孝荘文皇后と愉快な仲間達-ダイチン諸帝編
と言うワケで引き続きBSジャパンで放送中の《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)に出て来る人物についてツラツラ書いてきます。今回はアマガ・アイシン・グルン(後金国)からダイチン・グルン(大清国)の帝王で孝荘文皇后と関わりのある人をズラッと並べようかと…。
ヌルハチ(Nurgaci 努爾哈赤、奴児哈赤、弩爾哈赤)⇒アマガ・アイシン・グルン(Amaga Aisin Gurun 後金国)ゲンギェン・ハン(GENGGIYEN Han 英明汗)。モンゴルの尊号 クンドゥレン・ハーン(kundulen han 昆都倫汗)、ダイチン・グルン(Daichin gurun 大清国)廟号・太祖、諡号・高皇帝。
孝荘文皇后の岳父。嘉靖38(1559)年、生誕。ジュシェン(jušen 女真)のマンジュ国スクスフ部の出身。大明では建州左衛都指揮使の家系とされる。が、正確な事はマンジュ五部を制圧し、大明の遼東総兵・李成梁と連携して勢力を拡大したこと以前のことはよく分からない。容姿は太っても痩せてもいないが、がっしりとした体つきで鼻がまっすぐ大きく、色黒で面長だったらしい。i
万暦21(1593)年にマンジュ・グルン(Manjyu gurun 満洲国)がイェヘ(Yehe 葉赫)を中心とした九ヶ国連合を打ち破ったグレの戦いで、イェヘに呼応したホルチン部のマングス・ベイレ、ミンガン・ベイレ(Minggan Beile 明安貝勒)兄弟を散々に打ち破り、以降ホルチン部はヌルハチに付き従う。万暦40(1612)年にミンガンの娘である寿康太妃iiをヌルハチが娶り、万暦42(1614)年には第八子のホンタイジはマングス・ベイレの娘・ジュレを娶りホルチン部と連携を強めた。また、同万暦42(1614)年にヌルハチ第二子のダイシャンがハルハ部から嫁を取るなど、モンゴル諸部との関係を強めた。
天命元(1616)年、アガマ・アイシン・グルンを建国し、首都・ヘトアラ(Hetuala 赫図阿拉、黒禿阿喇、黒図阿拉)でハン位に即く。天命3(1618)年には大明に対して七大恨を上げて対決姿勢を示し、サルフの戦いで大明を打ち破ってイェヘを統合してジュシェンを一統し、アマガ・アイシン・グルンの勢力を確立した。更にヘトアラからサルフにほど近いジャイフィヤン(界藩)に遷都、さらに天命5(1620)年にはサルフ(sarhū 薩爾滸)に遷都している。
更に天命6(1621)年、遼東の瀋陽・遼陽を陥落させ、遼陽郊外の東に東京城を建造して遷都し、更に天命9(1624)年には瀋陽に遷都した。
天命11(1626)年、いよいよ山海関を落とす決意をしたヌルハチは進軍を開始し、途中寧遠城を攻撃する。ここで大明の寧遠城寧前道・袁崇煥の紅夷大砲の威力にその意気を挫かれ、ほどなく逝去する。戦傷が元と思われるがダイチンの記録上病没とされている。
ヌルハチ死亡時は後継者が不在となっているが、それ以前には同等の統治者として遇していた同腹弟のホショ・ウジェン・チンワン(Hošoi ujen cin wang 和硯荘親王)iii・シュルガチ(Šurgaci 舒爾哈齊、舒爾哈赤)、嫡長子であるアルガ・トゥメン(Arga Tumen 阿爾哈図土門 広略太子)iv・チュエン(Cuyen 褚英)v、チュエンと同腹の嫡二子であるホショ・ドロンゴ・チンワン(Hošoi doronggo cin wang 和硯礼親王)・ダイシャン(Daišan 代善)など、権力を二分したり、後継者に指名された人物は居た。しかし、シュルガチは万暦37(1609)年に突如として全権を剥奪され、赦されたモノの万暦39(1611)年に病死している。チュエンは万暦41(1613)年に五大臣との不和やヌルハチへの呪詛などで罪を問われて幽閉され、万暦43(1615)年に獄中死している。その後は、ダイシャンが後継者となったようだがvi身内の不始末を咎められ、天命5(1620)年には後継者の地位を剥奪されている。直後にジャクン・ホショ・ベイレ(Jakūn Hošoi Beile 八和硯貝勒)が成立しているが明確な後継者が決定されたわけでは無いvii。おそらくは共同統治者や後継者の存在が中央集権化を遅らせ、皇帝権を脅かすと解釈されていたのでは無いかと考えられる。
ドラマでは2話で戦死してしまうので、実は宣和堂はドラマのヌルハチについては3話のアバンでしか知らないです…。
ホンタイジ(Hong Taiji 皇太極、黄台吉)⇒アマガ・アイシン・グルン スレ・ベイレ(Sure Beile 淑勒貝勒 聡睿貝勒)。モンゴルの尊号 ボクト・セチェン・ハーン(Boγda Sečen Qaγan 博格達徹辰汗)ダイチン・グルン 廟号:太宗、諡号:文皇帝
そもそも、名前からして漢語の皇太子の音訳であり、おそらくホンタイジは本名では無く通称なり役職であったと考えられる。一説にはヘカンviiiが本名だったと言うがこれも定説とはなっていない。《満洲老檔》では諱を避けてドゥイチ・ベイレ(DuiciBeile 四貝勒)ixと書かれている模様。
万暦20(1592)年、ヌルハチと孝慈高皇后=イェホナラ氏(Yehe Nara Hala 葉赫那拉氏)のモンゴジェジェ(Monggojeje, 孟古哲哲)との間に生まれる。後に皇帝の母親と言うコトでモンゴジェジェは皇后に封じられるが、ヌルハチ生前はアスハニ・フジン(側妃)に過ぎず、身分は決して高くないと思われるx。
チュエンとダイシャンの生母である初代アンバ・フジンであった元妃=トンギャ氏(Tunggiya Hala 佟佳氏)のハハナ・ジャチン(Hahana jacin 哈哈納扎青)や、アジゲ(Ajige 英親王・阿濟格)、ドルゴン(Dorgon 睿親王・多爾袞)、ドド(Dodo 豫親王・多鐸)の生母で最後のアンバ・フジンである大妃=ウラナラ氏(Ula Nara Hala 烏拉那拉氏)のアバハイ(Abahai 阿巴亥)と比べると身分は高くない模様。しかし、ヌルハチ晩年の四大ベイレのなかでも、皇太子を廃された?アンバ・ベイレ(Amba beile 大貝勒)=ダイシャン、失脚したヌルハチの弟・シュルガチの第三子であり、アンバ・フジンを廃されたxiフチャ氏(Fuca hala 富察氏)グンダイ(Gundai 袞代)の養子となっていたアミン(Amin 阿敏)、グンダイの実子であるマングルタイ(Manggūltai 莽古爾泰)に比べると、相対的にホンタイジの地位が上昇したとも考えられる。いずれにしろ、ホンタイジはダイシャンの長子・ヨト(Yoto 克勤郡王・岳託)、アミンの弟・ジルガラン(Jirgalang 鄭親王・濟爾哈朗)、マングルタイの同母弟・デゲレイ(Degelei 德格類)を自派に組み入れ、即位に際してダイシャンの息子であるヨトとサハリヤン(Sahaliyan 穎毅親王・薩哈璘)兄弟がホンタイジを後押しするようダイシャンを説得したので、態勢はすでに決していた模様。と言うワケで、孝端文皇后=ジュレと孝荘文皇后=ブンブタイが嫁いできた当時のホンタイジについてはよく分からない。
ともあれ、ヌルハチ死後、天聰元(1627)年にアマガ・アイシン・グルンのハン位を継承したホンタイジは他の四大ベイレであるアンバ・ベイレ(大貝勒)=ダイシャン、アミン・ベイレ、マングルタイ・ベイレの掣肘を受けることになる。特にヌルハチ晩年に権力を剥奪されたとは言え、サルフの英雄たるアンバ・ベイレ=ダイシャンには敬意を払い、即位当初はホンタイジの横に立ち、臣下として跪くことを赦免されるなど特別扱いをしている。
以後、ホンタイジは大明、モンゴル、朝鮮などの外敵を凌ぎ、三大ベイレの権力を削ぐことに尽力することになる。
天聰4(1630)年、対明作戦で北京近郊の占領地・永平を失ったアミンを幽閉xii、次いで天聰5(1631)年にはマングルタイを不敬の罪に問うて失脚させxiii、遂には天聰9(1635)年にはダイシャンをリンダン・ハーンの元妃=ニャンニャン太后との縁談を断ったことから不敬罪に問うてアンバ・ベイレの称号を剥奪している。
君主権をある程度確立した天聰8(1634)年、敏恵恭和元妃=ハイランジュをホルチン部より迎えている。
更に、天聰9(1635)年、ホンタイジはチャハル部を降して大元の玉爾・制誥之宝を入手し、モンゴルからボクド・セチェン・ハーンxivの尊号を送られ、翌崇徳元(1636)年にはダイチン・グルンの皇帝として二次即位する。
以後、朝鮮を服従させ、大明を攻撃して、難敵であった毛文竜や袁崇煥を除いたが、崇徳8(1643)年、急死。死因は脳溢血では無いか?とは言われているが、フィクションの世界では大体ドルゴンに頭をぶん殴られて死亡している。
功績多数で名君と称されていい活躍をしているモノの、その実像はよく分からないホンタイジ。そもそも本名もよく分からないあたり謎でしかないですし、出生も継位の状況もよく分からない上に急死しているなど人生謎だらけと言っても良い人物なので、ドラマで見るような酔っ払って嫉妬に狂うホンタイジというのもありだと思います。むしろ、ドラマ見ててホンタイジはこんな人だったのかも知れないと思い始めましたくらいです。
ちなみにドラマでホンタイジを演じている劉愷威(ハウィック・ラウ)は、郭襄ちゃんこと楊冪(ヤン・ミー)の旦那なので、そういった面からも個人的に好きになれないデス…。
順治帝⇒本名:フリン、廟号:世祖、諡号:章皇帝
崇徳3(1638)年、ムクデン・ホトン(瀋陽)でホンタイジと永福宮(次西宮)莊妃=ブンブタイとの間に生まれる。
崇徳8(1643)年、ホンタイジ急死により、翌順治元(1644)年正月、ムクデン・ホトンの大政殿で数え7才でダイチン・グルンの帝位を継ぎ即位。同年3月に大順・李自成が北京を陥落して大明が実質的に滅亡、4月に睿親王・ドルゴンが山海関の守将・呉三桂の降伏を容れて李自成を北京から追い出し、以降大明を継ぐと称して李自成勢力を駆逐する。同年9月にはフリンがムクデン・ホトン(瀋陽)から北京に移動し、同年10月には紫禁城の武英殿xv。中華皇帝として即位。同時にムクデン・ホトンを陪都として北京に遷都する。以後、ドルゴン、ドド、アジゲなどを中心に李自成勢力を潰滅し、南明諸政権を攻撃して、大明の故地を征服していく。
順治7(1650)年12月、ドルゴンがハラ・ホトン(喀喇城)で狩猟中に落馬して逝去すると、廟号:成宗、諡号:義皇帝xviとし、皇父摂政王・ドルゴンに対して皇帝並みの葬儀を以て弔った。しかし、翌順治8(1651)年に数え14才で親政を開始すると、早速2月には、ドルゴンを謀反の罪に問い、廟号、諡号を剥奪し、ドルゴンの実母やアンバ・フジンに贈られた尊号も剥奪、睿親王家も玉牒から削除され断絶されるxvii。すでに他界していた豫親王・ドドも郡王に降格された。また、ドルゴン死後に摂政を引き継いでいた英親王・アジゲを罪に問うて幽閉した後に順治8(1651)年10月に獄中死させた。ドルゴン没後からの粛正は、順治帝の生母である孝荘皇太后=ブンブタイが皇父摂政王・ドルゴンに再嫁したとする説が清代からあり、これを漢文化に親しんだ順治帝が儒教的倫理からこれを忌避したのが原因と言われるが、個人的にははなはだ疑問である。この政変は、ドルゴンに圧迫されて失脚していた鄭親王・ジルガラン、正黄旗のソニン(Sonin 索尼)、鑲黄旗のオボイ(Oboi 鰲拝)と、元ドルゴンの部下である正白旗のスクサハ(Suksaha 蘇克薩哈)が主導して行われたが、順治帝個人の思惑と言うよりもドルゴンに圧迫されていた彼らの復権という面が強いように思われる。
一方、婚姻関係を見ると、順治8(1651)年8月にはホルチン部より、ホショイ・ジョリクト親王(和碩卓礼克図親王)・ウクシャン(烏克善、呉克善)の娘…つまり母方の従姉妹を娶るが、二年後の順治10(1653)年には、皇太后=ブンブタイの反対を押し切り、奢侈を理由にこの皇后を廃して靜妃に降格している。翌順治11(1654)年には皇太后=ブンブタイ族姪である孝恵章皇后・ボルジギット氏xviiiを皇后に冊立している。
しかし、順治13(1656)年8月、満洲八旗・正白旗の内大臣・オシ(Osi 鄂碩)の娘・孝獻端敬皇后=トンゴ氏(Donggo Hala 董鄂氏)が数え18歳で入宮すると、順治帝はこの妃に入れ込むことになる。入宮時に賢妃に封じられ、その一ヶ月後には皇貴妃に晋封されている。これだけでも異例だが、皇貴妃冊立時に大赦を行っており、これも異例中の異例で他に例が無い。順治14(1657)年には董顎妃は長男を出産(順治帝の皇四子)。順治帝は後継者にする気満々だった模様。しかし、翌順治15(1658)年、名前もつけられていない皇四子は夭折。この際に親王に追封じられ、諡号:栄を送られる。順治帝には8人の男児が居たし、これ以前にも夭折した男児は他にも居たが親王に封じられたのは皇四子だけでこれも異例。悲嘆に暮れたあまりか体調を崩し、順治17(1660)年には遂に皇貴妃=トンゴ氏は22才の若さで病没する。順治帝が皇貴妃を寵愛すること尋常では無かったため葬儀の際には追尊して孝獻端敬皇后に封じた。生前、皇貴妃だった者を皇帝の生母でもないのに死後皇后に封じることもまた異例中の異例。そして、翌順治18(1661)年には順治帝自体が天然痘により数え24才の若さで崩御してしまう。しかし、順治帝は生前皇貴妃の菩提を弔うために出家を希望し、当然朝廷では反対された記録の直後に天然痘にかかって急逝しているため、本当は五台山清涼寺で出家して行痴と名乗ったのでは無いか?と言う伝説がまことしやかにささやかれるコトになるxix。と言うコトで、このトンゴ氏が明末の名妓・董小宛とよく混同される人。
しかし、当時の政治状況を見るにロマンチックな話ばかりでもない。順治帝は仏教に傾倒し、後宮でロマンスを繰り広げるだけの皇帝では無く、親政開始以降精力的に改革を開始している。最高行政機関である内三院を大明に倣って内閣に組み替え、宮廷行事を司どる機関である内務院を大明の宦官で構成された二十四衙門をモデルとして整備して内十三衙門を設立して皇帝権力の強化を図った。要するに中華帝国的専制政治を志向してマンジュ古来の価値観で個々の権利を主張する旗王や議政大臣達の掣肘を廃する制度を整備したことに他ならない。ちなみに、順治帝死後、内閣も元の内三院に戻され、内十三衙門は解体され、皇帝の身の回りの世話のみを行う内務府に戻っただけでなく、人員から宦官を排して正黄旗・鑲黄旗・正白旗の所謂上三旗の旗人で構成されるようになった。
順治帝の遺詔によって四輔政大臣が指名され、皇三子・玄燁が継位する。ただし、順治帝の遺詔とされる文章は、その大半を”是朕之罪一也“で締めくくる順治帝の自己批判で構成されており、本当に順治帝の意思で書かれたモノなのかは甚だ疑問である。また、遺詔では後継者として玄燁が指名されているが他に候補者がいなかったわけではない。特に、玄燁より一才年長であった裕親王・福全は有力な後継者だったはずである。((玄燁=康煕帝の生母の孝康章皇后が漢軍鑲黄旗の出身だったことが主な理由とも言われているが、どうやら裕親王・福全は生まれつき目が悪かった…と言う説もあるらしい。))また、輔政四大臣はドルゴン死後、ドルゴン派を角逐した中心人物であるソニン、スクサハ、エビルン(遏必隆 Ebilun)、オボイである。鄭親王・ジルガランは順治12(1655)年に他界しているだけで、その顔ぶれは全く変わっていない。ドルゴンと順治帝の死因はさておき、中央集権化の試みがまたも上三旗に阻まれている。
しかし、どうやらこの遺詔は孝荘文皇后=ブンブタイが内容を確認して修正してから公開されている様なのでxx、この内容については少なくとも孝荘文皇后の意思は反映されている模様…。ってコトは四輔政大臣とある程度共存共栄の関係にあったモノかと…。
ドラマの紹介を見るに、やっぱりロマンス皇帝として登場する模様ですね…。チベットのダライ・ラマ五世と会談とかしてるんですが、そんな危ないネタ仕込んでくるとも思えませんし。
康煕帝⇒本名:玄燁(Hiowan Yei ヒョワンイェイ?)、廟号:聖祖、諡号:仁皇帝
順治11(1654)年、順治帝と孝康章皇后・トンギャ氏(Tunggiya Hala 佟佳氏)の子として北京・紫禁城の景仁宮で生まれる。
順治18(1661)年正月、順治帝が崩御し、遺詔により皇太子となり、翌康煕元(1662)年、数え9才で即位する。以後、輔政四大臣主導の政治が行われたが、康煕6(1667)年6月に輔政四大臣のうちのソニンが病没し、同年7月に順治帝の前例に従って数え14才で親政を開始する。同年鑲黄旗のオボイは仲の悪い正白旗のスクサハを旗地交換問題で弾劾して死に追い込み、気の弱いエビルンを圧倒して政治を壟断した。康煕帝はこの専横を許さず、ソニンの第三子であるソンゴト(Songgotu 索額図)を抱き込むことに成功すると、政治に関心が無い振りしてモンゴル相撲に夢中であるように装った。康煕8(1669)年、参内したオボイをモンゴル相撲の力士を使って拘束し、その一族を誅殺したがオボイはその功績を考慮して終身刑とした。この際の計略に孝荘文皇后が大きく関わっていると言うが、具体的な記録が残っているわけではない。
翌康煕9(1670)年には内三院を再び内閣に整備している(内務府はそのままとしている)。その後、三藩の乱の際に親征こそ行わなかったモノの、難局に際して幕営で指揮を執って勝利し、足かけ8年で乱を平定して軍政を掌握した。続けて三藩の乱に呼応した台湾の鄭氏勢力を制圧した。この際に太皇太后となっていた孝荘文皇后が助力したという説があるが、具体的に何をしたという記録は残っていない。
孝荘文皇后の死後は、ジュンガル(jegün ɣar 準噶爾)のガルダン・ハーン(Galdan xaɡan 噶爾丹汗)と対立し親征を行うなど内外の戦乱を鎮めた。この過程で、皇太子・胤礽以外の戦功のある皇子を親王、郡王、ベイレなど旗王に封じている。あるいはこれが康煕帝流の議政大臣への対応策であったかも知れないが、結果的には議政大臣初めとした旗人がそれぞれの皇子を推して皇太子廃立に動き、康煕帝晩年の所謂九王奪嫡の混乱を招く。皇太子と諸皇子との間で緊張が高まる中、康煕41(1702)年、皇太子はソニンの孫娘の孝誠仁皇后の子である為、その一族であるソンゴトが後見役となっていため、クーデターの首謀者と目されて逮捕拘禁された(後にソンゴトは獄中死)。これも、皇位継承もさることながら各旗の権力闘争という一面もあり、開明君主・康煕帝でも議政大臣初めとした八旗の権力を無視できなかった証拠であり、雍正帝が即位後に競争相手であった兄弟達に冷徹とも言える処分を下さざるを得なかった原因とも考えられる。雍正帝の代になって軍機処が設立されて議政大臣を政治から遠ざけ、八旗制度を改革したことによりアイシン・グルン時代から続いた議政大臣ら八旗の代表者と皇帝権力との対立の歴史にようやく終止符を打たれるのである。
と、脱線しましたが、このドラマでは多分名前が出て来る程度なんじゃないかと…。さすがにこの辺まで来ると孝荘文皇后自身のロマンスとかあり得ないですし。
- 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』白帝社P.72 申忠一《建州紀程図記》よりの引用 [戻る]
- この時、寿康太妃は既に他家に嫁いでいたが、その美貌を聞きつけたヌルハチが婚姻を申し出たらしい。⇒松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』白帝社 P.151 [戻る]
- 死後追尊 [戻る]
- 万暦35(1607)年に立太子されている [戻る]
- 死後、ホンタイジ時代に広略ベイレと追尊 [戻る]
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店 「清太宗嗣立の事情」 [戻る]
- 旗王の合議が成立したので、議政王大臣会議が成立した [戻る]
- 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出文庫P.242~243 [戻る]
- 松村潤『明清史論考』「崇徳改元と大清の国号について」P.76 [戻る]
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清国へ』藤原書店「清の太宗嗣立の事情」P.431 [戻る]
- 《満文老檔》ではダイシャンと密通したためグンダイが廃されたとあるが、岡田英弘はこれをホンタイジ派の曲筆としている。岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店「清の太宗嗣立の事情」P.430 [戻る]
- 崇徳5(1640)に獄中死 [戻る]
- 権力を回復することなく天聰6(1632)年死亡 [戻る]
- ちなみにモンゴル・ウルスのチンギス・カンの別称がボクド・カァン、大元ウルスの世祖・フビライのモンゴル語の尊号はセチェン・カァン [戻る]
- 当時、皇極殿(太和殿)は李自成に火をかけられて焼失しているため、この時期は公式行事は紫禁城西南部に位置する武英殿で行われている [戻る]
- 帝位に即かなかった契丹の耶律突欲も諡号は義皇帝。ただし、廟号は義宗。 [戻る]
- 後に乾隆年間に復活 [戻る]
- ウクシャン、ハイランチュ、ブムブタイの兄のホルチン部ジャサク・ホショイ・ダルハン親王(扎薩克和碩達爾罕親王)マンジュシェリ(満珠習礼)の孫娘にして、ドロ・ベイレ(多羅貝勒)ジョルジ(綽爾済)の娘。ちなみに妹・淑惠妃も順治帝の妃である。 [戻る]
- また、面白いところでは順治帝は鄭氏勢力を親征して、戦傷を負って没したという説もあるようだが、これは流石に架空戦記ネタにしかならない [戻る]
- 岡田英弘『康煕帝の手紙』藤原書店P.52 [戻る]