて、この見舞いのために仕組まれた京劇が〈四郎探母〉だったわけですが、この演目も慈嬉太后ゆかりの演目ですね。
ドラマでは佘太君と楊四郎こと楊延朗が再会する場面でしたが、むしろ慈嬉太后が自己を投影させたのは四郎の義母である蕭太后の方ですね。当時の京劇を演じる人も異民族の皇太后という事で、慈嬉太后と蕭太后を重ねたみたいですが、慈嬉太后自体もそう見られることを好んだそうです。
うろ覚えですが、〈四郎探母〉の元々の結末は、楊四郎の正体が明らかになり、なおかつ実の母に会いに行っていたことを知ると、蕭太后は怒りにまかせて楊四郎を処刑する筋だったようです。慈嬉太后はこの結末を改めさせ、鉄鏡公主の懇願で楊四郎を救う筋に変えたみたいですね。
ちなみに、満洲八旗の子弟はそもそもが軍隊なので副業を禁じられていました。裕福な旗人は商業にも産業にも進出できなかったため、芝居に打ち込む人が多かったようです。芝居を見に行ったり、自宅に呼ぶだけでは飽きたらず、自分で演じたり、脚本を書いたり、仕舞いには自前の芝居小屋を建てたりしたみたいです。なので、民国時期の俳優には、満洲族出身者が多いらしいです。
で、芝居後に慈嬉太后は春児と話しながら、美容ローラーで顔を手入れしていました。あんなのあるわけないじゃん!と思うかも知れませんが、実際に美容ローラーは慈嬉太后の発案とする説もあります。北京故宮の展示を見たような気もしたんですが……写真あったと思ったら撮ってないですね…。あんだけ撮ってて何でコレを撮ってないのかなぁ…。