義和団事件風雲録
と言うワケで、菊池章太『義和団事件風雲録 -ペリオの見た北京』あじあブックス を読了。義和団事件と言うよりは、ペリオの日誌の北京部分にフォーカスを当てた本ですね。ペリオは言わずもがな、敦煌文書で有名なフランスの東洋学者ですね。
大修館のホームページを確認すると、目次はこんな感じデス。
はじめに
第1章 義和団事件の世界地図
中国の悲劇か/ザビエルの遺志/宗教行為 vs. 風俗習慣
こじれたあげくの禁教/神社参拝にもつながっている
おんぼろ帆船を口実に/義和団事件のふりだし/ただ一度の勝利の代償
満洲皇族勢揃い/驚天動地オンパレード/清国争奪のひきがね/ついに暴発
あわれ義和団の末路第2章 ペリオの手帳から
敦煌写本の発見/北京へ向けて/ナポレオンの遺産/再発見された手帳
北京の日本人社会/舞台と装備一式/ペリオの仲間たち/動乱のきざし第3章 暗雲たれこめる北京
動乱はじまる/もたらされる情報/援軍の至急要請へ
ペリオ、救援に向かう/いくつもの顔を持つ男/誤解の元凶か
日本人書記生の受難第4章 翻弄される人々の群れ
戦闘のはずが?/どこよりも安全/また一斉射撃が/日本兵の面目躍如
ついえた民族の遺産/救援軍到着のきざしか/期待と失望のはざま
救援軍、鳩をはなつ?/籠城者の夢想談/あげくのはては開きなおり
すべては清国兵が/もうひとつの籠城劇/難攻不落の物語
いくらでも維持できる第5章 単身敵陣乗りこみ
ペリオ、敵の軍旗を奪う/軍旗の代償/得意げな男/敵陣乗りこみ
危険なことは何もない?/おしゃべりで命拾い/休戦状態のはじまり
戦いのあとで/北堂救出の諸相/何度でも建て直そう/フランス翰林学士の追想第6章 前近代か、汎時代的か
子どもを陣頭に/白蓮教から義和団へ/不老不死という願望
こりない皇帝たち/ペリオの白蓮教研究/刀槍不入の幻想/孫悟空の憑依
山東という土地柄/脅威の向かう先/多発する軋轢と葛藤
騒動のかげにインテリあり/インドシナの教訓/義和団の名づけ親
伸縮自在な勅令/毓賢から袁世凱へ/陰門には陽門で
愛国者の国民的決起/紅い扇をかざす女神/ふたりの女神の末期
日の下に新しいものなし/生きつづける教民第7章 いくつもの女帝像
西太后残酷物語/スパイの自白から/うずく古傷/徳齢の回想録
問わずがたりに/端郡王への猜疑/老いのくりごと/権力者の揺らぎ
戊戌政変への反動/宣教師なんか大嫌い/古都の静けさ/西太后の素顔第8章 ペリオ、中央アジアへ
義和団事件後のペリオ/ふたたびアジアへ/流謫の皇族との邂逅
いやされざる記憶/先陣争いには敗れたが/洞窟のなかでの格闘
華北でのやりのこし/チベットの研究、そして探検
チベット大蔵経の日本将来/まぼろしの門戸開放計画/義和団事件の遺産
東洋学のひとつの出発点参考文献
登場人物
あとがき
読み応えがあったのは、第一章の典礼問題のあたりと、やはり第六章の義和団の記述ですね。その他はペリオの日誌に付属した写真は貴重ですね。ペリオが奪取したという官軍(おそらく董福祥の軍)の旗の写真は文章と相まってナカナカ感慨深かったです。
逆に第七章の慈嬉太后のあたりは、ワザワザ徳齢の記事から慈嬉太后の言動を擁護しようとしているようですが、よりによって…という気もしますね…。徳齢ってどうも牽強付会で自分に都合の良いように事実を曲げる人って言う印象が強くて…。
個人的には当時、《永楽大典》の副本と《古今図書集成》の銅版本が公使館街に隣接した翰林院にあり、尚且つ八ヶ国連合軍の侵攻ではなく、無知蒙昧な義和団の破壊活動で焼失したわけではないことが書かれているのがなるほどと言った感じデスね。この辺は柴五郎・服部宇之吉/大山梓 『北京篭城―付北京篭城回顧録』東洋文庫 あたりでも出てきますが、ペリオは放火ではなく火災という表現を使っているみたいです。どちらにしろ八ヶ国連合軍が意図的に翰林院を襲って《永楽大典》を燃やしたわけではありません。大砲の下敷きににはしたみたいですけど…。
端郡王・載漪と輔国公・載瀾は捉えられた間者から、名指しで公使館攻撃の急先鋒とされてますね。その割に大阿哥・溥儁は名前が出てきませんwでも、ペリオが後年、西域探索のためにウルムチに立ち寄った際に、輔国公・載瀾からかなり厚遇を受けた模様です。感慨深いですね。ペリオが引くくらい輔国公・載瀾はあれやこれやと世話を焼いてくれて、酒の勢いで義和団事件の思い出話をした上、男泣きしたみたいです。彼曰く、義和団を北京に引き入れたのは彼でも端郡王でもなく軍機大臣の剛毅だったと主張してますが、これも帰京に対する一縷の望みをペリオに託したのでは?とも取れるので何とも言えませんね。
あと、義和団関係の記事は面白いですね。特に騒乱の影にインテリが関わっており、民衆を扇動したのではないか?という記事には考えさせられました。また、役所に頼るよりも迅速且つ有利な結果が得られるコトが多かったので、ゴロツキ同然の人間が洗礼を受けて教会に属すことがあったので、一般的な民衆からは恨みを買ったというのはなるほど納得です。更には義和団事件後に騒乱の中心地であった山東では、騒乱前よりもキリスト教徒が数を増やしていることから、義和団に属して騒乱に参加したした人たちの中で、官憲からの追求を逃れるために教会の庇護を求めたのでは?という推論はかなり説得力があります。庇護が求められるのであれば、どういう勢力でも構わなかったと言うことですねぇ…。
詳しくは三石善吉『中国、1900年―義和団運動の光芒』中公新書 あたりを読んだ方が良いと思いますが、こちらでは更に怪しい事例が紹介されてますね…。
公使館区包囲の情勢を奏上した檔案のなかに奇異な一文がある。
公使館の門前にすっぱだかの女が立ちはだかり、守備につとめているという。義和団員もびっくりこいて刀槍不入も身体鍛錬も効かなくなってしまうのだった。
この秘術、人呼んで陰門陣という。陰部まるだしの女を陣頭に立てて敵の火砲を沈黙させる。大砲を男根に見立てて、陰々たる圧力でそれを萎縮させるのだ。そんなアホなと思われるかも知れないが、史上例が少なくない。i
おお!西洋妖術対義和拳のスペシャル対決が!心躍る対決ですが、種明かしをすれば、以下の通りになる模様…。
さて、問題は檔案の記事である。かくのごとき高等戦術をわきまえぬ西洋人には、とてもできることではない。どこから出た訛伝なのか。
ペリオの手帳、六月二十一日の記事に言う。義和団の軍隊が頭上に旗をかかげてオーストリア公使館までいたり、殺戮をはじめた。マネキン二体を使う。英兵と日本兵が発砲。相手はしろうとの中国人だ。
マネキンをかつぎ出し、敵にやりたいだけやらせているところを銃撃したのか。相手はマネキンなど見たこともない人種である。そうとは知らない清国兵が見たら、西洋婦人もいよいよ陰門陣開陳かと勘違いしても無理はない。弾丸よけの呪法も破られて当然なのだ。ii
何だかガッカリですね…。ロマンがありませんwでも、報告書で当然のように出て来るくらい陰門陣はポピュラーな存在だったみたいですね。長くなりますが引用すると以下の通りです。
明末の崇禎十五年(一六四二)、李自成が河南第一の都市汴梁(開封)を襲ったときのことである。官軍による城壁の守りはすこぶる強固であった。そこで拉致してきた女たちを裸にして陰門陣で臨んだところ、城壁の大砲は発火しなくなった。あわてた官軍は坊さんをはだかにして陽門陣で対抗したところ、賊軍の砲火も不発に終わったという。陰を封ずるに陽をもってするところは流石である。しかもどちらも効果てきめんというのがまたすごい。
相田洋氏によれば、陰門陣の登場は十六世紀にまでさかのぼるという。このころヨーロッパから仏郎機砲が伝わり、さらに巨大な紅衣砲が伝わって、官軍の火砲は威力は圧倒的になった。そのため賊軍の方では、軍事的劣勢をおぎなうために呪法にでもたよらざるを得なくなったのだろう。かくして明末に盛んになり、その後も延々と使われつづけた。太平天国の乱のときも陰門大活躍だったそうだ。これは魯迅が乳母から聞いた話として、『朝花夕捨』に出てくる。iii
暇があったらちょっと陰門陣については調べてみたいです。
ともあれ、辮髪的には読んで損ナシという感じの本でしたね。写真も多くてナカナカです。個人的にはペリオ抜きで義和団と清国朝廷だけの構成でもっと読みたかったデス。
それにしても、今回の記事でWikipediaの義和団の項目を見てみたんですが、相変わらず珍妃の遺体を引き上げたのは日本軍ってコトになっているんですね…。何が出典なのかな…。一応、加藤徹『西太后―大清帝国最後の光芒』中公新書 によると、西安からの帰京前に慈嬉太后の命で引き上げられたとかなり具体的に書かれているんですけどねぇ…。