順治年間のオボイ

 順治年間前半の清廷内の派閥抗争について《清史稿》をツラツラ見ていたんですが、あんまり重視されることがない《清史稿》もちくちく読んでると面白いですね。例えば、康煕年間初頭に専権を振るうことになるオボイですが、この人がよく分かりません。ちなみにマンジュ表記だとOboiですが、漢字表記では鄂拜だったり鼇拜だったりします。

オボイ

オボイ

崇徳八年…索尼與譚泰、圖賴、鞏阿岱、錫翰、鄂拜盟於三官廟,誓輔幼主,六人如一體。i

 まず、崇徳8(1643)年、順治帝即位直後に両黄旗の有力者6名が集まり、力を合わせて幼帝を支えることを三官廟で誓います。順治5(1648)年に反ドルゴン派首魁と見なされていたソニンの罪状がこの6名によるホーゲ擁立であったことになっていますが、自分はこれはドルゴン派の言いがかりだと考えます。なんせ、この時に関して言えばタンタイグンガダイシガンはお咎めなしですしね。後になるとこの6人は、タンタイグンガダイシガンドルゴン派ソニントゥライ反ドルゴン派と真っ二つに割れてしまうわけですね…。オボイは微妙ですが。
 ちなみにココに出て来る三官廟はおそらくはムクデン(瀋陽)皇宮の大清門横にある三官廟景佑宮の事だと思われます。ヌルハチムクデンに都を置く前からココにあった廟のようですが、宮殿建築時にも移転せずに元明のころからココにずっとあったと言いますii(洪承疇も一時期この三官廟に抑留されたようですが、残念ながら乾隆年間の整備で移転してしまった模様)。ヌルハチホンタイジ三官廟を保護したようなので、幼帝を盛り立てる為の誓いを立てるのにはもってこいの場所かも知れませんね。

順治元年,隨大兵定燕京。世祖考諸臣功績,以鼇拜忠勤勠力,進一等。二年,從英親王阿濟格征湖廣,至安陸,破流賊李自成 。進征四川,斬張獻忠於陣。下遵義、夔州、茂州諸郡縣。iii

 で、翌順治元(1644)年、オボイドルゴンに従って北京平定戦に加わり抜群の功績を認められてます。さらに翌順治2(1645)年には和碩英親王(ホショ・バトゥル・チンワン)・アジゲに従って李自成を追い、次いで四川に入って張献忠と対陣してます。この後のことを本伝では書いてないので、タンタイ伝を見てみると何か書いてますね。

二年,英親王阿濟格坐奏軍事不實得罪,命譚泰與鰲拜等集眾宣其罪。譚泰匿諭旨不以示眾,索尼發其罪,降世職昂邦章京,奪官。譚泰怨索尼,訐索尼於內庫牧馬鼓琴及禁門橋下捕魚,索尼亦坐黜。譚泰復起為本旗固山額真。iv

 アジゲ李自成を敗死させたことを朝廷…というかドルゴンに奏上しなかった件で処罰されます。タンタイオボイはその罪を布告するように命じられていますが、タンタイは何故かこの勅旨を布告せずに隠蔽します。このことでタンタイソニンに弾劾されて官位を剥奪されますが、最終的には逆ギレしたタンタイソニンを告発して、何だかよく分からない理由で逆にソニンを罪に問うことに成功し、タンタイ自身も元の職位に復帰しています。勅旨の布告を勝手に取りやめたのと、皇宮近くの禁漁区で魚取ることとどちらが罪が重いのか考えると、ドルゴン派反ドルゴン派の政治抗争であるように見えます。ちなみにタンタイと一緒に布告を命じられたはずのオボイも弾劾を受けそうなもんですが、この時はお咎め無かったみたいです。職位も官位も削られてないようです。何とも謎ですね。

五年(中略)三月己亥,貝子吞齊、尚善等訐告和碩鄭親王濟爾哈朗,罪連莽加、博博爾岱、鼇拜、索尼等,降濟爾哈朗為多羅郡王,莽加等降革有差。辛丑,和碩肅親王豪格有罪,論死。上不忍置之法,幽繫之。v
(五年三月,貝子屯齊、尚善、屯齊喀等訐王諸罪狀,言王當太宗初喪,不舉發大臣謀立肅親王豪格。召王就質,議罪當死,遂興大獄。勳臣額亦都、費英東、揚古利諸子侄皆連染,議罪當死,籍沒。既,改從輕比,王坐降郡王,肅親王豪格遂以幽死。)vi
(五年,值清明,遣索尼祭昭陵,既行,貝子屯齊訐索尼與圖賴等謀立肅親王,論死,末減,奪官,籍其家,即安置昭陵。)vii
(貝子屯齊等訐鄭親王濟爾哈朗,因及圖賴嘗謀立肅親王豪格,及上即位,復附和鄭親王,輝塞坐奪爵。)viii
五年,坐事,奪世職。又以貝子屯齊訐告謀立肅親王,私結盟誓,論死,詔宥之,罰鍰自贖。ix

 で、順治5(1648)年には反ドルゴン派への粛正が行われます。まず、3月にはジルガラン王府が規定外違反の規格であった旨を弾劾されて郡王に降格しています(4月には親王に復位している)。これを皮切りにゾクゾクと反ドルゴン派が弾劾されます。
 ソニンホンタイジの祭祀のためにムクデン(瀋陽)に向かったところで欠席裁判が開催され、ホーゲの擁立を計った旨の罪を問われます。反論の機会も無く官位を奪われて、そのままホンタイジの墓所・昭陵の墓守を命じられます。
 ソニンと同じく反ドルゴン派と目されるトゥライ順治3(1646)年8月に既に陣没しています。しかし、この事件に連座して爵位を嗣いでいた輝塞が奪爵されていますから、やはり反ドルゴン派が根こそぎやられてますね。トゥライフィオンドンの第七子、オボイフィオンドンの甥なので、ジルガラン伝エイドゥフィオンドンヤングリの一族が罪を問われたというのはこの辺を指すのかも知れません。エイドゥ十六子・エビルンの甥もこの時奪爵されてるみたいですしね。
 同じ月に今度は2月に四川から凱旋したばかりのホーゲも告発されて幽閉、獄中死しています。反ドルゴン派はこの時根こそぎバッサリいってるみたいです。
 オボイ伝の記述だけではよく分かりませんが、順治本紀ソニン伝を参考にすると、この時のオボイの失脚はジルガランソニンに連座していることがわかりますから、この時のオボイ反ドルゴン派として目されており、粛正対象であったと考えられます。ただ、財産を積めば罪状を軽減できたようで、その後すぐに復帰していますから、あんまり大物扱いされていなかったのかも知れませんが…。

是年,率兵駐防大同,擊叛鎮姜瓖,迭敗之,克孝義。x

 で、この年の内に大同総兵姜瓖の叛乱の鎮圧に当たっています。ソニンドルゴンが死ぬまで左遷されたまま全く浮上していませんから、弾劾されてその年の内に復帰しているところを見ると、オボイはこの時にドルゴン派に寝返ったのか?とも見えます。案外巧く世間を渡っていける人物だったんでしょうかね。

七年(中略)秋七月(中略)辛酉,幸攝政王多爾袞第。 多爾袞以貝子錫翰等擅請臨幸,下其罪,貝子錫翰降鎮國公,冷僧機、鼇拜等黜罰有差。xi
尋有疾,語貝子錫翰 、內大臣席訥布庫等曰:「予罹此大戚,體復不快。上雖人主,獨不能循家人禮一臨幸乎?謂上幼沖,爾等皆親近大臣也。」既又戒曰:「毋以予言請上臨幸。」錫翰等出,追止之,不及,上幸王第。王因責錫翰等,議罪當死,旋命貰之。xii
七年,睿親王有疾,怨上未臨視,冷僧機及貝子錫翰等奏請上臨視,睿親王坐以擅請降世職,恩詔復故,進一等伯。((《清史稿》卷二百四十六 列傳三十三 冷僧機傳))
七年,復坐事,降一等阿思哈尼哈番。xiii

 で、順治7(1650)年7月、ドルゴンは病床に伏せって死期を悟ります。見舞いに来たドルゴン派のシガンレンセンギに、病床で気弱になったドルゴン順治帝フリンの見舞いが無いことについての恨み言を漏らしてしまいます。流石にドルゴンは即座にこれは迂闊な発言であることに気がつき、間違っても順治帝に見舞いのことを奏上するなとキツく言い聞かせたにも関わらず、シガンらは見舞いに行った足で順治帝に奏上し、順治帝叡親王府への行幸を行ってドルゴンを見舞います。堅く禁じていたにもかかわらず順治帝への奏上を行ったので、ドルゴンによってシガンレンセンギが降格されていますが、同時にオボイも降格されています。
 この辺、叡親王府シガン席訥布庫レンセンギに混ざってオボイドルゴンに見舞いに行ったのか?それとも、朝廷で行幸について一緒に奏上したのかどうかは分かりません。しかし、バリバリのドルゴン派であるシガンレンセンギらと一緒に降格処分を受けていることから、やはりこの時のオボイは巧いことドルゴンにすり寄って阿諛追従していたと見た方が自然だと思います。見舞いに来いとか絶対奏上するなよ!いいか、絶対だぞ!というドルゴンからのダチョウ振りをまともに受けて立っているんですから、推して知るべし…ですね。
 ともあれ、この年、順治7(1650)年12月にはドルゴンが病没して順治帝の親政が始まるや情勢は一変します。翌順治8(1651)年には2月にはドルゴンの爵位諸々が追奪され、摂政王を継承しようとしたアジゲは捕縛されて獄中死します。この後、ドルゴン派ロシボルホイホロホイが刑死、潤2月にはガリンキチュンゲが刑死、8月にはタンタイが刑死、翌順治9(1652)年には更に宗室のグンガダイシガンレンセンギが刑死して文字通り死滅します。
 この中にあって、オボイ順治8(1651)年にグンガダイと同時に議政大臣に昇格していますが、以後、特に昇格も降格もせず弾劾も受けずに以降10年程動静がよく分かりません。個人的には粛正リストの中にオボイの名前があってもおかしく無いと思いますが、何とかドルゴン派粛正のご時世を生き残ったようですね。
 ともあれ、順治18(1661)年には順治帝輔政大臣の四人の中の一人に選ばれたとされています。実際には孝荘文皇后にこの時に抜擢されるまで干されてたりしたんじゃないかしらと思いますがどうなんですかね…。
 とにかく、順治年間オボイはなんだかフラフラしてたんだなぁ…と言うコトが何となく分かりました。婚姻関係とか調べればもっとなんか分かるのかも知れませんが、正直この辺が限界ですw

  1. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 索尼傳 [戻る]
  2. 電羊齋は涙を信じない 電羊齋不相信眼淚 Talkiyan Honin Jai yasai muke be akudarakū 太廟 [戻る]
  3. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 鼇拜傳 [戻る]
  4. 《清史稿》卷二百四十六 列傳三十三 譚泰傳 [戻る]
  5. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 [戻る]
  6. 《清史稿》卷二百一十五 列傳二 諸王一 顯祖諸子 子 鄭獻親王 濟爾哈朗傳 [戻る]
  7. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 索尼傳 [戻る]
  8. 《清史稿》卷二百三十五 列傳二十二 圖賴傳 [戻る]
  9. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 鼇拜傳 [戻る]
  10. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 鼇拜傳 [戻る]
  11. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 [戻る]
  12. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞傳 [戻る]
  13. 《清史稿》卷二百四十九 列傳三十六 鼇拜傳 [戻る]

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