旗王と八旗その2+色々メモ
『清朝とは何か』藤原書店 を読み返してたら、先日まとめたのとは違う説が紹介されていたのでまたまたメモ。
ヌルハチ期の領旗
正黄旗⇒ヌルハチ直轄(アジゲ、ドルゴン、ドド)
鑲黄旗⇒ヌルハチ直轄(アジゲ、ドルゴン、ドド)
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン、フセ(hūse 祜塞)
鑲紅旗⇒ダイシャン、ヨト
正白旗⇒ホンタイジ
鑲白旗⇒ドゥドゥ
正藍旗⇒マングルタイ、デゲレイ
鑲藍旗⇒アミン、ジルガランi
アジゲ、ドルゴン、ドドの三兄弟はヌルハチ晩年に両黄旗に配された。ホンタイジ即位までに鑲白旗はホンタイジの勢力下に入り、ドゥドゥは鑲紅旗に移動したという。
ホンタイジ期の領旗
正黄旗⇒ホンタイジ直轄
鑲黄旗⇒ホンタイジ直轄
正紅旗⇒ダイシャン、サハリヤン、フセ
鑲紅旗⇒ヨト、ドゥドゥ
正白旗⇒アジゲ、ドルゴン、ドド
鑲白旗⇒アジゲ、ドルゴン、ドド
正藍旗⇒ホーゲ
鑲藍旗⇒ジルガランii
ホンタイジは即位と共に勢力下にあった両白旗を両黄旗に改称(陣容はそのまま)。同時に両黄旗を両白旗に改称(これまた、陣容はそのまま)。両黄旗のアジゲ、ドルゴン、ドドはそのまま両白旗の旗王に。デゲレイ死後に罪に問うてその後継者に正藍旗を継承させず、解体没収して再編した後に長子・ホーゲを新正藍旗旗王に据えたとしている。確かに正藍旗の旗王が空位のまま、皇帝直轄であるはずの鑲黄旗にホーゲを据えるというのはスッキリいかないのでこっちの方がスッと落ちる説明……とはいえ、ホーゲがどのタイミングで旗王になったのかでどの旗を管轄したかは違ってくる気はする。ともあれ、この際、鑲黄旗、正黄旗、正藍旗の三旗が皇帝直属の上三旗とされた。
このあたりは、『ヌルハチの都』で紹介されている〈盛京城闋図〉を見てみると面白いiii。康煕7(1668)年に書かれたとは言え、入関直前のムクデンの様子が再現されている。と、瀋陽の住人にヒヤリングした結果割り出した八旗方位ivに当て嵌められた王府の位置vを見てみると、豫親王府(ドド王府)は正黄旗、叡親王府(ドルゴン王府)と巴図魯郡王(アジゲ王府)は鑲黄旗の場所にある。両黄旗が陣容そのままで両白旗に名称だけ変更したとするなら、成る程納得な場所と言える。
ちなみに、他の王府の場所をみると以下の通り。正紅旗⇒禮親王府(ダイシャン王府)、穎親王府(サハリヤン王府)、鑲紅旗⇒成親王府(ヨト王府)、敬謹親王府(ニカン王府)、正藍旗⇒王府無し、鑲藍旗⇒鄭親王府(ジルガラン王府)、鑲白旗⇒肅親王府(ホーゲ王府)、饒餘郡王府(アバタイ王府)、正白旗⇒王府無し…となる。八旗方位に基づいた復元では、やはりホーゲは鑲黄旗の旗王と考えた方が良さそうなのだが…。あと、この本で名前だけ挙がっている荘親王…と言うよりこの時期なら承澤親王と言うべきショセの王府が抜けているのが少し気になる。ニカンはチュエンの第3子でドゥドゥの弟なので、ドゥドゥの地位を継承したモノと思われる。
ドルゴン期の領旗
正黄旗⇒皇帝直轄(ドルゴン実効支配)
鑲黄旗⇒皇帝直轄(ドルゴン実効支配)
正紅旗⇒?vi
鑲紅旗⇒?vii
正白旗⇒ドルゴン
鑲白旗⇒ドドviii
正藍旗⇒ホーゲ→?ix(ドルゴン実効支配)
鑲藍旗⇒ジルガラン
この時期は図示されていないモノの書いてあることxを勝手にまとめると上のような感じか?また、ホンタイジの二次即位の際にはドルゴンは鑲白旗の所属だった模様xiだが、死ぬ間際には正白旗所属になっておりxii、ドドと所属を交代していた模様。その他、ドルゴンはホンタイジ死後には両黄旗を掌握し、ホーゲを追い落とした後さらに正藍旗を勢力下に置いて、上三旗を完全に掌握した。しかし、ドルゴン死後は両黄旗と正白旗は順治帝の直轄になり、以後上三旗は皇帝直轄として固定。下五旗は一族諸王家が分割する体制が確立した。
ついでに八旗のマンジュ語表記もメモ。
八旗⇒ジャクン・グサ(jakūn gūsa)
左翼
鑲黄旗⇒クブヘ・スワヤン・グサ(kubuhe suwayan gūsa)上三旗 八旗首位
正白旗⇒グル・シャンギャン・グサ(gulu sanyan gūsa)上三旗(元・下五旗)
鑲白旗⇒クブヘ・シャンギャン・グサ(kubuhe sanyan gūsa)下五旗
正藍旗⇒グル・ラムン・グサ(gulu lamun gūsa)下五旗(元・上三旗)
右翼
正黄旗⇒グル・スワヤン・グサ(gulu suwayan gūsa)上三旗
正紅旗⇒グル・フルギャン・グサ(gulu fulgiyan gūsa)下五旗
鑲紅旗⇒クブヘ・シャンギャン・グサ(kubuhe fulgiyan gūsa)下五旗
鑲藍旗⇒クブヘ・ラムン・グサ(kubuhe lamun gūsa)下五旗
こうやって見ると、崇徳年間の大明遠征の時、左翼指揮官が鑲白旗のドルゴンで、右翼指揮官が鑲紅旗のヨトって言うのはこう言うことなのかと。
あと、三順王はホンタイジ二次即位時、崇徳元(1636)年、王に封じられている模様。
天助兵⇒恭順王・孔有徳、懐順王・耿仲明
天祐兵⇒智順王・尚可喜
順治元(1644)年、入関時に呉三桂が平西王に封じられ、順治3(1646)年、孔有徳が平南将軍を任じられる。
順治6(1649)年に王号を改めて賜う。
定南王・孔有徳、、靖南王・耿仲明、平南王・尚可喜
その後、順治6(1649)年、耿仲明は罪に問われて自殺、靖南王家は息子の耿継茂が継承。順治9(1652)年、南明・桂王政権制圧時に孔有徳が戦死。後継者がいなかった定南王家は断絶。と言うワケで、清初の三藩がこの時から固定され、三藩の乱まで継続することになる。
平西王・呉三桂、靖南王・耿継茂、平南王・尚可喜
あと、内三院の内訳は、内国史院、内弘文院、内秘書院。
- 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.81 [戻る]
- 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.81 [戻る]
- 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.141 [戻る]
- 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.162 [戻る]
- 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.164 [戻る]
- 宣和堂の推論⇒ダイシャン第七子=和碩巽親王・マンダハイ? [戻る]
- 宣和堂の推論⇒サハリヤン第二子=多羅順承郡王・ルクドゥフン? [戻る]
- 漢語Wikipediaによるとドドはホーゲ失脚後?に正藍期に移った模様。その後の旗王は不明 [戻る]
- 漢語Wikipediaによるとドド 宣和堂の推論⇒ドドの第二子=和碩豫親王・ドニ? [戻る]
- 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.89 [戻る]
- 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.85 [戻る]
- 『清朝とは何か』藤原書店 杉山靖彦「マンジュ国から大清帝国へ【その勃興と展開】」P.89 [戻る]