崇徳末年の王公序列

 ネットで《清實錄順治朝實錄》…まぁ、要するに《順治実録》のテキストを見つけたので、ツラツラ読んでいたのですが、いきなりこんなの見つけたのでメモ。フリンの擁立が決まりその継位を天地に報告する誓詞を王公が証人となった…みたいな記事に親王郡王ベイレベイセがズラーッと羅列されています。おそらくこれが崇徳末年ダイチン王公の序列です。たかが序列と思うなかれ、意外とこういう時の席次が当時の力関係を如実に示していたりするのでメモがてら列挙してみます。

崇德八年癸未、八月(中略)乙亥(中略)嗣皇帝位共立誓書昭告天地王等誓詞曰、代善、濟爾哈朗、多爾袞、豪格、阿濟格、多鐸、阿達禮、阿巴泰、羅洛宏、尼堪、博洛、碩托、艾度禮、滿達海、吞齊、費揚古、博和托、吞齊喀、和托 等i

 折角なので、順番は変えずに想定される所属旗と崇徳8年8月時点の爵位を当て嵌めてリストアップしてみましょう。

1 正紅旗:和碩禮親王・ダイシャンii、2 鑲藍旗:和碩鄭親王・ジルガランiii、3 鑲白旗:和碩睿親王・ドルゴンiv、4 正藍旗:和碩肅親王・ホーゲv、5 鑲白旗:多羅武英郡王アジゲvi、6 正白旗:多羅豫郡王ドドvii、7 正紅旗:多羅郡王アダリviii、8 正藍旗:多羅饒餘郡王アバタイix、9 鑲紅旗:ドロベイレ・ロロホンx、10 鑲紅旗:グサベイセ・ニカンxi、11 正藍旗:グサベイセ・ボロxii、12 正紅旗:グサベイセ・ショトxiii、13 鑲藍旗:鎮國公アイドゥリxiv、14 正紅旗:輔國公マンダハイxv、15 鑲藍旗:輔國公トゥンチxvi、16 鑲藍旗:輔國公フィヤングxvii、17 正藍旗:輔國公ボフトxviii、18 鑲藍旗:輔國公トゥンチカ?xix、19 鑲白旗:輔國公ホト?xx

 ザッと19名ですかね。ホンタイジの皇帝権を脅かしたと言われる、三大ベイのうちのアミン系マングルタイ系…とデゲレイ系が姿を消し、ホンタイジの即位を支えたダイシャン系支流のヨト系サハリヤン系が次世代に入っています。次世代の封爵から考えると、ヨトサハリヤン以外のダイシャン系ショトマンダハイのみでワクダフセの名前が見えません。又、ホンタイジ系ではショセの名前もこの時はありませんね。あと、意外にジルガラン系以外のシュルガチ系鑲藍旗旗王が多いですね。
 この数日後にドルゴン擁立を謀ったとして処刑されるアダリショトの序列が意外に高いのには驚きました。第7位と第12位です。しかし、ダイシャン正紅旗の中ではこの二人は確かに浮いた存在の様に見えます。切羽詰まった事情があったのかも知れませんね。
 あと、この当時はやはり、ジルガランの方がドルゴンより上の序列で、ホーゲドルゴンより下の序列なんですね。今まで何となく感じていた事がこのリスト見ると何だかスッキリします。
 また、ホンタイジ治世中には散々掣肘を加えられた後でもダイシャンがやはり王公筆頭で、アンバ・ベイレの頃の威厳を保っていることが分かります。実際にホンタイジ崩御後の後継者を決める会議もダイシャンが開催していますし、ドドがやけくそながら後継者として立候補するように説得に行ったりもしています。

 ただ、18人までは特定できたこのリストも、一人…13人目の鎮國公アイドリ?だけ詳細が分からないので、続けて確認します。……と、その後の調べから、どうやらアミンの第二子で鑲藍旗グサ・エジェンだったようですね。⇒参照:艾度禮艾度禮 その2

  1. 《順治実録》巻一 [戻る]
  2. Hošoi doronggo cin wang Daišan ヌルハチ嫡二子。 [戻る]
  3. Hošoi ujen cin wang Jirgalang シュルガチ第六子。 [戻る]
  4. Hošoi mergen cin wang Dorgon ヌルハチ第十四子。 [戻る]
  5. Hošoi fafungga cin wang Hooge ホンタイジ長子。 [戻る]
  6. Doroi baturu giyûn wang Ajige 後に和碩英親王。ヌルハチ第十二子。 [戻る]
  7. Doroi erke giyûn wang Dodo 後に和碩豫親王に復位。ヌルハチ第十五子。 [戻る]
  8. Doroi giyûn wang Adali ダイシャン第三子サハリヤンの長子。崇徳8年8月刑死。 [戻る]
  9. Doroi bayan giyûn wang Abtai ヌルハチ第七子。 [戻る]
  10. Doroi beile Lorohon 後に衍禧郡王。ダイシャン長子ヨトの第二子。 [戻る]
  11. Gûsai beise Nikan 後に和碩敬謹親王。ヌルハチ嫡長子・チュエンの第二子 [戻る]
  12. Gûsai beise Bolo 後に端重親王。アバタイ第三子。 [戻る]
  13. Gûsai beise Šoto ダイシャン第二子。崇徳8年8月刑死。 [戻る]
  14. Gurun be dalire gung Aiduri アミン第二子。鑲藍旗グサ・エジェン。順治元年6月刑死。 [戻る]
  15. Gurun de aisilara gung Mandahai 後に和碩巽親王。ダイシャン第七子。 [戻る]
  16. Gurun de aisilara gung Tunchi 後にグサベイセ。シュルガチ第四子・トゥリンの第二子 [戻る]
  17. Gurun de aisilara gung Fiyanggû シュルガチ第八子。元・鑲藍旗グサエジェン。崇徳8年12月卒。 [戻る]
  18. Gurun de aisilara gung Bohoto 後にグサベイセ。アバタイ第二子。 [戻る]
  19. Gurun de aisilara gung Tunchika? 後にグサベイセ。シュルガチ第四子・トゥリンの第一子 [戻る]
  20. Gurun de aisilara gung Hoto? アジゲ第一子。順治3年病没。 [戻る]

順治年間のオボイ

 順治年間前半の清廷内の派閥抗争について《清史稿》をツラツラ見ていたんですが、あんまり重視されることがない《清史稿》もちくちく読んでると面白いですね。例えば、康煕年間初頭に専権を振るうことになるオボイですが、この人がよく分かりません。ちなみにマンジュ表記だとOboiですが、漢字表記では鄂拜だったり鼇拜だったりします。

オボイ

オボイ

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ホーゲとドルゴン

 と言うワケで閑話休題。因縁深いホーゲとドルゴンの話です。
 よく知られているように、この二人はホンタイジ死後、自派を恃んで帝位を狙いながら双方辞退するワケですが、史料読んでるとそれだけじゃないですよね。
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順治前半のまとめ(ドルゴン期)

 と言うワケで前回に続いて論文とか《清史稿》とか《清三朝実録採要》あたりをザラッと読んでまとめたメモなのです。

ドルゴンの勢力拡大⇒
 翌順治元(1644)年4月、今度は正藍旗所属のホロホイiが正藍旗旗王である肅親王・ホーゲがクーデターを謀っていると告発。
ホロホイの供述
:両黄旗の実力者を味方に付けたホーゲはドルゴンが元々身体が弱く病がちなので、摂政の職務を全うできないと断定。
:豫親王・ドドも以前はホーゲ擁立に動かなかったのは間違いだったという発言をしていた…と、ホーゲが語った。
:ホーゲはホラホイらも自派に加わるように強要。
 この事件により、ホーゲの推戴者とされた大臣達は処刑され、ホーゲ自体も多羅肅郡王に降格され、失脚している。

入関直前⇒
 同月、大明滅亡の報に接すると、ドルゴンは范文程ら漢人旗人の入関の献策を入れて李自成の大順を制圧するために出征。
 この際、ドルゴン勢力圏である両白旗、皇帝直属の両黄旗、漢人降兵で組織された三順王の火器部隊のみを率いている。
 最初からこの軍事行動は恒久的に漢土を征服することを目的としていたため、ドルゴンはのるかそるかの大博打を自派の権力増大に利用した模様。

入関直後⇒
 順治元(1644)年4月、山海関守将・呉三桂を懐柔し、山海関からなだれ込んで、5月にはドルゴンは北京を制圧。
 崇禎帝の喪を発し、北京内城から漢人を追い出し、辮髪を強要するなどドルゴンは北京制圧後も精力的に漢土征服に邁進。
 10月、順治帝以下皇族がムクデンから北京に入城して北京遷都を公布し、ドルゴンは摂政王から皇叔父摂政王に晋封。次いでジルガランは和碩鄭親王から信義輔政叔王、ホーゲは和碩肅親王に復帰し、アジゲは多羅武英郡王から和碩英親王、ドドは多羅豫郡王から和碩豫親王に晋封する。
 白旗三王のうち英親王・アジゲと豫親王・ドドに李自成勢力の潰滅を命じて討ち取る。
 順治2(1645)年、英親王・アジゲは李自成を敗死させるが、その報告を怠り、許しを得る前に北京に凱旋し、出征中に収賄していたことも発覚したことから武英郡王に降格され、この後暫く干される。
 この後、南明政権の制圧に豫親王・ドドを、張献忠勢力の討伐をホラホイと肅親王・ホーゲに一任している。

反ドルゴン派の粛正⇒
 入関後、ドルゴンの権勢は日を追う事に拡大される。
 順治4(1647)年1月、輔政和碩鄭親王・ジルガランの王府が規定を越えた基準で作ったことで罪に問うてその織を剥奪(その後、順治5年9月に湖広に叛乱鎮圧のために出征している)。
 7月、和碩徳豫親王・ドドをジルガランの後釜として輔政和碩叔徳豫親王に晋封。多羅武英郡王・アジゲを和碩英親王に復した。
 翌順治5(1648)年2月、四川を平定した肅親王・ホーゲが北京に凱旋するが、ドルゴンはホーゲが臣下の功績を盗み、順治元年に処罰されたヤンシャンの弟を登用した事を理由に捕縛して幽閉、3月にはそのままホーゲは獄中死した。
 ホーゲの死後、ホーゲの支配下にあった正藍旗はドルゴンの支配下に入ったと思われる。これで、ドルゴンは三旗を領有し、数の上で皇帝を凌ぐ存在となっている。
 清明節に反ドルゴン派となっていたソニンが昭陵(ホンタイジの陵墓)に祭儀に派遣された隙に、ドルゴンはソニンがトゥルゲイらと肅親王・ホーゲの擁立を計ったとして官職と籍を奪われて、そのまま昭陵の墓守を命じられている。
 同じ頃、ソニンと同じく反ドルゴン派となっていたオボイ、范文程も失脚した模様。
 7月、輔政和碩叔徳豫親王・ドドが平西王・呉三桂の息子・呉応照に勝手に賞金を授けたとしてドルゴンに罰せられている。ドドはこのようにドルゴンにとって扱いやすい弟ではなかった。
 9月、ドルゴン派と目される理政三王のうちドロベイレ・ボロ(アバタイ三子)を多羅端重郡王に、ドロベイレ・ニカン(チュエン三子)を多羅敬謹郡王に、またドルゴンに近いとされるドロベイレ・レクデフン(サハリヤン三子)を順承郡王に晋封した。
 10月、長老格たる和碩禮親王・ダイシャンが薨去。
 11月、ドルゴンが皇父摂政王を称する。この段階でドルゴンは反対派を押さえ込みドルゴン派による政権を確立させた。

ドルゴン政権期
 順治5(1648)12月、大同総兵・姜瓖は謀反を起こした。宣教師の記録によると、この叛乱の原因や以下の通り⇒ホルチン部に順治帝の婚儀の交渉のために英親王・アジゲが大同を通過する際、部下が大同の街の女性を拐かした。
 拉致された女性の中には結婚間もない新婦も居たため、大同総兵官・姜瓖がアジゲの宿を訪れて抗議したが、アジゲがこれを門前払いにしたため、怒った姜瓖は謀反を起こした…という。
 翌順治6(1649)年正月、多羅敬謹郡王・ニカンを大原に派遣する。
 2月、ドルゴン自ら大同に赴く。姜瓖は元々明将であったが入関時にアジゲに下って李自成平定戦に従軍した過去があるため、アジゲの手の内をよく知っており籠城戦もダイチン側が劣勢で、しかも、モンゴルなどとも連絡を取り、放置しておくと侮りがたい勢力になりかねないため?
  しかし、ドルゴンは陣中で輔政和碩叔徳豫親王・ドドが天然痘を発症したことを聞き、大同総兵官・姜瓖と交渉して休戦し、即日軍を引き返す。
 陣中で多羅承澤郡王・ショセ、多羅端重郡王・ボロ、多羅敬謹郡王・ニカンをそれぞれ親王に晋封している。
 ドルゴンが居庸関に差し掛かったときに、輔政和碩叔徳豫親王・ドドの訃報に接する。
 4月、ドロベイレ・マンダハイの和碩禮親王家の継承を認め、和碩巽親王に封じる。
 7月、ドルゴンは再度大同に軍を差し向け、和碩巽親王・マンダハイを先発させているが、ドルゴン自身の出発は取りやめている。
 8月、遠征中であった和碩鄭親王・ジルガランに軍を返すように命じ、次いで英親王・アジゲに大同平定を命じ、攻められた大同は総兵官・姜瓖を殺して投降し、アジゲは8月中に大同を鎮圧した。
 包囲時か凱旋したときかは史料によって違うが、大同遠征の際にアジゲはドルゴンに対してフジン両名が逝去したため後添えが欲しいとか、ドドと比較しても己の戦功が少なくないことを主張して叔親王の称号を要求している。ドルゴンは当然これを却下してアジゲが旗の要職に就くことや漢人官僚がアジゲを訪問することを禁じている。 
 10月、ドルゴンは自ら大軍を率いてカルカ部遠征に向かう。ドドの嫡子・ドニにドドの王位継承を認め、和碩豫親王に封じる。
 12月、ドルゴンは軍を返す。ドルゴンのアンバ・フジン=ボルジギット氏元妃が薨去する。軍を返したのはこのためか?
 この頃までにドドとアジゲの鑲白旗と元ホーゲの正藍旗の換旗を敢行している。ドドの後継者・ドニとアジゲは正藍旗に移り、ホーゲの遺衆は鑲白旗に遷ってドルゴンの支配下に収まった。
 順治7(1650)年正月、ドルゴンはボルジギット氏元妃の実の妹であるホーゲの未亡人を娶り、ホーゲの嫡子・フシェオを睿親王府に呼び寄せて射術を教えるなどしている。ホラホイはコレを見て「(ドルゴンは)幽霊にでも魅入られているのか?見ていてヒヤヒヤする。なんとかしてフシュオを排除せねば…」と人に語った。ドルゴンはこれを伝え聞いて「ホラホイはワシがフシュオを愛しんでいることを知らないのだ」と語った。その割にドルゴンの生前、フシュオは爵位を授かるなどの恩恵は受けていない。
 2月、和碩巽親王・マンダハイ、和碩端重親王・ボロ、和碩敬謹親王・ニカンを理政王として行政の補佐をさせる。所謂理政三王。その他、和碩承澤親王・ショセ、多羅順承郡王・レクデフン、多羅謙郡王・ワクダもドルゴン政権下では重責を担っていた。
 7月、ドルゴンは持病が悪化して病床につくことが多くなった。見舞いに来たシガン、レンセンギ、オボイらに「予の病は篤く、今後完治はしないだろう。帝は幼少にして人主におわすとは言え、君ら大臣がついて政治を輔けているのだから、帝がお見舞いに来てくれても良いではないか」と漏らしたが、すぐに「このことを帝に言ってご幸行なされるようなことがあってはならない」と釘を刺し、その場を辞したシガンらに使いを送って止めようとしたが間に合わず、結局、順治帝は叡親王府にドルゴンを見舞った。ドルゴンはシガンらを死罪に問うたが死罪は免れたが降格された。ホーゲが指摘しているように、ドルゴンは元々病弱だったらしいが、元妃を失い気力が衰えた模様。
 8月、和碩端重親王・ボロ、和碩敬謹親王・ニカン、和碩承澤親王・ショセをそれぞれ郡王に降格(ドルゴンが親王に封じた者が多い?)。
 11月、ドルゴンは塞外に狩猟に出かけ、12月にはハラ・ホトンで病没している。

 と言うワケで、ドルゴン政権をザッと時系列で追うとこんな感じになる。まず、ドルゴンはフリン即位を機にホーゲを失脚させ、その与党を処断するコトに成功。入関して漢土を順調に平定するなど追い風に恵まれるが、実兄・アジゲがアホだったために、ワザワザ失脚させたホーゲを四川平定にを使わざるを得なかった模様。ホーゲはホラホイと出征するが、そもそもホーゲが失脚したのもホラホイの告発に端を発しているので、ホーゲの監視役であったとみられる。同時に、すっかり影が薄くなっていたジルガランを失脚させて外征ばかりさせている。そして、ホーゲが四川を平定して凱旋した直後に、ドルゴンはホーゲに難癖を付けて幽閉し獄中死させている。監視役が付いていたにもかかわらず、もっともらしい理由で断罪されていない所を見ると、側近を失ってホーゲが慎重になったとも考えられるが、どっちにせよ噛みつく暇もなく幽閉されているので慎重だろうが迂闊だろうが結果は変わらなかっただろう。強引なやり口で旗王を失脚させ、その旗を奪うのはホンタイジの正藍旗改編の際の手口と似ている。この点、ドルゴンはホンタイジ体制の後継者と言える。
 ホーゲ派とジルガランを一掃した後、フリン擁立では共闘した両黄旗とホルチン閥と対立する。両黄旗の有力者であるタンタイ、トゥライ、グンガダイ、シガンらを抱き込み、反対派に転じたソニンやオボイ、范文程を失脚に追いこんでいる。その一方で、ドドを輔政和碩叔徳豫親王に封じ、マンダハイ、ボロ、ニカンを親王に封じ理政三王として軍政・行政代行させ、ショセを親王にワクダを郡王に封じて自派を形成している。また、ホーゲの幽死、ドドの病死を契機に換旗を断行し、両白旗を直轄旗とし、実兄のアジゲ、甥のドニに正藍旗を掌握させて、数の上で他家を圧倒する様になっている。
 このように着々と権力基盤を築き上げたドルゴンではあるが、フリン即位当時から懸念された健康状態が悪化し、摂政王に着任して7年目で病没している。ともあれ、ドルゴンの勢力基盤に注目すると案外入関後の大順鎮圧、大順平定、南明掃討あたりはアジゲ、ドド、ホーゲ、ジルガランらに代行させており、あまり政局に影響がない様に見える。むしろ、モンゴル方面に影響を及ぼす大同の兵乱やモンゴルのカルカ部遠征にはドルゴン自らが動いている。漢土を中心に見てしまうとこの視点が抜け落ちてしまう。

 また、政敵が一掃された後は後進の育成に務めており、正紅旗ダイシャン第三子のマンダハイ、鑲紅旗ドゥドゥ第三子のニカン、正藍旗アバタイ第三子のボロを理政三王に抜擢し、鑲紅旗ホンタイジ第五子のショセ、正紅旗ダイシャン第四子ワクダ、正紅旗サハリヤン第二子レクデフン、ドド嫡子ドニらを登用している。存外自派だけではなく鑲藍旗以外の旗から満遍なく登用しているように見える。

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天聰~崇徳のまとめ

 論文とか専門書とか読んでいてなる程こうなのか~と個人的に理解したことのメモを上げておこうかと。個人的な興味はドルゴン~順治帝なので先はまだまだ長い…。

天聰年間
 ホンタイジは即位前からの所属旗である両白旗を、即位後に両黄旗に改称。同時にヌルハチ時代の両黄旗は両白旗に改称されている。これもホンタイジの君主権が脆弱だった証左とされる。

※三大ベイレとホンタイジの権力闘争⇒ホンタイジの治世はまず、三大ベイレとの権力闘争から始まる
 サルフの英雄である嫡二子アンバ・ベイレ=ダイシャン、シュルガチの第二子であるアミン、嫡三子マングルタイ

 しかし、三大ベイレの身内には即位前からのホンタイジのシンパが存在する⇒ホンタイジ即位にそれぞれ功績があった模様
 ダイシャンの嫡長子・ヨト、嫡三子・サハリヤン、アミンの同腹弟・ジルガラン、マングルタイの同腹弟・デゲレイ

①アミン幽閉⇒
 天聰元(1627)年の第一次朝鮮侵攻時に独立の動きを見せたホショベイレ・アミンを、天聰4(1630)年の北京攻略時に占領した永平など4城を放棄して、降伏した永平・遷安の領民を虐殺してムクデン(瀋陽)に撤退してきたのを捕らえて、十六の罪状を数え上げてアミンを幽閉してそのまま獄死させた。

②マングルタイ失脚⇒
 更に天聰5(1631)年には、大遼河戦の陣中でホンタイジとマングルタイが口論になり、怒ったマングルタイが佩刀に手をかけて弟のデゲレイに殴らるや、更に逆上して遂には抜刀して剣を振り回す事件が起こる。この事件で不敬罪に問われたマングルタイはホショ・ベイレの地位を剥奪されて、ドロ・ベイレに降格。
 翌年にはマングルタイはチャハル部と大明への遠征に参加しているが、その年の内に病没している。
 ホンタイジ即位前から、マングルタイはホンタイジと仲が悪かった様だが、葬儀の際にホンタイジは号泣して死を悼んだと言う。

③ダイシャン失脚⇒
 つぎに天聰8(1634)年、チャハル部のリンダン・ハーンが病没、翌天聰9(1635)年、その遺衆をドルゴンらが摂取すると、その財産の分与に端を発して事件が起こる。
 まず、ホンタイジがリンダン・ハーンの未亡人であるベヒ太后をホーゲに賜与すると、ホーゲに娘を嫁がせていたマングジ・ゲゲ(マングルタイ、デゲレイの同腹の皇女)が公然と不満を表明した。
 これを聞きつけたダイシャンは、普段マングジとは疎遠であったにもかかわらずマングジを自宅に呼んで宴会を開いた。
 ダイシャンはリンダン・ハーンの未亡人を下賜する際にもホンタイジの意向に添わず、財産目当てで他の妃を要求することが何度かあったため、これを機会にホンタイジからの叱責を受け、ホショ・ベイレの地位とアンバ・ベイレの称号を剥奪された。
 マングジとその同腹弟のデゲレイも罰せられた。

④正藍旗の解体⇒
 天聰9(1635)年のダイシャン失脚を以て三大ベイレに対する権力闘争は決着を見るが、次にホンタイジ即位に尽力した旗王達への牽制が始まる。
 ダイシャンへの処罰が下された10日後、唐突にデゲレイが病没する。ホンタイジはその葬儀で慟哭したものの、マングルタイの遺族が王位の継承を訴えるとそれを許さなかった。
 ホンタイジが狩猟で留守の間に、マングルタイ、デゲレイと同腹の皇女であるマングジ・ゲゲの家僕・レンセンギがマングルタイ、マングジ、デゲレイ兄弟がクーデターを計画していたとホンタイジに告発。
 更にマングジの夫であるソノムも刑部を司るジルガランに妻のクーデター計画に参加したと自首してきた。
 捜査の結果、レンセンギ、正藍旗のアイバリはマングルタイ、デゲレイ、マングジが謀反の盟約を交わした会合に同席していたことが判明し、マングルタイの邸宅からは金国皇帝之印と刻した木印が16個発見された。
 マングジ初め関係者及びその親族は族滅(マングルタイ五子のエビルンは処刑⇒エビルンはマングルタイが不敬に問われた大遼河での抜刀事件について、その場に居合わせたら自分も抜刀してホンタイジに斬りかかったなどと発言して、兄の光袞に密告されたがホンタイジはこれを公表していなかったらしいがこの時公表された模様)、マングルタイ、デゲレイは爵位を追奪されて遺産は没収(これは八旗で等分された模様。ちなみにマングルタイの未亡人が二人いたが、一人はホーゲ、一人はヨトが娶り、デゲレイの未亡人はアジゲが娶っている)、遺族は謀反の罪によって宗籍から除名された(マンダリ(邁達里)、光袞、サハリヤン(薩哈璘)、アクダ(阿克達)、舒孫、噶納海らマングルタイの六子、デゲレイの子・鄧什庫らは庶民に落とされた)。
 乾隆年間に制定された《欽定宗室王公功績表伝》あたりを見ると、生前若しくは死後爵位を剥奪されているアミン、アジゲ、ドルゴン(《欽定宗室王公功績表伝》編纂時はまだ名誉回復していない)は生前の最高位の爵位で記述されているのに、この兄弟に関しては以罪黜宗室貝勒、罪によって宗籍を剥奪された人達にカテゴライズされているので、徹底して謀反人とされている模様。
 更にマングルタイ、デゲレイ兄弟が支配した正藍旗は解体されて両黄旗に吸収され、崇徳2(1637)年、肅親王・ホーゲが旗王となりホンタイジ旗下の鑲黄旗が母体となって新生正藍旗が編成される。
 これによってホンタイジは両黄旗に加えて正藍旗の三旗を掌握し、数の上で他の旗王を圧倒し皇帝権が確立されたとされている。

天命ホンタイジ派の末路⇒
 上のマングルタイ兄弟謀反未遂事件の際に、マングジ長女の娘婿であるダイシャン嫡長子ヨトはマングジを擁護しているが、皇族内ではむしろ少数派であった模様。
 サハリヤン、アバタイ、アジゲ、ドドらも一様にマングジに対しては怒りをあらわにしている(この事件のあったとき、ドルゴンは嫁取りのためにホルチン部に出向いていたため不在)。
 一方、マングジの次女の娘婿であるホーゲは、父皇の死を願う者の一族として妻を殺害している。コレを聞いたヨトも妻を殺そうとして許しを請うたが、ホンタイジに止められている。
 ホンタイジ即位に尽力したヨトはこれ以降、ホンタイジに対して少なくとも協力的ではなくなる。
 翌崇徳元(1636)年には和碩成親王の爵位を受けたばかりのヨトはホーゲとジルガランを誣告したとしてその年の内にベイレに降格、翌崇徳2(1637)年にはホンタイジに対して不遜な態度を取ったとしてベイセに降格されている。
 原因はマングルタイ兄弟謀反疑惑事件と考えられる(義兄弟でもあったホーゲはマングジを擁護した様子はないし、ジルガランは告発を受けてマングジを裁く立場にいた)。

 ヨトの同母弟のサハリヤンは崇徳元(1636)年に病没、ヨトも崇徳4(1639)年には大明遠征中に陣没している。
 サハリヤンやヨトの遺児達は王位の継承が許され、その後も正紅旗、鑲紅旗の有力な旗王家として存続している。
 一方、デゲレイやその遺児は徹底的に排除されている。デゲレイの遺児達は宗籍を剥奪され、清朝通じて名誉が回復される事は無かった。
 デゲレイは幼少の頃ホンタイジと共に養育されたらしく、それ故に同腹兄・マングルタイとは仲の悪かったホンタイジとも仲が良かったようであるが、有無を言わせず徹底的に取りつぶされている。
 ちなみにジルガランは特にホンタイジに対して忠実であったらしく、ホンタイジ治世下では信頼度が絶大だった故に順治年間に入るとドルゴンと共に摂政王となっている。

崇徳改元⇒
 リンダン・ハーンの遺衆から大元ウルスの玉爾の献上を承け、ダイチン・グルンの皇帝=ハンとして二次即位を行い、名実ともに”皇帝”となった。一次即位の際のような合議制の代表者ではなく、独裁制の皇帝となったのである。
 ホンタイジは各旗王たちを掣肘する意味からか度々叱責しては降格を行い、1~2年後には爵位を戻している。
 しかし、崇徳7(1642)年以降はホンタイジが病気がちになった関係から締め付けが厳しくなっている。
 他の旗王が些細なことで罪に問われる中、ドルゴンは目立った失態も見せず、ホンタイジ存命中はホンタイジに忠実であったため大きな降格は経験していない。
 猜疑心の強いホンタイジを相手にしているので、ドルゴンは余程細心にホンタイジに接していたか、本当に忠義者だったかどちらかのハズ。

ホンタイジの崩御⇒後継者争いが勃発
 崇徳8(1643)年8月、脳卒中でホンタイジが崩御する。既に和碩肅親王であったホンタイジの長子・ホーゲがすんなりと即位しそうなモノだが、どうやら人望に欠いていた模様。
 ホーゲは正藍旗は掌握し、両紅旗を牛耳る長老ダイシャンの支持を取り付けていたモノの、ホンタイジお膝元である両黄旗は完全には掌握し切れていない(両黄旗の一部にはトゥルゲイi 、タジャンii、バブハイiiiらホーゲ推戴派もいた模様)。
 対抗馬たるドルゴンは両白旗は掌握しているが、数の上で劣勢。
 ドルゴンはホンタイジ嫡系に拘るホルチン閥筆頭の皇太后・ブンブタイと両黄旗有力者のソニンやオボイ、タンタイiv、トゥライv、ゴンガダイvi、シガンviiらを抱き込み、自分が後継者を断念する代わりにホーゲにも断念させた。
 かくして、ジルガラン、ドルゴンが摂政王として補佐する形で嫡長子・フリンが即位が決定する。
 その二日後、ダイシャンの第二子・ショセと第三子・サハリヤンの遺児・アダリがドルゴンに即位をうながすと、却ってドルゴンは彼らを捕らえて処刑している(このあたりはダイシャン系の分裂と言うよりは、ドルゴンの母系であるウラ=ナラ氏の閨閥と考えた方が良い模様)。

両白旗の換旗⇒
 崇徳8(1643)年10月、多羅豫郡王・ドドが大学士・范文程の妻を略奪しようとしていたことが発覚。
 和碩肅親王・ホーゲがそれを知りながら隠蔽したことを罪に問われる。
 この際、ドドは降格されるコトは無かったモノの、正白旗30ニル全て掌握していたのを半分の15ニルを没収される。
 ドルゴンとアジゲは共に鑲白旗の15ニルずつを掌握していたが、没収されたドドの15ニルは鑲白旗の旗王であるドルゴンに委ねられた(罪に問われて没収された旗王の財産は近親者が管理するのがこの頃のマンジュの風習)。
 この際に、ニルを半数に減らされたドドは正白旗から鑲白旗に移されてアジゲと鑲白旗を両分。ドドから15ニルを預かったドルゴンは元から管理する鑲白旗15ニルを併せて正白旗に移動した。
 当時、鑲白旗よりも正白旗が序列が上位であったためジルガランとの対比上、少しでも優位に立つためと言われるがこの辺定かではない(そもそもジルガランの鑲藍旗は八旗の序列中最下位なので)。
 しかし、少なくとも、これ以前は摂政王の序列はジルガラン、ドルゴンだったモノが、これ以後、ドルゴン、ジルガランの順番に一変した。

取りあえずここまで。

  1. Turgei 圖爾格 [戻る]
  2. Tajan 塔瞻 [戻る]
  3. Babuhai 巴布海 [戻る]
  4. Tantai 譚泰 [戻る]
  5. Tulai 圖賴 [戻る]
  6. Gongadai 鞏阿岱 [戻る]
  7. Sigan 錫翰 [戻る]
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