マンジュ史書を整理してみた

 と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。

《満洲実録》ヌルハチ首実検

 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。
 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。
 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語チベット語モンゴル語ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むしろ、《満洲実録》も置いてよ!とか思うモノの我慢。

 で、Twitterで満文老檔について発言した時に教えて頂いた本でサクサク検索したところ、疑問が氷解です。

満文老檔
 《満文老檔》と言う名称自体が、そもそも内藤湖南が名付けた便宜上の名前であって、表題は単に《Tongki fuka sindaha hergen i dangse(トンギ フカ シンダハ ヘルゲン イ ダンソ=有圏点檔案)》若しくは《Tongki fuka akū hergen i dangse(トンギ フカ アク ヘルゲン ダンソ=無圏点檔案)》。発見当初は表題だけ見ても何の書物かは分からなかったみたいですね。ただ、自分レベルではこの無圏点本有圏点本の違いはよく分かりません。調べて見ると、内容はともかく冊数と題材は同じようですね…。
 ものの本によると、ヌルハチホンタイジ時代の記録としてはもっとも詳細で重要な根本記事とされているようです。ただ、乾隆年間に編纂されたモノなので、清朝に都合の悪いことはさっくり削除されているわけです。漢化された皇帝という見方をされることの多い乾隆帝ですが、マンジュ視点に立った場合、民族主義を奨励した指導者と言う評価も出来るんですよね。

満洲実録
 《満洲実録》の売りは絵が載ってるコトなので比較的図版が引用されていますね。
 内容については、順治年間に作成された《清太祖武皇帝実録》とほぼ同じ…ここで注意したいのが、現行本の《太祖実録》が乾隆年間の重修本である点ですね。後の時代には忌避しているコトでも採録しているようです。でも、満洲音の漢字表記は乾隆年間の方式に改められているようです。また、絵画については《太祖実録戦図(《清太祖実録戦跡図》?)》の引き写しみたいですね。乾隆年間にいいとこ取りして編纂されたモノの様です。やはり絵画については元絵の《太祖実録戦図》を引いた方が良いみたいですね…。まあ、見当たらないのですが…。どうやら、盛京崇謨閣にはマンジュ文本漢文本との二組が収蔵されてたみたいです。…と、参考図書には書いてますが、書影を見るに戦図に関しては満漢合壁の模様ですね。

清朝実録
 現在中華書局から出版されている《清実録》は巻頭に《満洲実録》を置き、以後《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》、《徳宗実録》、《宣統政紀》が収録されているようです。これは全て漢文の模様。
 この内、盛京・崇謨閣にあったのは、マンジュ文漢文の《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》の模様…です。で、内藤湖南盛京を調査して《満文老檔》を発見したのは、明治38(光緒31、1905)年ですから、光緒5(1879)年成立の《穆宗実録》までを発見したと考えて良いようですね。《徳宗実録》は中華民国10(1921)年成立ですし、《宣統政紀》に至っては成立年代も良くわからんみたいなので、発見されるわけがないわけです。一応、満洲国務院が《大清歴朝実録》として、これらの《実録》を1937年に刊行した際には、《徳宗実録》と併せて《宣統政紀》が収録されているので、その頃には成立はしていたと考えて良いんでしょうけど…。
 北京皇城内皇史宬にはマンジュ文モンゴル文漢文実録が保管されていたようですが、やはりそれも《穆宗実録》まで。《徳宗実録》は漢文のみ現存しているようですが、マンジュ文はなかったのかも知れませんね…。自分が漠然と、マンジュ・グルンと言うか、清朝がまるきり漢化されたのは光緒年間じゃないかと思うのは、こういう所なんですが、まあ、今回は関係ないので触れません。

旧満州檔》《満文原檔
 で、乾隆年間に編纂された《満文老檔》の元になった檔案が、1931年に北京内閣大庫から《満文老檔》と一緒に発見されたようです。この檔案のことを、日本では《旧満州檔》と称していたわけです。で、あまり研究がなされないうちに、盧溝橋事件が勃発して日本軍の侵攻が始まり、かの有名な文物南遷の際に、この檔案も北京から逃避行に出たわけですね。最終的に台北故宮博物院に収蔵され、《満文原档》という題名で影印出版されたみたいです。この際に《満文老檔》には含まれていない、天聰9年部分の檔案、所謂《天聰九年檔》も収録されたようです。

 とまあ、自分が疑問だった史書類はこれであらかた疑問は氷解という感じデス。この辺の資料はwikiや百度でも記事が足りないので、大変スッキリしました。ちなみに参考資料は以下の通り。

神田信夫・山根幸夫 編『中国史籍解題辞典』燎原書店
神田信夫『満学五十年』刀水書房
清朝とは何か』藤原書店

 

※ご指摘によりマンジュ文献のローマ字変更しました(6/26)

金沢文庫→称名寺

 と言う次第で、昨日の続きです。本来は鎌倉で大きな行事をやっていたようなので、そこに行くべきだったんですが…まあ、京急追浜駅に辿り着いてしまった上に、残り時間にもそう余裕はなかったので、のんびり金沢文庫から称名寺に抜けるコースを選択しました。

かねさわぶんこ!

 と言うワケで、金沢文庫です。ちなみに、歴史的な読み方としては、金沢(かねさわ)流北条家が本拠である金沢郷(かねさわごう)に築いた書庫のことなので、歴史的には”かねさわぶんこ”と読みます。ただ、地名としては”かなざわぶんこ”と読むわけでややこしいんですが、北条贔屓としては、やはり”かねさわ”と読みたいですねw
 で、ここでは歴代得宗、歴代執権や歴代連書花押の入った系図などをボンヤリ見ながら、鎌倉幕府の滅亡に思いを馳せたりしましたw潔すぎるにしてもほどがあるwwwやっぱり、鎌倉幕府承久の乱蒙古襲来幕府滅亡が大きな見せ場ですからねwww

称名寺の浄土式庭園

 で、称名寺の浄土式庭園です。金沢文庫自体が称名寺の庫裏の様なモノだったので、金沢文庫称名寺のすぐ裏手にあるわけです。まあ、知名度から言うと、全然金沢文庫の方が高いわけですがw

浄土式庭園の赤橋から仁王門

 こないだ来た時は橋が修復中だったのでかなり印象違いますね。池は浅くて濁っていましたが、鯉や亀が大量にいて何故か和みました。

亀って組み体操するのね…


 見つけるまでもなく必ず視界に入る感じデス。組み体操までしてるくらいですしw

江戸時代再建の釈迦堂

 鎌倉頼朝邸と考えられる大倉幕府跡にあった頼朝持仏堂頼朝死後に法華堂としたり、北条義時持仏堂大倉薬師堂となって覚園寺の元となったりしています。この時代の寺院の一つの形態として、有力者の邸宅内に持仏堂(仏教的な建築物)が、主の死後仏教的な堂宇として使われ、時には邸宅自体が寺院として整理されると言う類例が多いので、称名寺も元は金沢流北条氏の邸宅内の持仏堂か、若しくは邸宅そのものであった可能性は高いと思います。中でも、この釈迦堂は藁葺きの正方形状の建物で、規模こそ違うモノの覚園寺薬師堂を彷彿とさせます。実に鎌倉っぽい気がします。気のせいだとは思いますがw
 気になって手元にあった松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く 源頼朝から上杉謙信まで』中公新書 パラパラ捲ったら、P.78の元亨3(1323)年に書かれた称名寺大結界絵図が載ってたんですが、この絵の中にはこんな建物見当たらないですねぇww

仁王門に三鱗

 まあ、それより何より三鱗です。流石に開基北条実時だけあって、境内にはふんだんに三鱗があしらわれています。見つける度に奇声を上げながらカメラに納め捲くりました。以下はその一部ですw

香炉にも三鱗

 実に映える…。

石仏にも三鱗

 仏様にも三鱗です。

希少価値を求めない、実に堂々たる三鱗ワールド

 屋根から降る三鱗の雨あられです。

赤門金地の三鱗

 鎌倉に出られなかったのは残念ですが、実に三鱗フルな休日を送れまして、実に満足でしたwやはり最後は赤門の表にあしらわれてる金地の三鱗ですw

モンハンロードを抜けて神武寺に…

 と言うワケで、いつも通りに上京ついでふらりと鎌倉方面に行ってきました。今回は神武寺鷹取山摩崖仏金沢文庫称名寺というコースです。

 で、今回の目的は一応、神武寺摩崖仏を見て回ると言うコト以外はノープランの適当なモノです。鎌倉で行事があったみたいですが、人が多いので回避したくらいなモノなのです…。

ここからが長い…

 ネットで検索すると、神武寺までは京急神武寺駅からも、JR東逗子駅からもそれぞれ三十分程度と書かれていますが、実際はJR東逗子駅の方がこの写真の場所までは近いです……。が、問題はこの目印を過ぎたところから始まるわけで…。

モンハンロード始まり

 いきなり、モンハンみたいな感じの道になります……。気持ち、目印から山門までで三十分はありそうです…。結構足場の悪い獣道風の道無き道をズンズン進みます。人もまばらで本当に観光スポットなのか迷いながら進みます。女性は絶対にズボン履きでトレッキングシューズなり装着で望んだ方が良さそうです。参道じゃなくて、きつめのハイキングコースだと思った方が良いと思います。

見た目よりも小さい感じの山門です

 境内はそんなに広くはありません。が、やはり獣道をズンズン進んできた甲斐あってか静謐な場所ではあります。まあ、自分ら行った時はボーイスカウトのお子様達が奇声上げながらかけっこしていたので、静謐とはほど遠い感じでしたが…。

静かなたたずまい

 絵で見るとナカナカナイスですね。小さいお堂も割と映えます。ただ、結構来るまでに気合い入れなきゃいけないので、参拝客よりもハイキングしてる人の方が多いように感じましたが…。で、見るモノもそうないので、ここから更にハイキングコースを伝って鷹取山摩崖仏に行きます。

モンハンの道は続く…

 が、ここからも更に三十分くらいのモンハンロードが続きます。平たい道で三十分を考えると、割と足下がおぼつかない道を行かなければならないので、体力勝負です。それなりに楽しいのですが、写真撮ってると転落しそうな気もしたのであまり写真も撮らず…(考えればむしろ撮っておくべきだったんですが…)。鎖つたって登るような箇所もあるので、そこそこ急な場所もありました。……が、先ほどのボーイスカウトも楽勝でついてきてたので、小学生でも踏破出来るコトは出来るんですがねw

遺跡じみた摩崖仏

 ついつい途中で忘れがちでしたが、この鷹取山には摩崖仏を見に来たのでありました。昭和に入ってから作られたみたいなんで、テーマパーク程度のありがたみしかないかも知れませんが、ナカナカ大きい仏さんです。
 途中、ロッククライミングに興じる人々が大勢おられましたが、ここはそう言う所みたいですね。垂直に切り立った岩に原生林じみた植物群は、どうにも鎌倉中とは違った地質植生を感じさせました。ここだとやぐらは作れそうにないです。

モンハンっぽくありつつも、ワンダと巨像っぽくもあるw

 今度はむしろ、森メインで来ても言いカモ!と思う程度には圧倒的でしたw

辮髪の変遷

 と、久しぶりに辮髪ネタです。以前、金銭鼠尾と言う記事で、辮髪の変遷について触れました。うーん、正直あそこで書かれたような具合に変遷してきたかというと、疑問は残ります。というか、事実とは違うのではないかという気がしています。
 と、以下に参考資料をズラズラ上げてみましょう。

 まず、前期とされる時期の絵画資料デス。

 ダイ・チングルン…というかマンジュ・グルン建国当初の基本資料である所の所謂《満洲実録》です。

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分i


 いきなり生首で恐縮ですが、絵入りの史料にもかかわらず意外と辮髪を真正面から書いた絵が少ないです。基本的に帽子を被るのが満洲旗人の嗜みですから、事実がどうあれ絵画に描かれるのは帽子なり兜を被った状態のモノが殆どですねぇ…。まあ、自分も手元に史料を持っているわけではないので他の確認が出来ていないので何とも言えませんが…。
 絵はヌルハチに敵対したジュシェン(女真)の実力者・ニカンワイランの首級をヌルハチが検分しているところです。敵対していたとはいえジュシェンですから、当然辮髪ではありますが、所謂ラーメンマン辮髪かというとそうは見えませんね…。
 精々があの記事で主張するところの中期あたりの辮髪と言うことになるでしょうか?

《満洲実録》〈齋薩献尼堪外蘭図〉部分ii


 同じ絵から他のサンプルを見繕ったモノの…あまりよく分かりません。でも、所謂ラーメンマン辮髪ではないように思えます。頭のてっぺんではなく、後頭部の毛を残す感じデスよね。

《満洲実録》〈生擒哈達部首領図〉iii


 もう一つ、違う絵から見つけてみましたが、やはりよく分かりません。この人もアイシンギョロの人ではなく、ハダの人ではありますが、ジュシェンには違いないので良しとしましょう。
 ただ、《満洲実録》は起源は古いモノの、乾隆年間に再編されたモノなので、絵自体も当時の風俗ではなく乾隆年間風俗を反映している可能性はあるわけですが…。

〈胤禛読書像〉iv


 で、意外と辮髪の画像史料というのがパッと出て来ない…ので、いきなり雍正帝の肖像まで跳びます。雍正帝即位前の肖像なので、正確には皇四子和硯雍親王胤禛の肖像という所ですかねぇ…なので、正解には雍正年間ではなく、康煕年間の風俗として捉えるべきでしょう。勤勉なイメージに反して皇帝の肖像自体はコスプレシリーズもの含めて多く残している印象があります。
 で、ココで強調されているので尚更気がつくわけですが、あんまり剃りが綺麗じゃないようですね。前の《満洲実録》の挿絵もそう言えば剃り跡を強調しています。皇族自ら辮髪鉢巻きしている珍しい画像でもありますが、映画みたいに太々しい辮髪でも無いようです。成る程貧弱な模様ですね。まあ、雍正帝は勉強好きでしたし、後継者争いで勤勉アピールする必要もあったかも知れないので、ちょっとやつれている具合に辮髪伸びてるところの肖像画を描かせたという可能性はあるわけですが…。
 で、辮髪鉢巻きが出来るくらいなので、やはり頭のてっぺんを残すような辮髪ではないようですね。どうにもあの説は眉唾です。

〈塞宴四事図〉(部分)v


 で、次は中期とされる時期である乾隆年間のサンプルです。乾隆帝満洲特有の風俗を復興させようという意図が見える絵画の中に出て来る辮髪なので、もしかしたら差し引いて考えるべきなのかも知れませんが、やはり頭のてっぺんではなく、後頭部の拳大の箇所を残した辮髪です。ナカナカ興味深いですね。さらに興味深いのは、残す部分以外は綺麗に剃り上げてますね。サンプルが少ないので何とも言えませんが、むしろおしゃれです。

〈乾隆帝八旬万寿図巻・城市商貿〉之一(部分)vi


 で、これも乾隆年間の絵画ですが、これは乾隆帝の八十歳記念のパレードの様子を描いた絵画ですが、市井の人々も書かれています。漸く市井の人々が後頭部から生やした毛を辮髪にしているのが確認が取れました。

 うーん…やっぱり絵画資料からはラーメンマン辮髪はあんまり見られないかも…。というか、頭のてっぺん残すという辮髪は写真資料で見たこと無いカモですねぇ…。とはいえ、清末のように多くの部分を伸ばすスタイルは存外時代を下らないと散見されないのではないか?という仮説にはたどり着けたかとは思います。でも、このサンプルだけでは何とも言えませんね…。と言うワケで、探求という名の旅は続くのでした…(以下資料を追い続ける旅に出るのです…)

  1. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  2. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.41 [戻る]
  3. 《清史図典》第一冊 太祖太宗朝 P.45 [戻る]
  4. 《清史図典》第五冊 雍正朝 P.7 [戻る]
  5. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上P.22 [戻る]
  6. 《清史図典》第七冊 乾隆期 下P.326 [戻る]

偉大なる、しゅららぼん

 と言うワケで、万城目学の新作小説・『偉大なる、しゅららぼん』集英社 です。上京した際にまとめて読んで、帰ってきてから読了しました。

 思えば万城目小説も、『鴨川ホルモー』、『鹿男あをによし』、『プリンセス・トヨトミ』と四作目ですね。今回も前作までと同様、変な小説です。

 あ、気がついたら『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』が抜けてる気がしますが、まあ、あれ毛色違いますしね…。
 …と、ここからはネタバレ満載なので、イヤな人は回れ右デス!
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