陰門陣
と、言うわけで『義和団事件風雲録』を読んでいて見つけた陰門陣ですが、Googleさんで検索すると、割と2chあたりの記事に引っかかりますね…。流石に邦訳あるんだろうなと思ったらやっぱりあるんですな。たまたま実吉達郎『中国妖怪人物辞典』講談社 が手元にあったのでちょっと長めですが抜粋してみます。
明や清の既に火砲を用いて戦争をするような時代に入ってから、おこなわれたという珍戦術。明の末といったら、「もはや明の徳が衰えて、世の中は思い出しても厭わしいほど紊乱した折です、四百四州は地獄のようになったのであります」(幸田露伴「暴風裏花」改造文庫『龍姿蛇姿』所収)という時代だ。十三家七十二営、その一営だけで二、三万あったという流賊がいたるところを押しまわった。そのうちの一団が河南の汴梁(開封)を包囲し攻め立てた。三回にわたって猛襲したが、”守りには強い”という城兵はよく耐えて落ちない。流寇の首領は策に詰まった。そのあげく、”窮すれば通ず”で妙案を思いつき、陣中にいたあるいはほうぼうから拉してきた婦女たち数百名を先頭に立て、一人残らず下半身を裸出させた。しかも地面に逆立ちさせ城に向かい逆立ちさせ城に向かい思いきりののしらせた。これを号して陰門陣と称する。とんでもないエロ戦術だといいたいところだが、これが呪法だというのは面妖なのだ。「これにより城壁の上の大砲はことごとく発火しなくなった」。
城将陳永福も”名将”で、よしその儀ならばと敵方の裸婦たちとほぼ同数の僧を集め、彼らの裸身にして城壁に陳列させた。これを裸女戦術に対して陽門陣と称した。するとあああら不思議や、敵方の銃器・砲火もことごとく沈黙し、後退せざるを得なかったという(李光璧の『汴圍日録』)i
と、まあ陰陽合戦でも埒があかなくなったので、李自成側は開封を水攻めにしたと言うコトになるみたいですね…。
と、何だかこの後に澤田氏という単語が何回も出て来るので、サッと澤田瑞穂『中国の呪法』平河出版社 を調べてみると、どうやらこっちの方が元ネタみたいですね。
途方もない話になるが、陰部を丸出しにした女たちを陣頭に立てて敵に向かわせ、それで敵の火砲を沈黙させるという陰門陣の秘法は、うそかまことか、厭勝としてもすこぶる奇抜である。清・董含『三岡識略』巻一に見える「陽陣陰陣」の奇談がそれだ。
明末に流賊が河南の汴梁(開封)を包囲するや、城内では堅く守り、三回も攻撃を受けたが落ちない。賊は策に窮し、婦女数百人を拉致してきて悉く下体を露出させ、地面に逆立ちして城に向かって慢罵させた。号して陰門陣といったが、これで城壁上の砲はみな発火しなかった。守将の陳永福が、すぐさま僧をつれてきて、人数はほぼ敵と同数にし、裸体にして城壁の上に立たせた。陰門陣に対してこれを陽門陣といったが、賊軍の砲火もまた後退して不発に終わったと。詳細は李光壁の『汴圍日録』に見えているといるから、まるまるの作り話でもなかったらしい。ii
書名だけではなく、巻数も載ってるので非常に便利です。ネットで検索するとすぐに見つかるこの幸せ…。でも、どうやら李光璧《汴圍日録》は書名だけで本文はネットには見当たらないみたいですね…。
陽陣陰陣
先是,流寇圍汴梁,城中固守,力攻三次,俱不能克。賊計窮,搜婦人數百,悉露下體,倒植於地,向城嫚罵,號曰「陰門陣」,城上炮皆不能發。陳將軍永福急取僧人,數略相當,令赤身立垛口對之,謂之「陽門陣」,賊炮亦退後不發。詳見李光壂《汴圍日錄》,後群盜屢用之,往往有驗。嘗考黃帝風後以來,從無此法,惟孫子「八陣」中有「牝牡」之說,此豈其遺意與?iii
いや、孫子の八陣に雌雄陣なんてあったけ?wwっと、調べて見ると、どうも銅雀山発掘の竹簡には八陣という語は出て来るみたいですが、具体的には出て来ないみたいですね…。どうも怪しげな本には諸葛亮八陣とかと並べて紹介してるみたいですが、こうなると道術の一つと考えた方が良さそうですね…。
ついでなので他の事例も抜粋。
清・屠芴巌『六合内外瑣言』巻上「万人塚」にも、やはり陰門と陽門の対抗戦の話がある。
妖人の汪崙という者、薬を施して愚民を扇動し、山東斉州に事を構え、多くの女弟子を率いて清淵城を囲む。時に統軍の荊公が官兵を率いて城の囲みを解く。荊公は大砲でこれを撃たせた。すると賊は女弟子に声を限りに砲をまじなわせる。公は驚いて、「これ陰門陣なり、これを破るべし」とて、城内の兵卒に命じて下体の毛を剃らせ、これを砲中に置いて撃つに、賊多数を殺傷した。賊はまた年十五以下の少年たちに裸体で矢を城内に射させ、多くの死傷者が出た。荊公、「賊の勢さかんで今度は陽門陣で来おったわい」とて、多数の娼婦を城壁城に並ばせ、その陰所を露出して見せた。老陰少陽で少年部隊の負けとなり、一月ならずして賊は破れ、その徒を悉く城隅の大仏寺に集めて皆殺しにしたという。iv
むしろ変に物知りで兵に陰毛剃らせる荊公怖い…。
《六合内外瑣言》の作者・屠芴巌vと言う人は《蟫史》と言う神怪小説の著者として知られている人みたいですね。乾隆年間から嘉慶年間に活躍したみたいです。《六合内外瑣言》も二度改訂を経ていて、編纂前は《瑣蛣雑記》とも言った様ですが、これも引っかからず…。ただ、どうやら《六合内外瑣言》は魯迅には志怪小説と捉えられていたようですが…vi。
で、義和団の本拠である山東省での出来事ですから、乾隆嘉慶の頃とは言え、陰門陣の下地があったと言えるでしょう。
さらにこんな挿話も。
また、清・柴萼『梵天盧叢録』巻三十「厭炮」にも同様の例を挙げている。
光緒二十年(一八九四)の春、四川順慶の土匪が乱を起こしたので、徐吉林が全省の提督代理に署せられた。たまたま足の疾患のため、部将の馬総兵をして兵を率いて討伐させた。ある日、まだ戦闘が終わらなころ、ふと見ると敵陣の匪賊どもが、裸体の婦人数十人を押し立て現れ、哭声は天に震う。ために官軍の大砲は発火しなかったと。これが近人の筆記に見えるところでは、名づけて婚人厭砲というと。vii
《梵天盧叢録》はプーアル茶の記述がある本として引用されることが多いみたいですが、テキストは見つかりませんでした…。作者の蔡鍔は辛亥革命後に日本に留学した人物みたいですね。お役人もやっていたようですが…。
いずれにしても、文章を信じると四川とはいえ義和団事件の五~六年前にも陰門陣の実例があったって言うことですね。なんか連綿と陰門陣の系譜が義和団事件まで続いていることを理解出来てしまいました。困りましたねぇ…wwww