バトゥ麾下のイギリス人貴族

 と言うわけで、備忘録的に岡田英弘『チンギス・ハーンとその子孫 ─もうひとつのモンゴル通史─』ビジネス社 読んでていた時に気になった記事をメモ。

 しかし、一二四一年十二月十一日、オゴデイ・ハーンは死んだ。この報知を早馬で、ユーラシア大陸を横切って伝えられたモンゴルの遠征軍は、翌一二四二年八月、ウィーナー・ノイシュタットの前面から突然引き上げを開始した。オーストリア軍は急に元気が出て、モンゴル軍を追撃し、八人の将校を捕虜にした。そのうちの一人を見て、オーストリアのフリードリヒ公は、以前十字軍に加わってパレスティナに居たときに会ったことのあるイギリス人だと気がついた。
 このイギリス人の名前は記録されていないが、一二一五年にイングランドのジョン王に迫って「マグナ・カルタ」(大憲章)を承認させた貴族たちの一人であったらしい。「マグナ・カルタ」派は、翌年のジョン王の死後、その息子のヘンリー三世に反対して、フランスの王子ルイを迎えて王位につけようとして失敗し、ローマ教皇に破門された。彼らは贖罪のために第四回十字軍に加わり、一二一八年にパレスティナのアークル(アッコ)に上陸した。ここでフリードリヒ公は、このイギリス人貴族に会ったのである。しかしこのイギリス人は、十字軍からも脱走してイスラム教徒側に走り、諸国を流浪して苦難をなめたのち、バグダードに滞在した。もともと教養が高い上に語学の才能があり、いかなる異国の言葉でも流暢に読み、書き、話すことができた。これを聞いたモンゴル人は、このイギリス人を召し寄せて、多額の贈り物を与えて忠誠を誓わせた。かれはモンゴルのヨーロッパ遠征に従軍し、モンゴルの使節として二度もハンガリーを訪れ、ハンガリー王ベーラ四世に無条件降伏を交渉している。このイギリス人がオーストリア軍の捕虜となったあとでどうなったのかは記録がないが、キリスト教世界の事情に通じているフランス派のこのイギリス人が、モンゴル軍の先鋒部隊に加わって道案内をつとめていたところから見て、モンゴル軍の遠征の最終目的が、大西洋にまで達する西ヨーロッパ全体の征服であったことは疑いない。i

 と、面白い記事なんですが、いつものように出典も何も書いてないんですよな…。せめて註くらいあるといいんですがそれもなし。雰囲気的にどうやら西洋の文献を元にしているようなんですがねぇ…。このイギリス人貴族も結構事績が分かっているようですが、名前だけは記述されていないようです。なんとも歯がゆい感じですが、小説の題材にでも使えそうなネタなのでメモ。と言っても、岡田センセの本にしか出てこない記述とかになると、ほぼフィクションですわなぁ…。

  1. P.206~207 [戻る]

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